第八話:家族 -A Found Family-
ヴェルトールは村長の家の前に立ち、一歩踏み出すのを躊躇した。
昼間感じた胸騒ぎが、この静まり返った闇の中で、確かな重みとなって胸にのしかかる。
彼は深く息を吸い込み、一呼吸置いてから、ゆっくりと扉をノックした。
コンコンコン。
ノックの音が、静寂な村の夜に、少しだけ大きく響く。
ほどなくして、扉が軋むような音を立てて開き、村長が顔を覗かせた。
「おぉ、こんな夜中に呼び出してすまないな、ヴェル」
「ううん、大丈夫。それより話って言うのは……」
ヴェルトールが言葉を切り出そうとするのを遮り、村長は家の中へと促した。
「まぁ、ここで立ち話をするのもなんじゃ。さ、中に入りなさい」
「う、うん。お邪魔します……」
村長の家の私室で、二人は古いテーブルを挟んで向かい合わせに座った。
ランプの灯りがゆらゆらと揺れ、壁に二人の大きな影を揺らめかせている。
その沈黙は、何かが起こる前の静けさのように重かった。
「……それで、話って」
ヴェルトールが耐えきれずにそう切り出すと、村長は目を閉じ、何かを振り払うように頭を振った。
「うむ……」
老人の喉がゴクリと鳴り、意を決して、ゆっくりと重い口を開いた。
「ヴェルよ……。もう、これしか道が残されておらんのじゃ。どうか、落ち着いて聞いて欲しい……」
ヴェルトールは知らず知らずのうちに、生唾を飲み込んでいた。
「……シエナを連れて、この村から出て行くんじゃ」
「……っ!」
村長が発した言葉は、ヴェルトールが想像していたどの可能性よりも過酷で、現実味がなかった。
ガタッ!
椅子がけたたましい音を立てて倒れ、彼は勢いよく立ち上がった。
(何を言ってるんだ?なぜだ?)
彼の頭の中は真っ白になり、村長が何を言っているのか、一瞬理解が追いつかなかった。
「ど、どういうことだよ!」
ヴェルトールは拳を強く握りしめ、混乱と怒りが入り混じった表情で思わず大きな声を上げた。
「……やっぱり、黒の森に行ったことなのか?それが原因ならシエナは関係ないだろ!?罰なら俺が一人で受ける!」
感情のままにまくし立てる彼に、村長は優しく、そして冷静になだめた。
「あぁ、すまない。わしの言い方が悪かったの。どうか勘違いせんで聞いてくれ」
その言葉を受けて、ヴェルトールは倒した椅子を元に戻し、荒い息を吐きながら再び席に座った。
「……確かに黒の森に行った事に由来するのじゃが、それに対しての罰だとか、そういう話ではないんじゃ」
「じゃあどうしてっ!?」
罰ではない。
その事実に、彼の疑問はさらに深まる。
「……うむ、実はな……」
村長はそこで言葉を区切り、ランプの揺らめく光の中で、真実の重さを噛み締めるようにゆっくりと重い口を開いた。
「あの時、お前がいなくなった後――」
少し、時を遡る……。
ヴェルトールが黒の森へと向かった直後のことだった。
「なんですか!あの青年は!?余りにも不敬が過ぎますよ!!」
神官は顔を真っ赤にして、興奮したように怒声を上げている。
その瞳は、教会の権威を嘲笑されたことへの純粋な怒りに燃えていた。
「申し訳ない。しかし、無鉄砲な所はありますが、根は善良で、正義感の強い子なんですじゃ。どうか大目に見てやっては下さらんか」
村長は神官の怒りを収めようとなだめる。
「いいえ、そうは参りません!」
神官は村長の言葉を激しく遮った。
「あの様子ですと、きっと黒の森に向かったに違いありません!神々の封印の地に、許可のない者が踏み入るなど、前代未聞の不敬行為!このまま放置するわけにはいかぬでしょう!」」
「それは……」
村長もそれを否定することはできなかった。
「これは由々しき事態なのですよ!こうなったら神殿騎士を招集しなければ!」
神官は興奮のあまり、泡を飛ばしながら威圧的に言い放った。
「そんな……何を仰いますか!ヴェルの村を想っての行動ですじゃ。なぜ、神殿騎士などと…!」
事態が一気に最悪の方向に飛躍し、村長は顔を青ざめさせた。
神殿騎士とは、教会の「秩序」を司る最強の武力。その介入がもたらす災厄を容易に想像できたからだ。
「そちらこそ何を仰る!」
神官は、その狂信的な正義感を露わにする。
「秩序を正すのは教会の義務です!ましてや神官であるこの私の言葉を軽んじた以上、神殿騎士の力を以って拘束し、中央教会にて罰を受けさせなければなりません!」
「そ、そんな……!ば、罰ならわしが受けますじゃ!ですからどうか、ヴェルのことは……!」
村長は老いた身体を床に投げ出し、神官の足首に縋りついた。
だが、神官はそんな村長を汚いものでも見るように蔑むような眼で冷たく見下ろした。
「……ご老体」
屈みこむと、冷たい息遣いと共に耳元で囁く。
「あなたでは、罰を最後まで受けることなどできませんよ」
「……それに彼はさっきこう言いましたよね?『罰ぐらい受けてやるよ』。とね」
その言葉は、ヴェルトールの覚悟を冷酷に断罪する刃となった。
そして神官は立ち上がり、その身を翻す。
「とにかく!私が戻るまでに彼が帰ってきたときは、村から出さぬようにお願いしますよ」
「さ、最後って……ヴェルに一体、何をするつもりなんじゃ……」
村長の力が抜け、地面にドサリと崩れ落ちた。
「然るべき罰ですよ…」
そう言葉を残して、神官は村を去って行った……。
そして時は戻る……。
ランプの揺らめく村長の私室。
「……ということがあってな」
村長はそこで言葉を区切り、疲労が混じったため息をついた。
「そんな……」
自分の招いた結果に、ヴェルトールは愕然とした。
「……罰ぐらい。でも、確かに俺はそう言った。だったら俺、罰を受けなきゃいけないんじゃ……」
彼は諦めと覚悟を込めて呟く。
「ならん!」
突然、村長は今までにないほどの大きな声を上げた。
「……あの神官の様子では、ただでは済むまい。下手をすれば……」
村長は言葉を詰まらせた後、こう続けた。
「それに……お前が連れて行かれたら、誰がシエナを守るんじゃ!」
「……!それは……」
彼は言葉を失った。
最愛の妹であるシエナの安全を前にして、彼の抵抗の意思は完全に砕かれた。
「……それにな。勝手に話を進めて悪いとも思うたが、村の皆で相談して決めたんじゃ」
村長はヴェルトールの目を真っ直ぐに見つめ、告げた。
「お前は黒の森から『帰って来なかった』ことにする。……そして、神殿騎士が来る前に、シエナと共に村から逃がそうとな」
「そ、そんな!それじゃあ村のみんなに迷惑が……!」
ヴェルトールが身を乗り出して抗議する。
だが、村長はそんな彼の言葉を遮るように、穏やかに首を振った。
「ヴェルよ、誰も迷惑などとは思っておらん」
「……だって!」
「村の皆にとってお前たちは大切な家族なんじゃ。……家族を守るのに迷惑も何もないんじゃよ」
ランプの灯りに照らされた村長の顔は優しく、温かかった。
「村長……」
その言葉が、ヴェルトールの胸に深く、熱く突き刺さる。
視界が歪み、堪えきれなくなった熱いものが頬を伝った。
「……ごめんなさい。でも、ありがとう……」
彼は溢れる涙を拭うこともせず、震える声で感謝を絞り出した。
この村に生まれてよかった。心からそう思った。
「いいんじゃ、我々はどうとでもなる」
村長は優しく、しかし迷いのない強い口調で断言した。
「……それよりも、じゃ。恐らく神官が騎士を連れて戻るまでには、まだ二、三日はかかるじゃろう」
「二、三日……」
「うむ。お前たちはそれまでに旅支度を整え、この村を出るんじゃ」
具体的な期限を突きつけられ、ヴェルトールの顔が強張る。
「でも……逃げるって言っても、一体どこに行けば……」
彼は袖で涙を拭いながら尋ねた。
すると、村長はおもむろに立ち上がり、部屋の隅にある古びた棚へと向かった。
ゴソゴソ……。
荷物を探る音が静寂に響く。
やがて彼が取り出したのは、変色した一枚の古びた地図だった。
「行き先については、わしに考えがある」
村長はテーブルの上にバサリと地図を広げ、力強く告げた。
「だから、安心せい」
村長の指が、変色した地図の一点を指し示した。
「……ここじゃ。ちと遠いがな。……まず、この村からずっと西に行くと『ポルナ』という港町がある」
彼の指は、グリモ村から西へ、街道をなぞるようにゆっくりと動いていく。
「そこから船に乗り、まずは海を渡って対岸の港町『ザレン』に向かうのじゃ。……そして」
指先はさらに西へ。
国境線を越え、未知の領域へと進む。
「ザレンに着いたら、そこからさらに西にある獣人の国『ガラルドルフ』を目指せ。すると国境の関所を越えてすぐの所に、『エルシル』という街がある」
村長はそこで指を止め、目的地をトンッ、と力強く叩いた。
「……そこに、昔わしが世話をしてやった『アリス』という獣人の女性が住んでおる」
「獣人の、アリス……」
「うむ。わしが彼女宛に手紙を書く。それを持って、アリスを頼れ。彼女なら……必ずやお前たちの力になってくれるはずじゃ」
村長は地図から顔を上げ、確信に満ちた眼差しでヴェルトールを見つめた。
その瞳には、アリスという人物への信頼が宿っていた。
ヴェルトールが地図で順路を確認していると、ふと村長が思い出したように尋ねてきた。
「……そう言えば。一緒におったあの娘は、連れて行くのか?」
「あぁ、あの子は……」
ヴェルトールが説明しようと口を開きかけた、その瞬間。
「あぁ!彼女の素性は話さんでくれ!」
村長は手をかざし、慌ててその言葉を遮った。
「……気にはなるが、下手に隠し事が増えると、誤魔化す時にボロが出てしまいそうじゃからの!」
彼は悪戯っぽく片目をつぶり、ほっほっと楽しげに笑った。
その「知ろうとしない優しさ」に、ヴェルトールの胸が詰まる。
「村長……っ、ありがとう!」
感謝の言葉など、いくら並べても足りない。
彼は溢れる感情を押し殺し、深く、深く頭を下げた。
「……なぁに、礼には及ばんよ」
村長は目を細め、目の前の青年の頭を見つめる。
「わしは子宝には恵まれなんだが……さっきも言った通り、村の皆は家族。わしにとっちゃ、お前たちは本当の孫みたいなもんじゃ」
「……!」
「これくらいのこと……たまにはおじいちゃんの真似事ぐらいさせてくれ」
ランプの灯りに照らされたその笑顔は、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちていた。
村長の家を出たヴェルトールは、扉の前で立ち止まると、もう一度だけ深々と頭を下げた。
外には、いつもと変わらない優しい夜風が吹いていた。
頬を撫でるその風に、胸を締め付けられるような寂しさを感じながら、彼は歩き出す。
振り返らない。その先には、守るべき二人の家族が待つ家があるのだから。
村長はその背中が夜の闇に溶けて見えなくなるまで、いつまでも優しく見守り続けていた。




