[05]潜ム者達・捌
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闇より現れし巨悪。
否、それを見た刹那、僕の丹田はむしろこれは怨嗟だと告げる。そう、強制終了も叶わないこの状況下に現れたのは予想もしなかった、途轍もない強大な暗黒の感情だった。
「なんだ? なにがいる、そこに。お前も見えるか」
「み、見える」
島地の声は普段からは想像もつかない程の焦りが聞いて取れた。
「なんなんだ、あれは! 故障か? コンピュータウイルスか? ……そんな訳ない、よな」
何となく分かる。否、明確に分かる。本能が教えてくれる、丹田が教えてくれる。
これは、こいつは幽霊に間違いない。
その朧気な存在感は幽霊特有のものだ。ただ、それは今まで出会った幽霊の中で最も膨大で、そして容易く闇に紛れる程に隠微だ。
闇に蠢く闇。陽炎の如く揺らめく姿がその存在を控えめに主張する。ともすれば見失いそうなそれは、徐に近づいてくる。それは存在が巨大化しているようにも錯覚させ、僕らを威圧する。
生物的な眼二つがある事で、どこが頭部なのか判断出来た。充血し、ぎょろぎょろと忙しなく動くそれは獲物を探す捕食者のそれとは異なり、いっそ気の狂った追跡者と言った方が的を得た表現となるだろう。
とにかく、視認する事は出来ても、その全体像を掴む事は困難だ。表情も見えなければ、何か危険分子を孕んでいるのか、相手の情報は手に入らないのだ。
あれは、『メデゥサ』なのだろうか。母の忠告に従わなかった事を今更ながら後悔する。しかし、この幽霊をメデゥサだと断定するには僕は知らない事が多過ぎる。
また僕の無知が自身を貶める結果となっている。
そもそも、危険な幽霊ってどう危険なんだ?
何をしてくるのだ?
あの幽霊がメデゥサだと仮定して、一体どうやって僕らの視神経に刺激を与えるのだ?
下手をすれば、既にその姿を目にしている時点で僕らの命は無きに等しいのではないか?
まあ、少なくとも敵意剥き出しのあの目から言って友好的な感じは全く見受けられない。迂闊に動かず、様子を見た方が良いのかもしれない。
「おい、お前あれをなんだと見る?」
少し落ち着いた島地が冷静に分析を求める。
「多分、幽霊。だと思う」
「やっぱりか。まさかメデゥサだ、なんて事はないよな? 話が出来過ぎだぜ、噂を
した次の日に遭遇だなんて」
「それはまだ、ていうかメデゥサかどうか判断する事が僕には出来ない」
「どちらにしろ、俺らには抵抗する手段がない。なんで真っ裸なんだ?」
「知らないよ」
島地の言う通り、僕らは抵抗する手段がない。幽霊の出現する僅か前に闇の出現と共に仮想空間の全ての設置物、装備、漏れなく消え去った。今の僕らは被服すらないマネキンアバターだ。
無論、強制終了はおろか入出力機器の着脱もままならない。
「サーバ管理のハッカー部隊が来るまで逃げ回るしかないか……。芳沢、外はどうなっている?」
《……もう連絡した》
「仕事が速くてありがたいよ」
「どのくらいで着きそう?」
《……わからない。中は危険、多分外から来る》
つまり電脳伝いに直接ここに来るのは危険なのだろう。
《……来る》
「は?」
滑る眼光。蠢く闇の中の闇。
瞬いた次の瞬間には僕らに向けて暗黒の憎悪が飛び掛かっていた。その眼光がまるで矛のように伸びる。
黒き矛。
身の毛が逆立つ。『あれ』に触れたら終わりだ。丹田が疼いた。
そして――、壁が現れた。
僕と島地はそこで一旦、思考停止したと思う。急に壁が、左右上下、見えぬ果てまで続くコンクリート製の巨壁が現れた。
それが僕らの命を繋ぎ止めてくれる防壁だと理解して、ようやく僕らは顔を青褪めた。
「おいおい、今の何だよ? あいつ何しようとした」
「わかんないけど、ヤバいのはわかった。それにしてもこの壁……」
「ああ。なんとか助かった、みたいだな」
《……まだ。これは時間稼ぎ》
島地に倣って僕は壁に触れた。乾いた重厚な感触を期待したけれど、すかすかした発砲スチロールのような感触だ。
「お前か、芳沢」
確信を含んだ声で島地が訊いたが返事はない。
「今、どこにいるの?」
《……マスタールーム》
息を呑んだ。つまり、この壁は芳沢が即席で形成したのだ。
「でも、どうやって……」
推測ではあるが、マスタールームの端末も使えるはずがない。仮想空間がこんな状況で、モニターにはエラーが表示されている状態でどういじったというのだ?
「これ、使ってだろ」
島地の裸マネキンが何もない左手首を示した。それだけで何が言いたいかは理解した。
我が校の生徒は誰でも装着している多目的携帯端末機――通称、生徒証。IDやパスワード、様々な個人情報を包括する事が出来、勿論、連絡手段にもなるし、様々な機能をダウンロードする事だって出来る。そしてPCとしての機能も当然の如く付与されている。
僕はただ単純に、有り得ないと思った。閉鎖的な仮想空間とは言え、この短時間に携帯端末程度のハードウェアでこれだけ巨大な壁を形成したのだ。
一体、芳沢は何者なんだ?
「武器もあったらありがたいんだけどな」
それなのに島地はこれが当然の事のように抜かしやがって……。
《……もうやっている。まずは逃げて》
「どこに」
ここは設定された設置物が何もない。空っぽの仮想空間だ。右なければ左なく、上もなければ下もない。
「よく考えろ。なんのために壁があるんだよ」
そうか。言われてみれば、壁から離れればいいのか。
僕らは互いに無言で頷くと壁から遠ざかるように駆けだした。
《……あれはメデゥサ》
僕は足を止めた。
「え?」
《……ゲストとして侵入した手口、直後の経過が被害サーバのメデゥサに関する記録と合致する》
「まじかよ……」
やはり。
だが、どうしてそんな事を芳沢が知っている?
「どっ、どうしてそれを?」
《……噂に興味があって、調べていた》
「だからって管理サーバの情報をどうして――」
「八角、詳しい事は後にしよう。あれがメデゥサだと分かった以上、知っている芳沢に任せた方がいい」
「それは……」
……その通りだ。
僕らだけではどうしようもない。なによりこの状況でメデゥサに関する情報を持っているのは芳沢だけで、仮想空間をいじれるのも芳沢だけなのだ。
「芳沢、指示を」
《……壁から離れて、出来るだけ時間を稼いで》
「了解、行くぞ八角」
「うん」
床のない空間を駆ける、というのはとても不思議な動作だと思った。
なにせ踏み締めるものがないのだ。次の一歩を出せばそのまま落下するのでは、と錯覚しそうになる。錯覚はするが、やはり目に見えぬ平面に支えられる。足を動かす度にそんな事を考えるが、人間なかなか適応してくれるものではない。
考えないのが一番、そう言い聞かして前を向く。
走っている。全力で、息も切らす程ひたすらに。
しかし、どこへ? 僕は今、どこへ向かっているのだろう。
進行方向の視界は全て闇。
振り返れば確かに一面の巨壁が垂直に存在する。足下に目を移せば、果てまで伸びる壁のせいでどれ程の距離を駆けたのかも定かでない。
音はほぼ無音と言っても良い。反響もしない。僕の息づかいがそのほとんどを占め、島地は疲れを見せない。偶に溜息のような長い息を垂れ流すくらいである。
相変わらずの体力だ。こんな事態、誰だって初めてなら普通は動悸で呼吸が速くなるのではないのか?
やはり島地はどことなく場慣れしている。それがどのような場数なのか、島地の裏側を知る由は今現在ない。
到底、僕では敵うまい。敵う可能性のある次元ですらない気がする。
それは心配無用の信頼を抱かせてくれる。しかし、同時に羨望と微量の嫉妬を意味していた。
僕はいつまで経ってもこいつには追いつけない。
横目で島地を見ながら、内心そんな事を考えていると前方に異物が現れた。
二振りの両刃の剣。
これで少なくとも抵抗は体を為す。希望を求めて駆け寄る。
僕と島地は互いに頷くと無装飾な柄に手をやった。刃を調べると所々に刃毀れやばりが目についた。やはり、即席となれば正確な再現は難しい。
手持ちの装備はこれのみ、か……。
《……ごめんなさい。今はこれが限界》
「そんな、何かあるだけでも心強いよ」
《……本当は改竄能力も付加したかった》
やはり丹田が竦むように、メデゥサはそこまでしなくてはならない程の危険な相手なのか。
「そっそれでも丸腰よりはましだよ。それに芳沢が構築した防壁ならハッカー部隊が来るまで保つでしょ。なあ、島地――」
「いや、そうでもなさそうだ」
島地は壁の方を見ていた。否、凝視して目が離せなかったと言うべきだ。
《……突破される》
何が、とは愚問だろう。
巨壁に亀裂が走る。派手な音は全くしない。剥離したコンクリート片は音を発てる間もなく消失する。その巨大さ故に幾ら駆けても離れたように見えない防壁は正に今、破られんとしていた。
メデゥサは完全に壁を破壊する事はなかった。不完全に穿たれた隙間から、漆黒の感情が染み出る。
這いつくばるように。舌なめずりするように。睨めつけるように。
途端、僕は『それ』に釘付けになった。否応なしに。
恐怖ではない。ではないと思う。
僕の感情はまだ余裕がある。近くに見えるのはメデゥサの巨大さ故であって、距離はかなりある。先程のような目にも留まらぬ攻撃は脅威だが、まさかこんな所まで届くまい。
それだというのに僕の躰、アバターは釘付けにされた。
そう。仮想空間の本体であるアバターが釘付けにされた。僕の意思通りに動作しようとしない。
それは丁度、夢の中に酷似している。自分の視点なはずなのにまるで誰かの意思に沿って行動し、そしてともすればまるで自分の第三者の視点で見つめるような、あの感覚である。
急激に視界に闇が迫る。それは近づいているのか定かではないが、僕にの視界が闇に支配されそうになる事は一目瞭然だ。
これは、本当に現実の事なのか? 夢落ちってやつか?
なあんだ、それだったら少しばかり惜しい。この夢の結末を迎える事が出来ないのだから。
「馬鹿野郎!」
横殴りの衝撃。跳躍した島地が僕の腰を蹴り飛ばした。
尻をついた眼前、つまり先程まで立ち竦んでいた僕の頭があった空間を黒の矛が通過した。今更になって背筋が粟立つ。四肢の自由が戻っていた。
「メデゥサの話を忘れたのか?!」
島地が駆け寄りながら叱咤する。僕は助け起こされた。
忘れるはずもない。
メデゥサの被害者は視神経経由の中枢破壊によって死んでいる。つまり一連の被害が電脳利用中だった事を加味すれば、VRS内では目に向けて何らかのアクションを起こす事が予想出来る。先程、目の前を通り過ぎていった収束されし闇は、あれこそがメデゥサの脅威なのだ。
もし的中していたなら、その負の神通力がVRS経由でヘッドギアに伝導され、視界ゴーグル部位から放出されたそれは僕の眼球、そして脳へと侵入し、容易く破壊していた事だろう。
その答えに至り、今更ながら身震いする。
「あれを凝視しているようじゃ呑み込まれる。あくまでも直視しないで立ち回るんだ」
「そんな事言ったって、ここは現実じゃない。再現される情報も限られてる環境なのにあれの気配を読むのは無理だよ!」
「流れを読むんだよ、流れ」
「流れって何だよ?」
「何って……情報の流れ?」
「はあ?」
そうこう言っている内に第二波が訪れる。視界の隅で黒い矛が島地へと伸長する。今度のターゲットは彼のようだ。
島地はその攻撃を見る事なく避けて見せる、という有言実行を当然の事のようにやって退けた。しかも、擦れ違いざまの矛を下から斬り上げた。
矛がその切断面から暗黒を振り撒いて宙を舞う。
てっきり斬撃はメデゥサのその朧気な見た目からすり抜けるものだろうと思っていた。事実、神人は幽霊を見る事は出来ても、触れる事は適わない。幽霊が神通力そのものだから、それが当然だ。だから仮想空間でもそんなものだと予想していたのだ。
それは見事に裏切られた。
幽霊は電脳世界において実体化する。否、実体は存在しないのだから、この場合は電脳世界で具現化する、と言った方が適切なのかも知れない。それは電脳世界において幽霊を攻撃出来る事を意味している。
つまり、この状況を打開、或いは時間稼ぎする手段として『メデゥサと戦う』という選択肢が残っているのだ。
「攻撃が当たるとして、問題はどうやって相手を見ずに戦うか、かぁ……」
攻撃を受けた事でメデゥサは執拗に島地を狙っている。僕は少し余裕があった。
島地の言う「情報の流れを読む」という方法が全く想像つかない。あの男はこの仮想空間がどう見えてるというのだ?
急激な底冷えが襲い掛かった。僕は初めそれが何か理解出来ず、ようやく本能の赴くまま任せた直後。
下方から黒の矛が突き上げられた。避けるのに遅れる。足に激痛が走った。VRSの設定は痛覚を切っているはずなのにである。
「うがぁっ!」
一度、倒れ伏したが直ぐに立ち上がる。恐怖が僕を奮い立たせた。
マネキンアバターの足に切創が走る。血が、流れている。恐らく仮想空間だけの事と考えたい。
防壁以外、この空間は基本的に闇が占めている。それを忘れていた。
闇が闇に紛れるのは容易い。防壁を背景にメデゥサを視認するのは容易だが、それ以外は極めて難しい。今、僕は正にどこからくるかもわからない攻撃に脅える事となった。
《……八角、右から来る!》
「ぇえ?」
突然の警告。対応する前に右側頭部に衝撃。そのまま今度は床に左側頭部を打ち付ける。
「っく――」
息は止まらなかった。しかし、ただひたすら痛い。痛いなんてモンじゃない。
僕は側頭部を摩り摩り起き上がると、足を縺れさせながら島地の元へ駆けた。
もし、あと少し右を向くのが速ければ黒の矛は僕の眼球に直撃していただろう。
「戦い」にならない。一方的過ぎる。情報の流れなんて読めないし、芳沢の通信はタイムラグが発生して僕では警告だけでメデゥサの攻撃を予想するには力不足。
要するに――
「島地ぃ、たったすけてくれよお」
他力本願ではない。立派な救援要請である。僕より苛烈な攻撃に晒されている島地に、だが。
「ちょ、何とか出来ねえのかよ? メデゥサはどんどん近づいてんだぞ。さすがの俺もこの状態でお前の世話なんか出来ねえよ」
「そんな事言わないでさあ」
今の僕は痛みと恐怖を前にきっと涙目だろう。
「芳沢ぁ! まだなのか、ハッカー部隊は」
《……まだ来ない》
返答は無情だ。
「くそっ、どうしろってんだ」
その時、黒の矛が遂に島地を捉えた。身を捩って避けたために急所は外れたが、目に見えて動きが鈍る。好機と言わんばかりに足狙いのラッシュが襲い掛かる。
島地は膝を突いた。
自然と躰が動いた。防壁がバックで視認出来る矛だけでも、と僕は剣を振るった。
「島地!」
《……謙致立って》
「くそっ、くそっ、くそっ。……俺に力があれば」
それは違うよ、島地。お前は十分な、類い稀な程の力も能力も持っている。
足を引っ張っている僕が悪い。情報の流れを読めない僕が悪い。五感が戦闘に特化していない僕が悪い。研ぎ澄まされた反射が出来ない僕が悪い。
何が神人だ。何が鬼だ。何が神通力だ。聞こえだけでろくに有効活用出来た例しがない。完全に名前負けじゃないか。
――力があれば。その言葉は僕のものだ。僕に向けられるべきで、僕が呟くべきなのだ。
「僕に、力さえあれば……」
奮闘虚しく、軽くあしらうように僕も膝を突かされた。
暗黒の手足が僕と島地の自由を奪う。今度こそ得意の殺し方をお見舞いするために。僕らを締め上げる。関節という関節が悲鳴を上げる。抵抗してもビクともしない。
既に遠いのか近いのかさえ分からない、メデゥサの目が笑った気がした。
《……二人とも!》
芳沢の通信が遠い。
「くそっ、これで終わりかよ」
らしくもなく島地がうな垂れている。
「どうして――」
最後の足掻き、と口を開いた。
「どうして、元は同じ人間なのにこんなことするんだよ!?」
返事は勿論なかった。
代わりに案内音声が響く。
《ゲストさんがログインしました》
メデゥサの眼がぎょろりと上方を見る。
普段より上擦った芳沢の声が聞こえてくる。
《……そんな、この経路は電脳伝い……?》
新たなゲストさんの入室が僕らにとって良い知らせなのか、悪い知らせなのか。僕には皆目見当がつかなかった。