第四十八話:未知なる錬成 -The Uncharted Art-
「それじゃあ、私は準備をしてくるから、少し席を外すわね」
フェリシアは玉座から軽やかに立ち上がると、ドレスの裾を翻して階段を降りてきた。
「正規の手続きとなると、しばらく時間がかかると思うわ。……どうする?ここで待ってる?それとも、暇つぶしに王宮を見学していてもいいけれど」
「それでしたら……。その待ち時間を利用して、我々はもう一つの用事を済ませて参ります」
レックスが一歩進み出て、恭しく頭を下げる。
「あら?もう一つ?この城に、私以外にも用がある者がいるの?」
意外そうに小首を傾げる女王に、レックスは静かに告げた。
「はい。……"ストリウス"殿に、少し相談が……」
「……あぁ、あいつね」
その名前を聞いた瞬間、フェリシアは苦笑いのような、呆れたような顔をした。
どうやら、一癖も二癖もありそうな人物らしい。
「そ?分かったわ。じゃあ、ゆっくり話してくるといいわ。……それじゃ、また後でね!」
彼女はひらりと手を振ると、ロルフを引き連れ、颯爽と広間を去っていった。
残されたのは、唖然とするヴェルトールたちと、次なる目的地を見据えるレックスのみ。
重厚な扉が閉まり、廊下に出た瞬間。
「……はぁ~~。なんか、思ってた王様像と全然違ったな……」
ヴェルトールは大きく息を吐き出し、ガクリと肩の力を抜いた。
威厳、重圧、緊張感。それら全てを「はぁ~い」の一言で粉砕した女王の姿は、あまりに衝撃的だった。
「うん……。でも、すごく話しやすそうな、素敵な人だったね」
ラビも胸を撫で下ろし、ホッとしたように同意する。
首が飛ぶかと怯えていたのが嘘のようだ。
「言っただろう?寛大なお方だと」
レックスは二人の反応を予想していたかのように、誇らしげに、そして優しく微笑んだ。
「寛大というか、なんというか……。一国の王様があんな感じで大丈夫なんですか?」
ヴェルトールが呆れ半分、心配半分で尋ねると、横からイヴリスがふんと鼻を鳴らした。
「心配無用じゃ。……あの側近や、あの熊の衛兵の様子を見たじゃろう」
「え?」
「あやつらの眼差しには、呆れはあれど侮りは一切なかった。……つまり、あのじゃじゃ馬は、その奔放さを補って余りある程の『王たる資質』と『実力』で、猛獣たちを従えておるということじゃ」
彼女は閉ざされた扉を振り返り、ニヤリと笑う。
「伊達に銀の冠を被っておらぬわ。……食えぬ女よ」
「……ご名答だ」
レックスはイヴリスの慧眼に感心し、静かに頷いた。
「さて。女王の許可も得たことだ。……次は、もう一人の『食えぬ男』に会いに行くとしようか」
謁見の間を後にし、王宮の長い回廊を歩く。
「あの……。そのストリウスさんという方は、どんな方なんですか?」
ラビは、これから会う「宮廷錬金術師」の肩書きに萎縮し、緊張した面持ちで尋ねた。
「……そうだな」
レックスは答えに窮したように苦笑し、言葉を濁す。
「腕は確かだが……少し、気難しいところがあってな。まぁ、会えば分かるとだけ言っておこう」
彼はそう言うと、王宮の煌びやかな装飾とは不釣り合いな、奥まった場所にある一枚の古びた木の扉の前で足を止めた。
「ここだ」
――コン、コン、コン。
乾いたノックの音が響く。
一拍置いて、中から酷く気怠げな声が返ってきた。
「……どうぞ」
合図と共にレックスが扉を開く。
「失礼する」
部屋の中に充満していたのは、鼻を突く薬草の匂いと、古紙の乾いた香り。
そして、書類と実験器具の山に埋もれるような部屋の中央に、その人物はいた。
「…………」
白衣を纏った、灰色の羽毛を持つ梟の獣人。
彼は鼻眼鏡をかけ、入ってきた一行に視線を向けることすらなく、手にした分厚い専門書に没頭したまま立ち尽くしていた。
梟の獣人は、億劫そうに本から顔を上げた。
だが、入り口に立つレックスの姿を認めた瞬間、その真ん丸な目がカッ!と見開かれた。
「ホーゥ!!レックス殿ではないか!!」
――バサッ!
彼は読んでいた分厚い専門書を、惜しげもなく机の書類の山へ放り投げると、羽ばたくような勢いで駆け寄ってきた。
「話は聞いておるぞ!あの貴公が、珍しくこのワシに相談があるとか!?いやはや、長生きはするもんじゃな!」
「お、お久しぶりです、ストリウス殿……」
ストリウスはヴェルトールたちの存在など目に入っていないかのように、両の翼でレックスの手をガシッと握りしめ、ブンブンと激しく上下させる。
レックスは苦笑いしながらも、されるがままに丁寧に頭を下げた。
「仰る通り、今日は折り入って相談がありまして……」
「ホウホウ!……おや?」
興奮冷めやらぬストリウスは、そこでようやくレックスの背後にいる三人に気づき、首をクルリと回した。
「お連れの方もいらっしゃったか!これは失敬!」
彼は悪びれる様子もなく、部屋の奥を手で示す。
「ささ、足の踏み場もない狭いところじゃが、中に入ってくだされ!『面白い話』なら、大歓迎ですぞ!」
椅子に腰掛けるや否や、ストリウスは身を乗り出し、興味津々といった様子で嘴を開いた。
「それで?ワシを唸らせるような相談というのは、如何なるものですかな?」
「……ラビ。自分で説明できるか?」
レックスが背中を押すように促す。
ラビは膝の上で拳を握りしめ、緊張した面持ちでコクリと頷いた。
「あ、の……。私の魔力不足を補うために、『触媒』という道具を作っていただきたいんです」
彼女はたどたどしくも懸命に、イヴリスから教わった理論――魔力を一点に収束させ、放出を最適化する道具の概念――を説明する。
足りない部分は、イヴリスが専門用語を交えて補足した。
全てを聞き終えた後。
「……ふ~む。触媒……のぅ」
ストリウスは腕を組み、眉間に深い皺を寄せて唸った。
先程までの好意的な空気は消え、そこには職人としての厳しい、疑り深い眼差しがあった。
「悪いが……そんな都合の良い道具、実物はおろか、古今東西どのような文献でも見たことがない」
彼は書類の山を指差し、冷ややかに告げる。
「この道何十年、王宮の書庫にある書物を全て読破してきたこのワシが、だ。……もし実在するなら、ワシが知らぬはずがない」
彼は首を横に振り、突き放すように言った。
「理論は面白いが、机上の空論じゃな。……本当にそのようなものが、物理的に作れるとは思えんよ」
それは、実績に裏打ちされた当然の反応だった。
だが、ラビは引き下がらなかった。尊敬する師の言葉は、決して妄想などではないと信じているからだ。
「そ、そんなことはありません!今は失われていても……かつては、きっと存在していたはずなんです!」
彼女は震える体を抑え、必死に言葉を継ぐ。
「それこそ……誰も見たことも聞いたこともないような複雑な理論を、ただの思いつきで簡単に語れるはずがありません!あの理論には、確かな『理屈』が通っていました!」
「……ふむ」
ストリウスは丸い眼鏡の奥で目を細め、少し哀れむように首を振った。
「娘っ子よ。その若さゆえの純粋さと青さは素晴らしい。……だが、それは屁理屈というものじゃ」
「え……」
「『魔力を増幅する』などという都合の良い夢は、遥か昔から今に至るまで、ごまんと考えられてきたはず。……だが、それが今現在、形として残っていない。それが答えじゃよ」
彼は冷徹に断言する。
「歴史が証明しておる。その『触媒』なるものは、どこまでいっても実現不可能な夢物語じゃ」
そして、彼は最後にチラリと――銀髪の少女を一瞥し、鼻で笑い飛ばした。
「第一……。その情報の出所が、こんな年端もゆかぬ、『オマケの小娘』では……尚のこと、ままごとの延長にしか聞こえませんな」
「おのれ……!大人しく聞いておれば、いけしゃあしゃあと……!」
堪忍袋の緒が切れたイヴリスは、椅子をガタンと蹴倒す勢いで立ち上がった。
――ま、まずい!
ヴェルトールが慌てて止めに入ろうとした、その時。意外な人物が、それよりも早く動いた。
「……………」
緊張で震えていたはずのラビが立ち上がり、激昂するイヴリスの肩にそっと手を置いて、強引に椅子へと座らせたのだ。
「な……?」
予想外の行動と、その手に込められた拒絶できない圧力に、さしもの邪竜も目を丸くして大人しくなる。
ラビはそのまま一歩前へ踏み出し、俯いたままポツリと呟いた。
「……取り消して下さい」
「……なに?」
ストリウスが、羽毛を逆立てて怪訝そうに眉をひそめる。
「聞こえませんでしたか……?」
ラビがバッと顔を上げた。
眼鏡の奥、瑠璃色の瞳が怒りで燃え上がり、部屋の空気をビリビリと震わせる。
「今の言葉を!!取り消してくださいと言ったんですっ!!!」
「お、おい……」
自分を庇って吠える少女の、あまりの剣幕。
イヴリスは完全に気圧され、ポカンと口を開けて声を漏らすことしかできない。
「確かに……あなたの目には、幼い子供に映るのかもしれません。でも!」
ラビは錬金術師の権威など恐れることなく、真っ直ぐに睨みつけて言い放った。
「この人は、私に道を示してくれた……私が世界で一番尊敬する『先生』です!実績だとか歴史だとか知りませんが……彼女を侮辱することだけは、私が絶対に許しません!!!」
「……………」
凛とした絶叫。
その豹変ぶりに、ストリウスも、レックスも、そしてヴェルトールも。
その場にいた全員が圧倒され、息をのんでただ唖然としていた。
ラビの剣幕と、その瞳に宿る真剣な光を受け、ストリウスはハッとして目を丸くした。
しばらくの沈黙の後、彼は居住まいを正すと、ラビとイヴリスに向かって深々と頭を下げた。
「……申し訳ない。お嬢さんの言う通りじゃ」
彼は素直に自身の非を認める。
「見た目で判断し、ワシを頼ってきた客人……それも『師』と呼ばれる方に、あまりに無礼な口を利いた。……学究の徒にあるまじき偏見じゃった。許してくれ」
「……っ!あ、あぁいえ!そんなっ!」
相手が謝った瞬間、ラビの憑き物が落ちた。
彼女はサァーッと顔を青くし、さっきまでの威勢の良さが嘘のように、シュンと萎んで慌てふためく。
「わ、私こそっ!偉そうに怒鳴ったりして……!ぶ、無礼な態度でした!ごご、ごめんなさいぃぃっ!!」
彼女はストリウス以上の勢いで、何度も何度もペコペコと頭を下げる。
「ふふっ」
「やれやれ……」
そのあまりの変わり身の早さと、根の善良さに。
ヴェルトール、レックス、そしてイヴリスの三人は顔を見合わせ、彼女の確かな「成長」を眩しく思うように、揃って優しい笑みを浮かべていた。
ラビの謝罪に一つ頷くと、ストリウスは丸眼鏡の位置を直し、今度は純粋な『錬金術師』としての顔で向き直った。
「……しかしな、お嬢さん。先程も言った通り、ワシはその『触媒』という代物を、見たことも聞いたこともない」
彼は作業台の上を指でトントンと叩く。
「構造も、術式の刻み方も分からぬまま、未知の道具を作れと言われても……。物理的に『難しい』という事実に変わりはない」
「うぅ……」
「それに……一番の問題は『費用』じゃ」
彼は腕を組み、さらに厳しい現実を突きつける。
「羊皮紙で本を作るとなると、莫大な予算が必要となる。王宮中の在庫をかき集めれば、あるいは一冊分ぐらいは確保できるかもしれんが……」
彼の瞳が、鋭く光る。
「もし失敗した時、『ごめんなさい、できませんでした』では済まされない損害額になる。……宮廷錬金術師として、勝算のない賭けに国費を投じるわけにはいかんのでな」
そのもっともな懸念に、ラビ、ヴェルトール、レックスの三人は、反論できずにガクリと肩を落とした。
だが、その沈んだ空気の中でただ一人。
現実的な問題よりも、己の知識を証明したくてウズウズしている少女が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……ふん。なれば、話は簡単じゃ」
イヴリスは一歩前に出ると、作業台に手をつき、ストリウスに提案する。
「まずは『インク』のみを作成してみる、というのはどうじゃ?」
「インク……だと?」
「うむ。魔導書において、術式を刻むインクは羊皮紙と並ぶ最重要素材。……じゃが、その素材は、羊皮紙そのものより遥かに安価で済むはずじゃ」
イヴリスは目を細め、先程のお返しと言わんばかりに、彼のプライドをチクリと刺激した。
「おぬしが……その『宮廷錬金術師』という肩書きに見合う、真に熟達した職人であれば……。出来上がったインクを見るだけで、我の語る『触媒』が夢物語ではないと理解できるはずじゃ」
「……ホウ」
試されている。
その挑発的な提案に、彼の眼鏡の奥が、キラリと鋭く光った。
「ホーゥ!安い挑発をしおって……」
ストリウスは口を歪めるが、抑えきれない好奇心の炎がメラメラと燃え上がっていた。
「だが……文献にもない未知のインク、か。……ふん、面白い。実に面白い!それならば、その挑発に乗ってみる価値は大いにありそうだのぅ……!」
彼はニヤリと子供のような笑みを浮かべ、バサリと白衣を翻して立ち上がった。
「善は急げ!早速取り掛かるとしよう。……製法は、頭に入っておるのだろうな?」
「無論じゃ!」
イヴリスもまた、不敵な笑みで応戦する。
「あ、あのっ!わ、私にも手伝わせてください!」
「うむ、助手として使い潰してやる故、覚悟せよ!」
ラビも慌てて駆け寄り、三人は部屋の隅にある巨大な調合机へと雪崩れ込んだ。
「基本となるのは高品質の『泥炭』、そこに『満月草』の煮汁を……」
「ホーゥ?粘度が高すぎるのではないか?定着液には何を?」
「そこじゃ。通常の水銀ではなく、魔力を通した『銀粉』を混ぜることで――」
「なるほど!そうすれば浸透圧が……!」
ブツブツ、ガリガリ、ボソボソ……。 飛び交う専門用語と、熱を帯びた議論。
そこには、常人には理解不能な「専門家だけの世界」が構築されていた。
「…………」
その背中を、ポツンと取り残されたヴェルトールとレックスが見つめる。
「……完全に、俺たちの出番はないみたいですね」
「……そうだな」
物理担当の二人は、顔を見合わせて苦笑いし、邪魔にならないよう部屋の隅で大人しく待機することにした。
イヴリス、ラビ、ストリウスの三人が部屋の奥へ陣取ってから、しばらくの時が流れた。
「ふわぁぁ……」
ヴェルトールは、顎が外れそうなほど大きな欠伸を一つ。
「……一歩前進したのは嬉しいけど、さすがに……退屈だな……」
彼は壁に背を預け、部屋の隅から遠い目をして、熱狂の渦中にある三人を見つめた。
飛び交うのは理解不能な専門用語と、魔力や数値の羅列ばかり。剣の腕ならともかく、こればかりは手も口も出しようがない。
「たわけっ!!そこの配合比率が違うと言っておるじゃろうが!!目が腐っておるのか!」
「ホーゥッ!なるほど、ここでこの配合を……!なんと興味深い!!」
「あ、あのっ、お二人とも声が大きいです……!イヴ先生、素材の粉砕終わりました!」
怒号、歓声、そしてラビの悲鳴。
錬金術師たちの世界は、剣戟よりも激しく、騒がしいらしい。
「ふっ。こればかりは俺たちの専門外だからな」
レックスは腕を組み、目を閉じて壁に寄りかかる。
その姿は、嵐が過ぎるのを待つ大樹のように落ち着いていた。
「下手に手を出して爆発させるよりは、大人しくしているのが一番の貢献さ。……今のうちに、束の間の休息を楽しんでおこう」
退屈な待ち時間を過ごしていると、不意にイヴリスが戻ってきて、無言のままヴェルトールの腰鞄に手を突っ込んだ。
「うわっ!な、何!?どうした!?」
突然の奇行に、ヴェルトールは椅子から飛び上がりそうになる。
「えぇい、やかましい!少しじっとしておれ!」
イヴリスは彼の抗議を無視して中をごそごそと漁り――やがて、一つの『白い欠片』を取り出した。
「おぉ、これじゃこれじゃ」
「……なんだよ、それ?」
ヴェルトールは目を丸くする。
鋭く尖ったその物体には、血痕と泥がこびりついていた。
「ん?あの巨大猪の牙じゃ」
イヴリスは何でもないことのように淡々と言う。
「き、牙……!?一体いつの間に……っていうか、なんで『俺の鞄』!?」
「……汚いじゃろうが。こんなもの、自分の懐に入れる奴の気が知れぬ」
彼女は「何を当たり前のことを」という顔で鼻を鳴らす。
「インクの定着剤に動物の骨が必要でのぅ……。代わりに拾って、おぬしの鞄に『収納』しておいてやったのじゃ。感謝せよ」
「…………」
彼女はホクホク顔で、さっさと奥の実験机へと戻っていった。
鞄から牙が盗まれ(?)てから、数分後。
静かになった作業場から、今度は耳をつんざくようなラビの悲鳴が轟いた。
「ええええええぇぇぇっ!!?」
「ど、どうした!?」
ヴェルトールは椅子を蹴倒して駆けつける。
するとそこでは、イヴリスが小瓶を片手に、ラビに詰め寄っているところだった。
「……じゃから、仕上げにそなたの『血液』を少々寄越せと言っておる」
ラビは涙目で自分の腕を抱きしめ、ガタガタと震えて後ずさる。
「なんでそんなのが必要なんだよ!?インクを作るんじゃないのか!?」
ヴェルトールが引きつった顔で問いただすと、イヴリスは心底面倒くさそうに「はぁ~……」と深いため息をついた。
「凡人共め。……よいか?厳密に言えば、血液は必須ではない。じゃが、これはこやつの為に作る魔導書のインクじゃ」
彼女は小瓶を振り、講義を始める。
「持ち主本人の血液を配合すれば、魔力の伝達率が飛躍的に上がる上、他者がその魔導書を使用する事ができなくなるという明確な利点がある」
彼女はニヤリと笑う。
「性能向上と防犯対策。……まさに一石二鳥、理に適った最高の素材じゃろうが?」
「う~ん……。理屈を聞けば、それは確かに混ぜた方が良さそうだけど……」
ヴェルトールはイヴリスの完璧な理論に頷きつつ、チラリと横を見る。
そこには、この世の終わりかのような悲壮な顔で、眼鏡の奥に涙を一杯に溜めたラビがいた。
「ひぐっ……うぅ……血、血は……」
「えぇい!勘違いするでない!何もカップ一杯の生き血を寄越せなどとは言っておらぬわ!」
イヴリスは呆れ果て、採血用の小さな針を構えて詰め寄る。
「ほんの数滴!指先をチクリとするだけで十分じゃ!ほれ、泣いとらんでさっさと手を出さぬか!」
「い、嫌ですぅ……!痛いのは嫌です……!」
ラビはブンブンと首を振り、両手を背中に隠して後ずさる。
巨大な魔物を葬った魔導士とは思えない、注射を嫌がる幼児のような徹底抗戦の構え。
「問答無用じゃ!魔導書のためじゃろうが!」
「ひぃぃっ!たすけてヴェルくん~!!」
――ちっ。このままでは埒が明かぬな。……なれば!
イヴリスは瞬時に作戦を変更した。
彼女は苛立ちを仮面の下に隠し、一転して聖母のような穏やかな笑顔を浮かべると、怯える幼児をあやすような、猫なで声で語りかける。
「ふふっ。何か勘違いをしておるようじゃが……なに、心配するでない。この針には特殊な魔法が施されておる」
「え……?」
「じゃから、そなたが想像するような痛みなど、感じたりはせぬよ」
「ほ、本当ですか……?」
「うむ。ほんの一瞬、虫が止まった程度の出来事じゃ。……ほれ、そう不安にならず、我に任せておけば悪い様にはせぬ」
彼女は安心させるように、ゆっくりと手のひらを差し出す。
その言葉と笑顔にほだされ、ラビは疑うことを忘れ、恐る恐る震える手を差し出した。
―ペタ
ラビの手が、イヴリスの手に重なった、その瞬間。
―ガシッ!!
「あ……?」
聖母の笑顔が、獲物を捕らえた肉食獣の笑みに歪む。
イヴリスは逃さぬとばかりにラビの手首を絞め上げると、背後の茂みに合図を送った。
「ストリウス!!今じゃっ!!」
「ホーゥッ!!」
待ってましたと言わんばかりに、死角からストリウスが飛び出し、目にも止まらぬ早業でラビの指先に針を突き立てた。
―チクッ
「ひぃやあああああああああッ!!!」
実際の痛みは、裁縫で指を刺した程度。
にも拘らず、ストリウスの狭い研究室には、まるでこの世の終わりかのような、ラビの魂の絶叫がこだました。




