第四十三話:小さな確信 -The Quiet Bloom-
ワイルドタスクは狂ったように頭を振り上げ、蹄で大地を削った。
獣の本能が警鐘を鳴らしたのだ。
ちょこまかと動く二匹ではない。動かずに魔力を練り上げている、あの小さな白いヤツこそが、最大の脅威であると。
血走った狂眼が、ラビ一点に固定される。
―ドォォォンッ!!!
爆発音のような踏み込み。前回よりもさらに速く、重く。
巨大な魔物の質量が、坂を転がり落ちる岩石のように一直線にラビめがけて迫りくる。
――させないっ!!
――こっちだ、化け物!!
ヴェルトールとレックスは、一瞬の目配せで意思を通じ合わせた。
二人は逃げるのではなく、あえて猛進する巨体の死角へ――左右ギリギリの位置へと大きく散開し、その注意を引きつけにかかった。
「逸らせるッ!!」
レックスは叫び、迫りくる死の暴風へと自ら飛び込んだ。
彼は冷静にタイミングを計り、分厚い装甲の側面――重心が崩れる一点を狙い澄まし、渾身の逆落としを叩き込む。
―ズドンッ!!
脚甲が肉の鎧にめり込み、骨の髄まで響くような重い衝撃音が轟く。
「ぬぅッ……!」
蹴った反動だけで足が砕けそうだ。だが、 狙い通り、ワイルドタスクの巨体がグラリと傾き、ラビへの直撃コースから僅かに逸れる。だが――
「ぐぅっ……!」
軌道を変えたことで振り上げられた丸太のような巨大な牙が、回避しきれなかったレックスの脇腹を無慈悲に掠め去ったのだ。
裂けるような激痛。暗赤色の体毛が、自身の鮮血でさらに濃く、黒く濡れていく。
それでも膝を屈さない。彼は苦悶の声を奥歯で噛み殺し、瞬時に着地して態勢を立て直そうとする。
レックスが作った一瞬の隙。それを無駄にはできない。
ヴェルトールは恐怖をねじ伏せ、暴走する岩山のような巨体に向かって躍り出た。
狙うは、生物としての数少ない急所――鼻先だ!
―ガチィンッ!!
硬質な音が響く。
渾身の突きは、鋼のように硬い皮膚に阻まれ、浅い傷を刻むことしかできなかった。
だが、その痛みと刺激は、魔物の注意を引くには十分すぎた。
「グオォォッ!!」
ワイルドタスクが鬱陶しげに、巨大な頭部を跳ね上げる。
たったそれだけの動作。だが、人間にとっては、丸太で殴りつけられるに等しい暴力だった。
「うああっ!?」
ヴェルトールはまるで羽虫のように弾き飛ばされ、無力に宙を舞う。
―ズダァンッ!!!
「がッ……、はッ……!」
背中から地面に叩きつけられる衝撃。
口から鮮血が吐き出され、視界が激しく明滅した。
全身が悲鳴を上げている。だが、彼は痛みに顔を歪ませながらも、震える手足を叱咤してすぐに立ち上がろうとした。
「まだだ……!まだ……っ!」
ヴェルトールを打ち払うと、ワイルドタスクは即座に次の標的――レックスへと向かった。
暴風のような連撃。
彼は体勢を立て直す間もなく、丸太のごとき牙と、岩石のような頭突きの猛攻に晒される。
「くっ……!」
辛うじて急所を逸らし、脚甲で受け流し続けるが、防戦一方だ。
反撃の糸口などない。ヴェルトールは地面に叩きつけられた衝撃で、剣を握る手がまだ痺れている。
レックスもまた、脇腹の裂傷から絶えず血が流れ落ち、動きにわずかな、しかし致命的な陰りが見え始めていた。
「はぁ、はぁ……っ!」
猛攻を捌ききれず、レックスが一歩、大きく後退した。 その時。
「……っ!?」
踏み込んだ足元が、虚しく空を切った。
それは、先程の攻防でワイルドタスクが抉り取った、地面の深い「穴」。
魔物の爪痕が、皮肉にも彼を捕らえる「落とし穴」となったのだ。
「しまっ……!!」
体勢が大きく崩れ、動きが止まる。
野生の本能が、その決定的な好機を見逃すはずもない。
「ブオォォォォォッ!!!」
歓喜の咆哮。魔物は血走った目を剥き、回避不能となったレックスめがけて、死を告げる巨大な牙を突き出した。
その刹那、ヴェルトールは弾かれたように地面を蹴った。
右腕は痺れて感覚がない。だが、そんなことはどうでもいい。
彼はレックスへの致命的な一撃をわずかでも逸らさんと、空中へ身を投げ出し、ワイルドタスクの巨大な耳の付け根――急所めがけて飛びついた。
「うおおおおおおおおっ!!!」
渾身の咆哮。彼は握りしめた剣を、刃物としてではなく、一つの鉄塊として全力で叩きつける!
―ガギィィンッ!!
硬質な音が響く。やはり、その強靭な皮膚を切り裂くことはできない。
だが、その強烈な衝撃は確実に魔物を襲った。
「……!?」
予期せぬ方向からの激痛と目眩。
ワイルドタスクはたまらず大きく頭を振り、動きが緩慢になる。
―ブォンッ!!
殺意の軌道が、わずかにズレる。
死を告げる丸太のような牙は、レックスの頭上を虚しく切り裂き、激しい風圧だけを残して通り過ぎていった。
「すまない……助かった!」
レックスは即座に穴から飛び出すと、荒い息を吐きながらヴェルトールと視線を交わした。
頷き一つ。言葉はいらない。
ワイルドタスクは頭を振って平衡感覚を取り戻そうとしているが、その動きは明らかに鈍い。
二人は同時に踏み込み、魔物の巨体を支える左の前脚関節へと、左右から同時に渾身の一撃を叩き込んだ。
―ドゴォォォォッ!!!
支えを失ったワイルドタスクが、グラリと大きく傾く。
―ズズゥゥゥゥンッ……!!
凄まじい地響きと共に、動く要塞が崩れ落ちた。土煙が舞い、巨大な体が地面に張り付く。
それは、魔物の動きが完全に止まった、最初で最後の「好機」だった。
二人は視線を交わすと、ラビと魔物を結ぶ射線から大きく後退する。
そして、二人の声が、まるで示し合わせたように重なった。
「「ラビ!!今だッ!!」」
後方のラビの掌に集束した魔力の光が、臨界点に達する。
彼女はカッと目を見開き、両手を突き出して叫んだ。
「ウィンド・アビス!!!」
その声が響いた瞬間。
魔法が放たれたような派手な衝撃音は一切なく――ただ、さっきまで激痛に頭を振っていたワイルドタスクの呻き声が、プツリと唐突に止んだ。
「……?」
否。魔物は大きく口を開け、喉が裂けんばかりに絶叫していた。
だが、そこからは一切の音が聞こえてこない。
まるで、魔物の周囲だけが世界から切り離されたかのような、不気味な静寂が支配していた。
何が起きたのか理解できず、ヴェルトールたちが息をのむ目の前で、さらなる異変が起きる。
音のない世界で、ワイルドタスクの体が内側から見えざる力でパンパンに張り詰め始めたのだ。
同時に、口や鼻から沸騰したような鮮血が噴き出し、体表から無数の気泡が湧き上がる。
あの強固な装甲が、内側から押し上げる肉の膨張に耐えきれず、音もなくひび割れていく。
そのあまりに冒涜的で異様な光景に、二人が戦慄したその瞬間、遠くからイヴリスの焦燥に満ちた声だけが響いた。
「お前達!!すぐに耳を塞いでその異形から離れろ!!!」
その剣幕に、三人は反射的に従い、耳を塞いで大きく距離をとった。
そして、その一瞬の膨張が止まった静寂の後。
―ヒュォン…
刹那、空気が急激に収縮するような風切り音が響き……
―ズドォォォォォンッ!!!!
限界まで膨張していたワイルドタスクの巨体が、一転して内側へと急激に押し潰され、ひしゃげた肉塊となって爆ぜた。
耳を塞いでいてもなお、内臓を揺さぶるような湿った爆音が轟き、赤黒い雨となって周囲に降り注ぐ。
「……な、何?……この魔法……」
ヴェルトールは、さっきまで苦戦していた巨体が、一瞬で原形を留めぬ『肉塊』と化した惨状を凝視し、滝のような冷や汗を流して引きつった。
物理的な破壊ではない。もっと根本的な、生物の構造を無視した暴力。
「凄まじい威力……。いや、というより現象?のように見えたな…」
レックスもまた、自分の要求が、これほど恐ろしい形で実現したことに、唖然と呟くしかなかった。
「はぁ……はぁ……。こ、これは……対象の周囲の空気を、薄くする魔法なんです……」
魔力を使い果たし、今にも倒れそうなほど青ざめた顔で、ラビは肩で大きく息をしながら言った。
すると――
―ポカッ!
「あいたっ!」
乾いた音が響き、ラビが頭を押さえる。
イヴリスは呆れ果てた様子で拳を振り上げていた。
「『なんです……』ではない、たわけ!薄くするどころか、完全になくなっておったぞ!!」
彼女は肉塊を指差し、断言する。
「あれは『真空』じゃ!空間の空気を完全に遮断し、最終的に気圧差で爆縮させたのじゃろうが!」
「……やはり、そなた……魔法の『挙動』そのものが、本来の理から逸脱しておる……」
イヴリスは、まだ湯気を上げている肉塊と、ラビの手を交互に見比べ、顎に手を当てて低く唸った。
「それってやっぱり、ラビがものすごい『才能』を持ってるってことじゃないのか?」
ヴェルトールは、頭をさすりながら涙目になっているラビを庇うように、明るく解釈する。
「才能……か」
イヴリスは鼻を鳴らす。
「ふん。それだけで片づけるには、少々無理があるが……。まぁよい」
彼女は思考の迷宮に入りかけるのを止め、頭を振った。
「現時点で原因を論理的に説明できぬ以上、今はそういう事にしておくしかあるまい。……議論の余地なし、じゃ」
彼女は釈然としない顔で話を打ち切る。今はまだ、この謎を解く鍵が足りないのだ。
そこへ、門の警備を任されていた鷹の衛兵が駆け寄ってきた。
彼は、湯気を上げて転がるワイルドタスクの成れ果て――肉塊と化した惨状を一瞥し、ゴクリと生唾を飲み込む。
「レックスさん……!お陰で助かりました!貴方たちが戻ってきてくれなければ、門ごと突破されていたでしょう……」
彼は顔を青ざめさせつつも、心からの感謝を述べる。
そして、ヴェルトールたちに向き直り、翼を畳んで深々と頭を下げた。
「お仲間の皆さんも、本当にありがとうございました!このご恩は忘れません!」
「あ、いえ……。とんでもないです」
「えへへ……」
そのあまりの剣幕に、ヴェルトールと、魔力切れでふらふらのラビは照れくさそうに会釈を返す。
「……最近は、ずっとこんな調子なのか?」
レックスは、半壊した門や周囲の爪痕を見渡しながら、鋭く尋ねた。
「……はい」
衛兵は表情を曇らせ、悔しげに俯く。
「あんな大物は今回が初めてですが……それ以外の中型・小型の魔物は、日に日に数が増えているように感じます。我々だけでは、手が回り切らないのが現状でして……」
「そうか……。事態は深刻だな」
レックスは顎に手を当て、考え込む。
カーツの話は本当だった。いや、現場の空気はそれ以上に切迫している。
「分かった。俺たちはエルシルへ寄った後、王宮へ向かう予定だ。……俺からも、国境の警備兵を増やすよう、打診しておこう」
「本当ですか!?ありがとうございます!!」
その心強い言葉に、衛兵はパァッと顔を輝かせ、最敬礼で見送った。
彼はすぐに仲間たちへ指示を飛ばし、門の修復と警備に戻っていく。
「……では、俺たちも先を急ぐか」
レックスは街道の先を見据え、歩き出そうとして――ふと足を止めた。
振り返った視線の先には、肩で息をし、疲労を隠せない様子のラビの姿があった。
「……と、言いたいところだが、予定変更だ」
彼は街道から少し外れた開けた場所を指差す。
「今日は突然の戦闘で、全員神経をすり減らした。……ここから少し進んだところに、水場の近い休める場所がある。今日はそこで野営をし、休息をとろう」
「ご、ごめんなさい……」
ラビは身を縮こまらせ、消え入りそうな声で謝った。
染み付いた自責の念が、彼女の頭を下げさせる。だが、レックスは彼女の震える小さな肩に、そっと大きく温かい手を乗せた。
「謝らなくていい。……胸を張れ、ラビ」
彼は目線を合わせ、揺るぎない事実を告げる。
「あの怪物を倒せたのは、君の魔法があったからこそだ。……この戦いにおける一番の功労者は、間違いなく君なんだからな」
一行は街道を外れ、レックスが目星をつけていた開けた場所で野営の準備を整えた。
「ふ~、ザレンでポーションを買い込んでおいて正解だったな!」
ヴェルトールは小瓶の中身を一気に飲み干すと、傷の痛みが引いていくのを感じて息を吐いた。
空になった容器を鞄にしまい込む彼を見て、ラビが眉を下げる。
「ごめんね、ヴェルくん……。私が魔力切れじゃなければ、すぐに治癒魔法で治してあげられたんだけど……」
「だから、すぐに謝るなって!」
ヴェルトールは苦笑して手を振った。
「これぐらいの傷なら薬で十分だし、何よりレックスさんの言った通り、今回の戦いの一番の功労者はラビなんだからさ。……もっとこう、逆に『どーん!』と胸を張ってればいいんだよ!それこそ、あいつみたいにさ!」
彼が顎でしゃくった先。
そこには、焚き火の一番暖かくて居心地の良い特等席を陣取り、腕を組んで「どーん!」と偉そうに座っているイヴリスの姿があった。
「……ふむ。肉はまだか?」
悪びれる様子など微塵もない。その堂々たる姿は、まさに「我が道を行く」を体現していた。
「……ど、どーん……?」
ラビは上目遣いでイヴリスを盗み見ながら、おずおずと小さく胸を張ってみせた。
だが、その姿は威厳とは程遠く、背伸びをする小動物のように愛らしい。
「ちがうよお姉ちゃん!こうやるの!……どーーーんっ!!」
シエナが割り込み、腕を組んでふんぞり返る。
そのふてぶてしい角度、顎の上げ方。まさにミニ・イヴリスだ。
「ふふっ……!」
あまりの再現ぶりに、ヴェルトールとラビ、そしてシエナ自身も顔を見合わせてクスクスと吹き出した。
「……?何がおかしいのじゃ?」
当のイヴリスだけが、肉を待つ体制のまま、怪訝そうに首を傾げている。
そこへ、周囲の確認を終えたレックスがゆっくりと歩いてきた。
「……楽しそうだな」
彼は穏やかに目を細めるが、すぐに表情を引き締める。
「ここまで来れば、エルシルはもう目と鼻の先だ。……だが、さっきの『ワイルドタスク』の件もある。夜は魔物の活性が高まる時間だ」
彼は空を見上げ、沈みゆく太陽を確認する。
「今夜は俺が徹夜で見張りをする。それに備えて、日が沈むまで少し仮眠を取らせてもらっても構わないか?」
「もちろんです!ゆっくり休んでください!」
ヴェルトールは快諾した。一番体を張って戦った彼が、夜も守ってくれようとしているのだ。
「食事の準備ができたら、起こしに行きますね!」
「あぁ、頼む」
レックスは短く頷くと、喧騒から少し離れた木陰を選び、静かな眠りへと落ちていった。
「よしっ!それじゃあ、俺とシエナで食事の準備を始めるとするか!ラビはそのまま、動かず休んでてくれ」
ヴェルトールは立ち上がり、凝り固まった背中をググーッと伸ばして骨を鳴らす。
「うん!任せて!美味しいの作るからね!」
シエナも元気よく立ち上がり、張り切って袖をまくった。
「……うん。ありがとう……ヴェルくん、シエナちゃん」
ラビは二人の優しさに甘えると、糸が切れたように仰向けに倒れ、そっと瞳を閉じる。
背中に伝わる土の匂いと草の感触。鉛のように動かない手足。
けれど、その疲労は決して不快なものではなかった。
瞼の裏に残る、魔力の残像。
空っぽだった彼女の胸の奥で、確かな自信が、ひっそりと芽生え始めていた。




