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   [05]潜ム者達・陸

 僕は服を着ると、逃げるようにゴルフ場を後にした。


 外気が何とも言えないくらいに温く、そして僕を包んでくれた。

 しかし、僕は躰の芯まで凍えていた。

 祠の水は恐らく十五度以下と思われる。そんな所に二時間以上浸かっていたのだ。躰を拭いても震えは一向は止まる事を知らなかった。

 無人タクシー乗り場までの間、辺りは静かだった。時折、通る風に木々が騒めく程度である。街灯は少なく、陽が沈んだ事で見えるものも限られる。

 冷え切った躰には温いはずの風も鋭いものに思え、全身が粟立つ。

 僕は咄嗟に首を撫で回した。幻覚とは言え、一度「死にゆく感覚」を味わったのだ。それは代え難い恐怖だった。何より幻覚の殺され方は有無を言わさぬ上に、呆気のないものだった。そんな死に方に恐怖した。

 そんな感情に克てなかった自分を恥ずかしく思う僕はいない。

 どうしていれば良かったと言うのだ。

 相手は『神』なのだ。僕に勝ち目がある訳がない。

 神の持つ神通力は無尽蔵だ。否、厳密に言えば妖全てが無限の力を持つ。その源は地球であり、日々それと密接な関係にある土着の神とその眷属は消費した神通力を回復し易い。神通力が無尽蔵という事は、即ちそれだけ消費をしても問題ない、という事である。

 そして、僕を惑わした幻覚。それは神の知識と膨大な神通力を練り込み、折り込み作られている。目を閉じた事により視覚に関しては除外していたとしても、聴覚、嗅覚、触覚を乗っ取られていたようなものだ。視覚がないと人間という生き物は他の感覚に頼る事になり、より研ぎ澄まされる。そこにつけ込まれた。

 勝ち目なんて端からないのだ。僕が強い弱いの問題ではない。境様が大人げないのだ。一介の、否、平均以下の神人たる僕に数多の妖を率いる神が力を行使する事自体おかしいのだ。

 大体、玄の怠慢もおかしい。

 本来なら玄が僕の世話を焼いているはずなのだ。もし指導されるとして、神と玄のどちらを選ぶかと聞かれれば、以前ならどちらも嫌だと答えただろう。しかし、今なら胸を張って玄だと言える。愚問だ。即答だ。迷う時すら惜しい。

 確かに玄の分かり難い説明はうんざりだが、ないより遙かにましである。あの回り道した説明が懐かしい。そんなに時間が経った訳ではないけれど。

 あれこれと自己弁明しながら、僕は震えていた。そしてようやくタクシー乗り場に到着する。

 無人タクシーはその名の通り行き先を指定するだけで移動してくれる全自動の公共機関である。長距離を移動するのには向いておらず、細かい住所を目的地に入り組んだ路地を進むのに向いている。しかし、その料金の割高な面から利用客は減る一方で、乗った客の住所が一時的にも記録されるため、セキュリティの面からも顰蹙を買っている。そのため場所によっては既に姿を消しつつある乗り物だった。

 手近なタクシーに乗り込む。さすがに躰は乾いていたが、髪からまだ水が滴っている。

 震える手で必死に自宅の住所を入力し終えると暖房をつけ、シートに身を任せた。一気に脱力する。送風口から流れる黴臭い温風が僕を包む。

 重たい瞼を下ろせばすぐに睡魔がやってくる。僕は睡眠の谷間へと引きずり込まれていった。


《目的地に、到着しました》

 目的地到着を告げる電子音声で目を覚ます。

 寝覚めは最悪だ。動くと全身の節々が悲鳴を上げる。よほど熟睡していたらしい。料金を左手首の生徒証で払うと、僕はのっそりとタクシーから出た。

 我が家を見上げる。どの部屋も真っ暗だ。時計が示す時刻は午前零時過ぎ。

「ただいま……」

 解錠し、中に入る。何の人気もない。リビングにおいても同じである。キッチンに至っては棚の食器は整然とし、母が荒らした様子も見受けられない。締めが緩かった蛇口から水が垂れる音がする。シンクに使った後の食器が放置されていた。

 どうやら今日の母は大人しく自動調理器を使ってくれたようである。時間的に考えて既に就寝したのだろう。

 躰が睡眠を求めている。手早くインスタントの乾麺を食すと、母の食器と共に片づけた。

 風呂へと向かい熱めのシャワーを浴びる。バスタブの湯はすっかり冷めていて追い焚きする気にもならず、さっさと上がった。そのせいだろうか。程良い眠気が緩和され、少し目が覚めてしまった気がする。

 布団に入ればすぐに眠れるだろうと高を括り、自室に向かう。廊下の奥、母の部屋の前に動く何かを見つけたのはその時だった。

 母の部屋は廊下の突き当たりにある。そして僕の部屋の扉は廊下側へ引くものなので、開けっ放しにしていると遮蔽物となって母の部屋は見えなくなる。どうせすぐ寝るので廊下は消灯状態。

 そして何故か、最後にこの廊下を通ったのは母のはずなのに部屋の扉は開け放たれていた。

「そこの君、待ちたまえ」

 丁度、影になって見えない扉の後ろから『そいつ』は現れた。

 後退した髪の生え際。病人のように蒼白で脂っ気のない肌。不健康な皺を湛える目元。希望と光を失い、且つ血走った眼。意気消沈したかのように丸まった背中。枯れに枯れ切った中年男である。

 ただ掠れていながら僅かに威厳を保つ低い声音だけが彼を維持してるかのようだ。影に溶け込んで見えるのは、存在感が稀薄だからか。

 突然の呼びかけに一瞬、驚きを隠せず飛び上がった僕だったが、覚えのある感覚に逃げそうになる足を留めた。日常に溶け込む馴染みの感覚とあの幽霊少女に抱いた稀有な感覚。その二つが同時に沸き起こった。

「なななんでしょうか?」

 僕の丹田が告げる。彼は幽霊だ。それも昔から母の近くにいる、お馴染み――とは言っても靄としての姿しか認知していなかったが――の取り巻きその一。

「何もそこまで動揺することもあるまい」

「あの、急に話し掛けるもんですから……。えと、初めまして」

「初めまして?」

「ええ。こうやって話すのは初めてじゃないですか」

「そうなのかい?」

「は?」

 逆に質問された事に困惑する。目の前の中年幽霊もまた首を傾げている。

「だって僕、この春まであなた方のこと靄にしか見えてなかったんですよ」

「しばしば何事かを命じられていた記憶があるが」

「そりゃあ、母さん関係で頼み事はしたりしてましたよ」

 伝言を頼んだり、起きてこない母を呼んで貰ったりと、確かに僕は度々靄に向かって話し掛けていた。

 僕の言った事を理解してるとは思ってなかったけど……。

「その上、私の報告にも丁寧に応対していたではないか」

「え? そうなんですか?」

「なんと、上の空の相づちとは冷たいことよ……」

「あっ。いや、その」

 中年幽霊の存在が更に薄くなる。って幽霊の存在感は気持ちに左右されんのかよ!

 しかし、頼み事をして戻ってきた靄に対し、適当に投げ掛けていた言葉で会話が成立していたとは驚きだ。否、と言うより僕はそんなに話し掛けた記憶なんてない。もしかしてら本当に、無意識の内に幽霊と会話していたのかも知れない。

 後になって考えると正にホラー。幽霊と話しているこの時点で今更感が強いけど。

 欠伸を噛み締める。正直眠い。中年幽霊には悪いけど、ここらで適当に切ってもう寝よう。

「まあ、あの。夜も更けてますし僕はそろそろ寝ますね」

「待たれよ」

 一体なんでしょか。こちとら先程のシャワーで一旦離れた睡魔がまたやって来ているのだ。

 寝ぼけ眼を擦り擦り訊ねる。

「なんでしょうか」

「君は私がこんな意味のない話のために話し掛けたと思うのか?」

「はぁ――」

 幽霊が見える前から無意識に話してたってだけでも僕にとっては発見だったが、一体彼は何故――いやいや、眠い。

「わかりません」

「君の母上から言伝を承っておる」

「ことづて?」

「そう伝言だ」

 伝言だったら直接言っても……それじゃあそもそも伝言の意味がないか――眠い。

「それで伝言とはなんでしょうか」

「うむ。『今後暫くはVRSの利用を自粛せよ』とのことだ」

「んー。なんでですか」

「そこまでは聞いておらぬな」

 島地がメデゥサの噂を持ってきて、そしてこのタイミングで電脳世界へのアクセス自粛。……まさかね。

 僅かだが頭が醒めた。

「母さんは他に何か言ってませんでしたか?」

「特には――」

「では、あなたが急に僕の前に現れたことと関係があるのでは?」

「何故そう思う」

「そりゃ、靄の頃はあんなに頻繁に見ていたのに、僕が見えるようになった途端、あなた方は姿を消したんですから。緊急の伝言ならそもそも母さんが直接僕に言えばいい話ですし、でもこの件はあなたが姿を現してまで伝えなくてはならないときた」

「む」

「それにあなた方も電脳世界に行くことが出来るそうじゃないですか。これはいよいよ関連性がないと言う方が変です」

「むむっ」

 何がむむっだ!

「君の母上の伝言ということに偽りはない」

 目元の隈が一層深くなった中年幽霊は溜息を吐く仕草を見せた。

「私が姿を見せたことに関しては、まあ――電脳世界で問題が起きている、とだけ言っておこう」

「やっぱりその問題と母さんの伝言は関係しているんですね」

「そういうことになる」

「一体、何が起きているんですか」

「まあ、特に大したことはない」

「その割りにあなたはあっちに行かないんですね」

「むむむ」

 何がむむむだ!

 いやはやどうして――眠い。

「とにかく、伝言は受け取りました。あくまでも自粛、ですね」

「そうなるな、あくまで自粛。絶対ではあるまい。しかし――」

 一旦言葉を切った中年幽霊は目付きを改め言った。

「――くれぐれも気をつけなさい」


 影に溶け込みゆく中年幽霊を横目に名前を聞いていない事を思った。

「あの」

「む、なんだね?」

「そう言えばお名前を聞いてなかったなぁっと思って。僕の名前は分かりますよね」

 中年幽霊はフッと微笑んだ。残念な事にその微笑みもやはり枯れている。出汁の抜けた煮干しが崩れたような顔だ。

「勿論だ、八角君。私は松元だ」

「お休みなさい、松元さん」

 再び微笑みを返した松元は丸めた背中を伸ばすことなく母の部屋の壁をすり抜けて行ってしまった。

「ふわあぁんむ。寝よう」


 ・

 ・

 ・

 眠いまま話をしていたからなのだろうか?

 翌朝、伝言の内容は電脳世界へのアクセスを自粛する事を覚えていても、その重要性に関してはさっぱり抜け落ちていた。



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