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滅びの竜と祈りの唄  作者: 彩月鳴
魔の胎動 -The Andante-

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第三十三話:反逆 -The Rejection-

運命の朝が訪れた。

宿屋『ウミネコ亭』の前。一行は、決戦の地となるギルドの方角を鋭く睨み据えていた。


「……この前イヴリスが言った通り、きっと穏やかに話をするだけってわけにはいかない」

ヴェルトールはシエナの肩に手を置き、言い聞かせるように、けれど強い懸念を込めて告げた。

「やっぱり、シエナは危険だ。頼むから、宿で留守番をしていてくれ」


「イヤッ!」

いつもなら素直に頷くはずの妹が、今日ばかりは珍しく頬をプーッと膨らませ、頑として首を横に振った。


「私だって、怒ってるんだもん!お姉ちゃんをあんな目に遭わせた人たち……絶対に許せない!」

彼女は小さな拳をギュッと握りしめ、潤んだ瞳で兄を見上げる。

それは駄々ではなく、友を想う純粋な義憤だった。

「みんなが戦いに行くのに、私だけ安全な場所で待ってるなんてイヤ!……邪魔はしないよ。危なくなったら、イヴちゃんの後ろに隠れてるから……お願い、連れてって!」



「……おい、待て。何故、我がその様な面倒な役割を……」

イヴリスが眉をひそめ、シエナに視線を向けて不満の声を上げようとした。 だが――。


「……はぁ。こうなったら、テコでも動かないもんな」

ヴェルトールは彼女の抗議を完全に無視し、深い諦めと共にシエナに向き直った。

「分かった。連れて行く」


「ほんと!?」


「あぁ。その代わり、約束だぞ?」

彼は膝をついて視線を合わせ、真剣な眼差しで言い聞かせる。

「もし戦うことになったら、絶対にイヴリスのそばを離れるんじゃないぞ?それと、万が一のことがあったら……振り返らずに、全力で宿へ逃げるんだ。いいな?」


「うん!わかった!約束する!」

シエナは決意を込めた表情で、力強く頷いた。

兄妹の間で交わされる、美しい約束。しかし、その蚊帳の外で――。


「…………」


イヴリスは口を半開きにし、驚愕の表情で固まっていた。


――無視……じゃと?この我が?邪竜ぞ!?


いつの間にか「シエナを守る係」に任命され、決定事項として話が進んでいる。

邪竜の威厳もへったくれもないその扱いに、彼女は反論する言葉すら見失っていた。




「……あの、聞いてください」

ギルドが見えてきた頃、ラビは足を止め、震える指の背で眼鏡の縁を押し上げた。

「ナインたちは……性格はあんなですが、決して口先だけの弱者ではありません。私が知っているだけでも、各地のギルドで依頼をいくつもこなしてきています」


彼女はギュッと唇を噛み、祈るように皆を見渡した。

かつて見せつけられた彼らの暴力と実力の記憶が、恐怖として蘇っているのだろう。

「だから……みなさん。どうか本当に、無理だけはしないで下さい……!」


「ふっ……。なに、心配はいらないさ」

レックスは立ち止まり、怯える彼女の目線に合わせて優しく微笑んだ。

「相手がどれほどの修羅場をくぐっていようと、関係ない」


彼はポンとラビの頭に手を置き、揺るがない声で告げる。

「きっと大丈夫だ。……君はただ、俺たちを信じていればいい」


その言葉は、根拠のない慰めではなく、歴戦の戦士だけが持つ「勝利への確信」に満ちていた。





やがて、一行はギルドから少し離れた路地裏に到着し、建物の影に身を潜めて様子を窺った。 朝霧の漂うギルド前。そこには、イライラと貧乏ゆすりをするナインとレオ、退屈そうなレティの三人が揃っていた。


「…よし、既に集まっているな。……では、予定通り作戦を開始する」

レックスが低い声で告げると、背後で不満げな声が上がった。


「……おい。本当に、我がやらねばならぬのか?」

イヴリスだ。彼女は腕を組み、心底嫌そうに眉をひそめている。

どうやら、自分の役回りに納得がいっていないらしい。


「仕方ないだろう。この任務は、シエナではあまりに危険だし、ラビにはそもそもできない」

レックスは表情一つ変えず、真剣な眼差しで彼女を見つめた。


「だが、君には何者にも動じない『胆力』と、相手を圧倒する『気品』がある。……これは君にしかできない、この作戦の要となる最も重要な任務なんだ。頼んだぞ、イヴリス」

彼はイヴリスのプライドをくすぐるように重々しく告げる。


「ぬぅ……」

その言葉に、イヴリスの表情がピクリと動いた。

「君にしかできない」「最も重要」。その甘美な響きに、邪竜の心が揺れ動く。


「……ふん、そ、そこまで言われては是非もない…」

彼女は口元が緩むのを必死に隠しながら、ふんぞり返って胸を張った。

「よかろう!大船に乗ったつもりで、我に任せておくがよい!」





「ちっ、ふざけんなよ!とっくに時間は過ぎてやがるぞ!」

レオは苛立ちを隠そうともせず、地面をガンガンとブーツで踏み鳴らした。

「何をしてるんだ、あの女は!?荷物持ちの分際で、俺たちを待たせやがって!」


「どうせまた、どこかで道に迷ってるんじゃない?」

レティは欠伸を噛み殺し、興味なさそうに自分の爪を眺めている。

ラビの安否などどうでもいい。ただ「遅い」という事実だけが不快なのだ。


「まったく……。どこまでも足手まといな女だ」

ナインもまた、腕を組んで舌打ちを漏らす。

その瞳にあるのは、仲間を心配する色などではなく、性能の悪い道具に対する侮蔑と苛立ちだけ。


「少しばかりキツい『教育』が必要かもしれんな……」

彼がどす黒い独り言を呟いた、その時だった。




苛立つ彼らの視界に、漆黒のドレスを纏った銀髪の少女が、とことこと無防備に歩み寄ってきた。


「……コホン」


彼らの目の前まで来ると、少女は愛くるしい咳払いを一つし、精一杯に声を高くして口を開いた。


「あのぉ……。お兄さんたちは、冒険者さんですかぁ?」


彼女は真紅の瞳をパチクリとさせ、好奇心で輝かせるように小首を傾げる。


――あぁ?なんだ、このガキは……。

最初は鬱陶しがったナインだが、すぐにその目が少女の衣装に釘付けになった。

見事なレース、上質な生地。今まで見たことのない一級品だ。


――……えらく変わったドレスだが、相当な値打ちモノだ。どこかの貴族の令嬢か?

金の匂いを嗅ぎつけたナインの脳内で、瞬時に計算が弾かれる。

彼は苛立ちを仮面の下に隠し、貼り付けたような爽やかな笑顔を向けた。


「やぁ、おはよう。いかにも、見ての通り僕たちは冒険者だ」

彼は紳士的に腰を屈め、少女の視線に合わせる。

「僕たちに何か用かな?可愛らしいお嬢さん」


「わぁ~っ!やっぱりそうなんだぁ!」

イヴリスは両手をポンと合わせ、宝石のような瞳をキラキラと輝かせた。

「私、本物の冒険者さんを見るの、初めてなんですぅ!すごぉい……!その鎧も、剣も、すっごく素敵ですね!」


「お、おう……。そうだろう?」

無邪気な称賛を浴びせられ、ナインは満更でもなさそうに鼻を鳴らす。

イヴリスは「もっと見せて」と言わんばかりに、ナインの周囲をとことことゆっくり回り始めた。


「へぇ~、ピカピカだぁ……。このベルトも、高そう……」

無邪気な少女の観察。

だが、その真紅の瞳は、鋭くナインの腰回りを見定めていた。


「ハハッ!お嬢さん、なかなかお目が高いな!こいつは、数々の激しい冒険を乗り越えて集めた、僕のコレクションさ!」

ナインは得意げに胸を張り、自身の装備を誇示する。

完全に気を良くしている。警戒心など微塵もない。


「すごぉ~い!お兄さんって、強いんですねぇ~!」


その時、イヴリスの真紅の瞳が、彼の腰にある革袋の一点を鋭く捉えた。

奴が気を良くして、わずかに警戒を解いたその一瞬の隙。


―シュッ!


彼女の手が、視認できないほどの速度で閃いた。


「……あ?」


ナインが気づいた時には、もう遅い。

革袋の紐は千切られ、中身が少女の小さな手のひらの上で弄ばれていた。


「わぁ!綺麗な宝石!これも冒険で集めたものなんですかぁ~?」


イヴリスは、朝日を透かすように禍々しく輝く『赤黒い玉』を高く掲げ、無邪気さを装って小首を傾げる。


「あっ!そ、それは……!!」

ナインは顔色を変えて飛びかかろうとするが、すぐにハッとして足を止め、引きつった笑顔を貼り付け直した。

「……お、お嬢さん?人のものを勝手に取るのは良くないなぁ……。さぁ、悪いことは言わない。それを、お兄さんに返してもらえるかな?」

額に汗を浮かべ、にじり寄るナイン。



だが、その瞬間。少女の顔から、愛らしい無邪気さが消え失せた。


「――断る」


ドス黒い覇気が、周囲の空気を震わせる。

彼女は玉を握り込み、ニヤリと三日月のような、邪悪で美しい笑みを浮かべた。


「返して欲しくば……まずはうぬらが、あの小娘の自由を返すがよい」


「なっ……!?」

ナインが息をのむと同時、路地の陰から怒号が轟いた。


「そこまでだっ!!」

待ち構えていたヴェルトールたちが、一斉に飛び出してきた。




「お、お前たちは……あの時の!」

彼らの登場に、ナインは狼狽し、次いで怒りの矛先を一番弱い立場の少女へと向けた。


「……ラビッ!!これは一体どういうことだ!?」


恫喝。その威圧的な声を聞いた瞬間、ラビの心臓がキュッと縮み上がる。

染み付いた恐怖。条件反射的な服従。

彼女は石になったように硬直し、唇をわなわなと震わせて俯いてしまった。


――怖い……。怒られる……。謝らなきゃ……。


「あ、ぅ……」


心が折れかけた、その時。


―トンッ。


彼女の腰を、何者かの手が静かに、しかし力強く押した。


「……っ?」


驚いて振り返ると、そこにはイヴリスが立っていた。

彼女は無言のまま、真紅の瞳でナインたちを顎でしゃくる。『行け』。その瞳はそう語っていた。

背中に残る手の温もりが、凍りついたラビの足を前へと押し出す。


「……ッ!」


彼女は弾かれたように前を向いた。そして、震える指の背で眼鏡の縁を押し上げる。

膝は笑っている。声も震えている。それでも、彼女は顔を上げ、搾り出すように叫んだ。



「も、もう……!あなたたちの言いなりには、なりません!!」


「なっ……?」


「お爺ちゃんの命を弄び……私を騙して利用したこと……!ここで、償ってもらいます!!」


それは、彼女の人生で初めての、明確な「拒絶」と「反逆」だった。


「……ふん」


その背中を見つめ、イヴリスは小さく、満足げに鼻を鳴らして頷いた。




「ほぅ……。言うじゃないか。……そいつらに、何か吹き込まれたのか?」

ナインは驚きを怒りで塗りつぶし、皮肉に歪んだ笑みを浮かべた。


「いいだろう。そこまで言うなら、今すぐ僕の下から去るといいさ!止めはしない!」

彼は両手を広げ、寛大なふりをして言い放つ。だが、その直後、蛇のように目を細めて付け加えた。

「……ただし!君が裏切ったその瞬間、僕の合図と共にレティに『結界』を解除させる!……そうなれば、君の大事なお爺さんの命も、それまでだ」


「……っ」

ラビの肩が強張る。ナインはそれを見て、「かかった」と確信した。

玉は奪われたが、彼女はまだ「結界」が命綱だと信じている。この恐怖がある限り、彼女は逃げられない。


「さぁ、選ぶといい。自由か、老人の命か!」

ナインは、これが絶対の切り札だと言わんばかりに、勝ち誇った醜悪な笑みを張り付かせた。

自分が裸の王様であることにも気づかずに。



「……ふん。在りもしない結界を解除するとは……随分と滑稽なことを言う」

レックスが静かに前に出る。

その全身から放たれる威圧感に、ナインの頬が引きつった。


「お前たちが先日、酒場で自慢げに話していた内容は、すべて俺が聞かせてもらった」


「な……?」


「ラビを闇市へ売り飛ばす計画、自作自演の襲撃、そして……マールス殿の呪法と結界の『真実』」


彼は淡々と、しかし刃物のような鋭さで罪状を並べ立てる。


「最初から最後まで……反吐が出そうな内容だったがな……!」


「て、てめぇっ!!一体いつの間に盗み聞きしてやがったぁ!!」

図星を突かれたレオが、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

その瞬間、場に静寂が落ちる。


「……ふむ」


イヴリスは自身のこめかみを指先でトントンと叩き、憐れむような目で彼を見下ろした。


「否定するどころか、盗み聞きされた事を怒るとは……自ら『図星です』と認める様なものじゃな」


「あ……っ!?」


「素行だけでなく、頭の出来も悪い様じゃのぅ」


「うぐっ……!」

レオはハッとして両手で口を押さえるが、もう遅い。

隣にいるナインとレティからは、鋭い睨みが浴びせられていた。




「お前たちの書いた三文芝居は、もう終わりだ!嘘も企みも、全部筒抜けなんだよ!!」


ヴェルトールは一歩踏み出し、ナインたちを指差して叫んだ。


「観念して、ラビを解放しろ!そして……大人しく彼女に謝るんだ!!」


「はぁ……?謝れ、だと……?」

ナインのこめかみに、青筋がピクリと浮かび上がる。

完璧だったはずの計画を壊され、あまつさえ見下していた「田舎者」に説教された屈辱。それが、彼のちっぽけなプライドを粉々に砕いた。


「くっ……!吹き溜まりの田舎から出てきたような、三流の冒険者風情が……何を偉そうに!!」

彼は整った顔を怒りで醜く歪ませ、憎悪を込めて足元に唾を吐き捨てた。

「もういい、交渉決裂だ。……こうなったら、ここで全員まとめて叩き潰してやる!!」


―ジャキンッ!!


殺意と共に、剣が抜かれる。

もはや理屈ではない。暴力で口を封じるしかない。

それは、最早引き返せない殺し合いの合図だった。



ヴェルトールとレックスも即座に構え、ナインたちと対峙する。

ギルド前の広場。 周囲の喧騒が遠ざかり、肌を刺すような一触即発の沈黙が、その場を支配した。


「――まずは貴様からだ、クソガキがぁ!!」

張り詰めた空気を切り裂いたのは、ナインの絶叫だった。

彼はヴェルトールを殺すべき標的と定め、怒りに任せて一直線に間合いを詰める。


「オラァッ!!」

呼応するように、巨漢のレオも動く。

両拳に装着した鋭利な鉄の爪をギラつかせ、重戦車のような勢いでレックスめがけて突進した。


そして、紅一点のレティは――。


――ふん、バカな男どもね。

彼女は正面からぶつかる愚を避け、後方へとバックステップ。

短剣を逆手に持ち、蛇のように冷たい瞳で、確実に殺せる「隙」を虎視眈々と窺っていた。




「お前みたいな田舎の三流冒険者は……選ばれたこの僕が、直々に叩きのめしてやる!」


ナインは自信満々に叫び、細やかな細工が施された長剣を、上段から容赦なく振り下ろした。

ギラギラと光るその刃は、彼の肥大した自尊心の象徴そのものだ。


――……見える。


しかし、ヴェルトールの瞳は冷静だった。

あの神殿騎士カイネスの、鉄塊のような剛剣と殺気を知っている彼にとって――ナインの剣は、あまりに軽く、隙だらけに見えた。


「死ねぇぇぇッ!」


振り下ろされる刃。ヴェルトールはそれを剣で受けることすらせず、ただ半歩、横へと足を踏み出した。


―ブォンッ!!


ナインの全力の一撃は、ヴェルトールの鼻先を虚しく通過し、地面を叩き割るような勢いで空を切った。


「なっ……!?」


勢い余って体勢を崩すナイン。

その重い風切り音は、威力こそあれど、標的を捉えられなければ無意味であるという、彼の過信を滑稽なほどに物語っていた。



──確かに、それなりの速度と鋭さはある。……でも。


ヴェルトールは、鼻先を掠める刃を冷静に見つめていた。


――あの神殿騎士(カイネス)の、鉄塊のような重圧に比べれば……動きは素直すぎるし、何より『軽い』!


「オラオラオラァッ!どうした、防戦一方じゃないか!!」


ナインは勝利を確信したように笑い、怒涛の連撃を繰り出す。だが、ヴェルトールは反撃を焦らない。

相手が纏っているのは、金に物を言わせて特注したであろう、継ぎ目のない堅牢なフルプレートだ。並大抵の斬撃では、傷一つつけることすら難しいだろう。


――闇雲に打っても弾かれるだけだ。……隙を待つんだ。


―ヒュンッ!キンッ!


ヴェルトールは最小限の動きで剣を捌き、紙一重で躱し続ける。

頬を風が撫でるたび、ナインは「追い詰めている」と錯覚し、嗜虐的な笑みを深めていく。

だが、事実は逆だ。ヴェルトールは一度たりともまともに剣を受けることなく、相手の間合いとリズムを完全に支配していた。



「す、すごい……。あのナインの攻撃を、全く寄せ付けないなんて……」

ラビは、信じられないものを見るように息をのんだ。

彼女にとって絶対的な「恐怖の象徴」だったナインが、ヴェルトールの前ではただの子供扱いされている。その光景は、彼女の心を縛る鎖を砕く、希望の輝きそのものだった。


「ま、当然じゃ。あやつもああ見えて、神殿騎士との死闘という修羅場をくぐっておるからの」

イヴリスは腕を組み、ふふんと鼻を鳴らして誇らしげに言い放つ。


「あの程度の小物に、今さら遅れをとる様な奴ではないわ」

自分のことのように胸を張るイヴリス。

その横顔を、シエナが「イヴちゃん、嬉しそう」と言いたげに、ニコニコと生温かい目で見つめていた。


「……っ!」

その視線に気づき、イヴリスはハッとして咳払いをする。

「……と、とは言え!ま、まだまだじゃ!なっておらぬ!」


「えぇ?」


「あの様な小物、攻撃すらさせずに瞬殺せねばな……!回避になど労力を割く必要もないわ!甘い、甘すぎるぞ!」

彼女は顔を赤らめ、誰に言うでもなく叫ぶと、ぷいっと勢いよく横を向いてしまった。

その隠しきれない信頼と照れ隠しに、シエナはさらに笑顔を深めるのだった。




「どうした、逃げ回ってばかりか?まぁ、賢明な判断だ!」


ナインは勝利を確信した笑みを浮かべ、剣速をさらに上げた。


「そんな安物のナマクラで、僕のこの鎧に、傷一つつけられるわけがないからなぁ!」


だが、ヴェルトールは挑発に乗らない。 冷静に刃を躱しながら、ふっと目を細める。

その瞳の奥に、理性が保たれた静かなる『紅』が灯った。


――……イメージしろ。爆発させるんじゃない。熱を、刃に乗せるんだ。


「……だったら、見せてやるよ」


呟きと共に、彼が剣を一振りする。

瞬間、刀身からじわりと『漆黒の陽炎』が滲み出した。


「な……?」


それは、以前のような周囲を巻き込む暴虐の炎ではない。

質量を持った煙のように刃に絡みつき、ジリジリと空気を焦がす高熱を秘めた――ヴェルトールが初めて制御下に置いた、『冥』の刃だった。



ヴェルトールは回避のステップを止め、一転して爆発的に間合いを詰めた。


「――ッ!」


ナインの剣閃を紙一重で潜り抜け、黒炎を纏った刃を、自慢のフルプレートの肩口へと滑らせる。


―ジュッ!!!


斬撃音ではない。高熱の鉄ごてを氷に押し付けたような、湿った溶解音が響いた。


「な……?」


ナイン自慢の鎧が、黒炎に触れた箇所からドロドロと黒く焼け焦げ、飴細工のように(ひしゃ)げながら内部へと沈んでいく。


「ぐっ!なんだこれは!?あ、熱いっ!!」


甲冑越しに伝わる灼熱と、肉が焦げる臭い。

ナインはあまりの激痛と恐怖に悲鳴を上げ、手から剣を取り落とした。


―カラン、カランッ……


虚飾に彩られた剣が、虚しく石畳を転がる。

その乾いた金属音は、彼の敗北を告げる鐘の音のように、静まり返った広場に響き渡った。


「ひっ、あ……」


腰を抜かしたナインの喉元に、切っ先がピタリと突きつけられる。

ヴェルトールは黒炎を霧散させ、熱を帯びた剣先だけで彼を見下ろした。

ドロドロに溶けて歪んだ鎧には、恐怖に顔を引きつらせたナインの間抜けな表情が映り込んでいる。


「……まだ、続けるか?」


ヴェルトールは冷たく言い放つ。その瞳には、もはや敵意すらなく、哀れな敗者を見る静かな侮蔑だけが宿っていた。

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