第二十六話:兄の役割 -A Place to Belong-
「ええぇ~っ!そりゃないよ!これからって感じだったのに、また振り出しかよ!?」
ヴェルトールは頭を抱え、悲痛な声を上げた。
感覚の話がダメなら、技術の話に進めばいい。彼は藁にもすがる思いで食い下がる。
「ならせめて、先に『魔力の練り方』ってのを教えてくれよ!感知はしながら覚えるからさ!」
「――ならぬ」
イヴリスの声色が、氷のように冷たく落ちた。
「え……?」
顔を上げると、そこには先程までの困り顔とは打って変わった、冷徹な表情があった。
真紅の瞳は静かに、けれど絶対的な威圧感を持って彼を射抜いている。
そこには、一切の譲歩も許さないという揺るぎない確信があった。
「え……。な、なんでだよ……?」
あまりの剣幕に、ヴェルトールはたじろぎ、声を潜めて慎重に問い返す。
彼女がここまで頑なになるには、相応の理由があるはずだ。
「……よいか?ゆめゆめ忘れるな。『魔力を練る』ということは、即ち『魔力を体内で一点に圧縮する』という事じゃ」
イヴリスは静かに、しかし恐ろしい事実を淡々と告げた。
「マナを感知できぬ者がこれを行えば、どうなるか……。集めた魔力の逃げ場を見つけられず、行き場を失ったその塊は、術者の体内で暴発する」
「ぼ、暴発……?」
「うむ。熟達した者であれば、暴走する前に霧散させる事もできよう。だが、右も左も分からぬ素人に、それができると思うか?」
彼女は首を横に振り、さらに残酷な結末を提示する。
「練った魔力量によっては、己の肉体が内側から消し飛ぶのは無論じゃが……最悪の場合、そこら一帯が焦土と化す可能性もあるのじゃぞ?」
冗談でも脅しでもない。それは過去に幾度も繰り返されてきた、理を知らぬ愚か者たちの末路なのだろう。
その言葉の重みに、ヴェルトールは自身の身体とこの船が爆散する光景を想像し、ゴクリと乾いた喉を鳴らした。
「……そっか」
ヴェルトールは、イヴリスの警告を噛み締めるように呟いた。
「そんな危険な事情があるなんて、知らなかったよ……。無理言ってごめん、イヴリス」
彼は素直に自分の浅はかさを認め、深々と頭を下げた。
「ふん。……分かればよい」
イヴリスは腕を組み、ツンと鼻を鳴らす。その声色は、呆れつつも悪い気はしていないようだ。
「とにかく、『マナの認識』をどう言語化するかについては、我ももう少し考えておこう。じゃが……待つだけではなく、おぬしもおぬしなりに、答えを探してみるのじゃぞ?」
彼女は海風に目を細め、諭すように言った。
「どれだけ優れた師がつこうとも、最後に扉を開くのは自分自身……。修行とは、結局のところ『己との戦い』なのじゃからな」
「……ところでさ。話は変わるんだけど」
ヴェルトールは、それまでの悩ましげな表情を引っ込め、どこまでも澄んだ瞳でイヴリスを見つめた。
「イヴリスって……本当に、『邪竜』なのか?」
「は?」
予想だにしていなかった問いかけに、イヴリスは片眉を跳ね上げる。
「どういう意味じゃ……?我は邪竜イヴリスじゃと、最初から言っておろうが。今更何を――」
「いや、疑ってるわけじゃないんだ。ただ……」
ヴェルトールは首を横に振り、心に抱いていた素朴な違和感を口にした。
「お前はどう考えても、おとぎ話にあるような『世界を滅ぼす存在』には思えないんだよな」
「なっ……」
「だって、なんだかんだ言いながらいつも助けてくれるし……今だってそうだ」
彼は、先ほどの講義での彼女の真剣な警告を思い出し、苦笑する。
「さっき、『失敗すれば一帯が焦土と化す』って止めてくれただろ?……もし本当の邪竜なら、俺が爆発して辺りが消し飛んだって、気にしないどころか『良い見世物じゃ』とか言って笑うんじゃないか?」
彼はイヴリスを真っ直ぐに見据え、決定的な矛盾を突きつけた。
「お前は、俺たちが死なないように……心配してくれたんだろ?」
「はぁ……」
イヴリスは一度深く、重い息を吐き出すと、揺らいだ表情を瞬時に消し去り、冷徹な仮面を貼り直した。
「突然何を言い出すかと思うたら……そんな事か」
「そんな事って……」
「よい機会じゃ。余計な勘違いをせぬよう、改めて教えてやろう。しかと胸に刻んでおけ」
彼女は海を見つめたまま、静かな、しかし有無を言わせぬ声で続けた。
「永き封印の影響で、今の我には過去の記憶と、本来の力のほとんどが残っておらぬ」
彼女は自身の小さな拳をギュッと握りしめ、憎々しげに見つめる。
かつて世界を震わせた爪牙は、今は見る影もない。
「故に、契約者であるおぬしを『利用』し、記憶と力を取り戻すための旅をしておるのじゃ。……その過程で、器であるおぬしに死なれては困る。それだけの話じゃよ」
彼女はヴェルトールに向き直り、一切悪びれる様子もなく、淡々と「道具扱い」を宣言した。
「利用って……。本人の前でよくそんなこと言えるな……」
ヴェルトールは呆れて肩をすくめる。
だが、彼はそこで引かなかった。すぐに表情を引き締め、逃がさないように彼女の真紅の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「……分かった。百歩譲って、今はそうだとするよ。じゃあ、その先は?」
「ん?」
「記憶と力を完全に取り戻したら……お前は、本当にこの世界を滅ぼそうと思ってるのか?」
「……さぁ、どうであろうな」
イヴリスは肩をすくめ、自身の運命さえ他人事のように嘯いた。
「力が戻ったとて、記憶が完全に戻るとも限らぬ……。それに、今のところは破壊への衝動など微塵もない。……が」
彼女は言葉を切り、意味深な間を置く。
「だからと言って、いつまでも『そのまま』とは限らぬぞ?記憶が戻った瞬間、世界を灰にしたくてたまらなくなるやもしれん」
潮風が止まり、二人の間に冷たく張り詰めた空気が流れる。
彼女は凍てつくような真紅の瞳をヴェルトールに向け、喉の奥で楽しげに鳴いた。
「ククク……。それを受け入れられぬと言うのなら、今の内に――弱体化しているこの我を、滅ぼした方がよいやもしれぬなぁ?」
ヴェルトールの喉元に、見えない刃を突きつけるような言葉。
彼女の口元には、不敵で、そしてどこか哀しいほどに挑戦的な笑みが浮かんでいた。
「……いや。そんなことは、絶対にしない」
ヴェルトールは一瞬の躊躇もなく、即答した。
挑発に乗るわけでも、怯えるわけでもない。ただの事実として、静かに告げる。
「だって、イヴリスはもう俺の大切な仲間で……『家族』だからな」
「……なっ?」
予想外の返答に、イヴリスの目が丸くなる。だが、ヴェルトールは言葉を続ける。
「それに……過去の記憶がほとんどないんだろ?おとぎ話じゃ『全てを滅ぼす邪竜』なんて言われてるけど……もしかしたら、本当は事情があったのかもしれない。本当は……優しい竜だったのかもしれない」
彼はイヴリスの銀髪を、潮風が撫でるように優しく見つめた。
「俺は、目の前にいるお前を信じるよ」
「おぬし……」
「……それでも。もしもいつか、記憶が戻って……お前が本当に全てを滅ぼす竜になってしまったら」
ヴェルトールは一歩踏み出し、真っ直ぐに彼女の真紅の瞳を見据え、強い決意を込めて宣言した。
「その時は、俺が全力でお前を止めてやるよ!……出来の悪い妹を叱って止めるのが、兄ちゃんの役目だからな!」
言い切った彼の顔には、一点の曇りもない、太陽のような信頼の笑顔が輝いていた。
「……ふん。ほとほと、甘い奴め……」
イヴリスは、邪竜としての矜持を守るかのように、プイッと顔を横に向けた。
海風が銀髪をさらい、赤く染まった耳元を隠すように流れていく。
「……馬鹿者が」
吐き捨てた言葉は少し不機嫌そうに聞こえたが、その声の奥底には、万感の想いと、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
――家族、か……。
誰からも恐れられ、封印され、何千年もの間、暗い闇の中で孤独に震えていた邪竜。
そんな彼女は今、一人の青年の「無償の愛」によって、世界で一番温かい『居場所』を与えられたのだ。
彼女はヴェルトールに見えないように、口元だけでそっと、幸せそうに微笑んだ。
イヴリスは顔を背けたまま、ヴェルトールの言葉の余韻に浸っていた。
――家族。兄ちゃんの役割。……悪くない響きじゃ。
「……ん?」
――……兄ちゃん?……兄?
脳内で言葉を反芻する。
――あやつが兄で……我が、妹……?
数秒の沈黙の後。彼女はハッと何かに気づいたように目を見開き、ガバッとヴェルトールに向き直った。
「い、いつからおぬしが我の『兄』になったかーッ!!」
「うわっ!?」
彼女は顔をリンゴのように真っ赤にして、感情が爆発したかのような大声を張り上げた。
「我は数千の時を生きた邪竜ぞ!?おぬしなんぞ、我から見れば卵の殻を被ったひよっこ……いや、卵も同然じゃ!その分際で、兄貴風を吹かそうなどと……無礼であろうがぁぁ!!」
「い、いや、あくまで例え話で……」
「ええい、問答無用じゃ!頭が高いわーっ!」
イヴリスは捨て台詞を吐くと、これ以上顔を見られたくないのか、ドスドスと床を踏み鳴らして船室の方へと歩き出した。
その足取りは、威厳など欠片もなく、単に恥ずかしくて逃げ出した子供のそれだった。
「……まったく、忙しい奴だな」
残されたヴェルトールは、嵐のような彼女の背中を見送り、苦笑しながらも海風に髪を撫でつけた。
イヴリスの怒号が響き渡ると、甲板の反対側からシエナがパタパタと駆け寄ってきた。
「もう、またケンカしてるの?イヴちゃんもお兄ちゃんも、仲良くしないとダメだよ?」
彼女は腰に手を当て、やれやれと大人びた仕草でため息をつく。けれど、その瞳は楽しげに輝いていた。
この数日で、二人のこのやり取りが深刻な争いではなく、もはや「いつもの茶番劇」だと完全に理解したらしい。
「あはは、大丈夫。ケンカなんてしてないよ!ちょっとした……意見交換かな?」
ヴェルトールは苦笑いで誤魔化すと、話題を切り替えるように明るく言った。
「それより、俺も釣りをやってみようかな!海で釣りなんてしたことないし、レックスさんに教えてもらおう!」
「ほんと?じゃあ一緒に行こ!」
「あぁ!」
彼は自然にシエナの小さな手を握り、釣り糸を垂れる獣人の背中を目指して歩き出した。
穏やかな波音と、手のひらから伝わる妹の体温。
修行の厳しさも、邪竜との問答も一時忘れ、青年はただの兄の顔に戻って、束の間の平和な時間を楽しむことにした。




