第二十三話:出航 -To Zalen-
バデロンが意識を取り戻した夜から、三日が過ぎた。
「ええい、離せ!これは我の肉じゃ!貴様如き人間風情が、我の食事を掠め取ろうなどと……遠慮というものを知らぬのか!!」
イヴリスは、皿の上に盛られた分厚いステーキ肉を両腕でガッチリと抱え込み、威嚇する猫のように憤慨して叫ぶ。
「それはこっちのセリフだ!俺の分まで食べようとしてるだろ!?イヴリスこそ、少しくらい遠慮しろよ!」
ヴェルトールも負けじとフォークを構え、テーブル越しに身を乗り出して抗戦する。
―カチャカチャカチャッ!!
宙を舞うフォークとナイフ。 宿屋『荒ぶ荒波亭』。
そこでは、もはやここ数日の「定番」となった、仁義なき肉の争奪戦が繰り広げられていた。
厨房の奥からは、リエッタが「またやってるよ」と呆れ顔で鍋を振る音が聞こえ、カウンターではダンゲルが朝から豪快に笑い声を上げていた。
「ガッハッハッハ!見てて飽きねぇが……この騒がしい光景を見るのも今日で最後だと思うと、ちと寂しくなるなぁ!」
「ダンゲルさん……」
その言葉に、ヴェルトールの手が止まる。 彼はフォークを下げ、寂しげに眉を下げてダンゲルの方へ顔を向けた。 命を救われ、家族のように過ごした数日間。別れを惜しむ感情が胸に込み上げ――。
――シュバッ!!
まさにその一瞬の隙を狙って、イヴリスは素早く肉を掠め取り、満足げに頬張った。
「なーに、湿っぽい顔をしてやがる!もう二度と会えねぇってわけじゃねぇんだぞ!」
ダンゲルはヴェルトールの背中をバシッ!と力強く叩き、宿が揺れるほど豪快に笑い飛ばした。
「生きてりゃまた会える!だから、そうしみったれたツラすんなよ!」
彼はニカッと笑うと、窓の外――高くなってきた太陽を見上げる。
「っと。そろそろ船に向かう準備をした方がよさそうだぜ!」
「……そうですね。もう、そんな時間か」
ヴェルトールは叩かれた背中の痛みに苦笑しつつ、口元を引き締めて立ち上がった。
迷いは消えた。今は、前へ進む時だ。
「よし!じゃあ港へ行く前に、診療所へ寄ろう。バデロンさんにも、最後の挨拶をしておきたいんだ」
「んぐっ、むぐ!(うむ、異議なし!)」
口いっぱいに肉を詰め込んだイヴリスも、もごもごと言いながら力強く頷く。
一行は残りの食事を大急ぎで胃袋に流し込むと、世話になった宿を後にした。
目指すは診療所。命の恩人へ、感謝と別れを告げるために。
「バデロンさん!」
ノックをして病室に入ると、バデロンはベッドの上で上体を起こし、静かに窓の外――活気あふれる港の方角を眺めていた。
「おや、皆様……」
彼は振り返り、旅装束に身を包んだ一行を見て、すべてを察したように穏やかな笑みを浮かべる。
「いよいよ、ご出発ですか?」
「……はい。船の手配が整いました。もう少ししたら、ここを発ちます」
ヴェルトールは寂しさを隠すように少し俯いて答えた。
「だから……最後に挨拶だけでもと思って」
「そうですか……」
バデロンは自身の動かない体――厚い包帯に巻かれた胴体へ、悔しげに視線を落とす。
「旅立ちの門出だというのに、お見送りにも行けずに……本当に、申し訳ありません」
「いえ、そんなっ!」
ヴェルトールは弾かれたように顔を上げ、ベッドへ歩み寄ると、静かに首を横に振った。
「バデロンさんは何も気にせず……ゆっくりと体を癒して下さい」
すると、バデロンはハッと何かを思い出したような顔になり、ポンと手を叩いた。
「おぉ、そうです!ダンゲルに頼んで船へ届けてもらおうと思っていたのですが……ちょうどいい」
彼はそう言うと、枕元の棚から、布で包まれたずっしりと重そうな荷物を取り出した。
「私の代わり……というわけでもないのですが。ヴェルトールさんに、どうかこれを」
バデロンは丁寧にその包みを解く。
現れたのは、一目で上質と分かる旅装束の一式だった。
滑らかな手触りの上等な生地に、襟元や袖口には美しい銀糸の刺繍が施されている。
「これは……?」
ヴェルトールは、差し出された衣服のあまりの上等さに、受け取る手を止めて戸惑った。
「恩人である貴方様のために……私の商会が扱う品の中から、最高の一着を選ばせていただきました」
バデロンは慈しむように服を撫で、穏やかな、けれど熱のこもった眼差しでヴェルトールを見つめる。
「私はお供できませんが……せめてこの服が、これからの過酷な旅路で、貴方様の身を守る『盾』となればと思いまして。……どうか、受け取ってください」
「そんな……!こんな高価そうなもの、受け取れません!」
ヴェルトールは慌てて両手を振り、後ずさりして拒絶した。
「それに、命を救ってもらったのは俺の方です!あの時、バデロンさんが庇ってくれなかったら……!」
「いいえッ!!」
ヴェルトールの遠慮を、バデロンは怪我人とは思えぬ気迫で遮った。
「あの一件は、私が勝手にしたこと。……私はまだ、貴方様に頂いた『命の恩』を、半分も返せてはおりません!」
彼は包帯だらけの体を起こし、カッと目を見開いて、あの「決まり文句」を口にする。
「恩人になんの恩も返さず旅立たせたとあっては……それこそ、我がロスタルト家、末代までの恥っ!!」
部屋の空気がビリビリ震えるほどの大声。
だが直後、彼はふっと肩の力を抜き、春の日差しのような穏やかな表情に戻った。
「……ですから。どうか、私の顔を立てると思って、受け取って下さい」
彼は衣服をヴェルトールの手元へ優しく押しやった。
「これは、私の商売人としての『誇り』なのです」
「……分かりました。バデロンさん、ありがとうございます!」
ヴェルトールは深く頭を下げると、差し出された包みを両手で大切に受け取った。
手に伝わるずっしりとした重み。それは、単なる衣服の質量ではなく、バデロンが込めた「感謝」と「守りたいという願い」の重さそのものだった。
「うむ……。それでこそです」
頑固な商人は満足げに目を細め、深く頷いた。
「出航までには、まだ少し時間があるな」
窓の外、港の様子を確認していたレックスが、ふと振り返って提案する。
「折角の贈り物だ。今すぐ着替えて、バデロン殿にその晴れ姿を見せてあげるといい」
ヴェルトールはその言葉にパッと顔を輝かせ、包みを宝物のように抱きしめた。
「じゃあ、すぐに着替えてくる!みんな、ちょっと待っててくれ!」
言い終わるのももどかしく、彼は弾むような足取りで病室を飛び出していった。
新しい自分に生まれ変わるために。
しばらくして、病室の扉が静かに開かれた。
そこに立っていたのは、これまでの粗野な姿とは比べ物にならない、見違えるような若き剣士だった。
深い海の底を思わせる紺青のチュニックは、襟元と袖口を銀糸でさりげなく縁取られ、一目で上質とわかる仕立てだ。
肩には動きやすさを損なわない薄手の革防具。腰回りには複数の革ベルトが機能的に連なり、剣帯としての役割も果たしている。
脚を包む濃い灰色のズボンは、頑丈な焦げ茶色のブーツに収められ、その全体像は、彼が内に秘める実直さと、戦士としての素質を雄弁に物語っていた。
仕上げに、肩から流れる藍色の外套。
彼が一歩踏み出すたび、裏地の灰色が翻り、これまでにない落ち着いた気品を漂わせる。
「…………」
あまりの変貌ぶりに、思わず皆の視線が一点に集中し、言葉を失った。
当のヴェルトールは、集まる視線に居心地が悪そうに頬を掻き、照れたように肩をすくめる。
「お兄ちゃん!すごーい!かっこいい!!」
静寂を破ったのは、シエナの歓声だった。彼女は目をキラキラさせて飛び跳ねる。
「ふむ。まさに馬子にも衣装……という奴か。中身は変わらぬが、見た目だけは一人前になったの」
イヴリスは憎まれ口を叩きつつも、その口元は満足げに緩んでいる。
「ほう……。これはなかなか、様になっているな」
レックスも感心したように腕を組み、戦士として彼を再評価するように頷いた。
そして、贈り主であるバデロンは。
「うん……。私の目に狂いはなかった。よく、お似合いですよ」
まるで成長した息子を見るような、誇らしげで温かい眼差しを向けていた。
「バデロンさん!」
ヴェルトールはその場で軽く跳ねてみせ、クルリと身を翻した。
「すごい……!とっても動きやすいよ!」
彼は自分の腕や脚をさすり、身体に馴染むその感覚に驚きの声を上げる。
まるで、最初から彼のためにあつらえられたかのような仕上がりだ。
「本当に……ありがとうございます!大切にします!」
彼は満面の笑みを浮かべ、感謝の気持ちを込めて深々と頭を下げた。
「いえいえ。……気に入っていただけたようで、何よりです」
バデロンは、商売が成功した時よりもずっと満足そうな、心からの笑みを浮かべて頷いた。
「……私はここから、皆様の次の旅路を応援しております。……どうか、お気をつけて……」
その眼差しには、旅立つ若者たちへの優しさと、道中の安全を願う切実な祈りが込められていた。
「はい!……それじゃあ、バデロンさん……」
ヴェルトールの視界が潤み、熱いものがこみ上げる。 だが、彼はそれをグッと堪え、真っ直ぐにバデロンを見つめて言い切った。
「またいつか……きっと会いましょう!それまでどうか、お元気で!」
「ええ。……お待ちしておりますぞ」
最後の挨拶を交わし、一行は病室を後にする。
振り返らない。その足取りは、新しい靴と新しい服、そして恩人からのエールを背負って、以前よりずっと力強く大地を踏みしめていた。
目指すは港。
潮風の吹く、新たな冒険の海へ!
一行が息を切らして港へ駆けつけると、桟橋の先で、腕組みをして待つ巨大なシルエットが見えた。
「おう!遅ぇぞ!」
ダンゲルだ。隣にはリエッタも並び、笑顔で手を振っている。
「ごめんなさい、遅くなりました!」
「よしよし、全員揃ってるな?」
ダンゲルは豪快に笑いながら、一人ひとりの顔を点呼するように念入りに確認する。
その眼差しは、店主というより、旅立つ子供を心配する親父のそれだった。
「目的地の『ザレン』までは、風向きにもよるが、おおよそ丸二日ってところだ」
ダンゲルは胸を張り、太鼓判を押すように言う。
「今の時期、ここらの海は穏やかだからな。揺れも少ねぇはずだ。……ま、たまには肩の力を抜いて、のんびりと船旅を楽しむといい!」
彼の笑顔は、ヴェルトールたちの胸に残っていた一抹の不安を、潮風と共に吹き飛ばしてくれるようだった。
「イヴリスちゃん。これ、よかったら船でおあがり」
リエッタは屈み込むと、まだ温かい、布で丁寧に包まれたずっしりとした荷物をイヴリスに手渡した。
「なに!?我に貢ぎ物か!?」
イヴリスはパァッと目を輝かせ、ひったくるように受け取ると、包みに顔を埋めてくんくんと熱心に鼻を鳴らす。
「……肉は入っておるのか!?」
「はいはい、たっぷり入ってるから安心しな」
リエッタは、やれやれと呆れつつも吹き出した。
「た・だ・し!一人で隠れて食べちゃダメだよ?ちゃんとみんなにも分けてあげること!」
釘を刺されたイヴリスだが、聞いているのかいないのか。
彼女は包みを大事そうに胸に抱え込み、ヴェルトールたちからササッと距離を取る。
「まったく……しょうがない子だねぇ」
苦笑いするリエッタの顔は、手のかかる娘を送り出す母親のように、どこか嬉しそうで、優しかった。
―カンカンカンッ!!!
高く、澄んだ鐘の音が港全体に響き渡り、活気ある喧騒を一瞬だけ切り裂いた。
出航を告げる、別れの合図だ。
「おっ!そろそろ出航の時間だな!」
ダンゲルは船上で準備を始めた船員たちを一瞥すると、愛すべき「ひよっこ」たちに向き直った。
「よし!おめぇら、よく聞け!」
彼は大きく息を吸い込み、別れの寂しさを吹き飛ばすような、太陽よりも明るい大音声で叫んだ。
「達者でな!!辛いことがあったら、いつだって戻ってこい!またポルナに立ち寄った時は……『荒ぶ荒波亭』をよろしくな!!」
ガハハ!と豪快に笑い、彼は再会を誓うように、親指を立ててニカッと白い歯を見せる。
「はい!もちろんです!」
ヴェルトールは、バデロンから託された紺青の旅装の胸を張り、力強く答えた。
「ダンゲルさんも、リエッタさんも!本当にお世話になりました!二人とも、どうかお元気で!!」
「おじさん!おばさん!またねー!!」
シエナはちぎれんばかりに大きく手を振り、潤んだ瞳で精一杯の笑顔を見せる。
「行ってきまーす!!」
レックスは言葉少なに、しかし敬意を込めて深々と一礼し、イヴリスは――
「ふふふ……。まだ温かいのぅ……」
リエッタの弁当包みにスリスリと頬ずりをし、別れよりも「食糧の確保」に至福の表情を浮かべていた。
そのあまりに自由な姿に、涙ぐんでいたダンゲルとリエッタも思わず吹き出し、そして優しく微笑んだ。
別れを惜しみながら、一行は船へと乗り込む。
荷物を下ろすと、ヴェルトールたちは甲板の手すりに身を寄せ、眼下に広がる港町ポルナを見渡した。
活気ある市場の声、潮の香り、そして手を振り続ける二人の恩人。
まだ船は動いていないが、もう戻ることはない。
ヴェルトールは、この慣れ親しんだ温かい街並みを、決して忘れないようにと瞳の奥に焼き付けていた。
その時、甲板の喧騒を切り裂くように、日焼けした船長の力強い怒号が轟いた。
「総員、配置につけ!舫いを解け!錨を上げろぉ!!」
鋭い号令一下、船員たちが弾かれたように動き出す。
太いロープが外され、ガチャン!ガチャン!と鎖が巻き上げられる重厚な金属音が響き渡る。
「次ぃ! 帆を張れぇ!!」
――バサァッ!!!
巨大な帆が一斉に広げられ、風を孕んで大きく膨らんだ。
船体がグンッ、と前へ押し出される。海と陸が切り離された瞬間だ。
「よぉーし!! 出航だぁー!!!」
船員たちの勇ましい歓声と共に、船はぐんぐんと加速し、白波を立てて進み始める。
ポルナの白い街並みが、波間に揺れながら少しずつ、けれど確実に遠ざかっていく。
ヴェルトールは手すりから身を乗り出し、小さくなっていく二つの人影に向けて、ありったけの声を張り上げた。
「バデロンさーん!ダンゲルさーん!リエッタさーん!!」
喉が枯れてもいい。この感謝が、どうか届きますように。
「本当に、ありがとうございましたーー!!さようならーー!!」
彼は腕がちぎれんばかりに手を振り、世話になったすべての人々に別れを告げた。
岸壁の人影もまた、何かを叫びながら手を振り返してくれているのが見えた。
やがて、船は沖へ。もう、振り返らない。
目指すは対岸の街『ザレン』。
一行を乗せた船は、西に広がる広大な海原へ向かって、真っ直ぐに突き進み始めた。




