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第三章 心の在処②

 部活動を勤しむ生徒の声や帰宅する生徒の声で氾濫する帰路。

 賑やかなのだが、どこか寂しさはあった。

 身近にある日常の声が、なぜだか少し遠く感じる。


 今日一日、ずっと答えが出ない問いを繰り返している気がした。


「俺はどうしたらいいんだ」


 つい言葉に出てしまう。

 心ここにあらずという言葉がまさにそうだった。


 日常に戻ってきたのにずっと忘れられない。違和感というしこりがずっと胸の中にいる。


あの子(リオナ)が本当に死ぬことを望んでいるようには見えなかった)


 それだけなのだ。

 昨晩の他愛ない会話。

 無垢な笑顔。

 全てがこれから死を待つ人間が持つものだと思えない。

 それに、この街に来たこと。


『あなたに会えた。それが、最後の未練』


 その言葉の真意すら冬夜には分からない。

 自分に尋ねてきた意味、全てが不明瞭で居心地に悪い感覚になる。


 オレンジ色の光が冬夜を眩しく照らし、暖かい感覚があるがどこか心までは満たされていない。

 そうもしているうちに駅前に着いていたが、歩道の信号を二回ほど見送ってしまっていた。


「「はぁ」」


 溜息。

 数秒して、異変に気がついた。二つ重なった声に。

 周囲を見渡すとそこには背の小さい人影。


「どこなのかねぇ、ハルちゃん家は…」


 見る限り道に迷っている老婦人。小綺麗にしてある服装や持っている手荷物の多さから誰かを尋ねに来たのだろうか。

 老婦人も冬夜と同じく三回目の青信号を逃そうとしていた。

 スマートフォンを幾度と見ては空を見上げて、「はて、はて」と繰り返している。

 周囲を見渡してもそんな老婦人を気にする人間などいなかった。


「おばあちゃん、どっか探してんの?」


 冬夜は何の気も無しに声をかけていた。

 その声にびくりと肩を振るわす老婦人は、垂れ下がる眼鏡を掛け直す。


「あ、そうなんですぅ。ハルちゃんの、孫のお家に行きたくて……」

 冬夜の顔を見て不審者ではないと分かった途端、スマートフォンを突きつけるように示す。

 マップを広げているようだが、自分がどっちの方向を向いているのか分かっていないようだった。


「ごめん、ちょっと見せてね」

 と端末を借りてマップ上のピンの立っているマンションを見つける。

「ここに行きたいの?」


 赤いピンの立っている住所を指を刺すと、力強く首を縦に振る。


「あの…グレーのマンションで、確か一○階とかだったかしら…前に行ったのはもう十数年前かしらねぇ、田舎者からしてみたらこの街が複雑で」

「この街も急成長してるしね、十年以上経ってたら分からないよな」


 頭を抱える老婦人に応えるようにして、周囲を見渡すと確かに一〇階以上のグレーのマンションがいくつも立ち並んでおり、どの建物なのか分からないのも納得できる。


(思った以上の数だな…こりゃ分かるわけもないか)


 借りていたスマートフォンを返すと、老婦人の横にずさりと置いてあるお土産袋とキャリーケースに手をかける。


「じゃ、行こうかおばあちゃん」

「えぇ、悪いですよ!」そんな老婦人の声を聞いても冬夜は態度を変えることなく、大荷物を持ってマンション地区の方へと足を動かす。

「大丈夫、大丈夫、俺若いから」

「あ、ありがとうございますぅ」



 マンション地区の方に向かい、該当するマンションを見つける頃。


(このスーツケース、馬鹿に重くねぇか?なんだ、何が入ってやがる)


 息が少し上がっているのを見ると、老婦人は「あのぉ、重くない?」と聞くが冬夜の答えは決まって「んあ?全然!余裕だよ!ははは」と無理に筋肉を動かして高笑いを見せる。


「ハルちゃんがエントランスのところで待っててくれるみたい」と明るさを最大限まで上げてある端末の画面を突き出し、チャットのトーク画面を見る。

「よかった、じゃあそのハルちゃん見つければいいんだな」

 息切れ気味で答え、辺りを見渡す。


 夕刻の時間にもなると、小学校や中学校から帰ってくる生徒たちや、買い物帰りのお母様型が闊歩している。

「どこだ、ハルちゃんどこだ」

 スーツケースを持つ右手がそろそろ千切れそうだと悲鳴をあげてるのがわかる。

 血眼で該当しそうな孫を見つけようとしていると。


「あ、いたいた!ハルちゃーん!」


 と後ろを歩く老婦人が声をあげながら直線上にあるマンションにいる人影に手を振る。


「え?……あれが?」


 そこに佇んでいたのは明らかに孫というワードからは連想されにくいであろう、推定190cmの筋骨隆々のアフリカ系アメリカ人の風貌をした男性だった。


「おばあちゃん!待ってたよ!!」そう言って、猛スピードで駆け寄るマッチョマンは冬夜を気にすることなく後ろにいる老婦人を赤子のように高く持ち上げる。

「あはは、ハルちゃんてば、また大きくなって!」

「いやそれほどでもないよ!おばあちゃんこそわざわざ遠いのにありがとうね!」


 豪快に笑う声がマンション街に響き渡り、孫と祖母の感動の再会を一通り見守る。

 一瞬にして空気のような存在に成り変わった冬夜は開口する。


「あのぉ、この人がお孫さん……?」


 その様子に気づいた老婦人は、あらあらと述べた後に孫のハルちゃんに地面へと降ろしてもらう。

「えぇ、孫のレオンハルトです。案内していただいてありがとうございましたぁ」

「おばあちゃんの案内してくれた方ですか?これはどうもありがとう!」


 にっこりスマイルで応えるようにハルちゃんは、太い親指のサムズアップと真っ白い歯が反射さして冬夜の眼球に光を届ける。


「にしてもまぁ、随分と大きいお孫さんで…」と目を細める。

「おほほ、昔からよく食べて寝て、遊んでたものね」

「よく言われますー、でもこう見えて僕、一五歳ですよ?」


「年下なのかよ!!!!」


 思わず言葉に出してしまった。

 明らかに二十代後半のマッスルマンだと思っていたが、彼の純粋無垢な瞳と老婦人の雰囲気から汲み取るに本当なのだろう。


(ほんと、この街っていろんなやついるんだな…)


 そう言って苦笑しながら団欒する二人に肩代わりして持ってきた荷物を預ける。

 あまりの重さに何が入っているか気になっていたところ、孫のハルちゃんがスーツケースのジッパーに指をかけてそのまま勢いよく開ける。

「なっ……」


 そこには銀ピカに輝くトレーニング器具の数々がぎっしりと詰められていた。

 あまりにも高齢者の女性にもたすには酷な量。ハルちゃんの気がしれる。


「おばあちゃんに何つーもん持たせてんだ!」と二度目のツッコミがマンション街で反響すると、ちらほらとベランダから顔を覗かせる住民の方々。

「おばあちゃんが持ってたやつ欲しかったんだよね!」

「へ?」素っ頓狂な声が思わず口から漏れる。


「ふふふ、小さい頃からこれ欲しいって言ってたものね」

 白く小さいシワが重なる手で自身の頬を摩る老婦人。

 唖然としている冬夜には目もくれず、老婦人はスーツケースにごろっと転がる器具の一つ、鉄アレイを軽々と持ち上げる。


 正直、驚愕した。


 あまりにも容易に持ち上げるものだから、まさかとは思ったがこの祖母あって孫がいるのだ、と確信した。


「って、そりゃこんな重たい荷物をこの街に持ってきている時点で気付けばよかったな」


 二人には聞こえないよう、独り言のように苦笑する。

 スーツケースに荷物を改めて仕舞い、冬夜の顔を見て再度、老婦人は頭を下げる。

「本当にありがとうございました」


 その一言で冬夜は安堵する。


「いや、困った時はお互い様ですよ」

 そして横でニコニコと白い歯を見せているハルちゃんに指を差す。


「おい、おばあちゃんがこっちにきたらちゃんと駅まで迎えに行けよな」

「は、はい!」とビシッと気をつけをする彼を見据えて冬夜も頬を緩める。


「じゃあ、俺はこれで」と一言つげ、軽く会釈をしながらその場を離れた。

 背中越しに二人の和気藹々とした笑い声が徐々に小さくなっていく。

 ふう、と一息つく。

 ほんの少しだけ、胸のざわつきが静まった気がした。忙しないけれども確かな日常の温度を感じられる。


 そう。


 これでいい。


 このくらいの平凡があればそれで十分だった。



 そして信号の赤が青に変わる瞬間だった。


「ちょっと、待ってぇぇぇぇぇええええ‼︎」


 甲高い女性の悲鳴が耳に刺さる。

 びくりと肩を震わせ、キョロキョロと辺りを見渡していると、右後方から白い毛玉が流星の如くスピードでこちらに向けて駆け抜けてくるのが分かった。


「え?」


 すると、さらに後方から千鳥足の華奢な女性が一生懸命腕を振りながらジョギングレベルの推進をしていた。

 瞬きをするごとに無惨にも差がどんどん開いていく。

 まさに、うさぎと亀。


 その白い毛玉は、見るからに巨大な体躯を持ち、元気いっぱいに猪突猛進を見せるグレートピレニーズ。

 後方をへろへろと歩いてるのは恐らく飼い主だろう。グレートピレニーズの首から下がって引きづられているリードが、何が起こったかを物語っていた。


「あ!あの!その子止めてくださ───い!!」


 息を切らしながらも精一杯の声を上げる飼い主の言葉を聞き届け、冬夜は手を広げ、深く腰を落とし、犬がこちらにくるのをじっくりと待つ。


「んなああああ!こっちだわんこ‼︎!!」


 狙うは、引き摺られているリード。それさえ掴んでしまえば、あとはこちらに権利が渡る。頭の中で完璧なシミュレーションがおこなわれ、冬夜は唾と共に覚悟を呑み込む。

 そして、力強くも素早い動きで冬夜の横を掠めていくグレートピレニーズのリードを目で捉え、そのまま俊敏な手つきでリードをがっしりと左手で掴む。


 次の瞬間。

 左にずしりとした重み。


「うぉっ────!?」


 冬夜はまるで根っこごと抜かれたように、簡単に足が地面から遠かった。

 もはや引き摺られるというよりも、凧揚げのように空中を浮いていた。

 その光景は、一瞬にして周囲を通り過ぎる人から注目の的になる。


「は!?え、ちょっ、待て待て待て────‼︎!?」


 グレートピレニーズは止まらない。

 その力強くも圧倒的な脚力でアスファルトを蹴る白い毛玉は平均的な高校生一人の体重の負荷をかけたところで静止するわけでもない。


 滑るように速く滑走する巨体は問答無用で歩道にいる人々を戦慄させる。

 人がたくさんいて嬉しいのか、ぶんぶんと振り回される尻尾が冬夜の顔面をペチペチと当てる。

 ふわふわの毛とは裏腹に、しっかりと芯のある尻尾から繰り出される往復ビンタを悶絶以上の何ものでもない。


「あぶぶぶっ、おま、とんでもパワーすぎるだろ!落ち着けって‼︎‼︎」宙を浮いていた体の体勢を整え、その脚で共にアスファルトを蹴る。


 腕が軋むが白い毛玉には関係なく、ハァハァ、と息を発しながら街中を縦横無尽に駆け回る。

 住宅街からビル群の方へと進み、楽しそうに尻尾は振られ、交差点を曲がり、オフィス街へと進出し、信号待ちの自転車の間をも縫う。


「すみませんすみませんすみませ───ん‼︎!!!‼︎」気分はジェットコースターそのもので、安全装置は付いていない。

 半ば絶叫しながら謝罪をありとあらゆる人々に撒き散らす。

 そして曲がり角を綺麗なコーナリングを見せ、再び直進。そしてまた角を曲がる。

 気がつけば、さっき通ったはずのコンビニが視界に入った。


(あ、あれ?一周してねぇか?)


 すると、とある角を曲がった時にさっきまでいたマンション街区に差し掛かる。そして目と鼻の先に見える、華奢な体躯の女性に見覚えがある。

 この白い毛玉の飼い主だ。

 こちらの気づき、大きく体を使ってジェスチャーする冬夜。

 そのジェスチャーが目に入ったのか、飼い主はこちらに振り向き応答するように手を振る。


「お────い、って、ちょちょちょちょ、待て待て待て、止まれ止まれ‼︎‼︎」


 そして飼い主の横を通り過ぎ、二周目突入。


 振り回されるだけだが、こちらも息が上がってくる。

 太ももが震え始めるが、お構いなしのグレートピレニーズ。

 既視感のある光景をひとしきり眺め、そして。


 三週目。


「もういいだろぉぉぉぉぉ───」


 呼吸が荒くなり、肺が焼けるような感覚。

 グレートピレニーズの底なしの体力に引き笑い状態の冬夜だが、むしろ楽しくなっているのか、その巨体はさらに加速する。


 夕刻のニュータウン市街を、二つの影がぐるぐると走り回る。

 周囲の視線が変わらず痛い。小学生すら指をさしてこちらを眺める始末。


「お母さん!あのお兄ちゃんが犬に散歩されてる!」

「違うわ!」ついつい声が漏れてしまう。


 もはやどちらが主導権を握っているかもよくわからない。

 そのまま四周目、そして五周目と、ちょっとしたホラーの画である。

 腕の感覚がなくなり、視界が揺れる。靴の底もすり減り始めている。


「はぁ……、はぁ…頼む………そろそろ満足してくれませんか……」今にもリードから手が抜けそうになる。

「ばう」


 切実なる願いが通じたのか、白い毛玉の巨体は不意に速度を緩め始めた。

 何度か見た角を曲がり抜けて、やがてぴたりと立ち止まった。まるで“もういいや”と言わんばかりに。


「お、…? 終わりか?」

 荒い息を吐きながら、満足そうに尻尾を振り、冬夜の疲れ切った体にダイブする。


「ぐぅ、おっ──⁉︎」

 冬夜の体を覆い隠すように白い毛が包み込み、アスファルトとサンドイッチになる。


 数分後。


 冬夜が圧迫死寸前のところで、前方から飼い主の声が聞こえてくる。


「あ、ありがとうございますぅぅぅぅ‼︎‼︎」

 駆け込んでくる女性は、涙目を浮かばせながら白い毛玉をどかして冬夜の眼前でへたり込む。


「はぁ…はぁ……、散歩ってレベルじゃねぇ」声にならない声で独白する。


 大粒の涙を撒き散らす女性は、何度も冬夜に頭を下げる。


「本当に、本当にすみません!普段はこんなに引っ張ったりしないんです!」

「いや…元気で…いい子ですね……ははは」


 ぺこりと頭を下げる女性にリードを手渡した後、遅れてじんわりと指先が痛む。

 そのまま視線を横にずらすとグレートピレニーズは何の悪びれもなく、満足そうにあくびをしている。


「満足そうだな、お前は」と落胆しながらも白い柔らかな毛を撫でる。


 その後は、リードを両手でしっかりと持った飼い主の女性は小さく会釈すると冬夜とは逆の方向に足を進めた。

 飼い主が見えなくなるまでその場に立ち尽くす。

 そして、一気に疲れが解き放たれ、疲労感が体を支配する。


「はぁ、ようやく終わった………久々にあんなに走らされた……」

 足が重くなる感覚を残したまま、住宅地の方へと体の向きを変える。


(今日はもう何も起こらねぇだろう……)


 白い巨体に振り回され、街を何周も引き摺られた直後だ。

 これ以上のイベントが起きたらさすがに笑えない。

 そう思った矢先だった。





「す、すみません!この辺で小さい男の子みませんでしたか!?」


 切羽詰まった声が夕暮れの雑踏を裂く。

 振り返ると、後方にて蒼白な顔を浮かべる若い女性が通行人を捕まえては必死に問いかける。

 依然として通りすがりの人々は母親の勢いに困ったように目を逸らし、曖昧に首を振りだけだった。


 声の勢いに押され、誰も踏み込めない。


 目には涙を滲ませる。

 呼吸は浅く、肩が小刻みに揺れているのはここからでも分かる。

 “本気で焦っている母親”の姿。



 一連の流れをみて、冬夜は一瞬だけ空を仰ぐ。


 そして深くため息を吐いた。


 だが、その口元はどこか緩んでいる。



「──どんな子?」



 気がつけば、母親の背中に声を投げていた。

 振り向く母親は驚いた様子で冬夜を上から下まで一通り確認する。見覚えのない男子学生に見せるのは期待と警戒の眼差し。


「この子です……!」必死そうにスマートフォンの写真を見せる。

 そこに映るのは、まだあどけなさが残る男の子。年齢は小学生とまではいかないか、笑っているかも分からない活気がなさそうな幸が薄めの表情。


「あの、さっきまで後ろを歩いていたんですけど、急にどこかに言ってしまって…」

 涙交じりの声は震えていて、動揺を隠せていない。

「あぁ、大丈夫。こういうのって大体相場がいくつかあって」

 自分でも不思議なくらい落ち着いたトーンだった。



 数分後。


 大通り傍に佇む百貨店の裏。住宅街へ抜ける小道の脇にぽつりとある小さな公園。

 鉄棒と小さめのブランコしかない簡素な場所。

 そこのブランコにポツンと座っている男の子が視界に入る。


 男の子はぼーっとフェンスの先にあるオフィス街をただただ眺めている。

 何も考えるわけでもなく、ただ、光る窓の列を目で追っている。


「おい、坊主。母ちゃん探してたぞ」

 声をかける。その声に反応するようにゆっくりと振り向く男の子と目が合う。きょとんとする表情。

 怪我はない、怯えてもいない。その様子に冬夜は内心、安堵する。


 その直後、後ろから足音が過ぎる。

「──っ‼︎」

 母親が駆け寄り、膝をついて男の子を力一杯抱きしめる。


「どこに行ってたのよ!心配したんだから……‼︎」怒っているのに、涙が滲み、声も震える。

 男の子は少し苦しそうにしながらも、されるがままだった。

 その光景を一瞥して冬夜は視線を逸らす。


(………よかったな)


 胸の奥で何かが軋む。

 母親はおもむろに立ち上がり、佇む冬夜に向けて何度も深く頭を下げる。


「あの!本当にありがとうございます!何かお礼を、えっとご馳走でも?」


 その言葉に、洞爺の肩が僅かに揺れる。


「大丈夫ですよ」


 一拍間を置いて。


 母親と視線を合わせる。


「好きでやってるようなもんなんで」


 それ以上踏み込ませない声色で。


 そのまましゃがみ込み、男の子と目線を合わせる。


「何の気でいたかは知らねぇけど、もう遠くにいくんじゃねーぞ」

「うん…」

 背後で母親が続ける。


「本当よ、どうして公園なんかに来ちゃったの?」


 男の子は特に考える様子も、悪びれる様子もなく簡単に答える。


「だって、髪の毛が青い人がいたんだもん」

 その一言で冬夜だけ、時間が止まった。


「……え」


「もう、危ない人だったらどうするのよ?」その言葉に呆れた母はその後も続けるように釘を刺していた。

 冬夜だけが切り離されたようだった。

 何度か受けた言葉を咀嚼して、ゆっくりと顔を上げる。


「おい、坊主」

 低い声が絞り出される。

「その見た人って、女の子だったか?」

「? うん、フード被ってたけどキラキラしてたよ」


 不思議そうに冬夜を見つめるが、その視線は合うことなはい。

 鼓動が、どくりと鳴る。

 不意な発言が、リオナの存在を確信させる。


「その人、どっちに行った?」


 目を丸くさせ、男の子は素直に指をぴんと立てて、首都部に向かう大通りを指す。

 人も、建物も、光も、全てが集まる場所。ここから見ても立ち並ぶビル群を眺めることはできる。


「お兄ちゃん?」

「……いや、何でもない」そう言ってしゃがんだ体を起こし、一瞬だけ瞳を閉じる。


 今日一日のことを振り返るが、リオナのことや魔術師がらみのことばかり想起していた実感がある。

 答えすら与えられることもなく日常に戻されたこと、一体何のためにこの街に、冬夜に会いに来たのか、あの夜に見せた涙。

 今から追えば、間に合うかもしれない。

 強く、拳を握った。


 だが、関わればもう日常こちらには戻れないだろう。

 千香のこと、梓のこと。譲れないものも確かにここにある。


 だから。

「もう母さんを泣かせるようなことするなよ」

 それだけ告げる。

 母親の方に軽く会釈すると、冬夜は指を刺された方向とは逆の方向へと歩き出した。

 足取りはゆっくりと。夕焼けが長い影を落とす。


(もう俺は平穏に戻るんだ)


 その気持ちが動くことはなかった。

 しかし、胸の奥がうるさい。闇夜に照らされる透き通る水色の光が瞼の裏でも再生される。

 それでも足が止まることはなかった。


 一歩、一歩進んでも親子の方にすら振り返ることはしなかった。



 ◇◆◇



 放課後、部活動を終了させるチャイムが鳴り響く。

 金属質な余韻が廊下をつたい、窓ガラスを微かに震わせる。

 その音を聞いた耳がぴくりと動く。


「はぁー、やっと終わったぁ」と床にへたり込むチヨを横目に、梓は小さく笑った。


 段ボールに囲まれた倉庫。

 埃の匂いと紙の匂いが混じる、いかにも学校の裏側そいう空間。

 大きく息をつくミキが最後のダンボールを倉庫に置く。


 ガタンと、鈍い音。

 それが今日の作業が終了することを意味した。


「いやぁ、梓ちゃんありがとうね!委員会の仕事、担当別の日なのに」

 ミキが両手を払い、汚れを落とす。

「ううん、全然。人足りないって言ってたし」


 文化委員の備品整理。古い掲示板や使われなくなった装飾員の仕分けと廃棄。

 思ったよりも重労働で、想定していた時間を遥かに過ぎてし待っていた。


「それにしても、奥村くんと一緒に帰らなくてよかったの?」


 壁にかかる時計の針を直視する梓に声を潜めるミキ。

 梓の動きがほんの一瞬だけ静止する。

 しかし、すぐに何でもないようにガムテープやハサミを片付ける。


「うん。今日は、いいの」

「そっか」


 ミキはすっこし迷うように曖昧な表情をしたあと、ぽつりと呟く。

「何か、今日はやっぱり元気なかったよね奥村くん。あんな事件ことの後だから無理してるのかな」

 梓の手が今度はしっかりと止まる。


「あれだけ寝てたもんね、私たちが思うよりもストレス溜めちゃってるよね」

 横から入るようにチヨも会話に介入する。

 倉庫の空気が、僅かに冷える。

 梓はゆっくりと息を吐いた。


「大丈夫だよ」


 その言葉はミキ達に向けた言葉なのか、自分に向けたものかは分からない。


「確かにいつも一人で覆い隠すことあるけど」


 視線を移動させながら、彼のことを思い出す。

 何かあると決まって一人で抱え込む。そして心配させまいと無理して笑顔をつくる。

 それでも梓は知っている。

 昔からそうなのだ。


「決まってちゃんと解決して、けろっとした顔で帰ってくるの」


 止まっていた手が動き始め、ミキとチヨは目線を合わせる。


「そういうの分かるものなの?」

「んー、勘かな?もう長い付き合いになるし」

 簡単に答える。


「それにあの状態になると、何言っても聞く耳持たないからさ」


「おぅ、もはや幼馴染というか正妻の余裕ってやつだね」

チヨがふふと呟き、それに重ねるようにミキが続ける。

「こんな典型的な幼馴染タイプ、貴重だね、全く」


「そんなんじゃないよ!……それに、今の冬夜にはやることがあるみたいだし」


「やること?」

 ミキとチヨからの目線が梓に向けられる。


「うん、今は迷ってるのかな。でもちゃんと自分で答えを探してる」


「心配じゃない?」


 梓の顔を覗くようにミキが首を傾げる。


「……心配だよ」

 正直に心情を吐露する。

 胸の奥がぎゅっと閉まる感覚。

「でも、待っててくれって言われたから」


 だから待つ。それだけだ。

 ミキはしばらく梓を見つめそれからふっと笑った。


「梓ちゃんさ」

「ん?」


「奥村くんのこと凄く大切なんだね」


 不意打ちだった。


 何か見透かしたミキと視線が合う。

「………っ」頷くことも否定することもない。


 顔が一気に熱くなる。

 誤魔化そうと口を開きかけるが、言葉がそこから出ることはない。


「照れちゃって可愛い〜」

 嘲るように頬を緩ませて肩を擦り寄らせてくるミキ。


「ちょ、や、やめてってばあ」

 頭から煙が出てしまうほど彼女の体は暖かくなっていた。

 そしてミキは満足そうな顔ををして笑う。


「この様子なら大丈夫だね」

「え?」


「ふふん、待っている人がいるのなら、男の子ってちゃんと帰ってくるもんだよ」


 その言葉に、梓は細めていた目をしっかりと見開く。

 窓の外は夕焼けの明りが差し込む。倉庫一帯がオレンジに染まっていく。

 ゆっくりと時間がかかっているように思える。


「結婚式は呼んでね?」

 と間を割ってチヨが入ってくる。

 その人とで三人の笑い声が倉庫の外まで響いていた。


 少し呼吸を整える。


(待ってるからね)


 心の中でそっと呟く。


 迷ってもいい。

 遠回りしてしまっても構わない。


 でも。


 帰って来てほしいと、そう願うばかりだった。

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