第五十二話:器 -The Over Magic-
舞い落ちた羊皮紙が床を埋め尽くす。
その光景に、その場にいる全員が言葉を失い、訓練場に鉛のような静寂が落ちた。
「……し、失敗……したのか……?」
ストリウスが、血の気の引いた顔でガクリと膝をつく。
錬金術師としての自信、そして国庫から捻出した莫大な予算。
それらが一瞬で弾け飛んだ事実に、彼は立ち上がることすらできない。
「これは、一体……」
レックスもまた、唖然とした表情で、雪のように散らばった羊皮紙を見つめるしかなかった。
――ば、馬鹿なっ!
イヴリスの瞳が激しく揺れる。
――術式が間違っていた?……いや、あり得ぬ。一枚ずつ確認しながらストリウスに渡したはずじゃ。我がミスをする道理がない……!
彼女は思考を高速で回転させ、原因を探る。
そして、震える空っぽの手を見つめる少女――ラビに視線をやった。
「あ……あ……」
ラビの唇がわなわなと震える。
皆が協力してくれた。王様に頼み込んでくれた。必死で作ってくれた。
その結晶を、自分が触れた瞬間に壊してしまった。
「ごめ、んなさ……わ、たし、また……」
罪悪感と恐怖で顔が蒼白になり、過呼吸を起こしそうになるラビ。
その時。
「と、とにかく!!羊皮紙を集めよう!!」
ヴェルトールが弾かれたように声を上げ、重苦しい空気を掻き回すように動き出した。
「燃えたわけじゃない!散らばっただけだ!集めて綴じ直せばきっと大丈夫だ!」
彼は床に膝をつき、必死の形相で一枚一枚、散らばった羊皮紙をかき集め始めた。
――頁の順番に問題があったか……?
イヴリスは腕を組み、必死に床を這い回って羊皮紙をかき集めるラビを目で追った。
――……いや、あり得ぬ。あの娘に限って、その様な失敗するとは思えぬ。第一、そうであれば、魔法は魔導書を介さず、単に放たれていたはずじゃ……。
あの瞬間、確かに光は魔導書に宿った。
手順は正しかったはずなのだ。ならば、なぜ。
「……これは」
その時、集めた羊皮紙の束を震える手で検分していたストリウスが、怪訝な声を上げた。
彼は眼鏡の位置を直し、信じられないものを見るように呟く。
「……焦げておらん。羊皮紙が一枚たりとも損なわれておらんぞ……?」
「……なんじゃと?」
イヴリスの眉がピクリと動く。
「貸してみよ」
彼女はストリウスから羊皮紙の束をひったくるように受け取ると、素早い手つきで一枚一枚を透かし見た。
――ふむ……。確かに、羊皮紙は無傷じゃ
イヴリスは透かし見ながら、思考を巡らせる。
――あれ程の衝撃があったにも関わらず、術式を刻んだ紙自体にはダメージがない。……であれば、術式そのものは正しく起動し、魔力も正常に流れたという事……。
不可解な現象。
彼女がその理由を探っていると、羊皮紙の端――本来綴じられていた穴の部分に、黒く炭化してへばりついている『焦げた糸』に目が留まった。
――これは!
彼女の瞳が鋭く細められる。
――インクに直接触れていないはずの『糸』の方が、負荷に耐え切れなかったというのか?
そこまで思案すると、彼女は顔を上げ、ストリウスに問うた。
「ストリウスよ。羊皮紙を綴じたこの糸……素材は何を使った?」
「え?あ、あぁ……。『魔蚕』の絹糸だ」
ストリウスは困惑しつつも即答する。
「その本のみならず、この王宮で扱う重要書物は、すべてそれを使うのが鉄則だからな。強度、魔力耐性ともに申し分ない最高級品だぞ?」
「……そうか」
イヴリスは短く呟くと、再び手元の残骸へと視線を落とし、深く考え込む。
――素材に問題はない……じゃが実際、この糸は完全に焼き切れておる。インクに触れてすらいないのにも関わらず、じゃ。
彼女の中で、バラバラだったピースがカチリと音を立てて嵌っていく。
――術式が発光していた事からも、魔力が正しく流れていたのは疑い様もない……。となると導き出される答えは……。
その時。イヴリスは何か重大な事実に気づいたかのように、ハッと顔を上げた。
――そうか!!難しく考える必要などなかった!よくよく考えてみれば、至極単純な話じゃ!
極端に少ない魔力総量。ありえぬ挙動の魔法。そして――耐えきれずに焼き切れた、最高級の綴じ糸。
――ククッ……。そういう事か……!
彼女の口元に、凶悪で不敵な笑みが浮かぶ。
だが同時に、その頬を冷たい汗が一筋、ツーッと伝い落ちた。
彼女は気づいてしまったのだ。この少女が秘めている力が、単なる「才能」などという言葉で片付けられる領域を、遥かに超えていることに。
「な、何か……分かったんですか……?」
突然黙り込み、冷や汗を流しながら笑うイヴリスの異様な様子に、ラビはおずおずと尋ねた。
怒られるのだろうか。それとも、もう無理だと宣告されるのだろうか。
「……あぁ。理解った」
イヴリスはゆっくりとラビの方へ体を向け、静かに口を開いた。
「と言っても、まだ憶測に過ぎぬ点は多々ある。……じゃが、それでも『確実に理解った事』が一つだけある」
「そ、それは一体……」
ストリウスが、祈るように呟く。
しん、と静まり返った訓練場。
その場にいる全員の視線がイヴリスの一点に集中し、ゴクリと喉を鳴らす音が響いた。
彼女の射抜くような視線を正面から受けているラビは、誰よりも顔を青ざめさせ、判決を待つ囚人のように身を硬くする。
イヴリスは一度目を細め、そして目を見開くと、ラビを指差して力強く断言した。
「それは……そなたが、人智を超えた膨大な魔力の持ち主であるという事じゃ……!」
その言葉に、再び訓練場を、今度は重苦しい沈黙ではなく、困惑に満ちた静寂が支配した。
「……あ、あの。言っている意味が、分かりません……」
ラビは眼鏡の縁に手をやり、助けを求めるように視線を泳がせる。
彼女のこれまでの人生経験が、それを真っ向から否定しているのだ。
「……矛盾しているな」
レックスも腕を組み、眉間に皺を寄せて問う。
「彼女は魔力が少ないために、これまで苦労し、不当な扱いを受けてきたはずでは……?現に、何度も魔力切れを起こしている」
「そうだよ!実際、たった数回の魔法でヘトヘトになって倒れちゃうラビを、俺たちはこの目で見てきたじゃないか!」
ヴェルトールも食い下がる。
慰めや希望的観測で言っているなら、それは残酷な嘘になる。
だが、イヴリスは三人からの疑義の視線を一身に浴び、むしろその状況を心底楽しむように、口の端をニヤリと吊り上げた。
「ククッ……。まぁ待て、そう急くでない」
彼女は勿体ぶって人差し指を立て、チッチッと振ってみせる。
「おぬしらの疑問も尤もじゃ。……だが、『現象』には必ず『理由』がある。これから我が、凡人共にも分かる様、懇切丁寧に説明してやる故……心して聞くがよい」
「結論に至った理由は、大きく分けて『三つ』ある」
イヴリスは三本の指を立て、学者気取りで語り始めた。
「正直なところ、我の推測と憶測を交えた話にはなるが……。まず一つ目は、そなたの魔法の『挙動』じゃ」
「挙動、ですか……?」
「うむ。そなたの魔法は、通常ではあり得ぬ不可解な挙動を取っておる。……まぁ、当の本人は気にも留めていない様子じゃったがな」
彼女は呆れたようにラビを一瞥し、続ける。
「通常、魔法というものは、多少の変動はあれど、魔法ごとに消費される魔力の量はほぼ一定と決まっておる。『火の玉』なら『火の玉』の、『癒やし』なら『癒やし』の相場があるのじゃ」
「は、はい」
「しかし、そこに意図的に魔力を多く練り込み、圧縮することで、さらに威力の高い上位の魔法へと『昇華』させる事ができる。……まぁ、ここまでは魔導士なら誰でも知っている基礎中の基礎なのじゃが――」
「……あ、悪い」
そこで、ヴェルトールがおずおずと、小さく手を挙げた。
「その……俺、魔導士じゃないからさ。その『基礎』の時点でよく分かってないんだけど……教えてもらってもいいか?」
「…………はぁ」
イヴリスは言葉を切り、天井を仰いで深々とため息をついた。
話の腰を折られたが、基礎を知らぬ者を置いてけぼりにするわけにもいかない。
「……よいか?ごく簡単に言うぞ。例えば、おぬしが『火』の魔法を使いたいとする」
イヴリスは講義のために、指先を軽く鳴らした。
―パチンッ
すると、蝋燭の火のような小さな可愛らしい『火の玉』が、ポッと虚空に浮かび上がる。
「この『火を生み出す』という根幹は同じじゃ。……そこに、どれだけの魔力量を注ぎ込むか、あるいはどう練り上げるかによって、放たれる魔法は千変万化する」
―ボッ!!
彼女が瞳を細めると、手元の小火が一気に膨れ上がり、人の頭ほどの大きさの『火球』へと巨大化した。
さらに、彼女が指先をクイクイと動かすと――。
―シュルルル……!
燃え盛る火球が圧縮され、鋭利で長大な『炎の槍』へと形を変えた。
「な、なるほど……」
ヴェルトールは、目の前で繰り広げられる変幻自在の芸当に、ゴクリと喉を鳴らす。
言葉にするのは簡単だが、これほどスムーズに、呼吸をするように形状を変化させるのが、いかに高度な技術であるかは素人目にも分かる。
「理解したか?」
彼の圧倒された顔を見て満足したのか、イヴリスはパッと手を握り、煙ひとつ残さず炎を霧散させた。
「……ところがじゃ。どういう訳かそなたは、その魔力を込めて『上位の魔法』に昇華させる事なく、そのまま『元の魔法』として放っておる様に見える」
イヴリスがそこまで言うと、ラビはおずおずと、自信なさげに小さく手を挙げた。
「そ、それは……つまり、どういうことなんでしょうか?」
「分からぬか?」
イヴリスは一歩近づき、ラビの顔を覗き込む。
「つまり……そなたは魔法の法則を無理矢理捻じ曲げるが如く、込められた魔力によって、その魔法そのものを『変質』させている様に**我には見える**、という事じゃ」
彼女は肩をすくめ、呆れたように首を振る。
「無論、その様な芸当ができるなど、この我ですら見た事も聞いた事もない。……じゃから最初に、推測と憶測を交えると言ったのじゃ」
未知の現象。 それは研究者としてのイヴリスを困惑させると同時に、強く惹きつけているようだ。
「……話は分かりました。ですが――」
そこで、腕を組んで聞いていたレックスが口を開く。
「その特異な魔法の性質と、彼女の『魔力の量』……一体どんな因果関係があると言うんだ?」
変な魔法を使うからといって、魔力が多いという証明にはならないはずだ。
その至極真っ当な疑問に対し、イヴリスはニヤリと笑みを浮かべた。
「……ククッ。よい質問じゃ」
「そこで、二つ目の理由に移るのじゃが……。正直、ここに関しては完全に我の『憶測』でしかない」
イヴリスは腕を組み、難しい顔で唸る。
「先に言った通り、魔法そのものを変質させるなぞ、通常ではあり得ぬ現象じゃ。……この娘がどうやってそれを成しているかまでは、今の我には解明できぬ」
「……?」
「じゃが、一つ考えられるのは……魔法を上位へと『昇華』させぬまま、それが崩壊・暴走する極限まで、魔力が注ぎ込まれているのではないか……という事じゃ」
「……待て。その理屈には飛躍がある」
レックスが鋭く切り込む。
「つまり、『変質しているから魔力が膨大だ』と言いたいのか?……だが、そもそも彼女が、少ない魔力で魔法を変質させる特殊な……そう、『特性』のようなものを持っているだけ……という可能性は考えられないのか?」
「あぁ、俺もそう思う」
ヴェルトールも頷き、ジト目でイヴリスを見る。
「それにさ。ここまでの話って、結局ほとんどイヴリスの『憶測』だろ?……なんでさっき、あんな自信満々に『確実に理解った』なんて断言したんだよ?」
状況証拠だけでは弱すぎる。
ヴェルトールの至極真っ当な指摘に、イヴリスはニヤリと口角を吊り上げた。
「ふむ、二人共よい着眼点じゃ。『特性』……我も一度その考えには至った。無論、その可能性はまだ否定できぬ」
イヴリスは頷き、レックスたちの鋭い指摘を肯定する。
「じゃが……『膨大な魔力を持っている』という一点に於いては、疑い様のない事実じゃ。……これが、その根拠となる」
彼女はそう言って、手のひらに乗せたものを皆の目の前に突き付けた。
それは、炭のように黒く焦げ付き、触れれば崩れ落ちそうなほど脆くなった、一本の「糸」の残骸だった。
「これは……魔導書を綴じるのに使っていた、『魔蚕』の絹糸……」
ストリウスが息をのむ。
「……そう。これこそが、三つ目の……そして『最後の理由』じゃ」
イヴリスは皆の困惑した表情を眺め、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「この糸は、十分な魔力耐性と強度がある最高級品だとストリウスも言っておったな?だが、見ての通りこの様だ」
彼女は指先でつまみ上げた残骸を、パラパラと灰にする。
「いや、そもそもじゃ。この糸はインクに直接触れてすらいない。単に、羊皮紙の端を束ねていた、本を綴じる為だけの糸に過ぎぬ」
彼女の声が、一段低くなる。
「本来、そこに魔力負荷などかからぬはずじゃ。……にも関わらず、この糸は一瞬で焼き切れ、炭化した」
「…………」
「……その意味が、分かるか?」
彼女が静かに問いかけると、皆は言葉を失い、ただ重い沈黙でそれに答えた。
「……つまり!そなたから溢れ出た膨大な魔力の奔流が、『物理的』に……この糸を焼き切ったのじゃよ!」
イヴリスは高らかに宣言した。
その言葉で、自分の手が引き起こした真実にラビは息をのみ、レックスとストリウスはその言葉の持つ意味の重さに、ゴクリと喉を鳴らした。
「え……?そ、それってそんなにすごいことなのか……?」
ヴェルトールだけが、事態の異常性を飲み込めず、ポカンと声を漏らす。
「……すごい、なんてものではない」
ストリウスが額に脂汗を浮かべ、震える声で解説を引き取った。
「よいか、ヴェルトール君。……本来、魔力というのは実体のない力だ。風や空気のように流れや勢いはあるが、仮にそれが原因だとすれば、単にその圧力に負けて糸が『プツンと切れる』だけで済むはずなのだ……」
彼はハンカチで汗を拭い、恐怖を誤魔化すように早口になる。
「だが、これは違う。……『燃えた』のだ」
「……つまり、物理的に焼き切れているっていうのは……?」
「……密度だ」
ヴェルトールの言葉を、レックスが重々しく引き継いだ。
「あまりに魔力の密度が高すぎたために、ただ流れるだけで大気や物質と激しく干渉し……『摩擦』を生み出したということだ」
レックスは驚愕を隠せないまま、炭化した糸を見つめる。
「魔法として発動する前の、ただの純粋な魔力が……物質を焼き尽くすほどの熱を持った。それも、魔蚕の糸すらも焼くほどのな。……まさに、人智を超えた所業だ」
「そ、そんなことが……」
ヴェルトールは皆の意見を聞き、ようやく事の重大さに追いついた。
つまり彼女は「少ない」のではない。「多すぎて壊れている」のだ。
「そ、それじゃあ!私の魔力がすぐに尽きてしまうのは一体……!」
ラビは縋るように、涙目でイヴリスに問う。
膨大な魔力があるなら、魔力切れなんて起きないはずではないか。
「……それについては、先程の憶測に戻る」
イヴリスは腕を組み、哀れむような、しかし興味深いものを見る目で告げた。
「恐らくそなたは……その膨大な魔力を、魔法が変質するまで『無自覚』に送り込み続けておるのじゃ。故に、通常ではあり得ぬ程の莫大な魔力を一撃で消耗し、すぐに底をつく……とな」
「無自覚に……?」
「うむ。極端に例えるのであれば……そなたは体内に『大海原』の如く膨大な魔力を持っておる」
彼女は右手で広い空間を示し、次に左手の親指と人差し指で僅かな隙間を作って見せた。
「対して、そなたが使いたい魔法は『スプーン一杯の水』程度じゃ。……じゃが、そなたの『水門』は壊れておる。スプーン一杯を汲みたいだけなのに、何故か大海原の奔流を全て、無理矢理そこに注ぎ込もうとしておるのじゃ」
彼女は眉をひそめ、やれやれと肩をすくめる。
「結果、スプーンは圧力で変形し、溢れた水は周囲を破壊し……そなたの水源は一瞬で干上がる。……といった具合じゃな」
「そ、そんな……」
あまりに理不尽な欠陥。
「じゃあ……一体どうすれば……」
ラビは自分でも制御できない、呪いのようなその事実に膝から崩れ落ち、力なくその場にへたり込んだ。
「何を言うておる。……魔力量が多かろうが少なかろうが、触媒が完成すればある程度は解決できる。そなた自身が制御できぬのであれば、道具に制御させればよいだけの話じゃ」
イヴリスは腕を組み、さも当たり前のことのように淡々と言い放った。
「……制御?」
ラビはその言葉にハッと顔を上げる。
絶望に沈んでいた瞳の奥に、一筋の光が射したかのように、鮮やかな希望の色が戻る。
「え……。触媒って、少ない魔力で魔法を使えるようにする道具じゃないのか?」
ヴェルトールが驚いた様子で尋ねると、イヴリスは「はぁ……」とわざとらしく大きなため息をつき、やれやれと肩をすくめた。
「鳥頭め。……最初に言ったはずじゃ。触媒は魔法を『最適化』させる……とな」
彼女は人差し指を立て、ビシッと空を指す。
「よいか?最適化とは、単なる増幅ではない。……そなたの様に魔力が暴走する者は、その力を『許容量内』に制限し、逆に魔力が少ない者は、その力を『効率よく』収束させる!」
彼女はニヤリと不敵に笑い、結論づける。
「過剰な者は削ぎ落とし、足らぬ者は補う。……遍く魔法を在るべき形に整える事。それこそが触媒の持つ本来の力――『最適化』じゃ!」




