第四十二話:教え -Beyond the Logic-
一夜明け、森に差し込む朝陽が、朝露をキラキラと輝かせる頃。
交代で仮眠を取っていたレックスとラビが、焚き火の跡を片付けているヴェルトールたちの元へとやってきた。
「おはよう!二人とも!」
ヴェルトールは清々しい朝の空気を吸い込み、元気よく声をかける。
「あぁ、おはよう」
レックスは変わらない落ち着いた様子で短く返す。
対照的に、ラビはまだ夢の中に半分片足を突っ込んでいるようだった。
「ふわぁ……。お、おはよう……」
彼女は大きなあくびを噛み殺し、こしこしと眠たげに目を擦る。
「……顔色が悪いな。よく眠れなかったか?」
レックスが苦笑しながら気遣うと、ラビは「平気です」と弱々しく手を振った。
「さぁ、気合を入れろ。ここから国境までは、もう目と鼻の先だ」
彼は街道の先を見据えて告げる。
「野営で疲れは取れきっていないだろうが……もうひと踏ん張りだ。今日中にガラルドルフへ入るぞ」
一行はテキパキと荷物をまとめ、朝霧の晴れゆく街道へと足を踏み出した。
目指すは獣人の国。 新たな国境の門が、彼らを待っている。
大きなトラブルもなく、街道を順調に進むこと数時間。
視界が開け、ヴェルトールたちの目に飛び込んできたのは、圧倒的な光景だった。
「うわぁ……。めちゃくちゃデカい門だな……」
それは、巨大な谷の切れ間そのものを塞き止めるようにそびえ立つ、天然の要塞を利用した石造りの大門だった。
人間と獣人の国を隔てる、物理的な境界線。
遠くからでもわかるその威容に、ヴェルトールは思わず足を止め、感嘆の声を漏らす。
「あれを抜ければ、いよいよガラルドルフ領だ。……目的地の『エルシル』までは、あと半日もかからないだろう」
レックスが故郷の入り口を眺めながら告げる。
「あと少し、か……」
朝から歩き通しで、足が重くなっていた一行の顔に、安堵の色が広がる。
ゴールは見えた。彼らは気力を振り絞り、国境の門へと続く最後の坂道を、一歩一歩踏みしめていった。
~国境『狼牙の門』~
見上げるほどの威圧感。
巨大な鉄の杭を何本も打ち込んだようなその門は、まさに天を喰らう狼の牙の如くそびえ立っていた。
「間近で見ると、すごい迫力だな……」
ヴェルトールは首が痛くなるほど仰ぎ見ながら、その威容に圧倒されていた。
「――止まれ」
その時、頭上から鋭い声が降ってきた。
見張り台から舞い降りたのは、背中に翼を持ち、鋭い嘴と眼光を備えた鷹の獣人の衛兵だった。
「ガラルドルフへの入国か?生憎だが、今は魔物の活性化に伴い警備体制が強化されている。いかなる理由があろうと、通行証がなければ通すことはできんぞ」
その視線は矢のように鋭く、一行を射抜く。
威圧感に気圧されながらも、ヴェルトールは慌てて懐を探った。
「あ、あぁ、すいません!ちゃんと持ってます!えーっと……」
「…………」
「あ、あった!これです!」
彼はごそごそと手間取りながらも、カーツから託された通行証を取り出し、衛兵に差し出した。
鷹の衛兵はそれを無言で受け取ると、それを鋭い眼差しで検分する。
「……ふむ。ザレンのギルドマスター、カーツ殿の署名入りか。正式なもので間違いないな」
衛兵は納得したように頷くと、書類をヴェルトールに返し、背後の門を守る巨漢の門番たちへ手で合図を送った。
「よし、通せ!!」
ズズズズズ……ッ!!
腹の底に響くような重低音と共に、巨大な鉄格子の門がゆっくりと巻き上げられていく。
その向こうから吹き抜けてきたのは、野性味溢れる力強い風だった。
「ガラルドルフへようこそ!」
通行が許可されると、鷹の衛兵は先ほどまでの厳格な事務口調を一変させ、翼を広げるように朗らかに一行を歓迎した。
「旅の方々、道中お気をつけて!」
「……あぁ。ご苦労だったな」
すれ違いざま、少し離れていた最後尾のレックスが、静かに労いの言葉をかける。
その聞き覚えのある声に、衛兵がハッとして振り返った。
「っ!?まさか……レックスさん!!?」
衛兵は慌てて姿勢を正し、直立不動の敬礼をとる。
「帰ってこられたのですか!先に声をかけてくだされば、通行証など確認せずともよかったのに!」
「よせ。俺だけが特別扱いというわけにはいかないさ」
恐縮しきりの衛兵に、レックスは穏やかに苦笑し、その肩をポンと叩いた。
「規則は規則だ。……引き続き、警備を頼んだぞ」
「はっ!光栄であります!!」
感激した衛兵に見送られ、彼は何事もなかったかのように歩き出す。
「……レックスさん、あの衛兵さんと知り合いだったんですか?」
ヴェルトールは、未だに直立不動でレックスの背中に敬礼を続けている衛兵を振り返り、驚きの視線を向けた。
「ん?あぁ……。昔、ちょっとな」
彼は振り返りもせず、スタスタと歩きながら短く答える。
「『ちょっと』……という風には、見えなかったですけど……」
ラビも小走りで追いかけながら、思わず疑念を口にする。
あの態度は、単なる友人に対するものではなく、もっと上の……雲の上の存在に対する敬意に見えた。
「買い被りすぎだ。まぁ、俺はこの国の出身だからな。長く住んでいれば、顔見知りの一人や二人は――」
レックスが苦笑いで締めくくろうとした、その時だった。
――ドォォォォォォンッ!!!
凄まじい轟音が、会話を暴力的に遮断した。
衝撃は、今しがた通過したばかりの背後――『狼牙の門』の方角からだ。
「……っ!なんだっ!!?」
ヴェルトールが慌てて振り返ると、激しく土煙が舞い上がっているのが見えた。ただ事ではない。
「……ちっ!」
レックスの表情が険しく歪む。
彼はヴェルトールたちが声をかける間もなく、弾かれたように門の方角へと駆け出した。
「俺も行ってくる!三人は危ないから、ここで待っててくれ!」
ヴェルトールも即座に反応し、駆け出そうとする。
だが、その袖を掴む手があった。
「待って!わ、私も行く!」
「ラビ!?」
「あんな爆発……きっと、よくないことが起こったはず!」
ラビはヴェルトールの目を見据え、一歩も引かずに声を張り上げた。
「……私の魔法が必要かもしれない!足手まといにはならないから!!」
その瞳に怯えの色はない。
あるのは、自身の役割を全うしようとする、瑠璃色の強い意志だけ。
「……っ、わかった!」
ヴェルトールは一瞬驚いたが、すぐに信頼の笑みを浮かべて頷いた。
「頼りにしてる!でも、絶対に無理はするなよ!」
「うんっ!」
頷き合う二人。
彼らは先行したレックスの背中を追い、黒煙の上がる国境の門へと全速力で走り出した。
激しく立ち上る土煙と、硝煙の匂い。
ヴェルトールたちが国境の門に駆けつけると、そこで目にした光景に、彼は呼吸すら忘れて言葉を失った。
門の正面。
そこには、二階建ての家屋に匹敵する巨躯が、分厚い鉄格子の門を背に、ゆらりと立ちはだかっていた。
「……っ!!」
それは猪の姿をした魔物だった。
魔物の皮膚は分厚い岩の装甲を思わせ、背中には黒く硬い剛毛が逆立っている。
血走った両目の下からは、丸太ほどの巨大な牙が鋭く伸びていた。
(なんだ、あれは……!)
先ほどの轟音は、この『動く山』のような魔物が、強引に門に激突した音だったのだと、ヴェルトールは瞬時に理解した。
「う、嘘だろ……。なんてデカさだ……」
ヴェルトールの乾いた声が漏れる。
見上げることしかできないその威容は、生き物というより、動く要塞そのものだ。
「……あれは『ワイルドタスク』。一匹で街を半壊させる、災害級の魔物だ」
歴戦のレックスでさえ、頬に冷たい汗が伝うのを感じていた。
「そうそうお目にかかれる魔物ではないが……。カーツの言っていた通り、魔物が大量発生しているというのは、どうやら間違いなさそうだな」
「あ、あんなの……どうすれば……っ!?」
ラビが震える声で後ずさった、その瞬間。
ワイルドタスクの血走った巨大な瞳が、ギロリと三人を見下ろし――捉えた。
「ブオォォォォォォォッ!!!」
咆哮。次の瞬間、山のような巨体が、信じられない爆発力で地を蹴った。
「来るぞッ!!散開しろ!!」
レックスの警告が響く。
ヴェルトールは思考するより早く、反射的に右へと体を弾き飛ばした。
ゴオォォォォォッ!!!
暴風。直前まで自分がいた空間を、岩の塊が通過していく。
凄まじい風圧が肌を叩き、獣特有の生臭い息遣いと、圧倒的な熱量が、ヴェルトールの頬を焼き焦がすように掠め去った。
「フリーズ・ヴェロックス!!」
ラビは土煙の中、転がった体勢から起き上がり、即座に魔法を放った。
彼女の掌から、研ぎ澄まされた刃のような無数の鋭利な氷のつぶてが、猛吹雪のような勢いで放たれた。
ガガガガガガッ!!
氷礫は正確にワイルドタスクの側面を捉えた。
だが、硬い。氷の刃は岩のような剛毛と皮膚に弾かれ、ガラス細工のように粉々に砕け散ってしまった。
ダメージは皆無。表面にうっすらと白い霜が降りただけだ。
「くっ……!硬すぎる……!」
一方、レックスは突進を紙一重で躱すと、そのすれ違いざま、巨体を支える脚の関節――装甲の薄そうな一点を狙い澄まし、渾身の蹴りを叩き込んだ。
ガンッ!!
「ぐぅッ……!?」
響いたのは、肉を打つ音ではなく、巨大な鉄塊を叩いたような金属音。
脚甲越しに、痺れるような強烈な反動が返ってくる。
(……まるで、鉄の城壁を蹴ったようだ。)
レックスは着地と同時に顔をしかめ、舌打ちした。
確かな手応えはあったが、山のような巨体はわずかにグラリと揺らいだだけで、その歩みを止めるには程遠い。
ズドォォォォンッ!!!
轟音と共に、ワイルドタスクが谷の岩壁に激突する。
岩盤が砕け、土砂が降り注ぐが、怪物は意にも介さない。
分厚い脂肪と筋肉の鎧が衝撃を吸収し、即座にその巨体を反転させた。
「ブルルゥ……ッ!!」
噴き出す鼻息。
血走った狂気の瞳が、最も近くにいる獲物――レックスを捉える。
「くっ……!」
レックスは殺気を感じ取り、バックステップで距離を取ろうと跳躍した。
だが、怪物は逃がさない。そのまま首を振り上げ、丸太のような巨大な牙を突き上げる。
彼は空中で無理やり身体を捻り、紙一重でその突き上げを回避した。
着地した彼の目の前で、土砂が噴水のように舞い上がる。
ほんの数瞬前まで彼の足があった地面は、深々と無残に抉り取られていた。
しかし、ヴェルトールはレックスの回避が生んだ一瞬の隙を見逃さなかった。
「今だッ!!」
全力で駆け出し、ワイルドタスクの側面へ飛びつくと、鋼のように硬い剛毛を掴んで強引によじ登る。
筋肉が波打つ背中は、まるで暴れる岩山のようだ。
「これなら、どうだぁッ!!」
彼は足を踏ん張り、剣を両手で逆手に握りしめると、最も柔らかそうな首筋の付け根めがけて、渾身の力を込めて突き立てた。
ガギンッ!!
「なっ……!?」
結果は、レックスと同じだった。
突き刺さるどころか、岩盤を叩いたように剣が弾かれ、ヴェルトールの両手に痺れが走る。
その強固な皮膚は、刃を通すことさえ許さない。
「グモォォォッ!!」
背中の鬱陶しい異物に気づき、ワイルドタスクが激しく身悶えする。
「うわっ!?」
彼はその激しい動きに振り落とされ、受け身も取れずに地面に叩きつけられた。
ズダンッ!!
「がっ……、は……」
肺の中の空気が弾き出され、呼吸が止まる。
激痛に身体が動かない。霞む視界の先、巨大な質量がゆっくりと旋回し、再び三人を標的に定めたのが見えた。
谷間を揺らす地響きと共に、死の突進が迫る。
「い、いやぁっ!来ないでぇ!!」
ラビは悲鳴を上げ、氷のつぶてを連射する。
ガガガッ!!
だが、無情にも氷礫は岩の肌に弾かれ、粉々に砕け散るだけだった。
通じない。足止めにすらならない。
間一髪で突進を躱し、三人は一箇所に固まる。
全員、肩で息をしている。レックスの額にも汗が滲んでいた。
攻撃が通じない動く要塞。すり潰されるのも時間の問題だ。
(クソッ、このままじゃジリ貧だ……!『冥』の力を使うしか……!)
ヴェルトールは覚悟を決める。
そして、力を解放させようと拳を固く握りしめた。
――だが。
「……あれ?」
何も起きない。
いつもなら湧き上がるはずの灼熱の奔流が、指先ひとつ熱くしない。
そこにあるのは、虚ろな沈黙だけ。
(な、なんだ!?どうしてだ!?)
彼は青ざめ、自身の拳を見つめる。
力の源が、完全に干上がっているかのような、虚ろな感覚。
焦燥と混乱の淵に沈みかけていたヴェルトールを、静かな声が引き戻した。
「……今の我々の物理的な攻撃では、あの岩肌には意味をなさない」
レックスは冷静に戦況を分析し、震えるラビへと視線を向けた。
「となると……ラビ。君の魔法に頼るしかない」
「えっ……わ、私ですか……?」
「あぁ。さっきのような物理的な魔法ではなく……硬い外皮を無視して、体内に直接ダメージを通せる魔法……『雷』だ」
「……そ、そうなると……『ライトニング・アペクス』でしょうか……」
ラビは震える声で提案する。
天空からの落雷。あの威力なら、あるいは。
だが、レックスは首を横に振った。
「いや。あれは『垂直』に雷を落とす魔法だ。あの速度で暴れまわるアイツには躱される可能性が高い」
彼は巨体を見据え、鋭く指示を出す。
「必要なのは、奴の突進に合わせて正面から撃ち抜く……『水平』に放てる雷撃だ。……できるか?」
「……その、ごめんなさい……。私には、水平に放つ雷魔法は……使えません……」
ラビは悲痛な面持ちで俯き、消え入りそうな声で謝罪した。
期待された役割を果たせない。その事実が、彼女の心を鋭く苛む。
「そうか……。無理を言ったな、すまない……」
常に沈着冷静なレックスの額に、ついに焦燥の汗が滲む。
物理は通じない。魔法も手がない。
万策尽きた――その絶望的な空気を読み取ったのか。
ダンッ、ダンッ!!
前方で、ワイルドタスクが太い前足で地面を激しく削った。
腹の底に響く重低音。噴き出す荒い鼻息。
それは、次の一撃で確実に彼らをトドメを刺すという、慈悲なき合図だった。
自身の不甲斐なさに俯くラビの脳裏に、ふと、あの傲岸不遜な師の言葉がよぎった。
『その様に安易に常識という檻に囚われるのは、魔導士にとって害にしかならぬ!それは一種の諦めじゃ!』
『魔導士というのは……常に可能性を模索し、疑い、そして探求する心を忘れてはならぬ』
(常識を、疑え……)
思考が加速する。
レックスは「雷」と言った。だが、それは手段の一つに過ぎない。
目的は「硬い外皮を無視して、内部を破壊すること」。
(雷だけが、体内に干渉できる手段とは限らない……。常識に囚われない……体内に直接……可能性を模索……)
刹那、バラバラだった思考の点と点が、一本の線で繋がった。
「……あ」
レックスすら焦りを見せる絶望的な状況の中、ラビはハッと顔を上げた。
震えは、もう止まっている。彼女は指の背で、眼鏡の縁を強く押し上げた。
「……少し特殊……というか、生物に対して使うにはあまりに『残酷』な魔法なので、ほとんど使ったことがないんですが……」
彼女の声色は、さっきまでの怯えた少女のものではない。
術理を見出し、敵を討つ算段を立てた、一人の魔導士の決意を秘めた声だった。
「一つだけ……試したい魔法があります」
「……できるのか?」
レックスは巨獣から視線を外さず、静かに、しかし重く問いかけた。
失敗すれば全滅。その重圧を背負えるか。
「で、できます!……いえ、やらせてください!!」
ラビは震えを飲み込み、その鮮やかな瑠璃色の瞳でレックスを真っ直ぐに見つめ返した。
そこにはもう、迷いも恐怖もない。
「……いい返事だ」
レックスは彼女の瞳に宿った勇気を認め、ニヤリと口角を吊り上げる。
「俺とヴェルトールで、何とかして奴の注意を引きつけ、一瞬の隙を作ってみせる。……君はそれを見計らって、その魔法を確実に叩き込んでくれ!」
「はいっ!!」
号令一下。
ヴェルトールとレックスは弾かれたように左右へ散開し、自らを囮として暴走する「山」へと突っ込んでいく。
その背後。
ラビは祈るように瞳を閉じ、意識を研ぎ澄ませて、静かに魔力を練り始めた。




