第四十五話:食卓 -Alice's Feast-
「っ!これは……!"ヨーゼフ"さんからの……?」
最初の一行を目にした瞬間、アリスの長い耳がピンと立ち、驚きに目を見開いた。
「そう……。あの方は今、グリモ村という場所で村長をなさっているのね……」
彼女は文字を指先でなぞり、遠い記憶を愛おしむように目を細める。
だが、読み進めるにつれて、その表情は急速に険しいものへと変わっていった。
突然の教会からの理不尽な追及、村を追われた経緯、そして……どうかこの子供たちを、力になって守ってやってほしいという切実な願い。
その小さな顔には似つかわしくない、深刻で真剣な眼差し。そして、しん……と静まり返った部屋。
「……事情は、痛いほど分かったわ」
アリスはゆっくりと手紙を閉じ、重々しく息を吐いた。
そして、ヴェルトールたちを見上げ、眉を下げて申し訳なさそうに告げる。
「ただ……ごめんなさい。本当に心苦しいのだけど……」
「え……?」
「今、このエルシルの街には……あなたたちを受け入れられるような家が、一軒もないの」
「…………」
それは、事実上の「受け入れ拒否」とも取れる言葉。
ヴェルトールとシエナの表情から血の気が引き、二人はガクリと力なくその場にうなだれた。
遥々海を越えて来た希望が、脆くも崩れ去った瞬間だった。
「……それでね。本当に申し訳ないんだけど」
アリスは絶望に沈む二人の顔を覗き込むように身を乗り出し、長い耳を申し訳なさそうに垂れて困ったような顔をした。
「少し手狭にはなってしまうけれど……『ここ』に、一緒に住む形で我慢してもらってもいいかしら?」
「……え?」
時が止まる。
言葉の意味を理解した瞬間、ヴェルトールは弾かれたように勢いよく立ち上がった。
ガタンッ!!
「い、いいんですか!?そんな……ご迷惑じゃ!?」
「ふふ、もちろんよ」
驚きと喜びで裏返った彼の声に、アリスは花が咲くような温かい笑みを返す。
「他ならぬヨーゼフさんの頼みだし……何より、私を頼って遥々海を越えてきた子供たちを追い返すなんて、私にはできない」
彼女は紅茶のカップを置き、穏やかな瞳で一行を見渡す。
「世界中の誰でも助けてあげられるわけじゃないけれど……。せめて、私の手の届くところにいる人たちぐらいは、なんとかしたいと思っているだけよ」
その言葉は、飾り気のない本心。
見た目は幼い少女だが、その微笑みには、すべてを包み込む母親のような慈愛が満ちていた。
「そっちのほうがいい!ありがとう!アリスちゃん!!」
シエナは椅子から飛び降りると、アリスの懐へ飛び込み、その腰にぎゅーっと力強く抱きついた。
「おっと……。ふふっ、元気な子ね」
アリスはよろけることもなく、愛おしそうにシエナを受け止める。
「『アリスちゃん』……なんて呼ばれたのは、一体何年振りかしら」
彼女はシエナよりも小さな背丈でありながら、その瞳には過去を懐かしむような、追憶の色が宿っていた。
小さな手が、シエナの髪を優しく、慈しむように撫でる。
「ありがとうございます……!本当に……ありがとうございます!!」
その温かい光景に、ヴェルトールの目頭が熱くなる。
追われる恐怖、宿無しの不安。それら全てから解放された安堵と共に、彼は腰が折れんばかりに深く、深く頭を下げた。
ここが、新しい拠点。
長い旅路の果てに、ようやく「靴を脱いで休める場所」に辿り着いたのだ。
その感動的な光景の脇で。
「うぅ……ぐすっ……」
盛大に鼻をすする音が響いた。
「……おい。何故、当事者でもないそなたがボロボロと涙を流しておるのじゃ……」
イヴリスは半眼になり、理解不能といった顔でラビを見上げる。
「うぅ……。もちろん、よかったなぁって感動したのもあるんですけど……」
ラビは眼鏡を外して涙を拭い、微笑むアリス――その雪のように白い耳と毛並みを見つめた。
「アリスさんを見てると……友達の『スゥ』を、思い出しちゃって……っ」
姿形は違えど、その白さと優しさが、かつての大切な友と重なったのだろう。
イヴリスは珍しく呆れるでもなく、ただ、やれやれといった表情で彼女の頭をポンポンと叩いた。
一同が落ち着きを取り戻すと、アリスはポン!と小さな両手を合わせ、張り切って宣言した。
「それじゃあ、今日は歓迎会ね!人数も増えたし、腕によりをかけて沢山ご飯を作らなきゃ!」
「はいはいっ!私も手伝うー!」
シエナはすっかりアリスに懐いた様子で、元気よく手を挙げて立候補する。
「あら、助かるわ。ふふっ、それじゃあお願いできるかしら?」
アリスは嬉しそうに目を細めると、自分より少し背の高いシエナの手を引き、トテトテとキッチンの方へ連れ立って歩いていく。
間もなく、トントントンという軽快な包丁の音と、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「……村長を疑ってたわけじゃないけど。本当に、見ず知らずの俺たちの力になってくれるなんて……」
ヴェルトールは、キッチンから漂う温かい空気に目を向け、心の底から安堵したように呟く。
「優しそうな人で、本当によかったね。……それに、すっごく可愛いし……」
ラビは、アリスの揺れる白い耳を思い出し、頬を緩ませて小声で本音を付け足した。
「……ふむ」
一方、感動の余韻などどこ吹く風なのが、約一名。
イヴリスは腕を組み、哲学者のような難しい顔つきで、キッチンの方角を睨み据えていた。
「獣人の国の、家庭料理か……。やはり、野性味溢れる肉主体か?味付けは……ふむ、興味深い。実に興味深いぞ……」
彼女の頭の中は、既に未知なる味覚への好奇心で埋め尽くされているようだった。
しばらくすると、キッチンから食欲をそそる香りと共に、色とりどりの料理が次々と運ばれてきた。
瑞々しい朝採れ野菜の山盛りサラダ、木の実がたっぷり入った焼きたてのパイ、湯気を立てるカボチャのスープ、そしてふわふわのパン。
「「わぁっ!美味しそう!!」」
ヴェルトールとラビは目を輝かせ、思わず声を揃える。
色彩豊かで健康的な、素晴らしい家庭料理だ。 ――だが、約一名。
「…………」
イヴリスだけは、そのあまりに『健康的』で『緑色』な食卓をジロリと睨みつけ、絶望に満ちた低い声を漏らした。
「……肉は?肉はないのか?メインディッシュが見当たらぬようじゃが……」
「あ……ごめんなさい」
アリスは長い耳をペタンと垂れさせ、申し訳なさそうに眉を下げる。
「私、お肉はあまり食べないから……。あいにく、今は切らしてるの」
「……っ!?」
邪竜は愕然とした。
――そうじゃった……こやつ、獣人は獣人でも『うさぎ』じゃった……!!
「い、いえ!とんでもないです!こんなに豪華な食事、ありがとうございます!」
ヴェルトールは慌てて両手を振り、テーブルの下でイヴリスの足を小突いた。
「……おい、イヴリス! 善意で泊めてもらって、こんなに美味しそうな料理まで作ってくれたのに失礼だぞ!」
「ふんっ……」
叱られたイヴリスはぷいっと顔を背ける。
「ご、ごめんなさい……!コイツ、本当に失礼な奴で……!あとで、俺から言っておくので……!」
ヴェルトールは冷や汗を流し、テーブルに額がつく勢いで何度も頭を下げた。
だが、アリスは困ったように、けれど慈愛に満ちた微笑みを崩さなかった。
「ふふ、いいのいいの」
彼女はヴェルトールをなだめると、ぷいと顔を背けて拗ねている銀髪の少女に、優しく語りかけた。
「いっぱい歩いてお腹が空いていたら、やっぱりお肉が食べたいわよね?気が利かなくてごめんなさい」
「……ふん」
「……でもね。この木の実のパイも、甘くてとっても美味しいのよ?今夜はこれで、我慢してくれるかしら?」
アリスは怒るどころか、焼きたてのパイを切り分け、イヴリスの皿にそっと乗せてあげた。
「……む」
甘い香りに、彼女の鼻がピクリと動く。
怒る気力を削ぐような、圧倒的な「母性」の前には、さしもの邪竜も毒気を抜かれるしかなかった。
イヴリスは、未練がましく肉のない皿を一瞥した後、渋々といった手つきでパイを掴んだ。
彼女は、あくまで「妥協」であることを装いながら、その一切れを口へと運ぶ。
――サクッ……。
軽やかな音と共に、口の中にパイ生地が崩れた、その瞬間。
「……っ!!」
その一口がもたらした奔流に、その真紅の瞳が、カッ!と限界まで見開かれた。
――な、なん……じゃこれは……!?
脳髄を直撃する衝撃。
――口内に広がるのは、木の実の香ばしさと、甘美でとろける様なクリームのハーモニー。その味わいは、見た目の素朴さからは想像もつかぬほど濃厚で、奥深いコクを持っておる……!
――……しかし、くどくない!濃厚な甘さを即座に中和する、この爽やかな酸味と後味は……柑橘か?いや、特殊な香草か!?
絶妙なバランス。計算され尽くした味の構築。
――リエッタも相当な手練れであったが……こやつ、それに勝るとも劣らぬ……いや、素材の活かし方に於いては『上』……か……!?
ごくん、とパイを飲み込む。
イヴリスは口元を拭うと、目の前でニコニコしている小さなうさぎの獣人へ、獲物を吟味するような鋭い視線を突き刺した。
――そなた……できるな?
その無言の問いかけに対し、アリスは「当然よ」と言わんばかりに、余裕たっぷりの不敵な笑みを返してみせた。
謎の視線で通じ合う二人を、ヴェルトール、ラビ、シエナの三人は「何が起きてるんだ……?」とポカンとした顔で見つめていた。
―ギィ……
その奇妙な静寂を破り、玄関の扉がゆっくりと開く。
「……食事中だったか。外までいい匂いがしているな」
戻ってきたのはレックスだ。
彼は室内に漂う異様な空気には全く気づかず、漂う香草の香りに鼻を鳴らした。
「あ、あぁ、お帰りなさい!今、アリスさんが食事を準備してくれて……これから頂くところなんです」
まだ呆然とした空気を引きずりつつ、ヴェルトールが慌てて答える。
「そうか。俺はさっき外で済ませてきたよ。……アリスさんの料理は絶品だからな、冷めないうちに楽しんでくれ」
彼は懐かしむように微笑むと、少し離れた椅子に腰掛け、休息の体勢に入った。
その「絶品」という言葉が、最後の合図だった。
「……いただきますっ!!」
ヴェルトールの号令と同時、イヴリスの手が残像を残して伸びる。
「ふん、毒見は済んだ!これは我のものじゃ!」
さっきまで「肉がない」と不満タラタラだったのが嘘のように、彼女は誰よりも夢中でパイを頬張り、スープを啜る。
野菜の甘み、パイのサクサク感、スープのコク。
皆がアリスの手料理に舌鼓を打ち、あっという間に大皿の料理は、イヴリスの胃袋を中心に綺麗に平らげられていった。
嵐のような食事が終わり、イヴリスは膨れたお腹をポンポンと叩きながら、至福の表情で椅子に沈み込んでいた。
「ふむ……。野菜でこの満足感とはな。……この分じゃと、本気を出した『肉料理』も、大いに期待できそうじゃのぅ?」
彼女はアリスへ、ニヤリと不敵に口角を吊り上げ、『この程度で終わるまい?』とでも言うように流し目を送る。
対するアリスも、空になった皿を片付けながら、余裕たっぷりで「ふふっ。まだまだ序の口よ」とでも言うようにイヴリスへと不敵な笑みを返した。
言葉なき、しかし激しい火花が二人の間で散っている。
「……なぁ?さっきからなんなの?あの、達人同士みたいなやりとり…」
ヴェルトールは頬を引きつらせ、小声で二人に尋ねた。
「さ、さぁ……。私には、高度すぎて……」
ラビが困惑して首を傾げる中、シエナだけは全てを理解したように、ニコニコと断言した。
「二人はね、お友達になったんだよ!」
その時、皆の様子を穏やかに見守っていたレックスが、腰を上げた。
「……そうだ。先程外へ出ていた時に、王宮へ使いの鳩を飛ばしておいた」
「えっ、もうですか!?」
「あぁ。数日以内には返事が来るはずだ。具体的な謁見の日取りが決まるまで、少し待ってもらえるか?」
「分かりました!ありがとうございます!」
ヴェルトールが深々と頭を下げる。
仕事が早い。この男がいなければ、王宮への道など夢のまた夢だっただろう。
「さて……」
レックスは扉の前へと移動し、振り返る。
「アリスさんのことだ、君たちはここに泊めてもらうんだろう?俺は近くに宿をとってあるから、先にそちらで休ませてもらうよ」
「えぇ~?レックスのお兄ちゃんは、ここで寝ないの?」
トテトテと駆け寄ったシエナが、彼のズボンの端をギュッと掴み、寂しそうに見上げる。
「ふふ、すまないなシエナ」
彼は困ったように眉を下げ、大きな手で彼女の頭を優しく撫でた。
「見ての通り、俺は図体がデカいからな。この人数に俺まで加わったら、アリスさんの家が溢れてしまう」
「むぅ……」
「心配するな、いなくなりはしない。また明日、顔を出すよ」
彼はシエナを納得させると、皆に短く別れを告げ、夜のエルシルの街へと静かに去っていった。
レックスを見送った後、ヴェルトールはハッと手を打った。
「……あ、そうだ!肝心なことを忘れてました!」
彼は空になった皿を前に、改めて深々と頭を下げる。
「ごちそうさまでした!本当に美味しかったです!」
「「ごちそうさまでした!」」
ラビとシエナも声を揃え、イヴリスも無言ながら満足げに腹をさすっている。
「ふふ、お粗末さまでした。お口に合ったみたいでよかったわ」
アリスはにっこりと花が咲くように笑うと、人差し指を一本立てて、悪戯っぽくウインクした。
「……あぁ、それとね。私から一つ、提案があるの」
「提案?」
「ええ。一つ屋根の下に住むなら、もう『家族』みたいなものでしょ?……だから、私に丁寧な言葉は必要ないわ。これからは敬語はナシ、ね?」
彼女は愛らしい笑顔で、ヴェルトールたちを見渡す。
「え……?わ、私も……ですか?」
ラビがおずおずと自分を指差す。
出会ったばかりで、居候の身である自分も「家族」扱いしていいのかと、戸惑っているようだ。
だが、アリスは優しく、けれどきっぱりと頷いた。
「もちろんよ。ここではみんな、対等な『家族』なんだから」
「と、言われてもなぁ……。これからお世話になる人だし……」
ヴェルトールは頬を掻き、困ったような表情で視線を泳がせる。
けじめを大事にする彼らしい悩みだ。だが、アリスは逃がさない。
「あら?簡単よ。最初に会った時みたいに、気安く話してくれればいいじゃない?」
「ぐふっ……!」
トドメの一撃。
彼女は悪戯な笑みを浮かべ、ヴェルトールの最大の失態を、楽しそうに掘り返した。
「……頼むから、その話はもう勘弁してくれよ……」
ヴェルトールはガクリとうなだれ、力なく白旗を上げた。
その完敗ぶりに、アリスの家はどっと沸き返るような温かい笑い声に包まれた。
かくして。長い旅路の果てに、ヴェルトールたちは無事(?)、心強い協力者と、靴を脱いで安らげる新たな拠点を得ることに成功したのだった。




