[05]潜ム者達・參
「めでぅさ? ……さあ、聞いた事ないわね」
スナック・やんもいのママ・ジュリエシスは氷をくるんだ手拭いを準備しながらそう答えた。
「はい、謙致君。これで手を冷やして」
「あ、ありがとうございますっ」
受け取る島地は美女を前にした少年になっていた。口元がにやけている。ママの動きに視線を絡ませる様子は、見ているこちらも飽きない。
金髪、青の瞳、すっと伸びた鼻筋。欧米女性を彷彿させる要素だが、不思議と異国性は感じられない。流暢な日本語がそう錯覚させるのだろうか。
目尻にある少々の皺がそこまで若くない事を告げるが、如何せん、整形技術の進んだ現在では容姿だけで年齢を予想するのは極めて難しい。年上に見えるだけで実は僕と殆ど年が離れていないのかも知れないし、実は母よりも年上なのかも知れない。
今日は元々、月一である『献上』の日だ。
四月に境川の神に庇護された身である僕が、その仕事を請け負っていた。と言っても、ただやんもいで肉を買い求め、祠に持って行くだけの簡単な事だ。契約の継続が名目だが、玄曰く、簡単に言えばご機嫌取りをしなくては神様も、何時僕に攻撃を加えるか分からないとの事。
本来、僕一人で行っていた事だが、いつも島地と別れる駅で『戦闘凶さん』が暴発したために、流れでやんもいまで避難させた訳だ。
ママはそんな僕らを快く迎え入れてくれた。まあ、僕は何度か顔を合わせているし、玄とも旧知のようだから追い出されはしないだろうと予想していた。
早速、島地とママの二人を互いに紹介し――ちなみにママの名がジュリエシスだと、僕が知ったのはこの時である―― 、ママには島地が既に人あらざる者達の存在を認知している事を話し、島地にはこのスナックが妙な物も商売している事を説明した。
表向き、寂れ荒んだ旧市街の路地裏でひっそり客を待つスナック・やんもい。柔らかな照明が窓から漏れるこの店は周囲と比べれば特異だ。確かな精気が漏れているような癒しの力を感じる。その裏の顔は神人を相手に怪しげな物品を商いする万屋だ。
僕が見た事のある裏の商品は閉丸丹と肉だけだが、勝手なイメージだが店の奥からは河童の水掻きやら猫又の尻尾やら出てきそうである。
店はママが一人で切り盛りしている。裏の顔故に仕方のない事かも知れないし、案外、それがママの正体を暗示しているのかも知れない。初めてこの店に来た時、ママと我が家の天狗は旧知の間柄のようだった。
母のおつかいとして何度も顔を合わせている、とも考えられたが、僕らがここに引っ越してきたのはつい先月だ。その前は奈良の祖母の元にいた。奈良から愛知までおつかいに行っていたとは考えにくい。つまり、以前からおつかいとしてではなく、プライベートな知己だったと考えるのが妥当。
だから僕はママが妖の類なのでは、と考えている。てか多分そうだろう。
時折見せるママの艶めかしさには正直、魔性の女と言うだけでは足りない。母も年齢を感じさせない容姿しているが、それは幼さと言うべきか、年を重ねても少女性を失っていない容姿である。尤も精神年齢まで少女性を帯びているもんだから堪ったものではない。とにかく、ママはそういった『年齢を感じさせない』ではなく、『年齢がない』ように写るのだ。まるで、とある時点で時が止まったかのように。
で、本題。ここでママに質問。
「あの、ママさん」
「あら八君、ジュリで良いわよ」
「じゃあ……ジュリさん」
「さんもとって欲しいところだけど、何かしら?」
毎月通う――と、言ってもまだ二回目だが――この怪しげなスナックは僕の中にとって質問箱みたいなものだ。特に母や玄の説明が人外の者達について詳細に事欠く今、その期待は大きい。早速、『メデゥサ』について質問したが成果なし。しかし、聞きたい事はまだある。
「幽霊って電脳世界に、その、入る事って出来るんですか……?」
「ええ」
「え」
あれ?
あっさりと即答された。視界の隅で島地がどや顔をする。
ママは夜の開店に備えてか、カウンターで作業をしていたが、手を止めて目を丸めた。
「あら、知らなかったの?」
「ええと、はい」
短く溜息を吐くとママはあそこの教育方針は間違っていると小さく毒突いた。
「確か八君の家には幽霊が何時でも居るんでしょう? それから聞いたりしていなかったの?」
ママの仰る通り、我が家には母の居るところなら何処でも幽霊がいる。否、居たと言うべきか。
僕の丹田の封印が解けてから、つまり幽霊を可視し、コミュニケーションが可能になってからと言うもの、靄としてあんなに頻繁に見ていた幽霊が姿を消した。避けられている気すらする。
見たのは一度きり。しかも会釈を交わしただけだ。うっかり普通の人と思ってそうしたのだが、よく考えれば我が家に客などあり得ない。慌てて振り返ったがそこにはもう何も居なかった。と、僕が見た幽霊はそれだけである。
「実は僕、家の幽霊とまともに会話した事ないんです」
「どうして」
「その、全然会わなくて。避けられてるみたいです」
「そう。んー、まあそれが要するに電脳世界に行ってるって事だと思うわ。どうして八君を避けてるのかは分からないけど」
そこで島地が割り込む。
「それで一体どうして幽霊は電脳世界に? 否、そもそもどうやって行けるのですか?」
言葉を交わす事だけを目的としているようにしか思えない問いの連続に、ママは優しく微笑み掛けた。
「さあ、私は幽霊じゃないから分からないわねえ」
「ですよねー」
島地はにこにこしているが僕は若干落胆だ。そう簡単に答えの見つけられる問いではない事を理解していたが、やはり島地の問いは僕にとっても気になる物だった。
「でも」
そこで青の瞳が僕を捉えた。
「予想は出来る、かな」
「本当ですか。是非聞かせて下さい!」
「僕も、知りたいです」
そうねえ、とママは腕を組んだ。
「先ずは始まりを話しましょうか」
「始まり?」
「幽霊が人間に接近を始めた頃よ。幽霊が妖や神人にしか見えない事はもう知ってるわよね?」
「はい」
「そう。幽霊は基本、人間には見えない。でも、その前提はある発明が覆しちゃったのよ」
発明、だって? 僕は思わず息を潜め、ママの言葉に耳を傾けた。
島地の表情も何時の間にか引き締まる。
「その発明が、写真機よ」
「写真機?」
「何が原理でそんな事が出来たのかは私も分からない。でも幽霊は写真機を媒介として撮影されるようになった。俗に心霊写真って言っていたやつね。光の悪戯とか、加工なんて言われた物も最初は確かに本当の幽霊だったのよ」
そこで島地が突っ込んだ。
「それでもどうせ加工したものがほとんどなんじゃないんですか?」
「んん、そうね。それから技術が進むと意図的に何かが写っているように出来る方法が沢山編み出されていったわ。でもそれより前の話よ、私の言っている心霊写真は。そして、軍事目的で開発された電子機器、そしてネットワーク。それらが一般に普及される頃には幽霊はその活動基盤を電脳世界へと連なっていく『インターネット』へ延ばした。やっぱり原理は分からないわね、私は幽霊じゃないし。電脳世界と言う無限の世界への移転、それで心霊写真ブームは衰退しちゃった訳。加工技術が発展し過ぎちゃったし、本当の心霊写真も姿を消した。それから幽霊は専ら電脳世界でその存在を主張していく事になるわ。尤も、世間には故障だったり、バグだったり、ウイルスとして対処されちゃうけど――」
「ちょ、ちょっと待って下さい。少し話が突飛、と言うか。原理は幽霊しか分からないとして、――どうして幽霊は電脳世界に活動基盤を移したのですか? その動機は?」
案の定、僕の頭はママの話しに追いつかなかった。「それも幽霊にしか分からない」と言われればそれまでだが、そう問わずにいられなかった。
「そうね、幾つか考えられるわ。でも、一言で済ますなら電脳世界は幽霊にとって『楽園』だった、ってところかしら」
「楽園?」
「幽霊がどんな存在か、二人ともある程度は把握してるわよね?」
「ええ、まあ」
「……はい」
幽霊。それは力ある者だけが忘れ遺していく儚き存在。
どんなに微弱な物だろうと丹田を持つ者ならば、誰しもその現象を発生させる可能性がある。死に際、生前の素懐を悔やみ切れない時に、丹田に宿る神通力が記憶の残滓と共に人格を形成し、幽霊として独立する。当人は既に死亡している上、扱う能力も変質するため、幽霊と生前の本人は全く別物と言っても過言ではない。記憶の蓄積や能力の度合いは生前の神通力の規模に因る。
存在出来る期間も神通力の量に比例し、彼らにとって消滅するまでに素懐を全うし遡界する事が最重要課題である。出来なかった場合、それは幽霊達が最も忌み嫌う末路だと言われる。
「電脳世界はね、んー、そうねえ。中々良い表現が見つけられないけれど、幽霊の時間を止めてくれるのよ。要は消滅までのタイムリミットが止まるの。……ああ、いいわよ、言わなくても。どうしてって聞きたいんでしょう?」
口を開き、声を発そうとしたところを制された。
「私はVRS を良く知らないけど、あれはデータを元に機械が感覚に働きかけてそれを受容して、肉体の反応をまたデータ化してコンピュータで処理して成り立っているのでしょう? それと近いかな。幽霊は自らをデータ化する事で電脳世界の住人となるの。するとデータの寿命は半永久だわ。コピーも出来る、記憶媒体に潜ませる事も出来る、何者かに全てを削除されない限り存在し続ける。達成が困難な素懐を持っていればいる程、電脳世界へ行こうと思うでしょうね。何より電脳世界は幽霊にとって安全だわ。彼らにとっての天敵の一つ、妖は思想的な意味で電脳世界を避けるからね」
安全を約束する楽園と延命。否、既に命のない幽霊の場合、延長と言うべきか。
成る程、玄は幽霊を消える運命にある残り滓と言っていた。死んで尚も叶えたい願いのために存在する幽霊にとって、電脳世界は救済の国なのだ。
「それにしても、どうして幽霊は最初に写真に写ろうなんて思ったんだろう。電脳世界でだってひっそり素懐の為に行動すればいいのにコンピュータウイルスみたいな事を……」
「きっと、……私はここにいるって、伝えたかったんじゃないかな」
既に温くなっているであろう手拭いを握り締めたまま、島地が呟いた。
僕が誰ともなく発した問いに、島地が答えた事に驚いた。何時になく穏やかな眼差しになっているこの大男を凝視した。
「私はここにいる……」
「中には誰にも打ち明けていなかった素懐もあるだろう。誰もその故人が奮闘しているなんて顧みないだろう。そして誰もが故人として扱い、過去として捉えていくんだろう? きっと、それが我慢出来ないんだ」
グラス磨きを再開していたママまでもその手を止めた。
「ど……どしたの? らしくない」
僕が言うと、島地は今更気づいたかのように僕とママを見た。
「ちょ、え? 俺、変な事言った?」
「別に変じゃないわよ。良く気づく子ね、って思っただけ」
自分で言った言葉を頭の中で反芻して、勝手に恥ずかしくなったのか。手拭いを振り回しながら立ち上がる。島地は無理矢理話題を転換しようと図った。
「それよりジュリさん歳はお幾つなんですか? ネットワーク形成時の話って曾祖母ちゃんですか、昭和ですか、平成ですか? てか初期の心霊写真話とかどれだけご先祖様なんですか?」
いやあ、それを女性に聞くのは駄目だろ。と、思いつつ僕は二百歳とかのトンデモな答えを期待した。
「ひみつ」
ママは愉快そうに喉の奥を鳴らした。