第十六話:荒ぶ荒波亭 -The Hideout-
活気あふれるポルナの通り。
潮風と、屋台から漂う香ばしい匂いが混じり合う中、三人は市場を練り歩いていた。
「お兄ちゃん!見て見て!このお魚、すっごく大きいよ!!」
シエナが目を丸くして指差したのは、彼女の背丈すら超えるような巨大な魚だった。
氷の上にドォンと鎮座するその姿は、海を知らない者にとっては怪物にしか見えない。
「うわぁ、でっか……。なんだこれ、ヌシか?食べるのに一体何日かかるんだ……?」
ヴェルトールは、想像の枠を超えた海の恵みに驚く。
すると、横からもぐもぐと咀嚼する音が聞こえてきた。
「ふん。その程度、本来の我であれば、瞬きする間にペロリじゃぞ」
見れば、イヴリスがいつの間にか買ったらしい『魚の串焼き』を両手で持ち、ふふんと自慢げに胸を張っている。
「……あのな。それは何の自慢にもならないぞ」
ヴェルトールはジト目で彼女を見下ろし、ため息交じりに指摘した。
「それに、威張るのはいいけど……口の周り、タレでベトベトだぞ」
「ぬ……?」
「ほら、じっとして」
ヴェルトールが布で口元を拭ってやると、彼女は顔を赤くして抗議の声を上げた。
「お、おぬし……!前から言おうと思っておったが、我を敬う気持ちが足りておらぬのではないか!?」
「はいはい」
ぷりぷりと怒る邪竜と、それを軽く受け流す青年。
そんないつも通りの賑やかなやりとりをしながら、三人は露店を巡っていた。
一方、残りの二人はと言うと、少し前に遡る……。
「ふあぁぁ……」
レックスは顎が外れそうなほど大きな欠伸を一つこぼし、涙目で空を仰いだ。
「……悪いが、俺はもう限界だ。昨晩の不寝番が祟った……適当な木陰で寝てくる……眠い……」
彼はそう呟くと、ふらりと路地の奥へ消えて行ってしまった。
野生の本能か、静かに眠れる場所を探す嗅覚は鋭いらしい。
「では、私も一足先に宿屋へ向かい、手続きを済ませておきます!」
バデロンは居住まいを正し、ビシッと請け負った。
「皆様はどうぞ、ゆっくりと市場をご覧になってからお越しください。私の馴染みの宿で、最高のお部屋と食事を用意して待っておりますぞ!」
言うが早いか、彼は商人らしい早足で、人混みを縫って宿の方角へと駆けていった。
そして今、賑やかな人波をかき分けるように、漁師の身なりの男が現れ、大きな声を上げた。
「おい!大変だ!神殿騎士が来てるらしいぞ!」
その言葉に、それまで活気に満ちていた街の空気が一変した。
ざわざわと静かな波紋が広がり、人々は不安げに顔を見合わせ始めた。
「神殿騎士って…なんでこの街に…」
「教会が『大罪人』を狩るために派遣する、あの処刑部隊か?」
「やだ、怖い……。この街に罪人が紛れ込んでるってこと?私、帰るわ……」
「いや、でもえれぇ強いらしいぞ?」
街の人たちがざわめきながら、口々にそう話す。
(まさか、あの神官が呼んできた追手か!?)
ヴェルトールの背筋に冷たいものが走る。
彼は反射的にシエナの肩を抱き寄せ、近くの荷車の陰へと身を滑り込ませて視線を遮った。
「お兄ちゃん……」
シエナが不安に顔を曇らせ、震える手で兄の服の裾をギュッと握りしめる。
「……狼狽えるな。まだ奴らはおぬしらの存在になど気づいておらぬはずじゃ」
イヴリスは周囲のざわめきを冷徹に見回し、声を潜めて告げた。
「とにかく、いつまでもこの様な開けた場所でいては、見つけてくれと言っているようなもの。……移動するぞ」
彼女も二人に合わせて身を屈め、指示を飛ばす。
「ひとまず、バデロンが向かった宿屋へ退避し、身を隠すぞ」
神殿騎士の目を避け、一行は人気の少ない細い路地を選んで駆け抜ける。
その時だった。
トンッ。
頭上から影が落ち、ヴェルトールたちの目の前にレックスが着地した。
彼は低い姿勢のまま、鋭い視線で周囲を警戒している。
「……街の様子が騒がしい。何が起こったか知っているか?」
屋根の上で休んでいた彼は、いち早く異変を察知していたらしい。
「仔細は後で話す。おぬしもついてこい!」
イヴリスが走り抜けざまに短く告げる。
ヴェルトールも足を止めず、すれ違いざまにレックスの目を強く見つめ、無言で頷いた。
一瞬の目配せ。それだけで彼は事態の緊急性を瞬時に悟ったらしい。
余計なことは何も尋ねず、身を翻すと、殿を務めるように一行の背後へと音もなく続いた。
「見えた!あそこの角を曲がれば、バデロンさんが言ってた宿屋だ!」
建物の看板を見つけ、ヴェルトールの顔に安堵の色が浮かぶ。
彼は逸る気持ちのまま、路地を飛び出そうと足を踏み出した。
だが――。
イヴリスが彼の胸元にバッと腕を突き出して制止した。
「……っ!?」
勢いよく踏みとどまる四人。
彼女は唇に人差し指を立て、「静かに」の合図を送ると、音もなく壁際へ身を寄せる。
直後。
曲がった先から男の声が響いてきた。
決して大声ではない。
だが、その声には、聞く者を無意識に畏縮させる絶対的な権力と、氷のような威圧感が孕まれていた。
ヴェルトールが恐る恐る壁の縁から覗き込むと、宿屋の入り口には、異様な存在感を放つ巨漢が立っていた。
全身を白く輝く重厚な甲冑に包んだ男――神殿騎士だ。
「……この街に、幼い妹を連れた若い男がいるか、あるいは立ち寄ったはずだ。何か聞いておらんか」
尋問というよりは脅迫に近い。
だが、対峙する宿屋の店主と思しき男も負けてはいなかった。
騎士に勝るとも劣らない巨躯。
彼は腕を組み、鼻で笑って答えた。
「いや?俺ぁ何も聞いてねぇな。そんなわかりやすい二人連れ、ウチに泊まってりゃ嫌でも覚えてるしよ」
「……貴様。口の利き方には気をつけろよ?」
騎士の声に怒気が混じり、ガシャリと篭手が鳴る。
だが、店主は悪びれる様子もなく、ニカッと歯を見せて肩をすくめた。
「あぁ、こりゃすまねぇな!何しろ俺ぁ育ちが悪いもんだからよ!」
「……チッ」
睨み合いが続く。
やがて、騎士はこれ以上話しても無駄だと悟ったのか、舌打ちをして踵を返した。
「ふん、まぁいい……。何かあったらすぐに我々に報告しろ。隠し立てするなら、ろくなことにならんぞ」
吐き捨てるように言い残し、騎士は重い足音を響かせて去っていく。
その白い背中が見えなくなるまで、店主は腕を組んだまま、鋭い眼光で睨みつけていた。
騎士の足音が消えたのを確認すると、
「おい、お前ぇら!そんなとこに隠れてねぇでさっさとウチに入りな!」
なんと店主は、一行が最初からそこにいるのを知っていたかのように、ドスの利いた声を張り上げた。
「……っ!?」
一行に戦慄が走る。
彼らは顔を見合わせ、ゴクリと喉を鳴らすと、覚悟を決めた真剣な眼差しで互いに頷き合った。
逃げても無駄だ。ここは大人しく従おう。
観念した一行が、ゾロゾロと路地の影から姿を現すと、店主は目を丸くし、くわえていた爪楊枝をポロリと落とした。
「なんでぇ……。ほんとにいたのかよ……」
~宿屋『荒ぶ荒波亭』~
「がっはっは!!」
店主は丸太のような腕でテーブルをバンバンと叩きながら、店の柱が震えるほど豪快な笑い声を上げた。
「バデロンの旦那から人数と身なりを聞いてたからよ!こいつぁなんかあるなと、ピーンときたってわけよ!俺の勘は大抵当たるんでなぁ!」
彼は自分の鼻を親指でグイッと擦り、得意げに分厚い胸を張った。
「……あの。庇ってもらっておいて言うのもなんですけど、俺たちを匿ったりして、本当に大丈夫なんですか?」
ヴェルトールは眉を下げ、心配そうに尋ねた。
だが、店主はフンと鼻を鳴らし、豪快に笑い飛ばした。
「へっ、構いやしねぇさ!だいたい俺ぁ昔っから、『教会』ってヤツがでぇ嫌ぇなんだ!」
彼は忌々しそうにカウンターを拳で叩く。
「偉そうに神に祈れだ、寄付をよこせだと言うわりにゃあ、俺たちが嵐や不漁で本当に苦しい時、なーんも助けてくれやしねぇ!あいつらの言う『神の慈悲』とやらは、随分と偏ってるみてぇでよ!」
不満をぶちまけるように声を荒らげた後、店主はふと表情を和らげ、少し声を落とした。
「……それにな」
彼はチラリと、不安そうに寄り添うシエナとイヴリスに視線をやる。
「何の理由があるかは知らねぇが、子供を寄ってたかって追い回すような連中は、大抵ろくなモンじゃねぇんだよ」
その眼差しは、静かで真剣なものだった。
「あの……。俺、もう十九歳で、子供じゃないんですけど……」
ヴェルトールが少し不服そうに唇を尖らせて抗議する。
「へっ!俺から見りゃあ同じひよっこなんだよ!違いなんざ、ケツに卵の殻が付いてるか付いてないかぐらいのもんだ!!がっはっは!!!」
豪快な笑い声が店内の空気を震わせる。
その時、横から噴き出すような音が漏れた。
「……ぶふっ」
犯人はイヴリスだ。
彼女はヴェルトールの尻をジロリと見やり、そこに卵の殻がくっついている情けない姿を鮮明に想像してしまったらしい。
「……く、くくく……!ケツに……殻……ぶふふふふ……!」
彼女は口元を両手で覆い、小刻みに肩を震わせる。
威厳を保とうと必死に堪えているが、ツボに入ってしまった笑いは指の隙間から盛大に漏れ出していた。
「おぉ、そういや笑ってて忘れちまってたな!まだ名乗ってなかった!」
ダンゲルは丸太のような腕で、バンと自らの分厚い胸板を叩いた。
「俺ぁ、この『荒ぶ荒波亭』の店主、"ダンゲル"だ!!よろしくな、ひよっこども!」
腹の底から響くような、豪快な名乗り。
それに当てられて、ヴェルトールも自然と背筋を伸ばす。
「俺の名前は、ヴェルトールです!今日は本当にありがとうございました!ダンゲルさん!」
彼は深々と頭を下げる。
命の危険がある自分たちを、理由も聞かずに匿ってくれた恩義。
その感謝を伝えると、ダンゲルはニカッと白い歯を見せ、気持ちのいい笑顔で親指を立ててみせた。
ダンゲルが豪快に笑っていると、厨房の奥から、その笑い声さえも掻き消すような怒号が飛んできた。
「アンタ!!いつまで油売ってんだい!!」
「げっ……」
現れたのは、三角巾にエプロン姿の女性だ。
彼女は腰に手を当て、仁王立ちでダンゲルを睨みつける。
「早くお客さんたちを休ませてあげなっ!!!」
「お、おう……。わ、わかってるって……」
雷のような一喝を受け、ダンゲルはタジタジになって頭を掻く。
彼の巨体が、今はしゅんと萎んで、一回りも二回りも小さくなったように見えた。
「……ふふっ」
どんな荒波よりも強いのは、やはり陸で待つ女性ということか。
そのあまりの変貌ぶりに、ヴェルトールたちは思わず顔を見合わせて吹き出した。
「……あれは、俺のカミさんの"リエッタ"だ」
ダンゲルは熊のような巨体を精一杯小さく丸め、図体に見合わない蚊の鳴くような声で囁いた。
「カミさんを本気で怒らせるとおっかねぇからな。……ここらで一旦、お開きにするぞ」
「ほぅ……。おぬし、顔に似合わず、随分と器量のよい女を捕まえたものじゃな」
去りゆくリエッタの背中を眺め、イヴリスが感心したように呟く。
すると、ダンゲルの表情が一変した。
「だろぉ!?」
彼は恐怖も忘れてパァッと顔を輝かせ、鼻息荒く胸を張った。
「がはは!よくぞ言った!ウチのカミさんはなぁ、気は強いが、このポルナの街でも一番のべっぴんさんだからなぁ!!」
その声が厨房まで届いたのだろう。
「アンタッ!!恥ずかしいこと言ってないで、さっさとこっち手伝いな!!」
「お、おうっ!!」
怒号が飛んでくるが、暖簾の奥へ消えるリエッタの耳は、茹でたカニのように真っ赤に染まっていた。
「……怒らせても、この街一番だからな。気をつけろよ?」
ダンゲルはこっそりと耳打ちするように小声で言った。
そしてニカッと笑うと、愛する妻の待つ戦場へと、嬉しそうに駆けていった。
「面白いおじさんだね!」
シエナは、クスクスと楽しそうに肩を揺らした。
「あぁ。なんと言うか……本当に豪快な御仁だな。まるで嵐が服を着て歩いているようだ」
レックスも苦笑しつつ、少し圧倒されたように顎を撫でる。
「ははは。彼は昔、私が商船で海を渡っていた頃に雇っていた、腕利きの護衛でしてね」
バデロンは厨房の方角を懐かしむように見つめ、目を細めた。
「海賊や魔物を相手に大暴れしていた荒くれ者でしたが……引退して、こうして陸に上がったというわけです」
「へぇ、そうだったんですか」
「えぇ。口は悪く、無愛想に見えますが……根はとても気風の良い、信頼できる男なのです」
バデロンの言葉に、一行は深く頷いた。
理屈抜きで助けてくれたその行動が、何よりも彼の人柄を証明していた。
この宿なら安心だ――全員の心が、温かい安堵で満たされていった。




