第三話:黒の森 -The Forest of Shadows-
~黒の森~
「はぁ、はぁ……っ、はぁ……!つ、着いた……ここが、黒の森……」
ヴェルトールは膝に手をつき、破裂しそうな心臓を必死になだめながら顔を上げた。
本来ならば、徒歩で丸一日近く要する長い道程。
だが、焦燥感に背中を焼かれるようにして駆け通したおかげで、まだ東の空が白む前――夜明け前には辿り着くことができた。
目の前にそびえるのは、巨大な闇の壁。
鬱蒼と茂る木々が、まるで侵入者を拒む城壁のように連なっている。
「……行くか」
彼は重い足に鞭を打ち、覚悟を決めてその一歩を踏み出した。
森に入った瞬間、空気が一変する。
視界を奪うほどの深い霧が立ち込め、カビと湿気が混じったような腐臭が鼻をつく。
そして何より、不気味な静寂が辺り一面に漂っていた。
「灯りは……これなら、夜明けまでは保ちそうか」
手にした松明が、心細げにパチパチと爆ぜる。
ヴェルトールはその揺らめく灯りを頼りに、闇の奥へと慎重に進んでいった。
「魔物がいるとは聞いていたけど……確かに、尋常じゃない気配だ」
彼は足を止め、闇の奥へと視線を凝らす。
ガサッ……。
風ではない。遠くで草葉が擦れる微かな音。そして、暗闇の中から何かがじっと息を潜め、こちらを観察しているような粘着質な視線。
肌が粟立つようなその感覚を、彼の研ぎ澄まされた野生の勘が敏感に捉えていた。
「武器は、これ一本だけ。……頼んだぞ」
彼は腰からショートソードを抜き放つ。
決して上等な業物ではない、ただの鉄の剣だ。だが、日々の手入れは欠かしていない。
松明の揺れる灯りを反射し、鈍く光るその刃だけが、今の彼にとって唯一の相棒だった。
「……なんとかなる。いや、なんとかするしかない」
自分自身に言い聞かせるように呟くと、彼は柄を強く握り直す。
鼻をつく湿った土と森の匂い。
ヴェルトールは全身の神経を刃のように尖らせながら、さらに森の奥へと足を踏み入れた。
しばらく森を進んだ、その時だった。
グルルルルッ……。
前方の暗闇から、地を這うような重く低い唸り声が響いた。
「……っ!」
ヴェルトールが足を止め、松明を掲げる。
すると、光の届かない闇の奥で、二つの凶悪な眼光がギラリと赤く輝いた。
ゆらりと姿を現したのは、全身に不吉な黒い靄を纏った異形の狼――シャドウウルフだ。
喉を鳴らし、鋭い牙の間からはボタボタと唾液が垂れ落ちている。
(……どう見てもただの野犬じゃないよな)
ヴェルトールは反射的に身を低くして構えると、剣の柄が軋むほど強く握りしめた。
全身から吹き出る冷や汗が、ここが死地であることを雄弁に物語っていた。
シャドウウルフの血走った眼球は狂気に濁り、その輪郭は靄で不確かに揺らめいている。
そこには理性など欠片もなく、あるのは純粋な「食欲」と「殺意」だけ。
初めての実戦。
膝が笑い、足が震えているのが自分でも情けないほどよくわかった。
(それでも、この奥に村を救う手掛かりがあるかもしれない……退けない!)
「来い……ッ!」
ヴェルトールが覚悟を決めた、その刹那。
ダンッ!
シャドウウルフが地面を抉り、突風のように飛びかかってきた。
凄まじい速度で空気を切り裂き、死の風を纏った鋭い爪が喉元へと迫る。
「くっ!」
ヴェルトールは思考するよりも早く、咄嗟に剣を跳ね上げて防御の構えを取った。
ギィィィン!!
金属と爪が噛み合う硬質な音が響き、腕の骨が軋むほどの強烈な衝撃が走る。
「ぐぅっ……!!」
重い。見た目以上の質量が、剣越しにのしかかってくる。
目の前には、涎を垂らす魔物の顎。
濃厚な死の匂いと恐怖が喉元までせり上がり、息が詰まる。
爪が目の前で火花を散らす。
圧倒的な筋力差に押し潰されそうになりながらも、ヴェルトールは奥歯が砕けるほど噛み締め、必死に踏みとどまった。
「ぐ、うぅぅぅ……ぅぁあっ!!」
気合いと共に、彼は渾身の力で剣を振り払う。
その勢いに押され、シャドウウルフの体が横へと弾き飛ばされた。
ザザッ。
わずかに生まれた空白の時間。
ヴェルトールは荒い息を吐きながら、汗ばむ手で剣を構え直す。
さっきまで膝を支配していた恐怖の震えは、もうない。
脳裏に浮かぶシエナの笑顔が、村のみんなの顔が、彼の恐怖を焼き尽くし、熱い闘志へと変えていた。
「こんなところで……やられてられないんだよッ!!」
ヴェルトールは自らを鼓舞するように吼える。
だが、魔物に慈悲はない。
グルルァッ!!
姿勢を立て直したシャドウウルフが、獲物を逃がすまいと低く唸り、間髪入れずに再び飛びかかってきた。
ヴェルトールは後ろへは退かず、逆に、死の牙が待つ前方へと、鋭く踏み込んだ。
ザッ!
足が土を強く蹴り上げ、視界の端で松明の灯りが流星のように揺れる。
目前に迫る牙の輝きに、心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。恐怖と興奮で視界が歪む。
だが、その瞬間――彼の集中力は極限まで研ぎ澄まされていた。
「おおおおおおっ!!」
全身のバネを使い、雄叫びと共に剣を横薙ぎに振り抜く!
ズバァッ!
鈍色の鋼が一条の閃光を描き、空中でシャドウウルフの胴を深々と引き裂いた。
肉を断つ重い感触が手に伝わる。
「ギャウッ……!」
黒い靄が弾け飛び、森に短い断末魔が響いた。
勢いを失った体はドサッと地面に転がり、痙攣した後、そのまま二度と動くことはなかった。
再び訪れる静寂。
ヴェルトールは緊張の糸が切れたように、その場にヘナヘナと座り込んだ。
「はぁ……はぁ……っ、なんとか、勝てた……」
手の震えが止まらない。全身が汗でぐっしょりと濡れている。
彼は自分の手のひらを見つめ、引きつった笑みを浮かべた。
「生きて帰ったら……剣の稽古、もっと増やさないとな……」
自身の恐怖を誤魔化すように軽口を叩き、荒れ狂う呼吸を整える。
しばらくして、彼は地面に落ちていた松明を拾い上げた。
「……よし、行くか」
ヴェルトールは立ち上がり、決意を新たに、さらに深く暗い森の奥へと進んでいった。
(どれぐらい、奥まで来たんだろう……)
時間の感覚が曖昧になるほど、ヴェルトールは深く暗い森を彷徨っていた。
手のひらには、先ほどの戦いの感触――肉を斬った重みと、痺れるような衝撃がまだ生々しく残っている。
「……守るんだ。シエナも、村のみんなも!」
彼は自らを鼓舞するように、祈りにも似た言葉を小さく呟く。
地面を埋め尽くす枯れ葉が音を立てないよう、足の裏全体を使って慎重に、かつ確実に歩を進めていく。
だが、行けども行けども景色は変わらない。
「しかし、何も見当たらないな……。あの時見た黒い光は、一体何だったんだ?」
ヴェルトールは焦燥感を滲ませながら、松明を掲げて周囲を見回す。
しかし、灯りの外側に広がるのは、どこまでも続く鬱蒼とした巨木の列と、数歩先すら見通せない濃い闇だけだ。
パチッ……。
松明の火の粉が弾ける音だけが、やけに大きく響く。
まるで世界に自分一人だけが取り残されたような孤独感が、彼の背中を冷たく撫でた。
その時だった。
ガサ……。
背後の闇で、何か巨大なものが湿った落ち葉を引きずるような、重く不快な音が響いた。
「……っ!!」
ヴェルトールは弾かれたように振り返り、松明を突き出す。
揺らめく炎が闇を切り裂き、そこに浮かび上がったのは――絶望的なほどの質量だった。
「な、なんだ……こいつ……!」
暗闇から鎌首をもたげたのは、深緑の鱗に覆われた巨大な蛇――ヴァイパーだ。
その体長は優に馬二頭分はあるだろうか。
丸太のように太い胴体が、とぐろを巻いて不気味にうねっている。
松明の灯りを冷たく反射する、ぬらりとした鱗。
そして何より恐ろしいのは、その目だ。
闇の中で光る金色の瞳が、ヴェルトールの淡い灰色の瞳を真正面から射抜く。
その威圧感に、彼の身体は強張った。
「くっ、やるしかない……!」
睨み合いの均衡を破り、ヴェルトールは覚悟を決めて地を蹴った。
狙うは、とぐろを巻いた太い胴体。
「はぁぁぁっ!!」
叫びと共に、真正面から剣を叩きつける。
ガギィィンッ!
「なっ……!?」
闇の中で、鮮烈な火花が散った。
肉を斬る感触は皆無。まるで岩を殴ったかのような強烈な反動が、剣を通して腕全体を痺れさせる。
「ぐっ……!?なんて硬さだ……!」
驚愕に目を見開くヴェルトール。だが、ヴァイパーは無傷だ。
魔物は鬱陶しそうに牙を剥くと、鎌首を高く持ち上げ、その巨槌のような頭部を勢いよく振り下ろしてきた。
ドォンッ!!
ヴェルトールは咄嗟に横へと飛び退き、泥にまみれながらも体勢を立て直す。
先ほどまで彼が立っていた地面は深く抉れ、無惨に土塊が飛び散っていた。
だが、魔物の追撃は慈悲を知らない。
ヴェルトールが安堵する間もなく、ヴァイパーは頭部を振り下ろした勢いをそのまま利用し、太い尻尾を鞭のようにしならせて横薙ぎに放った。
ドゴォッ!!
「がはっ……!?」
防御など間に合うはずもない。
脇腹にまるで丸太で殴打されたような衝撃が走り、彼の身体は勢いよく宙を舞った。
ドカァッ!
そのまま背中から背後の巨木に叩きつけられ、肺の中の空気が強制的に吐き出される。
「が、はっ……!」
咳き込むと同時に、口から鮮血が地面に飛び散った。
視界が白く明滅し、呼吸をするたびに肋骨が悲鳴を上げる。
(体中を……バラバラにされたみたいだ……!)
全身の筋肉が断裂したかのような激痛に、意識が飛びそうになる。
だが、ヴェルトールの指は剣の柄を離さなかった。
「う、ぐぅぅ……っ!」
彼は身悶えするほどの痛みを、奥歯を強く噛み締めて堪える。
木を背もたれにして、震える足に力を込め、よろよろと――だが確実に、彼は再び立ち上がった。
「……ま、まだだっ!こんなところで……っ!」
ヴェルトールは霞む視界で一瞬の隙を見出し、渾身の力を振り絞って剣を振るう。
だが――
キィンッ!
硬質な音が、虚しく森に響くだけだった。
鋼鉄のような鱗は刃を通さず、その反動で彼の体勢が大きく崩れる。
そこへ、ヴァイパーの鋭い牙が、無防備な喉元めがけて襲いかかった。
「くっ……!!」
ガギィンッ!
ヴェルトールは反射的に剣を盾にするが、その衝撃は桁違いだった。
「が……ぁ……!」
腕の感覚が一瞬で消え飛び、剣を取り落としそうになる。
膝が地面につき、全身の力が抜けていくのがわかった。
「クソッ……シエナ……」
守ると誓ったはずの妹の名前が、遠のく意識の中で儚く揺れる。
よろめき、無防備に立ち尽くすヴェルトール。
その目の前で、ヴァイパーは勝利を確信したように動きを緩めた。
ズズズ……ズズズ……。
乾いた鱗が擦れ合う不快な音を立てながら、巨大な蛇はゆっくりと、確実に獲物にトドメを刺すべく這い寄ってくる。
その時だった。
グオオオォォォォオオッ……!!
突如として、森の奥深くから大気を震わせるような、重い咆哮が轟いた。
「……!?」
ヴェルトールが身をすくませるのと同時に、目の前の魔物がビクリと巨体を震わせる。
金色の瞳孔が恐怖に収縮し、先ほどまでの殺意は消え失せていた。
すると、ヴァイパーはヴェルトールなど眼中にないといった様子で、脱兎のごとく森の闇へと姿を消していった。
後に残されたのは、嵐が去った後のような静寂だった。
「はぁ……はぁ……。助かった……のか?」
ヴェルトールはその場にガクリと膝をつく。
もはや指一本動かす力も残っていない。
カラン……。
力の入らなくなった手から、剣が乾いた音を立てて零れ落ちた。
(体が……動かない……)
それまで忘れていた激痛と倦怠感が一気に押し寄せ、視界が急速に滲む。
「シエナ……」
妹の名前を呼ぼうとした唇は音にならず、彼の体は泥の上に無防備に倒れた。
そして、意識は深い闇の底へと沈んでいった……。
「♪……yve……r mal……」
深い静寂の底で、どこか懐かしく、微かな旋律が鼓膜を撫でた。
「歌が……聞こえ、る……」
地に伏したヴェルトールは、泥の匂いの中で薄れゆく意識を必死に繋ぎ止め、耳を澄ませる。
鬱蒼とした森の奥から漂う、不思議な音色。
――それはまるで、誰かが自分を呼んでいるかのような響きだった。




