第四十九話:重なる兆し -A Glimmer of Hope-
「……さて。あとはこれを火にかけ、魔力を流し込みながら均一に混ぜ合わせれば完成じゃな……」
ストリウスは額に汗を滲ませ、青黒く変色した液体を慎重にビーカーから鍋へと移した。
ここからは時間と魔力制御との勝負だ。工房にピリッとした緊張が走る。
「うむ。くれぐれも魔力の調節は慎重に頼むぞ。失敗は許されぬからのぅ」
イヴリスは腕を組み、鋭い指示を飛ばす。
だが、その背後には、恨めしげな視線が突き刺さっていた。
「…………」
ラビだ。
彼女は先程の騙し討ちがよほど許せないのか、絆創膏を貼られた指先を大事そうに押さえ、頬をリスのようにパンパンに膨らませてイヴリスを睨んでいる。
「……なんじゃ。まだ不貞腐れておるのか?」
視線に気づいたイヴリスが振り返り、呆れたように言う。
「必要な儀式じゃったろう?それに、さして痛くもなかったであろうに」
「痛いとか痛くないとか、そういう問題じゃありませんっ!」
ラビは食い気味に反論し、潤んだ瞳で訴える。
「私が怒っているのは……信じてた先生に、心を弄ばれたのが許せないんです!」
彼女はフ腕を組み、プイッと露骨に首を横に向けてしまった。
その姿は、「もう口をきいてあげません」と拗ねる子供そのものだった。
「はぁ……。じゃがああでもせねば、そなたは抵抗し続けたであろう?」
イヴリスは正論を説くが、ラビは聞く耳を持たない。
「……つーん」
彼女は露骨に顔を背け、実に分かりやすい拒絶のポーズをとった。
「いや、『つーん』て……。子供かそなたは……」
呆れるのを通り越し、顔を引きつらせるイヴリス。
だが、拗ねた弟子を放置するわけにもいかない。彼女は観念したようにため息をついた。
「分かった、分かったわ!……はぁ。なれば、そなたに『よいもの』をやる。それで機嫌を直せ。な?」
「……よいもの?」
その単語に、ラビの長い睫毛がピクリと反応し、チラリと視線だけが戻ってくる。
食いついた。イヴリスはドレスのポケットをごそごそと探り、勿体ぶって拳を差し出した。
「これじゃ」
開かれた手のひらの上には――虹色に輝く、小さな巻き貝の殻が乗っていた。
「……これは?」
「ポルナの浜辺で拾ったものじゃ。……光の加減で色が変わる。なかなか美しいであろう?」
彼女は自分の秘蔵コレクションを見せびらかすように、ふふんと自慢げに胸を張る。
「……私に、くれるんですか?」
ラビは目を丸くして尋ねる。イヴリスは「仕方ないからくれてやる」といった風情で、無言で顎をしゃくった。
「……!ありがとうございます!大事にしますね!」
宝石でもない、ただの貝殻。
だがラビは、それを宝物のように両手で受け取ると、さっきまでの不機嫌が嘘のように、パァッと満面の笑みを咲かせた。
「……はぁ。……面倒な弟子じゃのぅ」
イヴリスは背を向け、聞こえないように小声でぼやく。
だが、その口元は穏やかに緩んでいた。
折よく、作業台の向こうからストリウスの震える声が上がった。
「で、できた……。完成、したぞ……!」
その言葉に弾かれたように、一行は彼の元へと集まる。
ストリウスは震える手で鍋を持ち上げ、完成した液体を一滴も漏らさぬよう、慎重に硝子のインク瓶へと流し込んだ。
「…………」
全員が息を呑む。
瓶の中に満ちた液体は、吸い込まれるような深い群青色。
その中で、無数の銀色の微粒子が生きているかのように瞬き、対流している。
「わぁ……」
それはまるで、あの航海で見た満天の夜空を、そのまま小さな瓶の中に閉じ込めたようだった。
「ふん。上出来じゃ」
その幻想的な輝きに、イヴリスは満足げに口元を緩める。
「これは……なんと美しい……」
レックスは、その人智を超えた輝きに目を細め、感嘆の声を漏らした。
ただの液体ではない、強大な力が宿っていることが肌で分かる。
「本当に、綺麗だな……。瓶の中だけ、星空みたいに見えるよ」
ヴェルトールもまた、硝子越しの夜空に素直な感動を覚えていた。
そして、誰よりも衝撃を受けていたのは、作り手であるストリウス自身だった。
「こんな色のインクは……見たことも聞いたこともない」
彼は瓶を透かし見て、信じられないものを見るように呟く。
「まさか、本当に……こんな代物が、現実に存在するとは……」
それは、彼の錬金術師としての常識が音を立てて崩れ去り、新たな地平が開かれた瞬間だった。
「ふん、腰を抜かすにはまだ早いぞ」
イヴリスは自信たっぷりに鼻を鳴らすと、作業台にあった羽根ペンを取り、インクをひと浸しして、手近な紙切れにサラサラと一本の直線を引いた。
「ストリウスよ。そこに魔力を少し流してみよ」
「む?こうか……?」
ストリウスは言われるがまま、紙の上の線に指を当て、慎重に魔力を注ぎ込む。
――だが。何も起きない。ただの濡れたインクの線がそこにあるだけだ。
「……何も起きんが?失敗か?」
彼が怪訝な顔でイヴリスを見ると、彼女はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて交代を命じた。
「くくっ。……では、ラビよ。そなたが流してみよ」
「は、はい……」
選手交代。ラビは緊張した面持ちで指を添え、恐る恐る、ほんのわずかな魔力を流し込んだ。
その刹那。
―パァァ
インクが、まるで主を認めるかのように脈動した。
「あっ……!?」
先程まで沈黙を保っていた群青色の液体が、熱を帯びて星屑を煮詰めたように激しく沸き上がり、眩い白金色の光を放ち始めたのだ。
紙の上に描かれた、たった一本の線。
そこから溢れ出した光は、夜空の深い闇を一瞬で塗り替える太陽のように、薄暗い工房を照らし出した。
「ホーゥ!こ、これは……!!」
ストリウスは、その人智を超えた光景――使用者を限定し、爆発的な輝きを放つインクの性能に、驚愕の声を上げた。
だが、輝きは刹那だった。
―ジュッ!!!
「あ……」
光が極点に達した瞬間、紙が音を立てて白く弾け、一瞬にして塵となって空中に霧散してしまったのだ。
「なっ!?も、燃え尽きてしもうたぞ!?」
残ったのは煤だけ。
ストリウスは狼狽し、失敗かと困惑してイヴリスに視線を向けた。
だが、彼女は涼しい顔で、宙を舞う灰を指先で払った。
「……これこそが、『羊皮紙』でなくてはならぬ理由じゃ」
「なんと……」
「見たであろう?たかが一本の線……ほんの微量の魔力を通しただけでこの有り様じゃ。ただの紙切れでは、インクの力に耐えきれず、器の方が崩壊する」
彼女は真剣な眼差しで、錬金術師を見据えた。
「これに、さらに複雑な『術式』を書き込むとどうなるか……。想像に難くなかろう?」
その時。
熱気に包まれた研究室の空気を裂くように、扉が叩かれた。
――コン、コン、コン!!
「ぬぅ……!この大事な時に、誰じゃ!!」
ストリウスは興奮が最高潮に達したところを水を差され、羽毛を逆立てて苛立ちを露わにする。
だが、扉の向こうから響いたのは、切迫した衛兵の声だった。
「失礼致します!陛下から、レックス様と客人の皆様をお呼びするようにと仰せつかって参りました!」
「む?」
「急ぎ、謁見の間へとお戻りいただきたく……!」
「……宝物庫の件か。仕事が早いな」
レックスは頷き、名残惜しそうな錬金術師に向き直る。
「ストリウス殿には申し訳ないが、呼び出しだ。一旦陛下の元へ戻ろう」
「……ふむ。陛下がお呼びならば致し方あるまい」
ストリウスは残念そうに肩をすくめるが、すぐにその視線を怪しく輝くインク瓶へと戻した。
「では、ワシはその間に……このインクをじっくりと調べさせてもらうとしようか……」
彼は既に、新たな研究対象への興味で頭がいっぱいのようだ。
ヴェルトールたちは一礼すると、足早に研究室を後にした。
~謁見の間~
バンッ!と扉が開き、ヴェルトールたちが転がり込むように戻ってきた。
「お、お待たせして、すいません……!」
ヴェルトールは膝に手をつき、滝のような汗を流して荒い息を整える。
王の召喚とあって、廊下を全力疾走してきたのだ。
しかし、玉座に座るフェリシアは、その必死な様子が面白かったのか、クスクスと楽しげに笑った。
「ふふ、大丈夫よ。そんなに急がなくてもよかったのに」
「そ、そうですか……よかった……」
「あ、あの……!」
ラビが一歩前に出る。息は上がっているが、その瞳は切実だ。
「ほ、宝物庫の件は……どうなったのでしょうか……?」
許可は降りたのか。それとも却下されたのか。
不安に震える彼女に対し、フェリシアはニッコリと笑い、肩をすくめてみせた。
「……残念ながら、却下よ」
「えっ……」
「議会の**『お堅い連中』**がうるさくてね。『どこの馬の骨とも知れぬ余所者を、国の宝物庫に入れるなど言語道断!』……だってさ」
彼女は「やれやれ」と手を振る。
ラビの顔色が絶望に染まりかけた、その時。
「だ・か・ら。……『現物』の方を、此処に持ってこさせることで話をつけたわ」
「え?」
彼女は悪戯っぽくウインクすると、脇に控えていたロルフにスッと目配せを送った。
「ロルフ。……例のものを」
彼は恭しく一礼すると、上質なベルベットの布が掛けられたワゴンを、音もなく一行の前に運んできた。
「ここに、そのアルセルが……」
ラビはゴクリと喉を鳴らし、祈るように胸元で手を組む。
ロルフが静かに布を取り払うと、そこには――。
「……あぁ」
銀細工の台座に嵌め込まれた、大粒の宝石をあしらった美しいペンダントが鎮座していた。
だが、その石はかつての輝きを完全に失い、白く濁ってひび割れ、沈黙している。
「これが、陛下を救ったアルセル……」
レックスが感嘆の声を漏らす。
ヴェルトール、ラビ、レックス。三人がその「物言わぬ英雄」に対し、息をのんで敬意の視線を送る中。
―ヒョイッ。
「む、どれどれ?」
空気を読まない白い手が伸び、ペンダントを無造作に鷲掴みにした。
「あっ!!こらイヴリス!!勝手に触っちゃだめだろ!!」
ヴェルトールが慌てて絶叫する。
だが、彼女は聞く耳持たず、ペンダントを高く掲げ、シャンデリアの灯りに透かすように目を細めた。
「ふふ、いいのよ。構わないわ」
青ざめるヴェルトールを、フェリシアが笑って制する。
「もとより、貴方たちに見てもらうつもりで、ここに持ってこさせたんだから。好きにして頂戴」
イヴリスは、かざしたペンダントを透かし見ながら、確信を込めて告げた。
「……ふむ。やはり我の推測通りじゃ。この魔導……アルセルは壊れてなどおらぬ。ただ、深い『眠り』についておるだけじゃ」
「……眠りについてる?」
フェリシアが不思議そうに首を傾げる。石が眠るとはどういうことか。
「お嬢さん。我々凡人にも分かるように、説明していただいても?」
ロルフもまた、その言葉の真意を測りかねて問いかけた。
「……分かり易くも何も、言葉の通りじゃ」
イヴリスは皆の方を向き、淡々と、しかし断定的な口調で説明する。
「こやつは呪いを解く際、その身に余る力を使い果たし……眠りについておるのじゃ」
「……なるほどね」
フェリシアの瞳が、謎解きを楽しむように輝く。
「……それは逆に考えると。失われた『力』さえ戻れば……壊れたように見えるその石も、また目覚めるってことかしら?」
「その通りじゃ」
イヴリスは、物分かりの良い女王にニヤリと不敵な笑みを返した。
「い、いつ……!いつになったら、その力が戻るか分かるんですか!?」
ラビは前のめりになり、逸る気持ちを抑えきれずに問い詰めた。
「……それは、我にも分からぬ」
イヴリスは冷たく事実を告げる。
「そんな……。じゃあ、目覚めるのを待つしかないのか?」
彼女のつれない返事に、ラビが絶望で再び俯きそうになるのを見て、ヴェルトールが焦って尋ねた。
すると、イヴリスは心底不思議そうに眉をひそめ、呆れ果てたように鼻を鳴らした。
「待つ?……何を寝ぼけた事を言うておる」
彼女はペンダントを指先で弾く。
「いつ起きるのか分からぬのであれば、こちらから無理やりにでも『叩き起こせば』よいだけの話じゃろうが」
「は……?」
「おぬしとて、放っておけばいつまでも寝ておる故、毎朝シエナにドカドカと叩き起こされておるではないか。……それと同じ事よ」
「うぐっ……」
痛すぎる指摘。ヴェルトールは言葉に詰まり、バツが悪そうに頬を掻いた。
「あっはっは!!待たないんだ!?石を『叩き起こす』なんて、面白い発想だわ!!」
フェリシアは玉座の上で腹を抱え、心底楽しそうに笑った。謁見の間に、笑い声が反響する。
「へ、陛下!!またそのような!客人の前で大口を開けて笑うなど、はしたないですぞ!!お慎みくだされ!!」
ロルフは顔を真っ赤にし、慌てふためいて主君を諫める。
「……はー、可笑しい……ふふっ……」
だが、女王は指先で目尻に浮かんだ涙を拭うと、彼の小言などそよ風の如く受け流し、興味津々といった様子で身を乗り出した。
「で?具体的には、どうすればその寝坊助を『叩き起こす』ことができるのかしら?」
「それに関しては簡単な話じゃ。力を失って眠っておるのなら……無理矢理にでも『力』を捻じ込めばよい」
イヴリスは手の中のアルセルをコツンと指で弾き、言い放った。
「……『それに関しては』ってことは。裏を返せば、別に何か問題があるってことね?」
フェリシアは、彼女の返答に含まれたわずかな含みを聞き逃さず、即座に切り返す。
「……ふふっ。流石は一国の王じゃ。先程から話が早くて助かる」
イヴリスは鋭い笑みを浮かべ、試すように続けた。
「その通り。問題というのは、その叩き起こす為の『力』そのものじゃ。こやつは繊細な古代の魔導器……単に外から魔力や衝撃を加えればよいという訳ではない」
「……つまり、そのための『専用の道具』か『祭壇』のようなものが、どこかに存在する……ということかしら?」
フェリシアは口元に指を当て、パズルのピースを嵌めるように推測する。
「……本当に、話が早くて助かる」
イヴリスは、その的確すぎる推測に感心したように小さく呟き、我が意を得たりと頷いた。
「ここからは憶測になるが……。恐らく、このアルセルが見つかった遺跡、もしくはその近辺の遺跡に、対となる『台座』のようなものが存在する可能性が高い」
彼女は次の希望を示すかのように、力強く結論付けた。
その、言葉少なに阿吽の呼吸で真実へと達するイヴリスとフェリシアのやりとり。
それをヴェルトール、ラビ、レックス、ロルフの四人は、完全に取り残されたように呆然と二人を見ていることしかできなかった。
「なるほどなるほど!だいぶ希望が見えてきたんじゃない?」
フェリシアはパンと手を叩き、努めて明るい口調でその場の空気を照らす。
「……ということは。ザレンのギルドマスターに調べてもらわないといけないわね」
彼女は言いながら、傍らに控えるロルフにスッと視線を流した。
言葉はいらない。老狼は無言で深々と頭を下げると、主の意図を汲み取り、足音もなく静かに部屋を出ていった。
「あ、あの……」
その鮮やかな連携を前に、ラビが恐る恐る声を上げる。
「希望が見えてきたのは、素直に嬉しいのですが……。その、私の……ましてや他国の平民なんかに、どうしてそこまでしていただけるんでしょうか?」
ラビはその国家的支援に恐縮して身を縮こまらせた。
「ん?レックスの大事な客人っていうのも、もちろんあるけど……」
フェリシアは小首を傾げ、慈愛に満ちた瞳で一行を見渡した。
「私を頼って、遥々ここまで来た人たちを無下に追い返すことなんて、私にはできない。……私の手の届くところぐらいは、なんとかしたいと思っているだけよ」
彼女は温かい笑みを浮かべて言う。
その言葉、その表情。それは、エルシルで見聞きしたものと全く同じだった。
「……なんか、アリスさんみたいだな」
ヴェルトールは既視感を覚え、思わずポツリと漏らす。
「あれ?貴方たち、姉さんを知ってるの?」
彼の呟きを拾ったフェリシアが、嬉しそうに尋ねた。
「あ、はい。今そこで、お世話に……なって……ん?」
ヴェルトールの思考が停止する。
何かの聞き間違いかと思い、恐る恐る彼女に問い返した。
「……あの、すいません。……今、なんて言いました?」
「ん?だから、姉さんを知ってるのかって。……アリスは、私の実の姉さんよ?」
フェリシアはきょとんとして、爆弾を投下した。
「……あれ? 聞いてなかったの?」
「…………」
私の姉さん。あまりに衝撃的な言葉に、時が止まる。
ギギギ……と錆びついた歯車のような動きで、ヴェルトール、ラビ、そしてイヴリスの視線が、一斉に一点へと集中した。
その突き刺さるような視線を受け、レックスは視線を天井へと逸らし、またしても気まずそうに、鼻の頭をポリポリと掻いた。
「……いや、まぁ。聞かれなかったものでな」
「「「ええええぇぇぇぇぇっ!!!?」」」
三人の本日二度目の絶叫が綺麗に重なり、荘厳な謁見の間にこだました。
元・副騎士団長に続き、世話になっている家の主人が「元・王女」だったとは。
この旅一番の衝撃は、まだ終わっていなかった。




