第二十話:決意 -A Will for Another-
一方、レックスがボルドーと開戦した、その裏で。
「お、お前は……!!」
ヴェルトールが振り返った先に立っていたのは、見間違えるはずもない。
グリモ村で断罪を叫び、神殿騎士を呼び寄せた張本人――あの神官だった。
「お前、とは……」
神官は、喧騒などどこ吹く風といった様子で、唇に穏やかで、しかし冷たい弧を描いた。
「敬虔な聖職者に対し、随分な物言いですねぇ……」
「やっぱりお前が……!」
「ふふっ。やはり、村人たちは本当のことを話していなかったようですねぇ」
彼はヴェルトールの驚愕を楽しむように語り始めた。
「神殿騎士の到着の後、貴方の家を改めさせましたが……妹君の姿もありませんでした。にも関わらず、村人たちは口を揃えて『ヴェルは森から帰ってこなかった』と証言する……」
神官は嘲るように目を細めた。
「おかしいとは思いませんか?死んだはずの男の家から、妹だけが忽然と消えるなど。……つまり、答えは一つ」
彼はヴェルトールに一歩近づき、囁くように結論を突きつけた。
「我々が到着する直前に、村ぐるみで口裏を合わせ……二人で逃げ出した。そういうことでしょう?」
その瞬間。神官の顔に張り付いていた穏やかな笑みが剥がれ落ちた。
「……貴様ぁ!田舎者の分際で……この私を!何度コケにすれば気が済むのだぁ!!」
顔を醜悪に歪ませ、血管が切れんばかりに絶叫する。
そこには聖職者としての理性など欠片もなく、あるのはただ、プライドを傷つけられた男の癇癪だけだった。
「勝手に森に入ったことは悪かったと思ってる……。でも、村の異変を調査するためには、それしかなかったんだ!村を守るためには――」
ヴェルトールは必死に訴えるが、狂信者の耳には届かない。
「やかましぃッ!!」
神官は泡を飛ばし、聞く耳持たずと怒鳴り散らした。
「理屈などどうでもいい!神を……この『私』を愚弄すればどうなるか、その身にたっぷりと教えてやる!!」
彼の目は血走り、狂気に満ちた色が宿る。
「貴様も!貴様の妹も!お前を逃した薄汚い村人どももぉ!!!全員、神の名の下に断罪してくれるわぁ!!」
神官が高らかに処刑宣告を下した、その時。
彼の背後から重い足音を響かせ、全身を厚い甲冑で覆った大柄な男が、ぬらりと姿を現した。
――こいつ、ダンゲルさんの宿の前にいた……!
ヴェルトールは息を呑む。目の前に立ちはだかるのは、ダンゲルと睨み合っていたあの巨漢だ。
近くで見ると、その威圧感は壁のように巨大だった。
「そういうわけだ……小僧。悪く思うなよ」
神殿騎士は、感情の読めない低い声で告げると、背負っていた身の丈ほどもある大剣を、片手で軽々と構えた。
「やれっ!"カイネス"!!まずはその小僧から断罪し、神への供物とするのだぁ!!」
安全圏にいる神官が、醜悪に顔を歪ませて金切り声を上げる。
その言葉が、ヴェルトールの闘志に火をつけた。
「くっ……! シエナにも、村のみんなにも……指一本触れさせるものかぁッ!!」
ヴェルトールは吠えた。恐怖を怒りでねじ伏せ、守るための刃を一気に抜き放つ。
―ガギィィィンッ!!
振り下ろされた大剣と、迎え撃つヴェルトールの剣が正面から激突した。
飛び散る火花。腕の骨が軋むほどの重い衝撃と共に、路地裏でもう一つの死闘の火蓋が切って落とされた。
――くっ、なんてデカい剣だ……!剣というより、まるで鉄の板じゃないか……!
鍔迫り合いにすらならない。
カイネスの巨躯から繰り出される圧力に、ヴェルトールの腕が悲鳴を上げ、額から冷や汗が噴き出す。
彼はたまらず剣を滑らせ、弾かれるように後方へ飛び退いて距離を取った。
――あんなのが相手じゃ、俺の剣なんてオモチャみたいなもんだな……。
まともに打ち合えば、剣ごと叩き折られる。
力の差は歴然だった。だが、引くわけにはいかない。
「けど……っ!」
ヴェルトールは迷いを断ち切り、地を蹴った。力で勝てないなら、速さで勝るのみ。
だが、カイネスは焦らない。
疾風のごとく懐に飛び込み、突きを放たんとするヴェルトールを、冷めた瞳で静かに見下ろすだけだ。
―ゴオオオォォォッ!!
暴風が吹いた。カイネスが大剣を無造作に振り抜いた音だ。
それは剣技というより、ただの「質量の暴力」。空気を押し潰す轟音が、ヴェルトールの鼓膜を叩く。
「っ!?」
ヴェルトールは咄嗟に体を捻って地面に身を投げ出した。頭上を死の風が通り抜ける。
―ズドォォォォンッ!!
直後、回避した場所に大剣が叩きつけられた。石畳が砕け散り、砂埃と瓦礫が空高く舞い上がる。
掠っただけでも即死――そんな破壊の痕跡が、足元に刻まれていた。
――重い……!けど、大振りすぎる!
地面を砕いた大剣は、すぐには戻らない。
ヴェルトールはその一瞬の硬直を見逃さなかった。
「はぁぁぁッ!!」
舞い上がった砂塵を煙幕代わりに、一気に間合いを詰める。
狙うは、大剣を振り下ろしてガラ空きになった右の脇腹。 渾身の力を込め、横薙ぎの一閃を叩き込んだ!
―キィンッ!!
「なっ……!?」
手に伝わってきたのは、肉を斬る感触ではない。巨大な鉄の塊を殴りつけたような、手首が痺れるほどの硬質な反動だった。
「クソッ……硬すぎる……!」
刃は分厚い白銀の甲冑に阻まれ、薄い傷一つつけることすらできていない。
ヴェルトールは舌打ちし、バックステップで距離を取る。
「……悪くない動きだ」
カイネスは微かに口角を上げ、戦士としての称賛を短く漏らした。だが、その目から殺意は消えない。
彼は鉄塊のような大剣を、片手で軽々と持ち上げると、そのまま剛速の横薙ぎを放った。
「ぐっ!?」
ヴェルトールは咄嗟に剣を盾にして受け止めようとする。だが、相手の質量は想像の枠を遥かに超えていた。
―キンッ!!
「あ……っ!?」
激しい金属音と共に、腕の感覚が一瞬で消し飛ぶ。
支えきれなかった愛用の剣が、クルクルと無情な回転を描いて宙を舞った。丸腰。完全なる無防備。
「終わりだ」
カイネスは慈悲なく、がら空きになったヴェルトールの胸元へ、その鉄槌を振り下ろす。
死が、目前に迫っていた。
思考するより先に、生存本能が身体を突き動かした。
ヴェルトールは反射的に身を沈め、振り下ろされる死の軌道を紙一重で潜り抜ける。
狙うは、剣の根元――柄だ!
―ガンッ!!
「ぐっ……!」
生身の拳を硬い鉄に叩きつけた反動で、拳の骨が軋み、焼けるような激痛が走る。
だが、その捨て身の一撃は、確かに剛剣の軌道をわずかに逸らし、カイネスの体勢を泳がせた。
――今だ……ッ!
ヴェルトールは激痛を無視し、懐深くへと飛び込む。
全体重を乗せ、がら空きになった顎へ向けて、渾身の拳を突き上げた!
―ゴスッ!!
「ぐ、ぅ……!?」
鈍い打撃音と共に、巨木のようなカイネスの身体がグラリと揺らぐ。
常に冷徹だったその顔に、初めて明確な「驚愕」と、煮えたぎるような「怒り」の色が浮かんだ。
「はぁ、はぁ……ッ」
ヴェルトールはバックステップで距離を取り、ジンジンと痺れる拳を握りしめながら、土煙の向こうの巨人を睨みつける。
剣はない。拳はボロボロだ。それでも、その瞳の光は死んでいなかった。
「……あまり、調子に乗るなよ。小僧」
土煙の奥から、地を這うような低い声が響く。
怒りよりも、冷徹な殺意を含んだその響きに、ヴェルトールは焦燥で唇を噛み締めた。
――剣だ……!武器がなきゃ、戦えない!
彼は一縷の望みをかけ、少し離れた地面に転がる剣へと全力で駆け出した。
だが――巨躯の騎士は、その思考すら先読みしていた。
「させるかよ」
頭上から、巨大な影が落ちる。
あの鉄塊のような大剣を持っているとは思えない、恐るべき踏み込みの速さ。
「っ!?」
ヴェルトールは反射的に身を投げ出し、無様に泥地を転がって回避を試みる。
だが、死神の鎌は逃がさない。
―ザシュッ!!
「ぐっ……ぁ!!」
回避は、完璧ではなかった。左腕に焼けるような熱と鋭い痛みが走り、鮮血が舞う。
滴る鮮血が、地面に赤い染みを作る。 ヴェルトールは痛みを奥歯で噛み殺し、震える右手で泥にまみれた柄を死に物狂いで掴み取った。
だが、安堵する間もない。
―ギィィンッ!
拾い上げた直後の剣に、カイネスの大剣が、轟音と共に叩きつけられた。
耳をつんざく金属音。全身の骨が軋むほどの衝撃が走り、ヴェルトールはたまらず片膝をつく。
「ぐ、うぅ……っ!」
「……ほう」
鍔迫り合いの形になったが、力の差は歴然だった。
カイネスは涼しい顔で、ヴェルトールを見下ろす。その口元には、弱者を蹂躙する嗜虐的な嘲りが浮かんでいた。
「思ったよりは粘るようだが……。まぁ、所詮はこの程度か」
―ギチチチチ……
カイネスが腕に力を込めると、ヴェルトールの剣が悲鳴を上げ、鋼鉄の圧力が肩と膝を押し潰しにかかる。
――お、重い……っ!
歯を食いしばる。腕が、肩が、悲鳴を上げている。このままでは確実に押し負ける。
意識が闇に沈みかけた、その時。
脳裏に、鮮やかな光景が走馬灯のように駆け巡った。
『行ってらっしゃい、お兄ちゃん!』
シエナの弾けるような笑顔。『達者でな、ヴェル』 『村のことは任せてくれ!』 村のみんなの温かい顔、そして自分を送り出してくれた、あの優しい声の数々。
――ダメだ。こんなところで……終わってたまるか……!
もし自分が倒れれば、あの笑顔は二度と戻らない。
その恐怖と責任感が、身体の奥底に眠る「何か」を叩き起こした。
―ドクンッ!!
心臓が、爆発したように脈打つ。全身を駆け巡る、灼熱の奔流。
「うおおおおおおおおっ!!!」
ヴェルトールは雄叫びを上げ、砕けそうな足で大地を踏みしめると、全身全霊の力を込めて剣を押し返した。
「なっ……!?」
カイネスの顔が、驚愕に引きつる。
――押し返して……いるだと!?
自分の渾身の力と、大剣の質量。
それを、片腕を負傷した、自分よりふた回りも小さな小僧が、正面から押し戻しているのだ。
―ギギギギギッ!!
鋼鉄が悲鳴を上げ、火花が散る。あり得ない。物理法則を無視したその怪力に、冷徹だった巨人の瞳に初めて「焦り」の色が浮かんだ。
押し込んだ反動を利用し、ヴェルトールは半身を翻す。
巨体の懐へ、風のようにすり抜けた。
「はぁっ!!」
―キィンッ!
鋭い斬り上げが、カイネスの脇腹を襲う。
分厚い甲冑に阻まれ、甲高い音が響くが、今のヴェルトールは止まらない。弾かれた反動すら次の一撃への加速に変え、怒涛の連撃を繰り出した。
―キンッ!ガッ!キィィンッ!!
嵐のような剣閃が、鉄壁の防御を揺さぶり、削っていく。
――なっ、この小僧……っ!
カイネスは驚愕に目を見開く。
大剣を取り回すのにわずかな遅れが生じ、防戦一方に追い込まれていく。
「一体どこに、こんな力が……!」
彼は必死に剣を盾にして捌き続けるのが精一杯だ。
ヴェルトールの剣は、もはやただの武器ではない。その一振り一振りに、「大切なものを守り抜く」という鋼の決意と執念が宿り、物理的な重量以上の重さを生んでいた。
散り続ける火花。響き渡る剣戟の轟音。
圧倒的だったはずの巨人に対し、傷だらけの青年は、一歩も引かずに渡り合っていた。
互角――いや、気迫においてはヴェルトールが勝っていた。
その時だった。 ヴェルトールの背後で、殺意に満ちた魔力が膨れ上がった。
―ドゴォォォンッ!!
「が、はっ!!?」
焼けるような衝撃が、無防備な背中を直撃する。
爆音と共にヴェルトールの体は前のめりに吹き飛ばされ、受け身も取れずに石畳に叩きつけられた。
「……っ、ぐ、ぅ……!」
背中が焼けるように熱い。口元からドス黒い血がごぼりと溢れ落ちる。
霞む視界の端。ニタニタと醜悪な笑みを浮かべていたのは、あの神官だった。
「ひ、卑怯だぞ……っ!」
ヴェルトールは膝をつきながら睨みつける。
「卑怯?何を言っている?」
神官はきょとんとし、次の瞬間、心底おかしいとばかりに狂気と愉悦の入り混じった高笑いを上げた。
「勘違いするなよ!これは神聖な騎士の決闘ではない……『断罪』なのだ!!」
彼は唾を飛ばして叫ぶ。
「さぁ、カイネス!トドメを刺せ!!」
「……残念だったな、小僧」
指令を受けたカイネスは、無感情に告げた。
そこには勝利の喜びも、殺しの躊躇いもない。ただの「作業」として、彼はゆっくりと、しかし確実に巨大な剣を振り上げた。
「これで、さよならだ」
―ゴオオオォォォッ!!
轟音。空気を押し潰す風圧と共に、回避不可能な死の鉄槌が振り下ろされる。
焼かれた背中は動かない。逃げ場はない。
ヴェルトールは迫りくる死の影を前に、恐怖をねじ伏せるように奥歯を砕けんばかりに噛み締め、ギュッと目を閉じた。
ーズバァ!!!
鈍く、湿った音が響き、温かい飛沫がヴェルトールの頬に飛んだ。
「……?」
痛みがない。訪れるはずの死の感触がない。
ヴェルトールは恐る恐る、震える睫毛を持ち上げ、ゆっくりと目を開いた。
「……あ」
目の前には、見慣れた、恰幅の良い男の背中があった。盾になるように両手を広げ、立ち塞がるその姿。
「……っ!!!」
声にならない悲鳴が喉で凍りつく。
男の胸元は、肩から脇腹にかけて無惨に斬り裂かれていた。 傷口からは止めどなく鮮血が溢れ出し、ボタボタと音を立てて、石畳の上に赤い水たまりを広げていく。
ゆらり、と男の体が傾いた。
「……バデロン、さん……?」
「……っ!!バデロンさん!!」
凍りついた思考が再び動き出すと同時、ヴェルトールは崩れ落ちる体を受け止めた。
抱きとめた腕に、ズッシリとした命の重みがのしかかる。
「どうして……!先に逃げたんじゃ……!」
ヴェルトールは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。
安全圏にいたはずの彼が、なぜここにいるのか。なぜ、自分のために命を捨てるのか。
バデロンは虚ろになりかけた瞳をヴェルトールに向け、口端から血を流しながら、弱々しく笑った。
「……や、はり……。恩人を、見捨……てて、その……まま逃げる、など……」
ヒュー、ヒューと、肺から空気が漏れる音がする。
「我が……ロスタルト家、末代……までの……」
「バデロンさん!?」
最後の力を振り絞り、彼は誇りを口にしようとした。 だが――。
言葉の代わりに、大量の血が口から吹き出した。
言いたかったはずの言葉は失われ、抱きとめていた腕から、フッ、と力が抜ける。
「……バデロン、さん……?」
返事はない。
「バデロンさんッ!!!うあぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
「チッ……!邪魔が入ったか……」
神官は不快そうに舌打ちし、地面に転がるバデロンの亡骸を、汚いものでも見るように冷たい目で見下ろした。
「だが、罪人を庇う愚か者には相応しい末路だ。……まぁいい」
彼は淡々と次の命令を下す。
「カイネスよ!掃除は終わりだ、断罪を続行しろ!!」
「……御意」
その言葉に、カイネスは無表情のまま、恩人の血で濡れた剣を、再びゆっくりと振り上げた。
罪悪感など微塵もない。ただの作業だ。
「……何が、断罪だ……!」
ヴェルトールは、バデロンの血に染まった地面を睨みつけ、呻くように呟いた。 震える拳から血が滲む。
「お前たちがやっているのは……ただの『人殺し』じゃないか!!」
喉が裂けんばかりの絶叫だ。だが、カイネスは眉一つ動かさず、絶対零度の声で答えた。
「――だから、どうした?」
「それが秩序の維持に必要なのであれば、屍の山を築こうとも、それは『正義』であり『断罪』だ」
「……お前たちが、それを『断罪』と呼ぶのなら……」
ヴェルトールがゆらりと立ち上がる。
「……俺が……」
彼はバデロンの血で濡れた地面を踏みしめ、拳から血が滲むほど強く、固く握りしめる。
「……俺がお前たちを断罪してやる……!!!」
顔を上げたヴェルトールの瞳は、憎しみと決意を宿し、鮮烈な紅い輝きを放っていた。




