第七話:帰還 -Homecoming-
前回に引き続き、今回も一挙に二話分の公開にしました!
会話がメインの比較的動きが少ないお話にはなりますが、キャラクターのやりとりを楽しんでいただければ幸いです!
二人が深い眠りについてから、どれほどの時が流れただろうか。木々の隙間から差し込む陽光は、すでに頭上高くから降り注いでいた。
―ガバッ!
「しまった!寝過ごした!!」
ヴェルトールは跳ね起きるように上半身を起こし、慌てて空を見上げた。
「騒がしい奴じゃの。さほど時間は経っておらぬぞ」
焦る彼の背後から、涼やかな声が掛かる。振り返ると、イヴリスは既に目を覚ましており、例の石碑の破片に優雅に腰掛けながら、呆れたように彼を見下ろしていた。
「……あ、そっか」
彼は寝ぼけた頭を振って現状を再確認すると、改めて彼女に向き直り、ニッと笑った。
「おはよう、イヴリス!」
「……!」
彼女は一瞬きょとんとして目を丸くしたが、すぐにバツが悪そうに視線を逸らした。
「……う、うむ。おは…よう」
彼女は少し頬を染め、ボソリと小さな声で返す。その言葉の響きは、彼女にとって数千年ぶりの、くすぐったい温もりを帯びていた。
「よし!体も大丈夫そうだ!さぁ、村へ帰ろう!」
ヴェルトールは軽く屈伸をして調子を確かめると、気合を入れるようにパンッと両手で頬を叩いた。
「ふむ。……では、行け。また何かあればここに来るがよい。気が向けば手を貸してやろう」
イヴリスは石碑に腰掛けたまま、興味なさげに見送ろうとする。
「は?何言ってるんだよ、一緒に行くぞ!」
彼はきょとんとした顔で振り返ると、さも当然のように彼女の目の前に手を差し出した。
「……何?」
予想外すぎる言葉と行動に、イヴリスの思考が停止する。
真紅の瞳が大きく見開かれ、その顔には邪竜としての威厳など微塵もない、年相応の少女のような戸惑いの色が浮かんでいた。
「こんな所に小さな女の子を一人で置いて行けるわけないだろ?」
ヴェルトールは呆れたように、さも当然の理屈として言い放った。
「それに、イヴリスは俺の命の恩人だからな!恩人を森に放置なんてしたら、バチが当たるって!」
「た、たわけ!じゃからこれは仮の姿じゃと言っておろうが!中身は邪竜じゃぞ!?」
イヴリスは顔を赤くして、ぷいっと横を向いて腕組みをする。だが、彼にそんな理屈は通用しなかった。
「わかったわかった!まぁ中身がなんだっていいじゃないか!さぁ、行こう!」
「なっ、おのれ人の話を――うわっ!?」
彼は差し出した手をさらに伸ばすと、遠慮なく彼女の細い腕を掴み、ぐいっと強引に引っ張り上げた。
――こやつ、一体どういうつもりじゃ?我が邪竜と分かっておるのか?
呆気に取られるイヴリス。だが、掴まれた手から伝わる体温は、驚くほど力強く、そして温かかった。
――……しかしまぁ……久方ぶりの人里、か……。
彼女は観念したように息を吐く。悪い気はしなかった。
「はぁ……。仕方ないのぉ」
イヴリスは文句を言いながら、ぽんぽんと漆黒のスカートについた草を払う。その拍子に、ふわりと夜の闇に咲く花のような、ほのかに甘い香りがヴェルトールの鼻をくすぐった。
「よし、それじゃあ出発だ!」
「まったく、せわしない奴じゃ」
朝の陽光が差し込む森の中。一人の青年と、不機嫌そうな、しかし少し楽しげな少女は、並んでグリモ村に向けて歩き出した。
帰りの道中は、嘘のように平穏だった。
森を抜け、街道を歩き、さらに日が傾いて空が美しい茜色に染まる頃……
「見えた!グリモ村だ!」
ヴェルトールが安堵と喜びを滲ませて声を上げた。
視線の先に、懐かしい家々の明かりが灯り始めている。
「ほぅ……。あれがおぬしの住んでおる村か」
彼の背中から、ひょこっと小さな顔が覗いた。
イヴリスは背伸びをするようにして村を眺め、真紅の瞳を瞬かせている。その横顔は、数千年ぶりに目にする人間の営みに、隠しきれない好奇心でワクワクしているようだった。
「……ふふっ」
その様子があまりに子供らしくて、ヴェルトールは自然と笑みを零す。
「よし、じゃあ帰るぞ!」
二人は茜色に伸びる長い影を並べ、待つ人のいる我が家へと足を速めた。
~グリモ村~
入り口をくぐると、そこにはあの日の騒動が嘘のような、穏やかな夕暮れの景色が広がっていた。
村を見渡すヴェルトールの背後に隠れるようにして、イヴリスは興味津々といった様子でキョロキョロと視線を巡らせながらついてくる。
視線の先には、農作業を終えて鍬を片付けるブランおじさんの背中。澄んだ水に戻った井戸を囲んで、夕飯の献立でも話しているであろうおばさんたちの笑い声。そして、「待てー!」と元気に走り回る子供たちの影。
「良かった……。本当になんともなさそうだ……」
ヴェルトールは大きく息を吸い込む。肺に満ちるのは、森の腐った空気ではなく、風に漂う干し草と土の香り。少し村を空けただけなのに、その匂いが涙が出るほど懐かしく感じられた。
その時だった。
「お兄ちゃん……っ!」
震えるような声が響いた。
ヴェルトールが振り向くと、道の向こうでシエナが立ち尽くしていた。その大きな瞳には、今にも溢れ出しそうな涙がいっぱいに溜まっている。
「シエナ!ただいま!」
彼が優しく微笑み、迎えるように両手を広げた、その瞬間――。
「お兄ちゃん、おかえりなさい……!!」
シエナは堰を切ったように駆け出し、迷わず彼の胸へと飛び込んだ。
「ごめんな、遅くなって。もう大丈夫だ」
彼は胸の中で泣きじゃくる小さな背中を、愛おしそうに撫でる。それを、後ろから興味深そうに見つめる視線があった。
――ふむ。この娘は……。
イヴリスは、ヴェルトールに抱きつく少女の純白の髪と、あどけない顔立ちをまじまじと観察する。そして、自分の手足を見比べるようにして、得心がいったように頷いた。
――なるほど。あの封印解除の折、こやつの脳裏に浮かんでおった「元となる人間」とは……この妹の事であったか。
「心配かけてごめんな……」
ヴェルトールは腕の中の小さな温もりを確かめるように、愛おしげに彼女の頭を撫でた。
「ううん、大丈夫……大丈夫だよ」
シエナは彼の胸に顔を埋めたまま、ブンブンと首を横に振る。その声は涙でくぐもり、少し震えていた。
気丈に振る舞おうとしてはいるが、ヴェルトールの服をギュッと掴んで離さない指先が、彼女の抱えていた不安がいかに大きかったかを物語っていた。
夕暮れの優しい風が、再会を祝うように二人を包み込む。
ようやく涙が止まったシエナの目元を、ヴェルトールは指で優しく拭う。
落ち着きを取り戻した彼女は、ふと兄の背後に佇む「異質な存在」に気づいた。
「……お兄ちゃん。その子、だぁれ?」
シエナはキョトンとして、自分と同じくらいの背丈の少女――イヴリスを見つめた。
「あ……」
ヴェルトールの動きが完全に凍りつく。
――しまった!こいつの紹介を今の今まで考えてなかった!!
脳内で思考が高速回転する。
――正直に言うか?『ああ、紹介するよ。こいつは封印されていた世界を滅ぼす邪竜イヴリスで、俺と契約したんだ』
――……いやいやいや!言えるわけないだろ!そんなこと言ったらシエナが卒倒してしまう!村も大混乱だ!
「……?」
答えに詰まって脂汗を流す兄を、シエナは不思議そうに小首を傾げて見上げている。その純粋な瞳が、今は何よりも痛い。
――どうする?なんて説明すればいい!?
「え~…っと、あ、あぁ!この子はイヴリス」
ヴェルトールは泳ぐ視線を無理やり固定し、苦し紛れの言い訳をひねり出した。
「森で迷子になってたから、連れてきたんだ!」
「なっ……迷子じゃと!?」
『迷子』という不名誉な扱いに、イヴリスがカッとなって声を荒らげる。
「たわけ!誰が迷子なものか!我は強大なる邪り――モガッ!?」
彼は音速の動きで、彼女の小さな口を両手で塞いだ。
「むーっ!むぐーっ!!」
「は、ははは!そうそう!兄弟とはぐれたらしいんだよ!」
ヴェルトールは暴れるイヴリスを羽交い締めにし、引きつった笑顔で強引に言葉を被せた。
「まだ小さいのに可哀想だろ?だから、家族が見つかるまで、とりあえずウチで面倒を見るってことになってな!あは、あははは!」
腕の中では、彼女が「離せ!無礼者!」と言わんばかりにポカポカとヴェルトールの腕を叩いているが、彼は必死に気づかないフリをした。
「そっかぁ……。大変だったんだね……」
ヴェルトールの嘘を微塵も疑わず、シエナは同情いっぱいの瞳でイヴリスの顔を覗き込んだ。
純粋すぎる善意に、さきほどまで暴れていたイヴリスがたじろぐ。
「な、なぬ……?」
「……そうだ!私とお友達になろう!私のことはシエナって呼んでね!」
シエナは花が咲いたような笑顔で提案すると、人差し指を顎に当てて考え始めた。
「う~ん……イヴリスだから……うん!『イヴちゃん』だね!」
「っ……!?」
破壊力抜群のネーミング。イヴリスは雷に打たれたように硬直し、わなわなと唇を震わせた。
「イ、イヴ……ちゃ……ッ!?」
言葉にならない悲鳴を上げ、彼女はその場で身悶える。
数千年の歴史の中で、誰がそんな命知らずな呼び方をしただろうか。
「……すまない。悪気はないんだ、合わせてあげてくれ……」
ヴェルトールは引きつった笑いで、こっそりとイヴリスに耳打ちした。
抵抗しても無駄だと悟ったのか、イヴリスはガクリとうなだれる。
「くぅ……。あろうことか、邪竜たる我が……人間の小娘如きに……」
「よろしくね、イヴちゃん!」
「……う、うむ……」
ニコニコと手を握ってくるシエナに、邪竜は為す術なく敗北したのだった。
すると、そこへ一人の老人が通りがかった。
「おぉ、ヴェル!戻っておったか!」
杖をつきながら歩み寄ってきたのは、村長だった。彼はヴェルトールの無事な姿を見ると、張り詰めていた糸が切れたように、ほう、と深く安堵の息を吐き出した。
「突然いなくなったから、皆で心配しておったんじゃぞ……」
説教じみた口調だが、その瞳は潤んでいる。
村長はそこでふと、ヴェルトールの背後――シエナの隣で不貞腐れている、見慣れない少女に視線を流した。
明らかに村の者ではない、異質で高貴な装い。
「…………」
その瞳が、一瞬だけ鋭く細められる。だが、彼は少女について何も尋ねなかった。
ただ、視線をヴェルトールに戻し、確認するように短く問うた。
「……やはり、黒の森へ?」
「……うん。勝手なことして、ごめんなさい」
子供のように小さくなって頭を下げる。禁足を破ったのだ、怒鳴られても仕方がない。
だが、返ってきたのは温かな許しの言葉だった。
「いや、構わんよ」
「え……?」
「……お前が無事なら、それが一番じゃ」
村長は少女の正体について深く追求することなく、シワだらけの顔をくしゃりとほころばせ、優しい祖父のような笑顔を向けた。
「しかし、ふむ……」
笑顔を見せていた村長だったが、不意に言葉を切り、白髭を撫でながら何かを考え込むように俯いた。 その顔に、先ほどまでの穏やかさはない。深刻な色が漂っている。
「村長?何かあったのか?」
急に重くなった空気に、ヴェルトールは不安を覚えて尋ねる。
「……あぁ、いや。そうじゃな」
村長は顔を上げると、何かを決意したような鋭い眼差しで彼を真っ直ぐに見据えた。
「ヴェルよ。……お前に、少し話しておかねばならんことがある。今夜、食事が済んだらわしの家に来なさい」
「え……あ、あぁ。わかったよ」
それだけ言うと、村長はどこか重い足取りで去っていった。
遠ざかるその背中を見送りながら、ヴェルトールは胸の奥がざわつくのを抑えきれなかった。
――なんだろう、この嫌な胸騒ぎは。
まるで、知ってはいけない扉が開かれようとしているような感覚。
平和な夕暮れの中で、彼だけが薄暗い予感を抱えながら、二人の少女と共に家路についた。
家の中へ上がると、シエナがぴょんぴょんと跳ねながらイヴリスの手を引いた。
「イヴちゃん! ここが私たちのお家だよ!」
「う、うむ……」
村に同年代の遊び相手がいなかったシエナは、イヴリスの存在を心から喜んでいるようだった。
イヴリスはたじろぎつつも、興味深そうにキョロキョロと室内を見回している。
「そう言えばイヴちゃんって、とっても綺麗なドレスを着てるよね!貴族のお嬢様なの?」
シエナは目を輝かせながら、この世界には存在しない複雑な意匠の衣装を指差した。
「ふん、何を言う。我は貴族などという下賤な存在ではない」
彼女がぶっきらぼうに答えた、その時だった。ヴェルトールの鋭い視線が、イヴリスを射抜いた。
――余計なことを言うな。お前はただの迷子だ。
殺気にも似た無言の圧力を受け、イヴリスの喉がヒュッと詰まる。
「う゛……そ、そう!我は商家の娘なのじゃ!身嗜みはキチンとせねばならぬからな!あ、あははは…」
ぎこちない笑いと共に、彼女は何とか体裁の整った嘘を吐き終える。
その言葉に、ヴェルトールは「それでよし」と言わんばかりに静かに頷いた。
「そうなんだぁ!」
シエナは屈託なく答えると、安心したように目を細める。
「迷子で心細いと思うけど、お兄ちゃんが手伝えばきっとすぐに家族が見つかるよ!」
夕焼けの光のように、優しく微笑むシエナの純粋な善意が、イヴリスの胸にチクリと刺さった。
「うむ……そうじゃな……」
どこか遠い目をして、彼女は寂しそうに答える。
永遠の孤独を知る邪竜にとって、シエナの無垢な優しさは、甘く、そして苦い薬だった。
「……あぁー!」
突然何かを思い出したように手を叩いた。
「お兄ちゃん!うち、ベッドが二つしかない!どうしよう!」
シエナは困ったような表情を浮かべ、ヴェルトールに言った。
「あぁそっか、とりあえず俺は床にでも寝るから、イヴリスは俺のベッドを使っててくれ」
「我は何でも構わぬぞ」
「ダメだよそんなの!」
だが、シエナはヴェルトールの言葉に頬をぷぅっと膨らませて猛反対する。
「床で寝たら疲れが取れないでしょ!お兄ちゃんが一番ちゃんとベッドで休まないと!」
「……あ、そうだ!」
困った表情をしていたシエナだったが、突然、何かをひらめいたように手を叩いた。
「イヴちゃん!私のベッドにおいでよ!一緒に寝よう!」
――はは~ん。
その満面の笑顔を見て、ヴェルトールは全てを察した。
彼は苦笑しつつ、妹の可愛らしい策略を見逃してやることにした。
「なな、何を言っておる!?」
彼女は顔を赤くし、思わず一歩後ずさる。
――邪竜たる我が、人間の小娘と……添い寝じゃと!?
「そっかー、確かにお前たち二人ぐらいなら、ベッドが一つでも問題なさそうだなー」
ヴェルトールはシエナの策略を見抜いた上で、意地の悪い笑みを浮かべながら公認した。
「くっ、下手な芝居を…!」
イヴリスが怒りに顔を赤くして彼を睨みつけた。
「お願い、イヴちゃん!」
そこへ、縋るような、純粋な目をしたシエナが彼女に迫る。
「ぐぬ……」
イヴリスは、何か言おうと口を開きかけたが、シエナに気圧されたように再び口を閉じた。
「はぁ……何でも構わぬと言ったのは我じゃ。好きにするがよい」
そう言いながら彼女が両手を挙げている、どうやら観念したようだ。
「やったー!」
くるくると回りながら喜ぶシエナを見て、ヴェルトールも優しい笑みを浮かべた。
「よし、じゃあ寝る場所が決まったところで、夕食の支度でもするか!」
こうして、温かな会話と笑い声が途切れることなく続く賑やかな食卓が始まった。
泥と汗と、数千年の孤独が混じった三人は、この小さな家の中で、以前よりもずっと温かい夕食を楽しんだ。
その後、日が落ち、外が静寂に包まれた頃……
「じゃあちょっと村長のところに行ってくるよ」
ヴェルトールがそう二人に伝えて立ち上がると、
「我も行…」
イヴリスも立ち上がろうとするが、シエナの素早い動きに言葉を遮られた。
「だ~め!」
彼女は腰に手を当てて、少し背伸びした態度でイヴリスを諭す。
「お兄ちゃんは村長さんと大事なお話があるの。イヴちゃんは私と、ここでお留守番だよ!」
「はぁ、仕方あるまい…。なれば我はシエナとここで待っておる、行ってくるがよい」
彼女は、もはや何を言ってもこの小さな女の子には通用しないと悟った様子で腕を組んだ。
「わ、悪いな、じゃあ行ってくるよ」
ヴェルトールは二人のやり取りに苦笑いを浮かべながら、そっと扉を開け外に出た。
空には星が輝き、草むらには虫の鳴き声が聞こえる。
少しの達成感と、この後の不安を感じながらヴェルトールは村長の家に向かった…。




