第三章 心の在処③
「とんだ一日だったな」
溜息混じりに呟くが冬夜の言葉は誰にも聞こえない。
駅近くのマンション区画を少し過ぎたところ。陽が翳り始めた時、冬夜は歩道橋で街並みを眺めながら佇んでいた。
車の音と帰宅する人々の声が入り混じって耳に入る。
歩道橋の下を車が通るたびに体に振動が伝わる。
「俺は、何がしたいんだろうな」
虚空にかけて問いかけるもそれに答えが返ってくるわけでもない。
視界の先にあるビル群から生み出される煌々とした光をただただ静観する。この街に引っ越してきた時の記憶は曖昧だが、保証された安全を謳っている街で何一つ疑うこともなかった。
しかし、ここ数日は異様な体験ばかりをしている。まるで平和を上書きした仮初の街にも感じられる。
日常と隣り合わせになるように非日常が転がっていて、きっかけ一つで日常がここまで侵食されるとも思ってもみなかった。
平穏を望む傍ら、一連の魔術師騒動がチラつく。
もう二度とごめんだと分かっていながらも、一度知ってしまったことで重たい爪痕が背後にずっと残っている。
酷く、疲れたとそう言うには充分すぎる。
太陽の光がビルに遮られ、一斉に道路沿いに立ち並ぶ街灯が一気に灯り始める。
「やば、今何時だ?」
おもむろにポケットからスマートフォンを取り出すも、いつもよりも重たい感覚を覚える。今朝梓から借りていたモバイルバッテリーが刺しっぱなしであったことをようやく思い出す。
一日中の授業を寝てしまっていたこともあって、すっかり返しそびれてしまっていた。
「スマホ、見ない癖ってこのことだよな…確かに若者としてあるまじき行為だ」
通学の際に梓に注意されたことを思い起こしながらも、自身の悪癖に自嘲する。
朝から充電していたこともあって、すでに充電は100%と表示されているのと引き換えに、モバイルバッテリーの残量はすっからかん状態。
「早く充電して、明日返すか」、なんてボソリと呟く。
スマートフォンの待機画面にはメッセージや着信の無数の通知が表示される。「げ、」と漏らしながらも上から拝見していくと、最も新しい通知は今朝の六時。梓から、おはよう、今日学校行ける?迎えに行こうか?起きてる?難しそう?などと数えきれないほどのメッセージだらけ。
これは朝の不機嫌具合も納得がいく。メッセージに既読を付け、過去の梓に向かって心から謝罪の言葉を投げかける。
そして、昨夜。十九時から二十二時にかけて着信とメッセージのオンパレード。
冬夜は深くため息を吐いて、頭を抱えた。
「悪い…」
その文面から彼女がどれほど自分を心配してくれていたかが一目で分かる。
帰宅直後の影の魔術師との交戦から御門氷夏による魔術側の世界の説明に至るまで、冬夜は彼女のことを思い出すことはなかったが、それでも彼女は一心に冬夜の安全を気にかけてくれていた。
そんな健気な彼女の態度ほど尊いと感じるものはない。
だからこそ、自分は今の日常から抜け出すわけにはいかない。
しかし。
これまでに自分の決断のために行動しようとするもどこか歯痒い。理解こそしているのに、足が進まない。だからと言って説明できる訳でもない。自分が自分じゃない感覚。
「分かってるんだけどな」
視線を動かして自分の足元を見る。一般人と何も変わらない足、高校生が履いているであろう普遍的なスニーカー。
そのまま視線を動かし、右手を眺める。
「お前だけだよ、異質なのって」そう投げかける。
突如として、露わになった異様な力。見覚えもないこの不気味な力があったからこそ、一命を取り留められた。しかし、一体何が原因で発現したのか、元から自分に備わっているものなのかも一切の詳細は不明。
御門氷夏の言葉を思い返すが、確かにこのような異能力があることが世間に晒されれば、外部の魔術師やこの街からも排除の対象になってもおかしくはない。
だからこそ、見て見ぬふりをして、初めからそんなもの持っていなかったと、言い聞かせて日常を演じればいいんだと、暗示をかけるように頭の中で何回も言葉を繰り返す。
表示したままの画面を再度スクロールして、通話の受信履歴を見返す。
その件数、およそ五十件。ほとんどが梓からの着信だ。
「………まじか」
着信等の間隔も一分ごと。初めて見る件数に思わず小さく笑ってしまう。笑うしかない、といった方が正しい。
一通り、着信履歴を眺めて終わり、通知の表示を消す。
だが、見慣れない通知が一件だけ混ざっている。
留守番電話:一件。
その送信者の名前で、冬夜の呼吸が一瞬止まった。
「……千香?」
着信時刻の方を見ると、昨日の夕方頃。丁度、冬夜と梓が下校しているタイミングだっただろうか。
梓との会話で着信があったことすら気が付かなかった。
歩道橋の上で冬夜はしばらく動けなかった。
背後を幾度か通行人が通ったがどれほどの人が通過したかは分からない。
静止する冬夜を呼び起こすように夜風が吹き抜け、我に戻った時、街の光が滲んで見えていた。
画面にもう一度目をやり、留守番電話の再生ボタンの手前で無意識に指が止まる。
震えていて、制御ができなかった。
ごくりと、唾を呑み込む音が大きく鳴る。震えを無くそうと、手を何度か横に振る。
意を決して、再生ボタンに親指を押し付け。
スマートフォンをおもむろに耳に当てる。
一秒、二秒と沈黙から始まった。
『──あ、冬夜?』
聞き慣れた声。気持ちを少し弾ませたような抑揚、一日ぶりの彼女の声に安堵するが、どこか懐かしくも感じる。
そして、胸の奥が締め付けられる。
『出ないか、うん』
冬夜が応答しないことにホッとするかのように、息を吐いていた。
『昨日、相談してくれた話なんだけどさ』
一瞬、思考が停止した。
どのような内容だったか、目を泳がせて、千香が被害に会う日の前日に相談事をした夜を思い返す。遅く帰宅した日、彼女は黙って冬夜に晩御飯を振舞い、眠い目を擦りながらも冬夜の話を聞いてくれた。
『あの時、私、冬夜の質問に対して、知らないふりをするって答えたじゃない?』
その時の様子は鮮明に覚えている。
彼女は、自分がするであろう行動、そして後悔を呟いていた。
きっと、社会で生きる人間は誰しもがそうなのだろうと、受け止めていたつもりだった。
『……あれ、やっぱり間違ってた』
否定。
一瞬、間が空く。
そのまま冬夜の視線が落ちる。
『きっと誰かが不幸になることを選んじゃいけない、そんな気がする』
そう、断言したのだ。
『例え、自分が考えて動いたその行動が間違っていたとしても』
まるで隣で彼女が話しているように。
『惨めで、カッコ悪い結果になったとしても』
瞼の裏で、いつも食卓を囲って今日何があったか語らい合うように。
『今、自分がやるべきことを、ちゃんとやりたい』
宵の時、車の走行音、雑踏の人々の声、電子広告の音声が混ざり合う中でも、その声だけははっきりと聞こえた。
真っ直ぐとした声が冬夜の耳の中で馴染む。
冬夜の視界が、ゆっくりと滲んでいく。
『なんかさ、あの後、寝ようと思った時に、昔のこと思い出しちゃってさ』
千香の声がほんの少し、柔らかくなる。
『覚えてる?冬夜が小学生の頃ね、買い物帰りで二人で手を繋いで歩いてたの。そしたら公園で近所の悪ガキたちが低学年の女の子泣かしててさ』
すでに冬夜の記憶からは抜け落ちていた、あるいは風化している記憶。
その時の光景すら本人は思い出せない。
『私、見ないふりして、手を引っ張って帰ろうとしたんだよ』
まるで自分を責めるように嘲る様子で、微かな笑い声が漏れる。
『そしたらね、冬夜は私の手を振り払って、その子のところに走って行ったの』
胸の奥が痛くなるほど、熱くなる。
彼女は決まって明るく話し続ける。
『悪ガキ、四、五人はいたかなぁ。「何やってんだよ、お前らー」って言って殴りかかってたっけ。……まぁ冬夜すぐに返り討ちにあってたけど』
「なんだよ、それ」聞こえる訳でもないのに、苦笑しながら千香に向かって相槌を打つ。
『でもさ……何度も、何度も立ち上がってた』
その瞬間だけ、外部の音が聞こえなくなるほど現実から切り離されるような感覚が襲う。
次の言葉までの息継ぎ、数秒間、電話越しの声は聞こえなくなるが、冬夜は静かにその続きを待つ。
『正直、かっこいいなって思ってた』
照れたような声色、間が空く。
『それが何か印象的で、忘れられなくって、その光景を浮かべた時に、冬夜の前ではもっとかっこいい自分でいなきゃなって思ったの』
告げるように彼女は心情を吐露する。
包み隠すことなく、あの時言えなかった後悔を振り払うように。
『なんか、照れくさいね。でも──』
一瞬。
静寂が訪れる。
『奥村冬夜って人間て──』
『誰であろうと何であろうと、困っている人がいたら駆け出しちゃう、そんな男なんだよ』
冬夜に語りかけるように。
それは説教でもなんでもない。彼自身を体現する説明にすぎない。
冬夜はふと、夕方にあったことを思い返す。
道に迷う老婦人。逃げ出した犬と飼い主。迷子と、その母親。
困っている顔をしていた。
だから、声をかけた。
助けてなんて誰も言ってない。
自分じゃなくてもいいのに。
それでも彼は自分から歩み寄ったのだ。
『だから、もう一度あの時の解答を言わせて』
許しをもらうように宣言する。
微かに息を呑み込む音が聞こえて。
そして。
『冬夜が助けたいって思うなら、思う存分突っ走ればいいよ。私は冬夜を否定しない』
その言葉に胸の奥が揺れる。
言葉は出てこないが、錘が無くなったかの様に肩が軽くなる。
『なぁんて、ちょっと面と向かって言うの恥ずかしいからさ、電話にしちゃったけど』
そして、最後に。
『美味しいご飯、作って待ってるから』
『早く帰ってきなよー』
音声は、そこで途切れた。
次の瞬間、車の走行音が急に大きく耳に入ってくると同時に信号機の電子音、遠のく人の話し声が意識を現実に戻す。
彼は沈黙する他なかった。
もう崩れて実態のない記憶を咀嚼する。温かな記憶の温度が確かにそこには存在した。
すでに冬夜の視界は、ゆっくりと滲んでいた。はっきりと見えていた街の明かりの輪郭がぼやけていく。
嗚咽は出ない。
声も出ない。
ただ、音もなく雫が頬を伝って足元へと落ちる。
「……はぁ」
締め上げていた喉からようやく息が漏れる。
そして耳に当てていたスマートフォンを握る手が重力に従うように地面に向けられる。
胸の奥のどこか、何かが静かに軋んでいるのが分かる。
千香の声。
優しく包み込むような声音が頭の中で反響させる。
何度も何度も。もう聞くことのできない残酷さを少しでも忘れるために上書きするみたいに。
その声と重なるように、もう一つの顔が冬夜の中でも浮かぶ。
昨晩。雨上がりの街が寝静まった頃の可憐な訪問者のことを。
闇夜の中でもはっきりと分かるほど、明るく、繊細な水色の髪の毛の少女。
不安そうな瞳と、強気に振る舞う声色。
後悔はない、そう告げているはずなのに寂しそうに涙を浮かべる横顔。
「……何でだよ」
思わず、そう呟いていた。
気持ちが混同し、視界もぐちゃぐちゃになる中でも彼女の顔だけははっきりと思い浮かべられる。
千香が言うように、自分が如何にお人好しで首を突っ込まずにいられない性格なのか実感できる。
この感情を明確にできた訳ではない。
だが、少なくとも進むべき道は見えてきた気がした。
ただ一つ気掛かりなのが、リオナの真意についてだった。
御門氷夏と話した丘の公園での出来事。確かに冬夜は魔術界で起こっていること、そして『救いの協定』と呼ばれる魔術結社が何の目的があってこの街を訪れたのか。これから待ち受けるリオナへの処遇。
──永久封印か殺処分か?そこで彼女が選んだのは、死ぬこと?
なぜ、彼女は死ななければならないのか。いや、確かに彼女は死者を多く出した品川の事件の発端かもしれない。または冬夜の知らない世界のどこかでもっと多くの人々を体格ほどの大きさの剣で手にかけていたのかもしれない。数えるのも億劫になるくらいの多くの罪を犯したのかもしれない。
魔術の世界と呼ばれる場所に居る人々から、いや、被害を受けた人、街、国から糾弾されるような行為だったのかもしれない。
それでも。
「……じゃあ、アイツが望んでやったのかよ」
そこだけが唯一、心の中で蠢く不可解な疑問だった。
彼女がいた無機質なホテルの一室。殺気立った夜の出来事を忘れてしまうような、危機感のないゆったりとした時間。
リオナの声が呼び起こされる。
『気づいたら、私はしゃがみ込んでて、清教徒に回収されてた。人を殺した記憶なんて、私の中には存在してないよ』
そこに彼女の意思があったとは思えない。
それに御門氷夏もリオナが人を殺すようには見えない、という冬夜の主観には同意を得ていたのを覚えている。
彼女が生きていることで、悪の魔術結社が動き出してくることもすでに体験済みだ。品川の事件に関しては日本の歴史の中でも刻まれるほどの大きな事件、日本人で知らない人はいないというほどの。
彼女が危険視される理由が、過去に起きた事件での暴力性と危険性。それに精神をコントロールする『鍵』の存在も関わってくる。
『うん。私は死にたい』
リオナ自身はすでに運命を受け入れているのかもしれない。
でも精神を操作されていたのなら、否定する権利だってあるはずだ。
なのに。
なぜ、彼女には一人も味方がいないのか。
なぜ、彼女には逃げ場がない。
なぜ、彼女に対して、御門氷夏は手を差し伸べないのか。
そして。
なぜ、この街に訪れたのか。
なぜ。
平凡な高校生である、自分のところに来たのか。
──『覚えてない?……私たちは昔、会ったことがあるんだよ』
思い出せない。
彼女とは今回で初めて会ったのではないのか?
答えは出てこない。
いくつも乱立する疑問が渦をまいて頭の中で氾濫する。
何かに首を絞められているように、息が詰まる。
どうすればいい?何をすればいい?どこへ行けばいい?
疑問が疑問を生んでいく。
だが。
不意に、ある言葉が過ぎる。
別れ際の彼女に、触れられた記憶。細く白い指先。ひんやりと冷たい感覚だった。
何かに気がついた彼女が、冬夜の右のこめかみに触れた。
些細なことだったから忘れかけていたが、その時の記憶を呼び起こす。
『ううん、汚れがついていたから。もしあれだったら自分で拭ってみて』
ただ、ゴミがついているだけだと思っていた。だから注意して聞くこともなかった。
『冬夜は、無くなった記憶、見たいと思う?』
会話の中で生まれた何気ない質問。
しかし、冬夜は否定をしたことを思い出す。
千香の真っ白な腕を見た後で、“思い返す“という行為をしたくなかった。
だから否定した。
その時、頭が回ることがなかった。
言葉の真意に気がつくこともなかった。
なぜあの質問を彼女がしたのか。
いや、もしかしたらただの質問だったのかもしれない。ただの“もしも”の話。
でも冬夜は可能性を見落としていた。
彼女は魔術師である。それも世界最悪と呼ばれるほどの強力な魔術を持つ者。
無くなった記憶ぐらい呼び起こせられるのかもしれない。
しかし、にわかに信じられなかった。そんな非日常な発想、頭の中に浮かぶこともなかった。こんなオカルトなんてありもしない街で育った冬夜の頭の中にはそんな思考は巡らないのも当然だった。
「嘘だろ…」
騙されたかのように、試してみようと思った。
こめかみの辺りに残る“汚れ”を払うことに。
どうやって?
「──あるじゃねぇかよ、この右手が」
ゆっくりと下がっていた右手が持ち上げられる。
もし、冬夜の右手に異能な力が存在して、影を司る魔術師の、人を殺められるほどの力を分解して、喰ってしまうほどの不可思議な能力を発現する力があるとするのなら。
ぽっかりと抜け落ちた記憶を見るための手がかりになるのなら。
まるで真実を隠してしまうように記憶に靄をかけている汚れすら無くしてしまえるのなら。
そして、その右手はこめかみに優しく触れる。
刹那。
バチリ。
頭の中で、何かが弾けた。
視界が真っ白に染まる。
瞼がを閉じれば、まるで録画していた映像を再生するように鮮明な映像が浮かぶ。
土煙。
瓦礫が崩れ落ち、響き渡る轟音。
咽び泣く声と断末魔が入り混じる音を背景に、炎炎と立ち昇る炎を誰が消せようか。
いつかの夢で見たことあるような記憶。
走る激痛と、溢れ出す感情。
目の前に現れる、血を浴びている少女。
そう、水色の髪をした少女。
五年前の記憶。確かに奧村冬夜が経験した残酷な記憶。
全てが、戻ってくる。
点と点が線で結ばれるような感覚。
「……なんで、忘れちまってたんだよ。こんなこと」
冬夜はスマートフォンをポケットにしまい、その体を自宅の方とは逆方向のオフィス街の方向へと反転させた。
迷子の男の子が指さした先。
新都ニュータウンのオフィス街区。この街の中枢の方。
重たかった足を一歩、また一歩と動かす。
同時に今日一日を振り返り、幼馴染の少女の顔を思い浮かべる。
(本当にごめん、梓。ちょっとやることができちまった──終わったら必ず、全部説明するから)
その重い足取りは前に進むにつれて徐々に軽くなっていく。
人の流れに逆らうように、一人一人を避ける。どこに行かなきゃいけないのかも分からないまま、がむしゃらに足を動かすことしか頭にはなかった。
ただ、胸の奥がうるさかったのだ。
千香の言葉が脳内で反響し、リオナの表情が焼きついている。
(──行かねぇと)
助けたいのか?
そう、自問してみる。
答えはすでに出ているはずなのに。
今すぐにでも足を止められる理由だって、心の中には幾つも思い浮かぶ。
危険。関わればもうあと戻りはできない。平穏は崩れる。今までの日常を手放してもいいのだろうか。
そんな思考が巡れば巡るほど、冬夜の足と地面は縫われ、前に出す足が重たくなっていく。
(何度も引き返すチャンスはあった)
何度か死ぬことすら覚悟する時間があった。
商店街で殺されかけている同級生を逃した時、学校にまで魔術師二人が押し寄せに来た時、いつ死んでも可笑しくない状況でもリオナは助けてくれた。
その事実だけは変わらない。
(自分だって死ぬ可能性だってあったのに、アイツは)
奧村冬夜という少年をその身一つで庇ってくれた。
傷つけられた体もその力で癒し、日常の方へと導いてくれた。
それでも彼女は見返りを求めることはしなかった。
優しく、温かい瞳だった。
(俺はアイツとの“約束“すら守れていない)
それはずっと押さえつけられていた記憶。
蓋をされ、日の目を浴びなかった抜け落ちた欠片。
「……あぁ、クソ」小さく吐き捨てる。
迷っている時間すら惜しい。行き先なんて分からなくたっていい。理由なんてものは、後からでもよかった。
ただ一つ、確かなことだけがある。
(お前が死んじまったら、俺はきっと後悔する。何十年後だって、きっと──)
人混みを縫うように無理矢理に体を捩じ込ませる。ぶつかりそうになる肩を一つ一つ躱し、足を止めることなく前へと。
彼女たちが言っていた死の期限。魔術師たちの襲撃だってまた行われる可能性だってある。
それでも。
走る理由には、充分だった。夜の街を切り裂くように。




