第二章 突き刺す雨、嘲笑う魔術師②
宵の時、上空はすでに暗闇に包まれる。
太陽を失った空を照らすように、車のテールランプ、ビルの窓明かり、信号の点滅、全てが街中で燦々と煌めく。
整然とした様子がこの街の無機質さを感じる。
ビル風が強く吹き込み、少女の長い髪の間をすり抜ける。淡い、水色の髪の毛を手で押さえ、淋しげな表情がそこにはあった。
視線の先、栗色の髪をした女子学生を横に、居心地の悪そうな顔をして歩いている少年。
奧村冬夜、その名を冠する者だった。
彼が駅に辿り着き、誰かと共に歩き、足を止める、その一挙手一投足を見逃すことはなかった。
彼が無事に両脚で立ち、歩いているその姿を見ると、涙が溢れそうになる。
そこには罪悪感と安心感が混在し、複雑な思考が入り乱れる。
(ごめんね)
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
心配、迷走、それでも前に進もうとしている。一度折れた棒をテープで固定するように、一番太くて醜いその箇所は何よりも、どこよりも強靭な場所になる。
何も知らない、平穏な日常に中で生きていてほしい。
願いはただそれだけだった。
その時だった。
「必要以上の行動はとってはいけないと……あれほど言っただろう」
背後から、冷たく落ち着いて女性の声が響く。
少女の眉が少しぴくりと動く。
ゆっくりと顔を向けると、暗闇の中から一人の女性が姿を表す。
長く黒い髪を後方で一つにまとめ、黒いブルゾン、夜風を切るように伸びるシルエット。
スキニージーンズに包まれた長い脚が、屋上の照明に浮かび上がる。
「──氷夏」
水色の髪の少女が、その名を呼ぶ。
まさしく、御門氷夏、本人である。
氷夏は少女の横に並び、眼下を光景を眺める。
彼女が目にする平凡な高校生の姿、何を考えて言うかよく分からない、何の変哲もない少年を見ては鼻を鳴らす。
「随分と感情移入しているようにも見える。深入りはするな、情を挟んでしまっては判断が鈍るぞ」
淡々とした声はしっかりと届いているが、少女は暫く答えは返さなかった。
「あの人は」ぽつりと呟く。
氷夏もその言葉で視線を少女に逸らす。
「あの人は何も知らない」
小さな拳でスカートの裾をきゅっと握る。
「知らなくてもいい世界に、踏み込んでしまった。だから元の場所に返したの。あの場所で、助けに行かなければ、彼はきっと死んでいた」
「結果として二度、干渉してしまった。中途半端に世界を知ることほど、気味の悪い感覚はない」
「それでも…、平和な世界にいてほしいっていう願いは届けちゃいけないの…?」
少女が氷夏の方を向き、問う。
「アイツを救ったこと、助けたこと自体は責めるつもりはない。問題はその後にある。」
その一言で少女は首を少し傾け、氷夏は落胆しながら再度口を開く。
「見過ぎている」切り付けるように吐き捨てる。
静かな指摘が少女の思考を否定するように立ち塞がる。
自分自身、うまく言語化はできないがその事実については判っているつもりだった。
「干渉、監視を続ければ続けるほど、こちら側の『世界』が近づいてくる…」
ただ強く風は強く吹き、その小さな体躯は今にも飛ばされそうになる。
少女の喉が、小さく鳴る。
「………分かってる」
二人の髪が夜空に舞う。
その瞳は憂いを孕みながらもどこか真っ直ぐでいた。
間を置いて、空気が口から出る音が聞こえる。
「そこまで奴に依存する理由は何なんだ」
「彼は、優しいんだよ」ぽつりと呟いた。
「………」
氷夏は口を開かなかった。沈黙が二人の間を駆け抜ける。
「理由とかきっかけなんて、ちっぽけなものだよ」
「ふん、その優しさが身を滅ぼさないといいな」
「大丈夫だよ。とうやなら、きっと」
視線の先で奥村冬夜は隣にいる少女と指切りを交わしていた。その様子を眺め、氷夏は鼻を鳴らし、少女は微笑んだ。
「奧村冬夜は境界の狭間にいる。このままいけばただの観測対象ではいられなくなるぞ」
少女の胸が強く脈打ち、不安定な感情に押し戻される。
魔術の世界を知ってしまった人間が、いつもの平穏な日常に戻れる保証などどこにもなかった。それに相対する組織にも彼の素性がバレてしまった以上、この争いが収束するまでは彼を見届ける義務が彼女にはあった。
「関係者になれば、もう止めることはできない」
「……それでも、私はずっと見守っていたい。」
静かに眉をひそめる氷夏、少女は両手を胸の辺りで何かを願うように合わせる。
「───もう、期限は近いから」少女は眼下の冬夜から目を離さず言った。まるで彼の幸運を祈るように。
氷夏は180度体の方向を転換し、非常階段の方へと足を進めた。
そんな少女の祈りをも打ち消すかのように、言葉を残して。
「これ以上は、奧村冬夜に直接関わるな」
その声に肩を振るわせる。
振り向き、氷夏に問う。「……もし、また彼が危険に晒されたら…?」氷夏がその言葉に静止する。
だが、すぐにその答えは返ってくる。
「──その時は」
そして、低く告げるのだ。
「守るか、捨てるか、私が決める」
透き通る宝石のような瞳が僅かに揺れる。
吐き捨てるように氷夏はその無慈悲さを伝え、いつしや屋上から姿を消していた。
遠く、奧村冬夜の姿が人混みの中に消えるのが見える。
少女はただ祈り続ける。
(……とうや)
今日の夜は何だか、いつも以上に体を冷やしていた。
非常階段を下る靴音が、乾いたコンクリートに反響する。
数階降りたところだっただろうか、氷夏の視線の先、踊り場で佇む男が一人。
腕を組み、手すりにもたれかかる男を一瞥し、そのまま横切る。
「ちったぁ、優しくしてやれよ」通り過ぎる瞬間、男は氷夏に言い放つ。
「佳丞──優しさだけではどうにもできない」
少し伸びた髪を分け、指にはいくつかの指輪を携える男──佳丞と呼ばれる者はその言葉を耳にして、落胆する。
「冷たいこと言うなって。干渉しすぎと言っちゃあ、そうだけどよ。でも、あの少年がいなかったら、あの子はここにはいない訳だしよ」
そう言って屋上の方を見上げる。
目を細め、氷夏に放つ。
「大切、なんだろ」
狭い踊り場の空間で彼らは目線も合わせず、会話を続ける。
「連中もこちらの動きを探っている。今は余計な行動は避けるべきだ」
「こっちには天下のクルセイダー様がいるんだ、俺は心配なんざしてねーよ」小馬鹿にするように佳丞は氷夏に言い放つ。
後ろで腕を組み彼に苛立ちを覚えながらも、黙って階段を降りる。
背後から付き纏うように後を追う佳丞は、夜風で冷え切った手すりに手を滑らせる。
「これからどうする気だ」
「結界の中にすでに魔術師が入ってきている。次の拠点を探す」
鋭い視線は非常階段の先に広がる街並みに向けられる。異常なんて表面上は見当たらないこの街の歪さを実感しながら氷夏は続ける。
「早く、彼女の死場所を見つけるんだ」
微かに佳丞の動きが止まった。
「もう、そろそろか。ボスは完全に俺らに任せる気なんだな」
「あの人からは指示は来ていない。しかし、この街に来た時から一任されてただろう」
思い出すかのように言い放つと、おもむろにポケットの中にあるスマートフォンを取り出すがやはり何の通知も入ってはいなかった。
「風の術師と影の術師。あいつらにここを彷徨かれても困るしな。特に影の方は厄介だぜ、能力といいあの性格といい」
やれやれと言わんばかりに佳丞は頭を掻きながら言い放つ。
「影があればどこへでも移動できるのは厄介だ。いつこの会話が聞かれても可笑しくはない」冷たい声色で氷夏は答える。
影の魔術師──冬夜を二度も襲った魔術師である。出身や年齢などの詳細は一切不明、影を司るという術式がいかにこちら側にとって不利益になるか佳丞もとい氷夏も十分理解はしていた。
「きっとあの二人は使い捨てだ、もっとドス黒い大きな意思が後ろ盾しているはずだ」
すでに一階まで降りてきていた。薄暗い路地裏で二人は脳裏で術師を思い浮かべていた。
「あの少年もまぁ、不憫だよな。連続で絡まれるとは。」そう言い出したのは佳丞の方だった。
「……偶然ではないのか」
ふとその指を顎に当て考える。光に照らされ得ることない真っ黒に染まるアスファルトを眺めながら続ける。
「動きがあまりにも早すぎる」
観測を始め、冬夜が最初の事件に遭遇してからそんなに日も経っていない。
交差点で忠告もした。しかし、彼は自ら望まずに奴らに狙われ、襲撃は学校にまで及んだ。
偶然とは思えなかった。
何かが歯に挟まったかのように、むず痒い違和感が背筋をなぞる。
「リオナが助けにいっちまったのが…要因だとしたら、まずいな」
氷夏は、一瞬言葉を失った。
その名前を聞いた途端、胸の奥がざわついた。
見上げた夜空には星はほとんど見えず、都市の光が夜を侵食していた。
歪で不鮮明な違和感はその一言を聞いてから徐々に確信へと変わっていく。
「……もしあの少年が、襲われる理由が我々を誘き出すためだったなら」
「あぁ、結構…最悪だぞ。色々と」
空気が一気に重くなるのを実感した。
二人は目を合わせ、互いに動悸が早まる。
ごくりと唾を呑み、奧村冬夜の自宅の方へと体を向けた。
して、屋上の方を一度見る。佳丞は氷夏のそんな落ち着きのない様子を眺めた後、「あの子は任せておきな」指先にある複数の指輪を眺めて言い放つ。
苦悩するかのように俯く。
優しさだけではどうにもできない、確かにそう言ったのは自分自身だった。
しかし、ただの観測だけであれば何とのないが、自分たちが奧村冬夜という存在に関わったことで彼の運命をこちらに手繰り寄せてしまうのであれば話は別だった。
「私も、まだまだ甘いな」
誰にも聞かせない独白。
静止していた体は徐々に動き始め、いつしや走り出していた。
その後ろ姿を見届け、佳丞は屋上にいる少女をひたすらに待った。
「奧村冬夜……君が、何を選ぶかだ」
そうして、壁によたれかかり腕を組んだのち、静かに瞼を閉じた。
◇◆◇
件の商店街をくぐる際は、一度唾を呑まずにはいられなかった。
(今日は…人はいるな)
緊張した肩の筋肉が安堵と同時に緩くなる。
せめて商店街を抜けるところまで梓についてきて欲しかったなどと言っては、格好がつかないことは十分に理解していた。
それでもあの恐怖体験は現実で起きてしまった事象なのだと認めざるを得ない。
パチンコ屋の入り口が開くたびに騒がしい電子音と、ガシャガシャとした音が耳を通過して、冬夜を現実へと押し留めてくれる。
スーパーの音楽も、八百屋や魚屋の亭主が客引きをしている光景はいつもは何とも思わないが、今日に限っては非常に心強かった。お礼に何か買ってあげたいところではあるが、生憎そんな予算はなく、高校生の財布事情の前には虚しく打ち砕かれるのだ。
(さっさと帰って、飯だ飯。)
今日の夜の献立を考えるだけでワクワクする。
昨日はカレー。千香のことだ余ったルーでカレーうどんというパターンは85%ほどは確信できた。
何にせよ、彼女の料理は何でも美味しいと感じられるし、空腹の胃にはおしゃれなご飯など必要はない。
目の前にあるご飯をたらふく食う。ただそれだけなのである。
そんなことを考えていると、視界に自宅の屋根が見えてくる。
駆け足で自宅の門の前まで赴く。
庭の方からは掃出し窓からリビングの光がカーテンを貫通して見える。
千香はすでに奧村家にいる証拠だ。
門を潜り抜け、鞄から鍵を出す。
鍵穴に自身の鍵を差し、回すと。
「…あれ、開いてる」鍵をおもむろに戻し、玄関ドアを引っ張る。
玄関の中に入るといつもの光景が広がっている。
それに、千香のサンダルも見受けられる。何も異常はない、平穏な奧村家の日常であった。
昨日と今日あった異質な体験など嘘のような何もイレギュラーも見当たらない。
元の『世界』とでもいうべきか。確かに水色の髪の少女は、冬夜を元いた日常に送り出してくれた。それだけでいかに幸せだったか。
スニーカーを放り投げ、無造作に玄関に落下する。そんなこと気にすることもなく、リビングのドア取手に手をかけて中に入る。
そして、千香に言い放つ。
「おい、千香、玄関の鍵開けっぱなし───」
なぜか。
空気が重かったのだ。
どこか、重い。
何より、音がなかったのだ。
奧村冬夜は唖然とした。
繰り返される瞬き、そして視線の先に床に広がる赤と、動かない身体。
それが何を意味するのか、冬夜の頭は理解してしまった。
横たわるのは、大葉千香の亡骸だった。
理解が追いつかなかった。
なぜ──という言葉だけが喉の奥に突っかかる、声にすることは叶わない。
フローリングの上で広がる真っ赤なそれは、まるでさっきまで自分が想像していた夕食の色とは全く違う。
視線を逸らすべきなのか、自分でも分からない、しかし瞼が言うことを聞かなかった。
千香の名前を呼ぶべきか、それとも今すぐにでも彼女の体を抱き抱えるべきか。
それすらも今の冬夜は判断することができない、ただ、立ち尽くす他なかった。
その時。
──ぎしり。と。
動くはずのないソファーの方から、音がした。
緊張と動揺で心拍は一定のリズムという感覚を失った。
ゆっくりと視線を向ける。
そこには、腰をかけるべきではない存在が、あまりにも自然な態度で鎮座していた。
黒く、大きなフードを被り、金色の瞳が冬夜を鋭く突き刺すように見据えていた。
照明の下にいるはずなのに、曖昧とした輪郭に見覚えがある。
その空間だけ、現実から切り離されたみたいだった。
男は肘掛けに腕を預け、頬杖をついたままこちらの様子をただ淡々と眺めていた。
「よォ……遅かったな」
まるで冬夜の帰りを待っていたかのような口ぶりだった。
冬夜の足がその一言で震え出す。逃げろ、と本能が体に言い聞かそうとしているが、足は地面に縫い付けられたかのようにびたりと密着して動かない。
影を司る魔術師は、横たわる千香の体には一切目を向けなかった。
「結構、聞いたぜ。これ」
肘掛けからするりと腕をあげ、手の甲を見せつけるように冬夜に向ける。
そこにあったのは、皮膚が引き割かれ、歪に盛り上がった醜い傷跡だった。
化学室での件、抑えつけられた冬夜が抵抗した証。
包帯をする訳でもなく、そのえぐれた傷口からは酸素を吸い切った真っ黒い血液の塊がこべりついているのが分かる。
「お礼を……しなくっちゃ、と思ってよ」
重い腰をあげ、その細くて長い不気味な体を起こす。
影がゆっくりと這うように冬夜の足元へと広がる。
確実に、逃げ場を無くすように。
額の汗が冬夜の顔をつたい、溢れていく。
しかし、冬夜は一向に動くことはできなかった。
動けば、きっと奇妙な影で串刺しにされる確信があった。
「なん、何だよ…お前は」ようやく絞り出せた声は、驚くほどに掠れていた。
影の魔術師は、ふひひと不適に喉を鳴らす。笑っているのかどうかすらも、判別できない。
そして、その大きなフードを外す。
そこには皮膚が溶け、不安定に再生した痕跡。人の顔として、完成しきらなかった不気味な面だった。
「楽しい実験、だったか?」
冬夜の呼吸が浅くなる。
魔術師は一歩、こちらに身を寄せた。そして。
「俺だけこんなんじゃ、かわいそーじゃねェかよ」
こちらも命をかけた状況だった。耳を貸すべきではないと思いながらも、男の声が耳で反響する。
「腹の虫の居どころが悪くてよ。どうしたらこの苛立ちを止められるかって考えてよォ」
淡々と男は続けた。
「憎たらしいテメェの学生手帳、眺めてたらよ」
その声色には怒りも、激情もなかった。あるのは積み重なった確信だけ。
「ご丁寧に、住所。書いてくれてんじゃん──」その一言で一変、急に淀む空気の感覚が変わった。
どこかピリつく空気が一層、冬夜の心を握りつぶす。
「だから決めたんだよ。お前の“日常“ぶっ壊してやるって」
影が一斉に冬夜に向かった飛び込んでくる。その形は鋭い刃に変わり、空を斬ってくる。
その瞬間、強張っていた筋肉が逃走本能に従い、後方に体を倒した。
尻餅をつくと、その右手が床に触れた瞬間、生暖かいものを触る感覚がした。
“血”だった。
千香から漏れ出すその赤い液体は、まだどこか人肌を感じさせるような温度があった。
急に怖くなる。
「安心しろよ、組織とか、星々の乙女とかは関係ねェ。」
縦横無尽に暴れ回る影の刃は、壁を、テレビを、家具を粉々にする。
あらゆる隙間から際限ない影が、幾度となく飛び出してくる。
「これは、個人的な復讐さ」
次の瞬間、影は弾け、床から、天井から、壁から無数の黒い刀刃が冬夜を貫こうと殺到する。
「……ッ‼︎」反射的に足元にある棚を蹴飛ばし、必死に距離を取る。
背後で家具が裂けると、その破片が冬夜の背中を襲う。
ざくりと、自分の肉に何かが刺さる音が響く。
奴の一撃、一撃が確実に冬夜を殺そうという意志で充満している。
男は見下すように冬夜を睨みつけ、言い放つ。
「ほら、逃げろよ」
黒い一撃があらゆる箇所から飛んでくる。そして魔術師は淡々と告げる。
「逃げなきゃ、死ぬぜ?」
冬夜は歯を食いしばりながら、背後にあるリビングドアに手をかけ、玄関の方へと走る。
背中を見せた途端、肩を掠める影の斬撃。
その勢いで体勢を崩す。肩に走る鈍い痛みが、これが現実なのだと無情に知らせる。
一回転しながらも、冬夜は玄関のドアを突き破るように外に飛び出す。
だが、足元が沈んだ。
「…何だよこれ‼︎?」
地面が真っ黒い影に変わり、まるで底なし沼を体現するようにその体を引きずり込む。
「ギはははははは‼︎最高だぜェ、その顔はよォ‼︎‼︎」
魔術師の声が響き渡るが、徐々に遠ざかっていく。
視界が反転し、影が全身を包み込む。
そうして、次に足が地面い触れた時、そこは見覚えのある場所だった。
夜の、広い公園だった。
(ここって、近所の…)
街灯に照らされるのは冬夜ともう一人、向かい側に佇む影の魔術師。
「ここなら誰にも邪魔されねェ」
男が冬夜の正面に立ち、その長い両腕を横いっぱいに広げる。
周囲を見渡すが、やはり人の気配はない。
「……結界、とかいうやつか?」
「おォ、適応してきたな。だがこれはあくまでも人払いだ。誰もここには辿り着けない。」
冬夜は身震いする。
不適に嘲る魔術師を見つめ。
魔術師は手元に伸びる影を撫でながら、冬夜に伝える。
「一騎打ちだ、奧村冬夜」
街灯に照らされることのない茂みから無数の影が足元に集まり、刃と化す。
続け様に魔術師は、見下す態度は変えないまま言い放つ。
「──安心しろ、ちゃんと、確実に殺してやる」
一気に周囲の温度が冷える感覚がする。
周囲には誰もいないし、助けも来ない。
冬夜は、ただ自身の右手を強く握り締めた。
武器はない。
力もない。
逃げ場もない。
それでも、
ここで終わるわけにはいかなかった。
幕開けの一手は、術師からだった。地面から垂直に伸びる影に左手を繰り出し、殴るとその影が半月型へと姿を変え、直線運動の容量で冬夜に襲いかかる。
音もなく近づく斬撃をギリギリのところで回避すると、休む暇なく次の一手が舞い込む。
触手のように伸びる影は、連続の打撃のように地面に突き刺さっていく。
「おらおら、早く走んねーと、怪我しちまうぜ」
冬夜はただ走り続けることしかできなかった。
口の中が渇き、気持ちが悪い。
しかし、冬夜のことを待つことはなく、次から次へと影の刃が、容赦なく降り注ぐ。
腕で、脚で、必死に翻し、攻撃を避けていく。一歩、また一歩と逃げ回るたびに肺が焼けるように痛み、視界の端が黒く滲んでいく。
鉛のように重くなる体は、徐々に冬夜の言う事を聞かなくなっていく。
(ま、ずい……)
足元の段差に気づいた時はすでに手遅れだった。
砂利が冬夜の腕をしっかりと傷つけ、俯く。
そして躓いた体勢を立て直すよりも早く、背後からその気配は覆い被さる。
「ゲーム、オーバーだな」
魔術師の声がやけに近かった。
影が伸び、冬夜の首元へと迫る。
反射的に身を捻ろうとするが、体が言う事を聞かない。
ニヤリと冬夜を嘲笑う魔術師が言葉にする。
「──そういやよ」
魔術師はまるで世間話でもするかのような口調で話す。
「あの女、結構しぶとかったぜ」冬夜の呼吸が一瞬止まる。
「腹の辺りを刺したらよ、のたうち回って、冬夜、冬夜って何度も何度も泣き叫んでいやがった」
ぴくりと、冬夜の眉が密かに動いた。
「一向に泣き止まねェしよ、流石に耳障りになって、傷口の辺りを蹴り上げたらよ。これがまたいい感じに喚いてよ」
爪が剥がれそうになるほど、静かに地面を強く握った。
「黙る様子もねェし、鳴き声に聞き飽きたからよ。首のところをスパーっといっちまった。」
ケラケラと嗤う。
「沢山お姉さんに愛されてきました、ってか?…笑わせんじゃねーよ。気持ち悪ィ」
魔術師の憎たらしい表情が冬夜に近づく。
心の中に静かに何かが灯った気がした。
「何つったか、センカ?お前の知り合いじゃなきゃ、飽きるまでしゃぶってやったのによォ」
その瞬間、世界から音が消えた。
血の気が引く。
心臓の鼓動が、遠くなっているようだった。
──千香。
泣き叫んでいた?自分の名前を?
喉の奥が焼けるようにひりつく。
冬夜の心の奥の何かが、静かに割れた。
冬夜はゆっくりと顔を上げた。
その眼差しを見た瞬間、魔術師の口元から笑みが消失した。
「…あ?」
空気が変わった。
刹那、魔術師の腹部には重い衝撃と痛みが走り、強制的に後ずさる。
「──ッ⁇!!」何が起こったか理解したのは、すぐ後だった。
冬夜の脚が魔術師の腹部に直撃していたのだ。
さっきまでの必死さも、戦慄も、その瞳には存在しなかった。
そこにあったのは、底知れない静けさ。そして憤りだった。
魔術師は舌打ちし、影を走らせる。
「図に乗ッてんじゃねェぞ──‼︎‼︎」
殺意を込めた一閃が魔術師の傍から飛び出し、一直線に冬夜の眉間を貫こうとする。
冬夜は逃げることはしなかった。
ただ向かってくる黒の一撃に向かって、おもむろに右手を出した。
そして、受け止めた。
「……は?」
影の一撃は冬夜の右手に触れた途端、ぴきりと氷が割れるような音を奏でた。
束の間、影に亀裂が入る。
「ンだよ、それ……?」
次の瞬間、影の刃は黒い霧となり、蒸発するようにその場から消え去った。
何かの間違いか?と魔術師は驚愕する。
冬夜は、ゆっくりと拳を握りしめた。
自分でもなぜ右手を繰り出したか分からなかった。
それでも本能レベルで、そうしろと、体が動いていた。
そこに痛みはあった。
だが、それ以上に──
右掌が確かな熱を帯び、脈打っていた。
逃げない。
もう、怯えない。
冬夜は一歩、前に踏み出す。
その姿はさっきまでの逃亡者ではない。
「…二度と口にするんじゃねぇ」
低く、震えのない声。
「千香の名前を」
冷たい風が吹き抜ける。
公園の広場の街灯が、冬夜を照らし出す。
魔術師は後ずさる。
そこで初めて、魔術師はこの少年に恐怖を覚えた。
後ずさる魔術師は、小枝の木を踏みつける。
パキッと鳴る音を合図に冬夜は一気に距離を詰める。
攻め込まれる事を想定していなかった魔術師の顔は今や、恐怖に怯える側の表情だった。
その恐怖から判断が遅れる。
影を解放するが、その一撃、一撃を冬夜は身を翻して回避する。
そして、右手で影に触れると一気に影は形を失い蒸発していく。
一本、また一本と。
魔術師はその光景を目に焼き付け、息を呑む。
「ざッけんなッ──‼︎!!!」
無数の影が茂みから溢れ出てくる。
しかし、いたって落ち着いた様相で周囲を一瞥し、次に最も早く届く一撃を見つけると、その右掌でしっかりと捉える。
無惨にも触れられる影は蒸発していく。
魔術師がよく目を凝らすと、黒くなった影は蒸気となり、うっすらだが冬夜の右掌に吸われていくのを確認した。
「吸…収…してやがんのか、俺の影を…」
一拍置いて。
「……喰ってやがる……」
理解した瞬間、背筋が凍る。
これは相性の問題ではない。
偶然でもなかった。
ただの、捕食だった。
魔術師は、奥歯をただ噛み締める。
逃げるという選択肢は、もうなかった。
震える声で、叫ぶ。
自身の体内に刻まれた術式のその真の名前を。
「──魔女の大鎌」
唱えると同時に、地面が揺れ、夜そのものが歪む。
魔術師の背後から人の丈以上の巨大な鎌が顕現した。
黒く、禍々しいそれは、首を刈り取るだけに存在する刃。
鎌は唸り、空を裂いていく。
そして、横一線に冬夜の首を狙った。
だが、冬夜は一歩も動き出すことはなかった。
ただ、右手を伸ばした。
鎌が冬夜の手に触れた瞬間、金属が砕ける音と豪風が夜の公園に広がった。
「……うそだろ」魔術師の声が裏返る。
その巨大な鎌は、冬夜の右手によって完全に停止していた。
刃は冬夜の首に触れることなく、悲鳴のように音をたてて崩壊した。
冬夜はそのままゆっくりと顔を上げた。
「次は俺の番だ、魔術師」低く、確かな声が届く。
冬夜はその拳を精一杯、力を込める。
すると右手はそれに応えるように水色の光で冬夜の右手を照らす。
冬夜にとって大事な人、家族のような存在だった。
そんな彼女に手をかけた奴を許せなかった。
彼女の微笑む顔がフラッシュバックする。
「い、嫌だ……そ、んな」
怯える声は冬夜の耳には届かなかった。
そして、魔術師は理解した。
この少年がただの平凡な高校生ではない事を。
「──終わりだ」
その一言と同時に、力一杯引いた右手は弾丸のように繰り出され、魔術師の顔面に叩き込まれた。




