第四十一話:秘めたる道 -The Vow of Silence-
ザレンの街を後にし、しばらく街道を進んだ頃。
空は燃えるような茜色に染まり、一行の影を長く、黒く伸ばしていた。
「ふむ……。みんな、今日は朝から街を歩き回って疲れているだろう」
先頭を歩くレックスは、後ろの歩調が明らかに鈍ってきているのを見て取り、足を止めた。
彼は周囲の地形を鋭く観察すると、街道から少し外れた、大きな木々が半円状に並ぶ草むらを指差す。
「本格的に暗くなる前に、今日はこの辺りで野営の準備をするか。あそこなら木々が風除けになるし、背後からの奇襲も防げる」
快適さと安全性を瞬時に見極める、手慣れた判断。
彼の提案に、歩き疲れていた一行の顔に安堵の色が浮かんだ。
「さんせ~……」
シエナは疲れた様子で、だらりと力なく手を挙げた。
「俺も賛成……。さすがに今日は、朝から歩き回ってクタクタだ……」
―ドサッ!
ヴェルトールは、朝よりも明らかに膨れ上がった旅鞄を、地面に下ろした。
食料の買い出しに加え、ラビの着替えや生活用品が増えた分、その重量は増している。
「ご、ごめんね、ヴェルくん……。私の荷物まで持ってもらっちゃって……」
ラビはそのパンパンになった鞄を見て、青ざめた顔で身を縮こまらせた。
以前のパーティでの習性が抜けず、罪悪感に押しつぶされそうだ。
「ふん。気にする事はない。足腰を鍛える『修行』じゃと思っておればよい」
イヴリスは腕を組み、涼しい顔で他人事のように言い放つ。
もちろん、彼女の手には何一つ荷物はない。
「……そういうイヴリスこそ、少しは荷物を持って修行した方がいいんじゃないのか……?」
彼がボソッと、聞こえるか聞こえないかの小声で漏らす。だが、地獄耳の邪竜は聞き逃さない。
「な、なんじゃと!?」
彼女はカッと目を見開き、わざとらしく自分の華奢な胸に手を当てて抗議した。
「何を言うか!我の様な可憐で繊細な乙女に荷物を持たせるなぞ……おかしいじゃろうが!」
「……よく言うよ。食べる量だけは一人前以上のくせに……」
どの口が言うのか。ヴェルトールは呆れ果てて呟き、やれやれと肩を回した。
野営の準備を終え、簡単な食事を済ませると、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが、静寂な森に優しく響く。
揺らめく炎を囲み、他愛のない話をぽつりぽつりと交わすこの時間は、冒険の中での数少ない安らぎのひとときだ。
「……レックスさん。ここから目的地……『エルシル』までは、あとどれぐらいかかるんですか?」
ヴェルトールは、小枝で火をいじりながら小声で尋ねた。
「ん……。ザレンから国境までは、そう遠くないからな」
レックスは声を潜め、自身の膝元へ……いや、もっと正確には、自身のふさふさした尻尾へと視線を落とす。
そこには、彼の立派な尻尾を抱き枕代わりにして、幸せそうに顔を埋めて眠るシエナの姿があった。
「順調にいけば、あと丸一日程度……明後日には到着できるはずだ」
彼はシエナを起こさないよう身じろぎひとつせず、穏やかな声で答えた。
「そっか……。長かったこの旅も、なんだかんだ、あとちょっとで一段落か……」
ヴェルトールはパチパチと燃える焚き火を見つめ、隣で寝息を立てるシエナに穏やかな視線を向けた。
追われる身での逃避行。けれど、振り返ればかけがえのない出会いに満ちていた。
「でも、それが落ち着いたら……次は王宮だ!」
彼は感慨深げな表情を一転させ、パァッと少年のような無邪気な笑顔を浮かべる。
「俺、本物のお城って初めて見るからさ!すっごくワクワクするよ!」
「うぅ……。お城、なんて……」
対照的に、ラビは膝を抱えて青ざめ、ガクガクと震えだした。
「私……緊張で心臓が爆発しそう……。門番さんに睨まれただけで気絶するかも……」
「何故そうなる……?」
イヴリスは、心底理解できないという顔で枯れ木を火にくべた。
「城なぞ、王族が住むただの巨大な家にすぎぬぞ」
「むぅ……。その『王族が住む巨大な家』に行くのが緊張するんですよ……!」
ラビは頬を膨らませ、イヴリスをジトりと睨んで言い返す。
以前の彼女なら絶対に言えなかった、ささやかな反論。
「イヴ先生は、世間の常識とデリカシーがちょっと足りないと思います!」
「な、なんじゃと……?デリカ……シー?」
まさか言い返されるとは思っていなかったイヴリスは、聞き慣れない単語に眉をひそめ、不思議そうに小首を傾げるだけだった。
「……ところで」
焚き火の爆ぜる音だけが響く中、不意にラビが不思議そうに口を開いた。
「イヴ先生は……どういった経緯でヴェルくんに同行することになったんですか?」
その、何の悪気もない純粋な問いかけが投下された瞬間。
ヴェルトールとイヴリスの動きが、ピタりと止まった。
「…………」
場の空気が、一瞬にして凍りつく。
それは触れてはならない「核心」に触れられた者が放つ、重く、鋭い緊張感だった。
その二人の沈黙の深さに、ラビは顔をサァッと青ざめさせた。
自分が、決して触れてはいけない古傷や、重い過去を抉ってしまったのだと察したのだ。
「ご、ごめんなさい!わ、私、変なこと聞いちゃいましたよね……!」
彼女は慌てて口元を押さえ、震える声で謝罪する。
楽しかった空気が、一変して張り詰めたものに変わっていた。
「……妹だと聞いているよ」
助け舟を出したのは、それまで静かに薪をくべていたレックスだった。
「あ、そうなんですね。確かにイヴ先生とシエナちゃんは似てる気が――」
「だが……。君が疑問を持つのも分かる」
レックスはラビの納得を遮り、低い声で告げた。
「正直……兄妹というには、あまりに不自然だ。ヴェルトールとシエナ、二人の間に流れる空気は紛れもなく血の繋がった家族のものだと思える。……だが」
彼は言葉を切り、焚き火の向こうに座る銀髪の少女へと顔を向けた。
「イヴリス。……君は違う」
「君はあまりにも達観し……俺たちの知らないような、膨大な知識を持っている」
レックスは静かに、しかし逃げ場のない事実を突きつける。
「悪いが……彼らと同じ環境で育ったと言うには、無理が――」
「それはッ!!」
ヴェルトールが叫び、勢いよく立ち上がった。
「それは……」
否定できない。レックスの指摘は正しく、自分たちの嘘はあまりに脆い。
ヴェルトールは拳を握りしめ、力なく俯いた。
「……確かに。レックスさんの言う通り、俺とイヴリスに血の繋がりはない。一緒に育ったわけでもないし、他人から見れば不自然かもしれない。……でも!」
彼はバッと顔を上げた。その瞳には、論理も種族の壁も飛び越える、熱い光が宿っていた。
「イヴリスは、俺たちの家族なんだ!俺たちは三人で、一つの家族なんだ!」
彼はイヴリスを見つめ、自分自身に誓うように、悲痛なまでの覚悟で言い放つ。
「俺が兄ちゃんで……イヴリスは、俺の大事な妹なんだ……ッ!!」
その魂からの叫びに、レックスも、ラビも、そして当のイヴリスさえも息をのみ、言葉を失った。
そこには、偽りの兄妹を超えた「真実の絆」だけが、痛いほどに響いていた。
「……すまない」
レックスは、ヴェルトールの凄まじい剣幕に気圧されたように、ふっと力を抜いて静かに謝罪した。
「君たちを詮索する気も、責める気もなかったんだ。……冷静さを欠いて、君たちの事情に土足で踏み込みすぎた。俺の悪い癖だ、許してほしい……」
彼は潔く非を認め、深々と頭を下げる。
「ご、ごめんなさい……っ!私が……突然、変なことを聞いたりしたから……」
ラビもまた、自分の不用意な一言がこの空気を作ってしまったのだと察し、泣きそうな顔でヴェルトールに頭を下げた。
「あぁいや!二人とも顔を上げて!!」
信頼する仲間たちに頭を下げさせてしまい、ヴェルトールは慌てて叫んだ。
「……本当は、二人には話しても大丈夫だって、わかってるんだ。ただ……」
彼は言葉を濁し、チラりとイヴリスを見る。まだ、時ではない。
「エルシルに着いて、落ち着くまでは……できるだけ言いたくないっていうか……その、なんていうか……!」
言葉が見つからない。
もどかしさに耐えかね、彼は勢いよく頭を下げた。
「とにかく、俺の方こそ本当にごめん!!二人を信用してないわけじゃないんだ!とにかく、今はまだ聞かないでほしい!」
「……わかっている」
レックスは目を閉じ、夜風に吹かれながら穏やかに微笑んだ。
「君たちが俺を信頼してくれていることも……そして、俺が君たちを信頼していることも、何一つ変わりはしない」
「わ、私も信じてるよ!」
ラビも、さっきまでの不安を振り払うように、両手で拳を握って身を乗り出した。
「だって、ヴェルくんと先生は……誰よりも私を信じて、勇気をくれたんだから!隠し事の一つや二つ、誰にだってあるよ!」
「二人とも……。ありがとう……!」
ヴェルトールは喉の奥を熱くさせ、滲んでくる涙を堪えるように、深く頷いた。
「……さて。これ以上騒いで、彼女を起こすのも悪い」
先程までの空気が嘘のように、レックスの声色が柔らかくなる。
視線の先では、未だシエナが彼の尻尾に顔を埋めて寝息を立てていた。
「このまま俺が見張りをする。君たちは、今のうちに休んでおくといい」
「あ、私もお手伝いします!」
ラビがすかさず手を挙げ、クスッと悪戯っぽく笑った。
「だってレックスさん……その様子じゃ、当分そこから動けそうにないでしょうし」
「……ふっ。参ったな、痛いところを突かれた」
レックスは自身の尻尾を見やり、観念したように肩をすくめる。
「では、お言葉に甘えて……二人ずつ交代で見張りを回すとしようか」
ヴェルトールとイヴリスは、先に休憩をとるために、焚き火の輪から離れた大きな木の下へと移動した。
レックスたちの話し声が、遠くのさざ波のように聞こえる距離。
「……おい」
腰を下ろすと同時に、イヴリスが声を潜めて口を開いた。
「……先程の、おぬしの言葉じゃが。……あそこまで腹を割ったのなら、いっそあの二人には正体を明かしてもよいのではないか?」
彼女はチラりと、焚き火のそばにいるレックスとラビの背中を見る。
その瞳には警戒色はなく、ある種の信頼が宿っていた。
「それにじゃ……。そもそも、何故この『邪竜イヴリス』ともあろう者が、コソコソと正体を隠さねばならぬのじゃ」
彼女は腕を組み、不満げに頬を膨らませる。
「まるで日陰者ではないか。……我が威厳に関わるぞ?」
ヴェルトールは真剣な面持ちで、イヴリスの真紅の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……違うんだ。俺は、イヴリスが邪竜だから隠したいわけじゃない。……お前が神に封印されていたってことが、気になってるんだ」
「はぁ?」
イヴリスは心底呆れたように鼻を鳴らす。
「そんなもの、我が世界を脅かす『滅びの竜』であるからに決まっておろう?強大すぎる力は、いつの世も神と対立するものじゃ」
彼女は髪を弄り、不服そうに続ける。
「大体、それとあの二人に真実を話せぬ事に、何の関係がある?」
「大ありだよ」
ヴェルトールは声を潜め、確信を口にする。
「この世界で『神』と言えば、ベガノス教会の『主神ベガノス』のことだ。……実際、イヴリスはその教会に封印を監視されていたってことだろ?」
イヴリスは記憶の底を探るように目を細め、首を傾げた。
「……まぁ、その辺りの詳しい事情は我もよく知らぬ。封印された時の記憶も曖昧じゃしな……。じゃが、あの連中がその『ベガノス』の手先だと言うなら、そういう事になるのかのぅ?」
「……ということは、教会は遅かれ早かれ、イヴリスの封印が解かれたことに気づく。……まぁ、あの神官は、もう確信してたっぽいしな」
ヴェルトールは淡々と自身の推論を述べた。
「じゃから、それがどうしたと言うのじゃ?話の繋がりがさっぱり読めぬぞ」
イヴリスは眉根を寄せ、理解不能といった様子で首を傾げる。
彼女にとって、敵が来るなら迎撃すればいいだけの話だ。なぜコソコソする必要があるのか。
「要するに……これから俺……イヴリスもか?は、本格的に『お尋ね者』になるはずだ」
彼は、楽しげに談笑しているレックスとラビの背中に視線を移し、痛ましげに目を細めた。
「その時……もし二人が『真実』を知っていたら、どうすると思う?あの優しい人たちのことだ。事情を知ってしまったら……俺たちを助けるために、教会を敵に回してでも、取り返しのつかない無茶をすると思わないか?」
巻き込まないための、最善の方法。それは――。
「……っ!!」
その言葉の裏にある「決断」を理解した瞬間、イヴリスの真紅の瞳が見開かれた。
「おぬし……まさか。事が済んだら……皆の前から姿を消すつもりなのか……?」
彼女は珍しく狼狽し、ヴェルトールに詰め寄った。「信じている」と言った舌の根も乾かぬうちに、解散する気なのか。
「っ!……シエナは……シエナはどうするつもりじゃ!」
「……そのために、エルシルに向かってるんじゃないか」
ヴェルトールは足元の草を見つめ、自嘲するように、けれどどこか寂しげに微笑んだ。
村長が紹介してくれた、エルシルの知人。
そこならきっと、シエナを安全に預けられる。自分が囮になって逃げれば、彼女だけは普通の幸せな生活に戻れるはずだ――と。
「…………」
その覚悟の重さに、イヴリスは言葉を失った。
怒鳴りつけてやりたい。馬鹿な考えだと否定したい。
だが、彼の横顔があまりに痛々しく、そして優しすぎたから。
「……はぁ」
彼女は長く、深いため息を吐き出した。
「おぬし……。ほとほと、損な性格じゃのぅ」
呆れ果てたようなその言葉。
だがそこには、彼の不器用な愛に対する、イヴリスなりの敬意と優しさが込められていた。
「……それにさ。俺にはどうしても、イヴリスは悪い奴だって思えないんだよ」
ヴェルトールは真っ直ぐに彼女を見つめた。
「……何より。あのシエナが、ずっと一緒にいた俺を差し置いて、イヴリスのことを『世界で一番優しい』って言うんだぞ?」
彼は肩をすくめ、少し拗ねたように苦笑する。
「兄として、さすがにちょっと嫉妬したけどさ……。でも、きっとそれが『真実』なんだ」
彼は寂しげな表情を拭い去り、瞳に力強い光を宿した。
「だから、俺は決めた」
「……なに?」
「その『世界で一番優しい邪竜様』を理不尽に封印した神……そして、それを崇める教会について、徹底的に調べてやろうと思ってる」
それは、世界そのものを敵に回すに等しい、無謀な宣言。
だが、ヴェルトールはニッと白い歯を見せ、冗談めかして笑い飛ばした。
「どうせこの先、『お尋ね者』として追われる身になるんだったら……ただ尻尾を巻いて逃げるだけじゃ、悔しいしな!」
「……ふん。おぬしがそれでよいと申すなら、我は止めはせぬが……」
イヴリスはそこで言葉を切り、レックスの尻尾を抱いてすやすやと眠るシエナへと視線を流した。
「……あやつを、説得できる自信はあるのか?『置いていく』などと言えば、教会の追手よりも恐ろしい事になるぞ?」
「う……」
痛いところを突かれ、ヴェルトールは言葉に詰まる。
泣き叫ぶシエナの顔が脳裏をよぎり、冷や汗が流れた。
「ま、まぁ……それは、おいおい考えるよ……あはは」
彼は直視できない現実から目を逸らすように、明後日の方向を見て力なく笑うことしかできなかった。
「……はぁ」
イヴリスはやれやれと肩をすくめ、本日何度目かわからない深いため息をつく。
「世界に喧嘩を売る覚悟を決めた男が、幼子の説得ひとつに怯えるとはな。……前途多難じゃ」
「っ!あぁ、そうじゃ!一つ言い忘れておった!」
しんみりした空気を切り裂くように、イヴリスは急に不機嫌そうに声を張り上げ、ビシッとヴェルトールの鼻先に指を突きつけた。
「よいか?先程、家族だなんだとぬかしておったが……我がおぬしの『妹』というのは、あくまで世を欺くための『建前』というのを忘れるな!おぬし如き人間風情が、この我の上に立とうなぞ一万年早いわ!」
「はいはい。でも、見た目は可愛い妹なんだから、いいじゃないか」
ヴェルトールは彼女の剣幕を軽く受け流し、ニッと悪戯っぽく笑う。
「なんなら……たまには兄ちゃんに甘えたっていいんだぞ?」
彼は冗談めかして、けれど拒まないように、イヴリスに向かって大きく両手を広げた。
「……っ!」
その無防備な抱擁の構えに、イヴリスの思考が一瞬停止する。
――甘える……?我が……?
彼女の視線が泳ぎ、一瞬だけ、その腕の中に飛び込みたいような衝動に駆られ――。
「……た、た、たわけがぁぁっ!!」
なかった。自身の軟弱な思考を振り払うように、彼女は耳まで真っ赤にして絶叫した。
「しょうもない事を言うとらんで、さっさと寝るぞ!寝ろ!今すぐじゃ!」
彼女はヴェルトールに背を向けるように、その場に勢いよく横たわり、毛布を頭から被って団子になった。
「ふふっ……。おやすみ、イヴリス」
その不器用で愛らしい姿に、彼はクスりと微笑む。
そして、もう一度仲間たちを見渡し、満足げに目を閉じて横になった。
夜風が優しく吹き抜ける。
長く、濃密だった一日は、温かい絆に包まれて静かに幕を下ろした。




