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   [04]半日偽妹・漆


 河童はたった今までいた所に水溜まりを残し、気配を消した。

 坊主は少し離れた草むらに転がっていた五〇キロはあろうかという蓋を片手で持ち上げると、太刀をマンホールに放り、蓋を戻した。

 そして刃を直接掴んだ掌を舐めて、僕の方を見た。

 坊主は不思議な目をしていた。白目がない。腫れぼったく切れ長の凶悪な目つき。小さな瞳孔にオリーブオイルのような柔らかい光を放つ金色の虹彩。狐、あの河童は彼を初めにくそ狐と呼んだ。正にそうだ。狐が人に化ければこんな目だろう。


 何だろう、この感じは。


 今の状況を把握する事に精一杯の僕の思考は目の前の奇妙な男に不思議な印象を抱いた。畏怖のようで安心する。親しみのようで隔たりを感じる。

 僕は彼に会った事があるのだろうか。

「あの……えーっと。ありがとうございます」

 こういった場合、先ずは感謝すべきだ。何故、河童が出てきたのか理解出来ずとも救われた事に違いない。

「ここから消えろ」

「えっ?」

 やけに素っ気なく言う。助けてくれた割に冷たいじゃないか。

 坊主は鼻を動かしながらどこか向いていた。

「直に警察が来る。誰か通報したのだろう」

「わ、わかりました」

 よく考えればその通り。道路の真ん中で爆音と共に河童が現れれば住民の一人や二人、気づくはずである。

「ノン」

「おにいちゃん、早く!」

 躰はもう普通に動かせた。ノンの所に駆け寄ると彼女はまだ怯えている。その視線は坊主に釘づけのままだ。

 そう、僕も感じる。河童程大きくはないけれども、彼は人と違う『気配』感じる。人じゃない。が、しかし僕らの恩人でもある。一人放っておくのは気が引ける。

「あの良かったら僕らと――」

 振り返った時にそこには水溜まり以外、何もいなかった。

「早く!」

 急かされるまま僕らは大通りに出てタクシーを拾い、海を目指した。




「こんな時間に防波壁なんて何用だい?」

 タクシーの運転手はお喋りな男性だった。それもそうだろう。今や無人タクシーなんて物がある御時世、この職をするのは趣味みたいなものだ。きっと人と会話する事が好きなのだ。

「海が……。今日は空が澄んで綺麗じゃないですか。だから海と星が見たくて」

「ほお。やけに趣深い事を言うじゃないか。下の子かい?」

 ミラー越しに目が合う。穏やかな優しい目だ。年齢は良く分からない。

 その眼差しは幼い子供を見守る老人のような印象を受けるが、漂わせる雰囲気は若々しい。それでいて落ち着いている。

 服装は制服でもスーツでもない。ヨレヨレのシャツにカーゴパンツ。車体に『空席』のランプがついていて、辛うじてタクシーと分かる。

 いくら個人タクシーとは言え、この格好は……。

「いえ、生粋の地上っ子です」

「そうかい。下の生まれは最近じゃあ空を見に行くツアーなんかが組まれるくらいだと聞いた事があったものでね。偶に言うじゃないか、地上懐古だっけ」

 何が可笑しいのか彼は肩を揺らして笑った。ノンは静かに外の景色を眺めている。

「海を見に行くんだ、どうせなら砂浜を見たくないかい?」

「砂浜……があるんですか? この辺」


 海水面の上昇に伴い数を減らした日本の砂浜は、更に襲い掛かった異常気象の高波に洗われ、その殆どが消失していた。防波壁が続く趣もクソったれもない日本の海岸線において『砂浜』は貴重なものである。残っているとすれば名が知られているはずだ。


「昔からここらは有名な海水浴場があったんだけどねえ。今の子は知らないか」

「あ……いえ。僕、昨日愛知に引っ越してきたばかりなんです」

 ミラーに映る目が丸くなる。

「それはまた慌ただしい観光だね。見たところ普通の学校帰り……でもないか」

 運転手の目が一瞬、ノンの方向を見た。……気がした。まさかね。

「行き先をその浜に変えてもらっても良いですか」

「分かった。裏道使えば直ぐだよ」

 砂浜には本当に直ぐ到着した。タクシーは狭い空き地に止まった。

「そこの林を抜けたらあるよ。待っとくから行っておいで」

「ありがとうございます」


 車を降りると地面はもう砂が大部分を占めている。運転手の目が気になるので声を掛ける事はしなかったが、ノンもしっかりついて来た。

 すっかり暗くなった林の中にぼんやりと白い看板が見える。『海水浴場 すぐそこ』と書かれたそれは浜が近い事を教えてくれる。なる程、確かに塗装の剥げかけた文字は歴史を感じさせる。と同時に今の訪れる人の少なさを感じさせた。

 振り返るとタクシーは隠れて見えない。もう話しても大丈夫だろう。

「いよいよ残るは海と星だね、ノン」

「う、うん」

 ノンは俯き加減でトボトボ歩く。何となく元気がない。ノンのキャラから考えて、ここは「うん!ワクワクするーっ!」とでも言いながらスキップしても構わないと思うのだが。

「どうしたの? 浮かない顔して」

「えっ? ……。別にー。そんな顔してないよ」

 無理矢理笑うのが僕でも分かる。

 何か不安な事でも……、さっきの運転手か?

 それともあの河童と坊主頭の事か?

 河童と坊主の件は一切が詳細不明だ。考えるだけ無駄というもの。僕の頭が出来そうな事と言えば彼らの存在を認知する事くらいだ。母なら何か知っているのかもしれない。何て言ったって幽霊も妖怪も分野を同じくするオカルト。存在がオカルトな母ならば或いは。

 ノンが黙り込んだために僕らは沈黙を維持しながら進んだ。程なく林を抜ける。


「――っ!」

 眼前に言葉が出ない程の美しい浜辺が――とまではいかないものの、砂浜に打ち寄せる小波を前に僕もノンも沈黙を継続させた。

 日没後。空は海と溶け合い混ざり、そして時折の白波が二つを分離する。月は明るさを増し、灰色の浜辺を鈍く穏やかに照らす。

 視線を巡らせばここが防波壁に左右を護られている事に気づく。二つの長大で鈍重な守護者。その間に高波一つで消えてしまいそうな、猫の額くらいの儚い砂浜。月明かりが照らす廃墟に見紛う海の家がその儚さを一層際立たせる。

 海はそんな砂浜を小さな小さな波で優しく優しく撫でる。引いては寄せ、寄せては引く。繰り返し単調に、偶に調子を崩して。それに応える喜びのように波で動いた砂は摩擦と衝突の音を奏でる。こんな音はタクシーを駐車した空き地には聞こえてこなかった。背後の林は差し詰め人目を欺く結界か。

 ここは全てに愛されている。自然にも人工にも。周囲のモノ全てがこの小さな砂浜のためにあるようだ。

 それだけに自分が急に別世界に迷い込んだ異端の存在に思えた。しかし不思議だ。深呼吸して夜空を見上げると、少しずつだが僕もこの空間に溶け込んでいくように錯覚する。

「座ろっか」

 ようやく口を動かし、吐いた言葉はこれだけだ。僅かに浮いているノンにとってその行為はさして意味などないのは解っていたが、そう言っていた。ノンも素直に体育座りで尻を砂上に任す。

 砂浜は若干湿っぽく、ひんやりした。

「綺麗だ」

 口から零れた言葉にノンが首を傾げる。

「僕、砂浜見るのは初めてなんだ」

「そうなんだ」

 相変わらずノンはどことなく元気がない。肉体的に疲れないとしたら気疲れしたのか。

 僕は大の字に全身を砂浜に委ねた。

 夜空は無数の星を散りばめ、彩られていた。

「ノン、上を見てごらん」

 ノンは直ぐに星を見なかった。困惑を浮かべる。

「ほら、願い事の最後だよ。ずっと見たかったんでしょ」

「う、うん」

 おずおずとノンは僕に倣った。

「……凄い、綺麗」

 大都市から距離があり、しかも気象条件にも恵まれた。こんなにはっきりと輝く星空は何時以来だろう。

 月の周りの取り巻きは控え目で、目を凝らさないとよく見えない。しかし、他の星達は皆、誇らしげに自己主張する。明るい星。暗い星。大きい星。小さい星。白い星。青い星。赤い星。黄色い星。

「おにいちゃん」

「どした」

「ありがとう」

「ん」

 気のせいだろうか。ノンが泣いている気がする。星を堪能していた視線を移すとノンはこちらに向かって正座していた。

「どうしたの改まって」

 心なしかノンが薄まって見える。遠くの防波壁がノンを通して見える。まるで本当にこの空間に溶け込んでいくみたいに……。

 僕は飛び起きた。

「ノン、その躰……」

「ノンね、何となくね、気づいたの。お願いを全部かなえたらおしまいって」

「おしまいって」

「何となく。何となく、おにいちゃんとはお別れしないといけないって。だからここに行くのは少しイヤだったの」

 何言ってんだ? 余りに展開が急過ぎやしないか。

「お別れって、何言ってんだよ。また来よう。ここに。二人で」

 思わず叫んでいた。しかしノンは小さく首を横に振る。

「だからさ、さよならって言わせて」

 勝手に話を進めるな。他に何か方法が、方法が……思いつく訳ない。その間にもノンの躰は透き通っていく。

「おにいちゃん、本当にありがとう」

「そんな事言うな!」

 僕は目を逸らした。

 しかし自問する。本当にこうならない事を予想していたのか? 幽霊とは何なのか。熟考すれば予想出来る事じゃないか?

「……さよなら、ノンのはじめてのおにいちゃん」

「だから! そんなこ――」

 怒気を露わに顔を上げる。

 は? 何だよ、これ。

 突然過ぎて僕の思考は停止した。それを再開させる要素もない。

 たった半日で身に染み着いた、「おにいちゃん」と呼んでくれる者はもう居なかった。






 それから新居までタクシーを使った。

 あれだけ喋っていた運転手は道中一言も発さず、車内はずっと沈黙だった。知らない街並みをただぼんやり眺めた。帰っているのは分かったが経緯がはっきりしない。僕は覚え立ての住所をちゃんと言えたのだろうか。

 料金は生徒証のおサイフ機能を使った。表示された四桁の羅列にさほど驚く事もなく、それだけ僕は漠然とした意識のみでタクシーを降りた。

「また乗ってくれよ」

 運転手は柔らかく微笑むと行ってしまった。

 見上げると二人で暮らすには大き過ぎる家だった。本当に住所を言えたようだ。尤も、今住所を思い出そうとしても出てこないのだが。

 灯りが一部屋だけ点いた我が家を見て小さな不安が生じた。

 こんな時間まで帰らない僕を母は心配しているのではないか。否、それ以前に僕は入学式で母を撃沈しなかったか。

 腕の端末を見ると午後八時半を回り、もう九時前だ。


「ただいま」

 鍵が開いていた事に少し驚きながら玄関で靴を脱ぎ、ダイニングへ向かった。扉を開けると母はこちらを見ながら待ち受けていた。

「ただい――」

「お腹空いた」

「……え?」

「お腹空いた! ハッ君遅い、お母さん待ちくたびれたー」

 帰りが遅い事を叱責されるとは予想通りなのだが……飯か。

「今作るから待って――」

 台所に入った途端に固まる。焦げついた鍋。水浸しの棚。開きっぱなしの冷蔵庫。そして得体の知れない物体を収容した自動調理器。

 『いつも通り』母が台所を荒らしたようだ。

「ごめーん。一応、『料理』するつもりだったんだけど失敗しちゃった」

 普段はここで我慢しなきゃつっこまずにはいられないのだが、今は違った。

「直ぐ作る」


 その後展開した暗鬱な食事を破ったのは母だった。

「で、何かあったの」

「何って」

「ンフフ。見れば分かるよ。ハッ君の事はお見通し」

 母は僕の頬を見つめ、廊下への扉を見て、そして笑った。一瞬迷って僕は訊ねた。

「……母さん、ってさ幽霊と話せるんだよね」

「まあね」

「て事は詳しいんだよね、幽霊の事」

「ん〜」

「今日さ、実は学校で幽霊に会ったんだ」

「うんうん。詳しく聞かせて」

 僕が入学式以後の顛末を話す間、別段動揺する事なく母は何時も通りだった。

 それが少し意外だった。

 今まで見えなかったものが急に見えても不思議じゃないのだろうか。それとも母にもそんな経験があるのだろうか。


 ・

 ・

 ・


 食卓に胎児の劣化した乾燥死体が鎮座する。正鞄に入ったままだった『アン』だ。そんな物を挟み、母と食事するなんて想像出来ただろうか。

 河童と坊主に関しては何も言わなかった。今思い出しても実感が湧かない。あまり認めたいとも思えない。恐怖と混乱でしかなかったあの場は気が動転していたし、夢でも見ていたのではないか。


「――それでノンって女の子は、その、僕のせいで消えてしまったの?」

 一番聞きたかった事。あれは幽霊だ、と割り切ろうとしても出来ない原因。それは自分から湧き起こる小さな痼りのような罪悪感だった。

「まあまあ、そう気負わないの」

 暢気な反応が僕を逆撫でする。僕はこんなに悩んでいるのに。結局、今まで通りはぐらかすのか。

「そうね〜。幽霊ってのはね、そんな存在なのよ。勘違いしてるみたいだけど、ハッ君がした事は何も間違ってないよ。むしろ感謝してたんでしょ、その子」

 僕は自分の聴覚が正しく作用しているのか疑った。初めて母が幽霊について二文以上用いて語った瞬間だった。

「でも、消えてしまったんだよ。急に」

「だから、そういうものなの。幽霊はね、生前の思いや願いつまり『素懐』を抱いて存在してるの。それを叶えるために存在してるの。幽霊は素懐を全うしたら『遡界』するのよ」

「ソカイ?」

 首を捻ると、母は湯呑みに指を突っ込み、水で机に漢字を書いた。

「幽霊ってのはね、何時か消えるものなの。だから素懐を全う出来ない幽霊もいれば、素懐自体を覚えてない幽霊もいる。素懐を全う出来なかったら遡界も出来ない。一般的に遡界は皆したいものみたいね」

 どこの一般論だよ。

「だから幽霊の素懐を全うするのを手伝って、遡界を見届けたって事はいいことなんだよ」

 微笑みながら母は締めた。

「そのノンって子は幸せなはずよ」

「……」

 求めていた答えはこれかもしれない。これじゃないかもしれない。母の説明は納得する正論に聞こえる。

「そもそもどうして僕は急に幽霊が見えるようになったの?」

 そう言ってから室内に何時もいる幽霊達が見当たらない事に気づいた。

「そうねえ……分かんない」

「は?」

「やっぱあれかな。お父さんが幽霊だから中途半端に変な能力がついちゃったんじゃない?」

「あれって本気で言ってたんだ」

「へ? ふぇ〜ん、ハッ君信じてなかったのぉ? 私と靖さんのらぶすと〜りぃ」

「当たり前でしょ。あんなメルヘンな話、誰が信じるか」

 泣き顔を作る母に反論する。


 幼い頃から靄として幽霊は見えていた。その理由を母に訊ねると返ってくる決まり文句が『ハッ君のお父さんは幽霊』である。

 最初は信じていた。幼い僕には目の前の靄を説明出来なかったからだ。次第に成長してそれが母の作り話だと思うようになった。




 父は僕が生まれる前――正確には母のお腹に宿る以前に――死んでいる。事故だった。

 父は少し変わった人間でガソリンエンジンのバイクをこよなく愛するスピード狂だった。とにかく無謀でバイクに乗ると後先見えなくなったと言われている。最期も雨が降っている中、山道を猛スピードで爆走。カーブで曲がり切れずに崖へとダイブ、全身を強打して即死だったらしい。

 自業自得である。自分の父親とはいえ情けないというか、馬鹿みたいな最期というか。とりあえずこの話を聞いた時、幼心は「ぼくのお父さんってバカだったのか」で納得していた。唯一の救いは獣医だった事だ。馬鹿ではあるがお勉強は出来たようである。


 さて、母の話でメルヘンになるのはここからだ。当時十九歳だった母はこの頃には父と結婚していた。但し父が事故死した際は子供がいなかった。僕は生まれるはずがなかったのだ。

 傷心の母は自室に籠もり、食事も水も摂らず、風呂にも入らない。祖父母は相当苦労したと言っていた。

 母も自殺を考えた頃、父が幽霊として母の許に帰ってきた。母は死ぬ程喜び、二人は一夜を共にした。父は満足そうに成仏し――さっき知った言葉を借りれば遡界したのだろう――、気づけば母は妊娠していた。こうして僕は生まれたとさ。めでたしめでたし。




 ……さあ、今振り返ってもツッコミどころ満載である。幽霊と人間が子を成すなんてあり得るか。母ですら幽霊には触れないのだ。

 母は父が一物のみ実体化したと抜かした。

 ではそれは認めよう。今日初めての経験で、幽霊でも一部分のみ実体化する事があり得るとノンが証明してくれた。では子種はどう説明するのだ。幽霊の一物から子孫汁が噴き出るとでも言うのか。

 ついこの間まで僕が至っていた答えは『母に別の男がいた』という事だ。しかし、困った事に表向き母は父を溺愛している事になっている。そんな母に指摘したら何が返ってくるか知れたものじゃない。この疑念を心に秘めたまま、僕は母の昔話を聞き流してきた。

 そして今、僕が幽霊を可視するようになったこの期に及んでこのメルヘン百パーセントの『らぶすと〜りぃ』を信じろと言う。

 幽霊が見える変態性質の母と幽霊になった父親。二人の子供だから僕もそれに近しいが、しかし中途半端な能力を受け継いだ。母の下手くそ理論でいくとこういう訳らしい。


 訳分からん。それに幽霊ってのは想像以上に『人間』っぽかった。知らずと愛着の湧いていたノンは急に消えたのだ。それを「そういうものなの」と説明されてもしっくり来ない。

 しかし……。母にこれ以上の説明を求めたところで困らせるだけだろう。十五年ぽっちの経験だが、それがそう忠告する。


 溜め息を吐くと母も察したのか立ち上がった。

「詳しい事は彼が説明するわ」

 てっきり一人にしてくれるのかと思えば廊下への扉を開き、何かを招き入れた。何かと言うのは人でも幽霊でもなく、その空間に何も存在しなかったからだ。

「……彼?」

 微かな衣擦れ音がしたかと思えば、目の前に体格の良い坊主頭が現れた。金色の虹彩、小さな瞳孔。特徴的に編み上げられた揉み上げ、つるつる頭にちょこんと載った兜巾。そして黒い法衣。夕方と違うと言えば袈裟を着けていた。

 その瞬間、僕の全身を水の音が駆け巡る。河童の皺一つや嗄れた声、坊主の瞳の鮮やかさにノンの悲鳴。全てが鮮明に思い出せる。

 そうだ、認めたくないがあれは本当にあった。ただ、認知しようとして直後にノンが消え、出来なかったのだ。

「あ、あなたは夕方の……」

「……」

 坊主頭は何も反応しなかった。

「明日から何日か玄を貸すからその間に色々と学びなさい」

 母は笑顔で『クロ』と呼ばれた坊主の肩に手を置いた。

「は? いっいや、この人何なの?!」

「え? もう会ってると思ってたんだけど」

「いや、会ったは会ったけど……」

「彼はお母さんの、んー……ボディガード? まあ、詳しい事は明日にでも玄に聞きなさい」

 僕は食卓の食器を左右に退けると頭を抱えた。

 何かどうなっているのやら。僕には理解出来ない。しかも母は説明放棄宣言。

 誰かこの状況を説明してくれ。おつむの弱い僕でも理解出来るように単純明快、的確に頼みます。

「ダメだ」

 僕は力なく立ち上がった。頭がパンクしそうだ。今日一日でどれだけの非日常を経験したか。

「風呂いってくる」

「そうね。疲れてるみたいだし、今日はもう休んじゃえ」

「そうする」

「あっ、ハッ君」

「何? もう今日は幽霊とかはお腹一杯」

「ほっぺたはちゃんと洗うんだよ」

「?」

 手の甲で頬を拭うと赤褐色の乾いた血がこびりついた。


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