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滅びの竜と祈りの唄  作者: 彩月鳴
魔の胎動 -The Andante-

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第二十五話:道標 -The Compass of the Self-

船内のランプが消え、辺りがすっかり寝静まった頃。 ヴェルトールは夜風に誘われるように、一人甲板へと出てきた。


「うわ……。夜の海って、真っ暗なんだな……」

手すりの外は、吸い込まれそうな漆黒の闇。

波の音だけが響くその深淵を見つめ、彼はふぅっと息を吐いた。


「しかし、イヴリスのやつも容赦ないよなぁ……。あんなにいっぺんに詰め込まれても、覚えきれないっての」

彼は勉強疲れで凝り固まった首を回し、愚痴をこぼしながら何気なく夜空を見上げる。


その瞬間。


「…………え?」


言葉を失った。 そこに広がっていたのは、視界を埋め尽くすほどの光の洪水だったからだ。


「わぁ……」

降るような満天の星々。

それは頭上だけでなく、海と空を分かつ水平線の彼方まで、びっしりと瞬いている。

陸地では山や木々に遮られて見えなかった、本当の夜空の姿。


「すごい……。水平線まで、全部星だ……」

そのあまりに壮大な絶景に、昼間の疲れも、詰め込まれた知識の重みも、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでしまった。



ヴェルトールは、頭上に広がる星の海をその目に焼き付けるように、甲板の端をゆっくりと歩いた。


やがて船尾の方へ回ると、月明かりの下、黙々と舵を握る男の背中を見つけた。

この船の船長だ。彼は夜闇に溶け込むように静かに、けれど岩のような力強さで舵を固定し、進路を維持している。


「あ、こんばんは」

ヴェルトールは仕事の邪魔にならないよう、少し距離を置いて声をかけた。

「こんな真夜中でも、船の操縦をしてるんですね」


「おう!そりゃそうさ!」

船長は舵から一瞬だけ視線を外し、ニカッと白い歯を見せて力強く笑った。


「船ってのは生き物だ。放っておくとすぐに風や波の赴くまま、明後日の方向へ流されちまうからな! だからこうして、交代で常に誰かが手綱を握ってなきゃならねぇのさ」

彼は再び前方に目を向け、夜の闇に溶け合う水平線を鋭く見据えた。

「で、こういう静かな夜は、船長である俺の出番ってわけだな」



「へぇ、でも夜の海って真っ暗だし、方角ってちゃんと分かるんですか?」

ヴェルトールは漆黒の闇に包まれた海面を指差し、素朴な疑問を投げかけた。

陸なら木や山があるが、ここには形を変え続ける波しかない。

すると、船長は「へっ」と鼻で笑い、得意げな表情を見せた。


「馬鹿言っちゃいけねぇよ、兄ちゃん。俺たち船乗りには、最高の目印が頭上に広がってるじゃねぇか」


「え?」


「ほら。兄ちゃんがさっきから、口開けて眺めてたアレだよ」

彼は舵から片手を離し、頭上に広がる満天の星空を顎でしゃくってみせた。


「星……ですか?あれが目印になるんですか?」

ヴェルトールは、その意外な答えに驚いた。

魔法の基礎知識を学んだばかりの彼にとって、星が持つ実用的な意味は新鮮だった。



「おうよ。……昼は太陽が、夜はあの星々が俺たちの『道標』だ」

船長は愛おしそうに夜空を仰いだ。


「街中じゃ、建物の陰や灯りに邪魔されて滅多に見えねぇだろ?だが、海の上は違う。遮るもんが何もねぇからな……ほら見な、まるで空全体にデカい地図が描いてあるようなもんだ」

彼は舵を片手で軽く撫でる。


「そりゃあ、羅針盤も使うさ。だが、あれは鉄や磁気の気まぐれで狂うこともある。……だがな、兄ちゃん

船長はニヤリと笑い、頭上に広がる満天の星々を指差した。


「星は、嘘をつかねぇ。何百年、何千年経っても変わらずそこにある。……この世界で一番信頼できる羅針盤は、あの夜空そのものなのさ!」

その声には、海と共に生きてきた男だけが持つ、揺るぎない自信と知識への誇りが滲んでいた。


「あれを読み解き、風を読んで、船を正しい場所へ導く……。それが、夜の舵取り役の腕の見せ所ってわけよ」

漆黒の闇の中、星の光だけを頼りに進む船。その背中は、どんな魔法よりも神秘的で、頼もしく見えた。



「……それとな。特にあの、やたらと光ってる星があるだろ」

船長は無数の星々が瞬く夜空の中から、頭上で一際冷たく、強く輝く一点を指差した。


「あいつの名は『クルルスク』だ」


彼は親愛なる古い友を紹介するかのように、確信を持って告げる。


「あいつは天の軸の真上に座ってやがる。夜が更けようが、季節が変わろうが……どんなに時間が経っても、あいつだけはテコでも動かねぇ」


「動かない星……」


「おうよ。だから、あの星の高さを測りゃあ、船がどこまで北や南に流されたかが一発で分かるんだ」

船長はニカッと笑い、舵を軽く叩いた。

「何もかもが流動するこの夜の海で、決して迷わねぇための……唯一にして不動の目印さ」


「不動の、目印……」

ヴェルトールはその星を見上げる。

揺れる波、変わる風。その中で唯一「変わらないもの」の存在。

その揺るぎない輝きは、不安な旅路を照らす灯台のように、ヴェルトールの心に深く、力強く刻み込まれた。



「クルルスク……。そんな星があるなんて、まるで知らなかった」

ヴェルトールは、夜空に輝く不動の一点を、感銘を受けた面持ちで見つめ、その名を反芻した。


「あいつは別名『導きの星』とも言われていてな」


船長は舵を切りながら、古い友人を自慢するかのように得意げに語る。

「船乗りだけじゃなく、陸を行く旅人にとっても方角を知るための重要な道標だ。覚えておいて損はないぜ!」


「はい!」


「ああ、だが一つだけ注意な。あんまり南――世界の南端へ行き過ぎると、あいつも水平線の下に引っ込んじまって見えなくなるからな。そこだけは気をつけろよ?」

彼は経験者としての老婆心を込めて、悪戯っぽく付け加えた。


「はい!ありがとうございます!勉強になりました!」

ヴェルトールは深く頭を下げると、仕事の邪魔にならぬよう、静かにその場を後にする。

背中には、変わらぬクルルスクの導きの光。

彼は一つ賢くなった心地よい重みを感じながら、仲間たちが眠る船室へと戻っていった。





夜が明け、甲板には眩しい朝陽と、頬を撫でる爽やかな潮風が流れ込んでいた。


「釣れるかな~♪」


「ふわぁ……。魚より、睡魔が釣れそうだ……」

甲板の片隅では、シエナが鼻歌交じりに楽しそうに、そしてレックスが船縁に背を預けて気怠げに、並んで釣り糸を垂らしている。

まるで休日のお父さんと娘のような、微笑ましい光景だ。


だが、そんなのどかな空気とは裏腹に、甲板の反対側ではピリッとした緊張感が漂っていた。


「ふむ。……では、約束通り『マナの感知』の修行を始めるとするか」

イヴリスは周囲の様子には目もくれず、腕を組んで厳かに切り出した。


「あぁ。よろしく頼む!」

ヴェルトールは真剣な面持ちで頷き、居住まいを正した。

昨日の座学を経て、いよいよ実践編の始まりだ。




「……とは言うたが。マナの感知と一言で言うても、これを言葉で説明するのは……どうにも形容し難いのじゃ」

イヴリスは腕を組み、眉間に深い皺を寄せて唸った。理論は教えられても、感覚を教えるのは至難の業らしい。


「え、どういうことだよ?そんなに難しいのか?」

ヴェルトールは面食らって尋ねる。

早く強くなりたいという焦りと、入り口からいきなり壁にぶつかったような不安が、その表情に入り混じる。


「いや、一度理解してしまえば至極単純な事なのじゃが……。なんと言えばよいかのぅ」

イヴリスは額に手を当て、懸命に適切な言葉を探して空を仰いだ。


「例えるなら……そうじゃな。『右の足の小指だけを動かせ』と言われているようなものか?いや、違うな……。『水の味を言葉で説明せよ』と言われる感じか……?」

ブツブツと独り言を言いながら悩み込む。 彼女にとって魔法は「当たり前」すぎて、それを意識的に行う手順が言語化できないのだ。



「……なぁ。確か、『冥』の力もマナと呼応させてるんだよな?」

ヴェルトールは自身の手のひらをじっと見つめ、あの時の感覚を思い出そうとする。

「でも、あれを使った時、何かを『感知』してるって感じはしなかったんだよな。勝手に体が動いたというか……」


「うむ。『冥』もマナと呼応させているのは確かじゃが、あれは生命力を燃料に無理やり着火する、極めて特殊な力の使い方じゃ」

イヴリスはパタパタと手を振り、却下した。

「繊細な魔力操作の参考にはならぬ。寧ろ、忘れておいた方がよいじゃろう」


「えぇ……。それじゃあ、世の中の魔導士ってのは、一体どうやって最初の『感知』を習得するんだよ?」

ヴェルトールが素朴な疑問を投げかけると、イヴリスは腕を組み、遠い目をした。

「うーむ……。元々魔導士の素養がある者は、成長する過程で、呼吸をする様に自然とマナの感知ができる様になっておるからのぅ……」


「やっぱり天才の感覚かよ……」

ヴェルトールががっくりとうなだれかけた、その時。


「……呼吸?」


自分の言葉に引っかかりを覚えたイヴリスが、パッと顔を上げた。

「おぉ、それじゃ!よい例えが見つかったぞ!」


「えっ?」


「例えるなら……マナとは『空気』の様なものじゃ!」


「空気……?」


ヴェルトールは眉を寄せ、掴みどころのない答えに困惑する。

目に見えず、触れることもできないもの。余計に訳が分からなくなっていく。



「うむ。よいか?おぬしは今この瞬間も、目に見えぬ空気を当たり前に吸っておろう?」

イヴリスは核心を突くように、ヴェルトールの胸元を指差した。


「吸おうと意識せずとも、肺は動き、空気を取り込む。それは『そこに空気が在る』ことを、おぬしの肉体が無意識に理解し、活用しておるからじゃ」


「あぁ……確かに」


「マナも、理屈はほぼ同じじゃ。……じゃが、ここからが違う」

彼女は人差し指を振り、声を一段低くする。


「空気は吸わねば死ぬ。故に体は勝手に感知する。だがマナは、無くても死にはせぬ。……故に、おぬしの感覚はそれを『不要な情報』として切り捨て、認識の外に追いやってしまっておるのじゃよ」

イヴリスはそこで言葉を切り、潮風の吹く空間を手で示した。

「その認識の壁を取り払い、空気よりも遥かに繊細で、精密な感覚で世界を捉え直すのじゃ」


マナの感知とは、いわば――無意識の領域に、意識的に光を当てる作業なのだ。



ヴェルトールは腕を組み、深く、長く沈黙した。

波の音。風の感触。潮の匂い。

それら全ての情報の隙間にある、「何か」を探すように。


やがて、閉じられた瞼がゆっくりと開かれ、その瞳に確信の光が灯る。


「……なるほどな」

彼は、自分なりに噛み砕いた結論を口にした。


「つまりマナは、空気みたいに当たり前に、この空間に充満している。……ただ、俺の体がそれを『マナ』と認識していないだけで、皮膚も、呼吸も、本当はずっと感じてはいるってことか?」


「ほう……」

イヴリスは感嘆の吐息を漏らし、嬉しそうに口元を綻ばせた。


「相も変わらず、飲み込みが早くて助かる。……その通りじゃ」

彼女は「単純なことじゃろ?」と言わんばかりに、海風に向かって両手を広げてみせる。

「そう、おぬしは既にマナを全身で浴び、感じておる。あとは意識の向け方を変えるだけ……。あの感覚こそがマナだと『再認識』できれば、この修行は終わったも同然じゃ」



「……なるほど、理屈は完璧に分かった。……で?結局どうやればそれを『認識』できるんだ?」

ヴェルトールは、悪気など微塵もない純粋な瞳で、最も残酷な核心を突いた。


「ぐぬっ……!」

イヴリスは言葉に詰まり、喉の奥で変な声を漏らした。

先程の「飲み込みが早い」という感動が、ガラガラと崩れ去っていく。


「ぜ、前言撤回じゃ……!それを言い出したら、また振り出しに戻るではないかこのたわけ……!」

彼女は苛立ちと頭痛を堪えるように、こめかみを指でぐりぐりと押さえた。


――どうすれば伝わる……?『感じろ』と言って『はい感じました』となるなら苦労はせぬ……!


感覚を言葉で教える。それは、天才肌の彼女にとって、魔法そのものよりも遥かに困難で、高くそびえ立つ壁だった。

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