第二十八話:再会 -The Crossroads-
ギルドへと向かう道の上。
イヴリスが、不意に足を止め、神妙な面持ちでヴェルトールの袖を引いた。
「……おい。待て」
「ん?どうした?」
「先程レックスが、『邪悪なものは入れぬ』と言うておったな。……なれば、我は大丈夫なのか?」
彼女は眉間に深いしわを刻み、真剣に悩み始めた。
「何せ我は『邪竜』……。いわば、邪悪の権化のような存在じゃぞ?入り口で雷に打たれたりせぬか?」
「い、いや……。さすがに考えすぎだろ?」
あまりの深刻そうな問いかけに、ヴェルトールは苦笑いするしかない。
「今の見た目は、どこからどう見てもただの女の子だし……。バレるわけないって……」
「ふむ……。なればよいのじゃが……」
まだ納得しきれない様子で、彼女は不安げに巨大なギルドの建物を見上げる。
そこへ、先行していたシエナの声が飛んできた。
「おーい!はやくー!!」
彼女は既にギルドの重厚な扉の前で立ち止まり、待ちきれない様子でブンブンと両手を振っている。
「あぁ!今行くよ!」
ヴェルトールは大きく返事をすると、まごまごしている邪竜に向き直った。
「心配するなよ。もし何かあっても、俺が絶対になんとかするから」
「なっ……」
「とにかく、行ってみよう!」
言葉より早く、彼はイヴリスの小さな手をギュッと取り、強引に歩き出した。
「お、おい!」
彼女は短い抗議の声を上げるが、その手は振り払われることなく、ヴェルトールに引かれるまま素直についていくのだった。
三人は、ついにその重厚な石造りの建物の足元に立った。
目の前にそびえ立つのは、まるで巨大な一枚岩を削り出したかのような、堅牢な威容。
「近くで見ると、想像以上にデカイな……」
ヴェルトールは首を反らし、威圧的な壁面を見上げて、思わず声を漏らした。
「すごい……!お城みたい!」
一方、シエナはその巨大さに目を輝かせ、両手で小さな口を覆って歓声を上げた。
彼女の目には、そこが物語に出てくる王城のようにキラキラと映っているらしい。
潮風に晒されてもビクともしない分厚い石壁。
その威容は、木造建築が建ち並ぶこの素朴な港町には不似合いなほど異質で――ここだけが「別世界」の理で動いていることを物語っていた。
意を決して、ヴェルトールが扉に向かおうとした、その刹那。
バァン!!!
鼓膜を叩くような轟音と共に、重厚な扉が内側から勢いよく開かれた。
「うわっ!?」
驚く三人の目の前を、何者かの人影が横切る。
その人物は、まるで邪魔な荷物でも放り投げられるかのように、ギルドの薄暗い奥から勢いよく外へと転がり出てきたのだ。
ドサッ。
「い、いたた……」
地面に放り出された人物は、痛そうに腰をさすりながら呻き声を上げる。
派手に投げられた割には、そこまで酷い怪我はしていないようだ。
「な、なんだ!?」
ヴェルトールは突然の出来事に驚愕したが、すぐに我に返り、地面へ投げ出された人影へと駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!?」
彼はその人の体をそっと支えながら、声をかける。
イヴリスとシエナは、あまりに唐突な事態に、目を丸くして立ち尽くしていた。
「う、うぅ……。あ!は、はい……ごめんなさい……だ、大丈夫……です」
弱々しく震える声。
痛みに顔を歪めながらも、助け起こされたことに対して真っ先に謝罪が出るその姿勢。
そして何より、その鈴を転がしたような声色には、紛れもなく聞き覚えがあった。
「その声……。君、もしかして……」
ヴェルトールは、彼女が深く被っていたフードの奥を、恐る恐る覗き込んだ。
影の中に浮かび上がる、ズレた眼鏡と、怯えた瞳。
「やっぱり!ラビじゃないか!!」
「え……?」
ヴェルトールの叫びに、彼女――ラビはきょとんとして目をぱちくりとさせた。
ポルナで別れたはずの少女が、なぜ海を越えたこの街に。
予期せぬ再会に、二人の時は一瞬止まった。
「あ……ポルナの……」
痛みに顔をしかめながら、ラビは薄れゆく記憶を繋ぎ合わせ、目の前の青年が誰であるかを認識した。
「一体どうしたんだ?ギルドの中で、何があった!?」
ヴェルトールが彼女を支えながら問いかけた、その直後だった。
「――おいおい、ラビ」
ギルドの薄暗い入り口から、呆れたような、それでいて粘着質な声が響いてきた。
「君、どこでそんな男を引っ掛けたんだ?」
姿を現したのは、整えられた髪を揺らす、顔立ちの整った一見爽やかな優男だった。
街ですれ違えば誰もが振り返るような好青年。
だが、その唇には見る者を不快にさせる嘲笑が張り付き、眼差しはラビを汚物のように見下ろしていた。
「何もできない『役立たず』のくせに……そういうところだけはしっかりしてるんだなぁ?」
爽やかな声色で吐き出される、底意地の悪い悪態。
その言葉を聞いた瞬間、ラビの体がビクッと怯えに震え上がった。
「なんだ、お前……」
ヴェルトールは、腕の中のラビを庇うように抱き寄せると、男を射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。
低く、地を這うような声には、隠しきれない怒気が孕んでいる。
「いきなり女の子を放り投げておいて……何様のつもりだ」
「何って……」
男は整った顔に、生理的な嫌悪感を誘うニヤニヤとした嘲笑を張り付かせた。
ヴェルトールを値踏みするようにジロジロと眺める。
「僕は、その女の『仲間』だよ」
「……仲間?」
ヴェルトールは眉をひそめ、腕の中の少女に視線を落とした。
否定してくれ。そう願った。
だが、ラビはガタガタと震えながら深く俯き、唇を噛み締めて沈黙している。
その重苦しい沈黙こそが、男の言葉が紛れもない事実であることを、残酷なまでに肯定していた。
「仲間が……こんな酷い真似、するわけないだろ……ッ!」
ヴェルトールはギリッと奥歯を鳴らし、腹の底から湧き上がる激情を必死に抑え込んで絞り出した。
彼にとって『仲間』とは、互いに助け合い、命を預け合う尊い存在だ。
目の前の男は、その言葉を最も汚らわしい形で冒涜している。
「おっと!誤解しないでくれよ?乱暴なマネをしたのは、僕じゃないぞ?」
男は大げさに両手を振り、心外だとばかりに肩をすくめる。
「やったのは、あいつだ」
彼が嘲笑混じりに指差した先。
ギルドの入り口に、丸太のような腕を組み、ニタニタと面白そうにこちらを眺めている筋肉質の巨漢が立っていた。
「ま、彼も僕の大事な『仲間』なんだけどね!力が有り余ってるもんで、つい手が滑ってしまったらしい!ははははッ!!」
男は身内が行った暴力を、まるで質の悪い冗談のように笑い飛ばす。
その整った顔は心底楽しそうに歪んでおり、響く笑い声は、ヴェルトールたちの耳には純粋な悪意そのものとして届いた。
そこへ、男の傍らに立っていた女が、退屈そうに声をかけた。
「ねぇ、"ナイン"?もういいでしょ?」
彼女はヴェルトールたちを、道端の石ころでも見るような興味のない瞳で一瞥する。
「こんな奴ら放っておいて、さっさと飲みに行きましょ?喉渇いちゃった」
「おぉ、そうだな!すまない、"レティ"」
ナインはレティの腰に手を回し、機嫌を取るように頷いた。
そして、最後にゴミを見るような冷たい視線を、足元で俯くラビへと落とす。
「おい、ラビ。……出発は三日後の朝だ」
それは、仲間への連絡ではない。道具への通告だった。
「それまでに準備を整えておけ」
そう言い捨てると、ナインはレティと、ニタニタ笑う筋肉男を引き連れ、ヴェルトールたちに背を向けた。
楽しげな笑い声を上げながら、彼らは酒場の明かりが漏れる通りへと消えていく。
その場には、置き去りにされたラビと、行き場のない怒りを抱えたヴェルトールたちだけが残された。
「……ふむ。我の目には、あれは十分に『邪悪』な存在に映るのじゃがな」
イヴリスはナインたちが消えた方向を冷ややかに見つめ、鼻を鳴らした。
「あれ程の悪意を抱えた者でも、問題なく出入りできるとはな。……人間の作る『鉄の掟』とやらも、存外、穴だらけということか」
彼女の言葉は、ギルドの矛盾を鋭く突き刺していた。
「お姉ちゃん……大丈夫?痛くない?」
シエナが駆け寄り、砂埃にまみれたラビの背中を優しくさする。
「あいつらは……本当に、君がポルナで言っていた『仲間』なのか?」
ヴェルトールは膝をつき、信じられないという思いを込めて問いかけた。
「あんな……酷い真似をするような連中が……?」
仲間とは、助け合い、守り合うものではないのか。
彼の常識が音を立てて崩れていく。
「……はい」
ラビは地面を見つめたまま、蚊の鳴くような声で答えた。
「一緒に旅をしている……私の、仲間……です……」
その言葉は、関係性を認める肯定の言葉というよりは、逃れられない運命を受け入れた、囚人の独白のように響いた。
「……とにかく。ここは衆目の的じゃ。込み入った話をするには適しておらぬ」
イヴリスは周囲をチラりと一瞥した。
ギルドに出入りする冒険者たちが、騒ぎを聞きつけて何事かと遠巻きにこちらを窺っている。
「長居は無用。我らも街の方へと移動するとしよう」
「……あぁ、そうだな」
彼女の冷静な判断に、ヴェルトールは頷いた。
彼は、放り出された衝撃でまだ足元がおぼつかないラビの肩を、そっと支える。
「立てるか?無理しないで、俺に掴まってていいからな」
「は、はい……。ごめんなさい……」
ヴェルトールは彼女を庇うように支え、心配そうに寄り添うシエナと共に、ナインたちが消えていったのと同じ――街の方角へと足を踏み出した。
背後には、沈黙したままの重厚なギルドの扉。
やりきれない複雑な思いを抱えながら、四人は灰色の港町、ザレンの雑踏へと紛れていった。
「どこか、落ち着いて休める場所はないか……」
ヴェルトールが焦るように視線を巡らせていると、木陰の下で、見覚えのある暗赤色の姿が木にもたれて休んでいるのが見えた。
「おや。ずいぶんと早いお帰りだな」
レックスだ。彼は片手を挙げて挨拶しようとしたが――ヴェルトールに肩を借りて歩く少女の姿を捉えると、その翡翠色の瞳をスッと細めた。
「……彼女は、ポルナで出会った魔導士か?怪我をしているな」
瞬時に状況の異様さを察知し、声色が真剣なものに変わる。
「何があった?詳しく聞かせてもらえるか」
彼の落ち着いた、けれど頼もしい声に促され、ヴェルトールは悔しさを滲ませながら、ギルドの前で起きた出来事を、ありのままに語って聞かせた。
「……というわけで。どこか落ち着いて休める場所がないかと探してたんです」
ヴェルトールが説明を締めくくると、レックスは腕を組み、即座に思考を巡らせた。
「なるほど……。その『ナイン』とかいう男の性格からして、目抜き通りの派手な酒場や宿へ繰り出した可能性が高いな」
彼は顎を撫で、少し湿った匂いのする路地の方角を見定める。
「ならば、裏通りだ。あっちに、地元の漁師たちが仕事終わりに利用する『大衆食堂』がある」
「へぇ!そんな場所があるんですね」
「あぁ。そこなら余計な鉢合わせも避けられるし、落ち着いて話も聞けるだろう。行こう」
レックスが先導し、一行は再び歩き出す。
ヴェルトールが肩を貸し、シエナが心配そうに寄り添い、イヴリスとレックスが前後を固める。
傷ついたラビを外敵から守るようなその陣形は、出会ったばかりとは思えないほど自然で、既に一つの「パーティ」としての絆を感じさせた。
~大衆食堂『一本釣り』~
暖簾をくぐった瞬間、ムワッとした熱気が一行を包み込んだ。
網焼きにされた魚の脂が炭に落ちる匂い、安いエールの香り、そして男たちの汗と煙草。
店内は漁師たちでごった返しており、耳を塞ぎたくなるほどの豪快な笑い声が飛び交っている。
「……うむ。むさ苦しいが、あの気取った連中よりは余程マシじゃな」
イヴリスは鼻をつまみつつも、ここならナインたちは来ないだろうと納得したようだ。
「あそこの席がいいだろう」
レックスは喧騒を縫うように視線を走らせ、店の一番奥、太い柱の影になっている壁際のテーブルを指差した。
「あそこなら人目につかず、周囲の話し声が壁になって、こちらの会話も聞かれにくい。……込み入った話をするには、最適な場所だ」
彼の完璧な場所選びに頷き、一行は人波をかき分けて店の奥へと進む。
四人がラビを奥の席に座らせてテーブルを囲むと、すぐに愛想の良い看板娘が、木製のジョッキに波々と注がれた水を運んできた。
「いらっしゃい!ご注文はお決まりで?」
「……この『豪快!漁師の宴』とやらを一つ所望する」
イヴリスは躊躇なく、メニューの一番派手な料理を指差し、店員に告げた。
「ちょっ!イヴリス!」
ヴェルトールは慌てて彼女の耳元で囁く。
「空気読めよ!今はご飯を食べに来たわけじゃないんだぞ!」
「たわけ。飯屋に来て、飯を頼まぬなどおかしいじゃろうが」
イヴリスは「何を当たり前のことを」と言わんばかりに鼻を鳴らし、真顔で説き伏せる。
「……何も頼まずコソコソと話しておる方が、却って目立つというもの。これは高度な『擬態』じゃ」
「うぐ……。た、確かに……言われてみれば、それも一理ある……のか?」
その圧に押され、ヴェルトールは納得させられてしまった。
「……はぁ。わかったよ」
結局、皆がそれぞれ飲み物や軽食を注文し、店員が奥へと去っていく。
残されたのは、周囲の喧騒から切り離されたような、テーブルの上の静寂。
重苦しい沈黙を破ったのは、ヴェルトールの素っ頓狂な声だった。
「ああっ!そうだ!そういえば……!」
彼は何か重大なミスに気づいたように、ポンと手を打つ。
ビクッとするラビに、彼はバツが悪そうに頭を掻きながら言った。
「まだ、俺たちの名前を教えてなかったよな。自己紹介が遅れて申し訳ない!」
彼はラビの緊張を解きほぐすように、努めて明るく名乗り出る。
「俺の名前はヴェルトールだ!よろしくな、ラビ」
「私はシエナだよ!よろしくね、お姉ちゃん!」
「……レックスだ」
「ふん、イヴリスじゃ」
順々に挨拶を交わすと、ラビは少しだけ強張っていた肩の力を抜き、恐縮するようにペコリと頭を下げた。
「は、はい……。改めまして、ラビです。よ、よろしくお願いします……」
ほんの少しだけ、場の空気が和んだ、その時だった。
「はい!お待ちどうさま!!」
威勢の良い掛け声と共に、テーブルがミシッと軋む音がした。
「『豪快!漁師の宴』お待ち!!」
「おおぉぉ……!!」
ドンッ!!と置かれたのは、湯気を立てる巨大な大皿料理。
山盛りの貝、丸ごとのカニ、そして香ばしく焼かれた魚たちが、ニンニクとバターの強烈な香りを撒き散らしている。
その横には、シエナが頼んだふっくらとしたパンや、飲み物がちょこんと並べられていった。
「ほぅ……!これは……!」
イヴリスの真紅の瞳が、料理の輝きに釘付けになる。
深刻な話の前に、まずは腹ごしらえ――否、食欲との戦いが始まりそうだった。
目の前には、食欲をそそる湯気を立てるご馳走が並んでいる。
だが、ヴェルトールはそれに手を付けようとはせず、一度だけ深く、静かに息を吸い込んだ。
彼は、傷ついた小動物に触れるように、細心の注意を払って言葉を紡ぐ。
「……ラビ。言いにくかったら、無理して答えなくてもいいんだけどさ」
彼は前置きをし、しかし核心を避けることはしなかった。
彼女の目を真っ直ぐに見つめ、問う。
「……あいつらとは、このまま一緒に旅を続けようと思ってるのか?……あんな酷い扱いを受けてまで」
「えと……あ、あの、私は……」
ラビはビクッと肩を震わせ、視線をテーブルの木目へと落とした。
答えようとして、唇がわなわなと震え、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。
ガヤガヤと笑い声が響く食堂の喧騒。
その中で、彼らのテーブルだけが、重く冷たい沈黙に支配されていた。
「えぇい、相も変わらず……おどおどとして歯痒いのぅ……」
イヴリスは沈黙に痺れを切らし、少し苛立った様子で言い放った。
その鋭い一言が、重く澱んでいたテーブルの空気を切り裂く。
「ここには、そなたを責める者なぞ一人もおらぬ。……腹に溜めた泥を、そのまま口から吐き出せばよいのじゃ」
「……!」
彼女はもぐもぐと、豪快に盛り付けられた魚を頬張りながら、さも当然の事実を告げるように言った。
行儀は悪い。けれどその言葉は、飾らない本音としてラビの胸に響く。
その言葉に背中を押され、ラビは意を決したようにゆっくりと顔を上げた。
彼女は震える指の背で、眼鏡の縁を押し上げた。それは、彼女なりの小さな「覚悟」の合図。
視線が巡る。
真っ直ぐに見つめるヴェルトール、心配そうに微笑むシエナ、静かに見守るレックス、そして食べる手を止めないイヴリス。
誰も急かさない。誰も否定しない。
その一つ一つの頷きは、『ここにいる全員が君の味方だ』という、何よりも力強い無言の誓いだった。
ラビは震える息を深く吸い込み、恐怖を押し殺すように整えた。
覚悟を決めたその顔が、ゆっくりと上がる。
逃げずに、皆の視線を正面から受け止めた。
眼鏡のレンズの奥。
いつもは伏せられていたその瞳は、ハッとするほど鮮やかな瑠璃色をしており、そこには今、小さな、けれど確かな決意の炎が揺らめいていた。
「あの……。ナインたち……三人のことなんですけど……」
彼女は膝の上で拳を握りしめ、消え入りそうだった声に必死に芯を通す。
――そして、重い口を、ついに開いた。




