第四十四話:エルシル -The Destination-
レックスと見張りを交代し、シエナとラビが深い眠りについた頃。
ヴェルトールは焚き火の熾を木の枝でつつきながら、イヴリスにだけ聞こえる声で静かに告白した。
「……なぁ。今日、ワイルドタスクと戦っている時に……俺、実は『冥』の力を使おうとしたんだ」
「ふん。何を今更」
イヴリスは呆れたように鼻を鳴らす。
「最初からそうしておれば、あのような肉塊に苦戦する事もなかったじゃろうな。出し惜しみか?」
「いや、違う……」
ヴェルトールは首を横に振り、深刻な面持ちで自身の手のひらを見つめた。
「使おうとしたのに……使えなかったんだ」
「……なに?」
イヴリスの眉がピクリと動く。
「呼んでも、応えがなかった。まるで、力の源が空っぽになったみたいに……」
「…………」
彼女の怪訝そうな反応を見て、ヴェルトールの表情がさらに硬くなる。
「……やっぱり。イヴリスが意図的に止めたとか、そういうわけじゃないんだな……?」
彼は僅かな可能性――彼女が危険を察知して制御してくれたのでは、と考えていたのだ。
だが、彼女は心外だとばかりに即答した。
「馬鹿を申すな。我は何もしておらぬぞ?そのような小細工をして我に何の利益がある?」
「……そう、だよな」
イヴリスは顎に手を当て、焚き火の残り火をじっと見つめながら、静かに口を開いた。
「……実のところ。人間に我が力を貸し与えたのは、記憶にある限りでは、おぬしが初めてのケースなのじゃ」
彼女は遠い過去を探るように目を細める。
「記憶が不十分故、以前にも似たような事例があったやもしれぬが……。まぁ、それは今考えても詮無き事じゃ」
彼女は前置きを切り上げ、現時点での分析を述べた。
「……これは、あくまで憶測じゃが。おぬしが『冥』を行使するには、契約者たる『おぬし』か、力の源たる『我』……或いはその両方に於いて、何らかの『不可視の条件』が整う必要があるのではと考えられる」
「……条件って?」
ヴェルトールがきょとんとして尋ねると、イヴリスはガクリと肩を落とし、ジト目で彼を睨んだ。
「おぬし……。理解は早いが、察しが悪いのぅ」
彼女はやれやれと短いため息をつき、呆れ果てたように続ける。
「……その中身が分かっておれば、勿体ぶらずに最初から説明しておるわ、たわけ。それが分からぬから、困っておるのじゃろうが」
「あ、そっか……。ごめん」
「ふん。……とりあえず、我は我で何か要因があるのか考えておく。おぬしは、過去に『冥』を使った時の感覚や状況を反芻し、共通点を探せ」
彼女は燃え尽きかけた薪を棒で崩し、火の粉を舞い上がらせた。
「……分かった。じゃあ、あの時の感覚を思い出して、自分なりに考えてみるよ」
ヴェルトールは真剣に頷き――そして、ハッと眉を吊り上げた。
「……っていうか、待てよ。『察しが悪い』ってなんだよ!俺は至って普通だぞ!?」
一拍遅れてムキになり、声を潜めて抗議する。
だが、イヴリスは草の上にゴロンと横になり、ふぁぁ……と大きな欠伸を噛み殺した。
「事実を言ったまでじゃ。その様な事では……将来、女子にちやほやして貰えぬぞ?」
「……っ!うるさいな!そんなのイヴリスには関係ないだろ!?」
痛いところを突かれたのか、ヴェルトールは顔を赤くして言い返すと、彼女に背を向ける形で勢いよく寝転がった。
「はいはい、そうじゃな。……ふふっ」
イヴリスはそんな彼の背中を見て、楽しそうに喉を鳴らす。
「我はもう寝る。また何か分かれば、声を掛けるがよい」
「……あぁ。おやすみ」
背中合わせの温もり。
憎まれ口を叩き合いながらも、二人は互いの存在を近くに感じながら、深い眠りへと落ちていった。
そして夜が明け、朝露に濡れた街道を一行は進む。
道中、飢えた野犬や怪鳥などの魔物に何度か襲撃を受けたが、今の彼らにとっては、もはや脅威ですらなかった。
ラビの的確な援護と、ヴェルトールの鋭い剣技。連携のとれた動きで危なげなくそれらをいなし、順調に距離を稼いでいく。
やがて、鬱蒼とした森を抜け、視界が開けた丘の上に差し掛かった時。
「……見えたぞ。あれが、『エルシル』だ」
レックスが足を止め、眼下に広がる平野を指差した。
そこには、ポルナやザレンとは全く異なる、雄大で美しい光景が広がっていた。
「うわぁ……!」
丘の上からでも見える、その美しい街並みに、長旅で疲れ切っていた一行の顔が、一瞬でパッと明るく輝いた。
~エルシル~
頑丈な関所の門をくぐり抜けた瞬間。
それまでの旅路の険しさを忘れさせるような、明るく澄んだ空気が一行を包み込んだ。
「わぁ……!」
そこは、深い緑と優しい色彩に満ちていた。
空を遮る高い建物は一切なく、頭上にはどこまでも広がる青空。
家々の屋根は赤や青の鮮やかな瓦で彩られ、窓辺には競い合うように色とりどりの花が飾られている。
そして何よりも、行き交う住人の姿が鮮烈だ。
ピンと立った耳、ふさふさと楽しげに揺れる尻尾、様々な色の毛並み。
多種多様な特徴を持つ「獣人」たちが、全身を使って快活に笑い合い、独自の賑わいを生み出している。
「人間だ、珍しいな」
「ようこそ!」
人間の姿は少数だが、そこに奇異の目や差別意識はない。
ただ純粋な歓迎と好奇心だけを含んだ、和やかで温かい視線。
豊かな街路樹の木漏れ日の中で、街は自然と完全に調和していた。
唯一、ここが国境の要衝であることを思い出させるのは、背後にそびえる頑丈な城門と、時折すれ違う衛兵たちの、静かで頼もしい眼光だけだった。
「わぁ……。きれい……」
シエナは目をキラキラと輝かせ、おとぎ話の世界に迷い込んだように感嘆の声を漏らした。
色とりどりの瓦屋根、風に揺れる花々、行き交う獣人たちの笑顔。
「本当に……。まるで、絵本の中みたい……」
ラビもまた、その平和で美しい街並みに圧倒され息をのむ。
殺伐とした日々を送ってきた彼女にとって、この光景はあまりに眩しかった。
「ふむ。これだけ美しい街なら、さぞ美味い飯にもありつけそうじゃな!」
感動的な空気の中、イヴリスだけは花より団子。
景色よりも食欲が勝る様子で、鼻を鳴らしてきょろきょろと美味しそうな匂いの元を探し始めている。
そして、ヴェルトールは。
「やっと……。やっと、着いたんだ……」
彼は立ち止まり、溢れそうになる涙を堪えるように、強く拳を握りしめた。
故郷を追われ、海を渡り、幾多の危機を乗り越えて辿り着いた約束の地。
胸の奥から込み上げる熱いものが、長旅の緊張をゆっくりと解きほぐしていくようだった。
「……ここに頼るべき知人がいるんだったな?名前を教えてもらえるか?俺の知っている顔なら、すぐに案内できるかもしれん」
レックスは感慨に耽っていたヴェルトールの肩を叩き、現実に引き戻した。
「あ、あぁ、はい!」
彼は慌てて村長に教えてもらった名前を告げた。
「えっと……『アリス』さんって人を訪ねてきました」
「……アリス、だと?」
そのありふれた、しかし彼にとっては聞き覚えのある名前に、レックスは目を丸くした。
「知ってるんですか!?」
ヴェルトールが食い気味に尋ねると、レックスはフッと短く息を吐き、どこか懐かしむような、それでいて少し気まずそうな、複雑な笑みを浮かべた。
「ああ……。よく知っている人物だ。まさか、君たちの頼る相手が『彼女』だったとはな」
彼は納得したように頷くと、道を知り尽くした足取りで歩き出す。
「それなら話は早い。家まで案内しよう」
アリスの家へと向かう道すがら。
レックスの背中を追う四人は、きょろきょろと視線を巡らせ、エルシルの美しい街並みを堪能していた。
豊かな街路樹が落とす木漏れ日。整備された石畳。
すれ違う獣人たちは皆、穏やかな表情で挨拶を交わしている。
「……本当に、綺麗な街ですね」
ラビは、そのあまりに平和な光景に、心の底から安堵したように声を漏らした。
「そうだろ?」
故郷を褒められ、レックスは少し照れくさそうに、けれど誇らしげに目を細めた。
「この国は他国と比べても治安がいいからな。特にここエルシルは、国境付近ということもあって多くの旅人が立ち寄る要衝だ。……だからこそ、こうして独自の文化が栄えている」
彼は穏やかな声で語りながら、不意に足を止め、目の前の十字路を指差した。
「さぁ、着いたぞ。……そこを右に曲がれば、彼女の家だ」
一行が十字路を曲がると、そこには手入れの行き届いた庭を持つ、石造りの二階建ての家が現れた。
その庭先。色とりどりの花畑の中で、雪のように真っ白な毛並みを持つ、シエナよりもさらに小さな「うさぎの獣人」の女の子が、一生懸命に花へ水をやっていた。
「わぁっ!かわいいーっ!!」
その愛くるしい――長い耳をぴょこぴょこと揺らす、動くぬいぐるみのような姿――を見た瞬間、シエナの瞳が星のように輝いた。
彼女は歓声を上げ、レックスたちが止める間もなく、風のごとく少女へと駆けていく。
「あ!こらシエナ! 勝手に行くな!」
ヴェルトールも慌ててその後を追う。
「ねぇねぇ、何してるの?」
シエナが興味津々で顔を覗き込む。
「っ!?」
うさぎの少女は、いきなり至近距離に現れた人間にビクリと長い耳を震わせ、真ん丸な目をぱちくりとさせた。
だが、すぐに警戒を解き、鈴を転がすような愛らしい声でおっとりと答える。
「……お花に、お水をあげているのよ」
「ご、ごめんね!驚かせちゃって!」
そこへヴェルトールが滑り込むように駆けつけ、シエナの肩をガシッと掴むと、勢いよく頭を下げた。
「こいつ、かわいいものを見るとすぐに突っ走っちゃって……。邪魔して本当にごめんね!」
――……花に水をあげてるってことは、この家の子だよな……?
ヴェルトールは暴走したシエナを押さえ込みつつ、不審がられないよう、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
「……えっと。君は、ここに住んでるのかな?」
「……そうですけど……」
うさぎの少女は、長い耳をピクリと警戒させ、一歩後ずさる。完全に不審者を見る目だ。
「あぁっ!ご、ごめん!俺たち、怪しいものじゃないんだ!本当だよ!?」
彼は慌てて手を振り、必死に弁明する。
「あの、俺たち……君の『お母さん』に用があって来たんだ。紹介状も持ってるし……今、お家にお母さんはいるかな?」
「……お母さん?」
少女は不思議そうに小首を傾げた。
ちょうどそこへ、遅れていたレックスたちが追いついてくる。
「そう!えっと、『アリス』さんっていう人なんだけど……君のお母さんのことじゃないかな?」
ヴェルトールがそう言い放った、その瞬間。
背後で状況を察したレックスが、「やっちまった……」と言わんばかりに片手で顔を覆い、天を仰いだ。
「……『アリス』は、私ですけど?」
少女は長い耳をパタパタさせ、きょとんとした顔で答える。
「…………え?」
ヴェルトールは少女と全く同じきょとんとした顔で固まり、思考が完全に停止した。
その後、ヴェルトールの悲鳴に近い謝罪が、のどかなアリスの家の庭に響き渡っていた。
「ほんっっっ当に!申し訳ありませんでしたぁぁぁ!!!」
彼は地面に額がめり込むほどの勢いで、見事な土下座を披露していた。
失礼にも程がある。相手がこの家の主だと知らず、「お母さんいますか?」などと聞いてしまったのだから。
「いいのいいの。気にしないで?」
アリスは長い耳をピョコピョコと揺らし、両手を振って微笑んだ。
「獣人は見た目だけだと分かりにくいから……。人間の方からは、よく子供と間違えられるの。慣れっこよ」
その口調や佇まいは、見た目の愛らしさに反して、確かに落ち着いた大人の女性のそれだった。
「くくく……。傑作じゃな」
その様子を見て、イヴリスはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。
「『人は見かけによらぬ』と言うじゃろう?上辺だけの見た目で判断するから、ああいう目に遭うのじゃ。浅はかよのぅ」
「……イヴ先生」
勝ち誇る師匠に、ラビがジト目で冷ややかなツッコミを入れる。
「そんな意地悪なこと言ってると……いつか痛い目みますよ」
「アリスさ……ん。彼らは貴方に会うために、遥々遠くから海を渡ってやってきました。……どうか、話を聞いてやってもらえませんか?」
レックスは咳払いを一つし、どこか緊張した面持ちで本題を切り出した。
「あら、レックス!久しぶりね!」
アリスは彼を見るなりパァッと花が咲くように微笑み、再会を喜ぶ。
だがすぐに、悪戯っぽい光を瞳に宿し、茹でダコになっている少年へと視線を流した。
「そういえば……さっき、そんなこと言ってたわね?ええと……私のお母さんに用があるって……ふふっ」
「うぐっ……!!」
掘り返された失態に、ヴェルトールは言葉も出ない。
耳まで真っ赤に染まり、口をパクパクさせて固まるその姿は、湯気が出てきそうなほど恥ずかしげだった。
「もう、いじめないであげてよ。お兄ちゃん、反省してるんだから」
シエナが苦笑いで助け舟を出すと、アリスはコロコロと鈴を転がすように笑った。
「ふふ、ごめんなさい。反応が可愛くて、ついね。……立ち話もなんだし、中でゆっくり聞かせてもらうわね」
彼女は手招きし、一行を家の中へと案内しようとした時、不意にレックスが足を止めた。
「……俺は少し、野暮用を済ませてくる」
彼は街の喧騒の方角を見やり、ヴェルトールたちに告げる。
「昔のツテで、国境の警備状況や王宮の動向を探っておきたいんでな。……しばらくしたら戻るから、君たちはアリスさんとゆっくり話していてくれ」
彼はそう言い残すと、ひらりと手を振り、慣れ親しんだ街並みへと消えていった。
「……適当に、その辺に掛けてもらえる?」
家に入ると、アリスは綺麗に整頓されたテーブルを指差した。
彼女はキッチンへ向かうと、専用の踏み台を足元に引き寄せ、その上に乗って手際よく棚から茶葉を取り出す。
四人は言われるがまま椅子に座り、テキパキと動く小さな背中と、揺れる短い尻尾を、なんだか不思議な気持ちで見守った。
「……はい、お待たせ」
アリスは人数分のカップが乗ったトレイをテーブルの上に置くと、自分も空いている椅子にぴょんっと軽やかに飛び乗り、ちょこんと座った。
「どうぞ。長旅で疲れたでしょう?」
湯気と共に立ち昇る、甘く優しいハーブの香り。
一口飲むと、張り詰めていた緊張がふわりと解けていくようだ。
皆がホッと息をついたのを見計らい、アリスはカップを置いて穏やかに切り出した。
「……それで?改めて、一体私に何の用かしら?」
「あの……。まずは、これを読んでいただけないでしょうか?」
ヴェルトールは懐から、旅の汚れが少しついた封筒を取り出し、祈るような手つきで差し出した。
「……これは?」
「俺の故郷……グリモ村の村長から預かった手紙です。『困った時は、エルシルのアリスを頼れ』と……そう言われて、ここまで来ました」
彼は縋るような眼差しで訴える。
この手紙だけが、今の彼らに残された唯一の道標なのだ。
「……そう」
アリスは小さな手で封筒を受け取る。
「分かったわ。……読ませてもらうわね」
アリスはその眼差しを落ち着いた瞳で受け止め、ペーパーナイフで丁寧に封を切った。
紙が擦れる乾いた音だけが響く。
彼女が中の手紙に目を通す間、部屋は水を打ったような静寂に包まれ、ヴェルトールたちは固唾を呑んでその表情を見守った。




