[04]神ニ通ジル力・伍
試験終了を告げる電子音が流れる。途端に教室内は鉛筆を転がす音や机椅子を引く音に支配される。
生徒達は口々に試験の出来や結果予想を曝し合う。最後列の生徒が収集する解答用紙はマークシートではなく、旧式の記述試験用紙だ。
都立第三あいち高等学校では実力試験が全てこの形式である。
地下都市において推奨されるのはむしろ集計、明確な点数化が可能なマークシート方式、或いはデータ管理が容易な端末機によるチェック方式が主流だ。ここの高校でも定期試験はマーク方式だ。
しかし、各地下都市に数多く存在する教育機関で実力定期の何れかに記述方式を取り入れているのはたった一校、ここだけである。地上でもやはり似たような状況で、採点者の各判断によって評価が分かれるために記述試験は少ない。
懐古思想の教官ばかり集まったせいだ、とかこの高校は学校ぐるみで地下都市体制に反発している、とか言われている。
VRSが進歩を続け、近いうちに電脳化が実現するとまで言われているこのご時世。建前としては現実と仮想の明確な差別化が出来ている人材を育成する事を目的としているらしい。
僕から言わせてみれば、とてもじゃないが成果が得られるとは思えない。一般の人間が電脳世界を理解し、適応し、現実との差別化を図る能力を身につけるスピードを、VRSの『リアルさ』の進歩するスピードの方は遙かに凌駕している。
既に噂の範囲では端子を脊髄と接続する技術が開拓されつつある。近い未来にそうなれば、例え現実の肉体を使う行動を脳に焼きつけたところで現実と仮想の区別などつくのだろうか。
と、記述試験の意味を問うのは決して今回の試験がまるで駄目だった言い訳ではない。……と思いたい。英語など単語の綴りも分からず、文法も分からず散々である。せめてマーク方式なら鉛筆の各面に選択記号を書いて転がす事が出来たのだが。
僕の試験がこんなにも不出来な理由――とは言え万全の状態でも僕の学力は疑わしいが――は昨日まで普通だったはずの生活に大きな異変が生じたからだ。
幽霊、天狗、河童との遭遇。そして今朝は川の神に謝罪をしに行った。むしろそんな精神的ダメージ大の状態の僕がしっかりと試験を受けに登校した事に対し、賞賛して欲しい。
勿論、今朝の登校方法はカプセルポートまで天狗にぶら下がって一っ飛びだ。空の旅は文句なしの快適さだった。しかし気分は優れない。
僕に槍を突きつけてきた河童達。彼らはデフォルメの施されたキャラクター『カッパ』から程遠い。お世辞にも可愛らしくない。今朝見た異形の者達で唯一まともだった川獺だって生臭い尻尾つきだ。
結局、何が言いたいかと言えば、要は昨日の疲れも残っているのにも関わらず理不尽な天狗に叩き起こされた事による睡眠不足然り、図らずも再び河童に殺され掛けた事然り、無理矢理神様に会わされた事然り……。それら全部引っくるめて、試験の出来が悪かった原因なのだ。
しかし、隣の大男・島地謙致には驚いた。
昨日の入学式を寝通した様子から何となく予想はしていたが、彼は本日もまた試験開始三分で爆睡体勢を採るという偉業を成し遂げた。これが監督教官が机を蹴っても起きないのだ。
僕にそれだけの鈍さ、神経の図太さがあれば是非ともこの苦痛でしかなかった時間を睡眠に割きたかったものだ。
島地から詳細不明の勧誘を受けたのは丁度、未だ騒がしい放課後の教室でそんな事を話題に暇を持て余していた時だった。
「ところで八角。今日これから暇か」
「え。ん、まあ」
「じゃあ、ちょっとつき合わないか? 多分、面白いモノが見られるぞ」
「面白いモノ?」
「実はさ、今日試験中にラブメールが届いた」
「それは良かったね」
寝てたんじゃないんかい。何時の間にそんなものを。
しかし、心なしか島地のうれしそうな顔の『うれしそう』は男子生徒がそれを貰った時の高揚感と緊張感の混じる『うれしそう』とは違うように見える。どことなく緊張感に欠けている。それでいてどこか楽しげだ。
「で、なんでそれが面白いの」
「んー。これ見れば分かる」
そう言って島地は生徒証の画面を見せてくる。覗き込むとメールの文面はこうであった。
――運動場の倉庫に来い。
一言。たったそれだけ。やけに淡泊だ。想いは言葉で伝えるってやつだろうか。
「な。個性的なラブメールだろ」
否々、それ以前にこれが女子以外のメールとは考えられないか。生憎、送り主は判らないように設定されているようだ。
「受け取りようによっちゃ、怖い人達の呼び出しに見えるけど」
「何言ってんだよ。だから『個性的』なメールだろ」
「……やっぱ同行するのは止しとくよ」
成る程。入学初日に島地が漂わせた『俺は居眠りだけが趣味な只者なんかじゃあないぜ』オーラは本物のようだ。触らぬ神に祟りなし。既に神と関わってしまった僕が言える事ではないが、今回は絶対に関わらない方が良いに決まっている。
帰り支度をしようと伸ばした手を島地ががしりと掴む。大きい手だ。僕の手が女の子みたいだ。
試しに抵抗してみたが、押しても引いてもびくともしない。全く、自分の非力さに呆れるばかりである。
「行く、よな」
島地の瞳が嬉々と光る。どうやら選択の余地はないらしい。
運動場は体育館と併設される屋内競技場だ。様々な部活がここで活動する。
試験の後、活気に溢れる中で僕らは隅の方へ――島地に腕を把持されたまま――向かった。再三止めるがこの大男は「大丈夫」を連呼するのみで、まるで聞く耳を持たない。
躍動する島地はこれから玩具でも買って貰える子供みたいだ。
全開で歓迎していた倉庫内に入ると扉は大きな音を立てて閉まってしまった。しかもご丁寧にロックまで操作された。
切れ掛けた蛍光灯が点滅する。空調の整っていない倉庫は少し黴臭い。
案の定と言うか、やっぱりそこに想いを胸に秘める乙女など居るはずがなかった。居たのは見た事もない男子生徒十一人だ。それぞれ思い思いの得物をちらつかせ、僕らを値踏みするかのように睨みつける。
一人が前に進み出る。他の十人が独創的な髪型なのに対し、彼は普通のスポーツ刈り。後ろの愉快な仲間達と連んでいるとは思えない爽やかな印象だ。
「島地、だっけ。俺らの後輩が世話になったみたいだな」
「礼ならたっぷり欲しいな」
「ああ。盛大に感謝してやるよ。地下流の歓迎でな」
透かさず島地に耳打ちする。相手は明らかに上級生だ。
「一体何したの?」
「ん? ああ。昨日、先田とか言う奴が何人かで喧嘩売ってきたからな、ちょっと相手してやった」
「してやったって……」
成る程、確かに昨日、島地が委員長に任命された時、何か含むところのあるような生徒がいた。大方、そいつがやられた腹癒せに先輩に泣きついたのだろう。
エスカレーター式の地下都市の学校では部活や学校行事により、横だけでなく縦にも結びつきが強い。地上から編入してきた僕らは余所者だ。その上、島地はずっと先田が務めてきた座を図らずも容易く奪った。正に侵略者だ。
しかし、僕はなった事がないので皆目見当がつかないのだが、委員長とはそんなになりたいものなのだろうか。僕の知らない特典が漏れなく付属するのかも知れない。それならちょっとなってみたい気がしないでもない。
なんて、呑気な事考えているうちにスポーツ刈りと愉快な仲間達がじりじり迫る。何か武器になる物はないかと周囲を探った。と、そこで思い当たる。
何で僕まで喧嘩に混ざらなきゃならないんだ?
僕は見に来ただけ。そう。島地に無理矢理観客として連れて来られたに過ぎない。
納得して僕は島地の横からそっと離れる。途端に音もなくスキンヘッドの生徒が立ち塞がる。
まあ、普通はそうだ。この絵に描いたような展開。
「どこ行くんだ。こいつを一人にしちゃあ可哀相だろ」
「ちょ待って下さい。僕はこいつに連れて来られた訳で、喧嘩する気なんて更々ないんです」
「えっ」
「え?」
予想もしなかった事に、疑問の声を上げたのは先輩方ではなく、島地の方だった。
「あれ、お前、上出身だよな」
「うん。それがどうしたの」
「だったら喧嘩の心得くらい常識だよな」
「どこの常識だよ!」
「何だよ、喧嘩ぐらい日常茶飯事だろ。だからついて来たんだろう」
島地、こいつ……。明らかに確信犯。本気で言っていたらこいつの人生を疑ってしまう。
もしかして先輩達への威嚇のつもりなのか? 地上では喧嘩が日常茶飯事だなんて、空を見た事のない子供でも信じないぞ。多分。
「ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねえよ」
躰を捌く暇も、身構える余裕さえもなかった。拳は顔面目掛けて飛んできた。
右頬、直後の顎とその付け根に鈍痛が走る。視界がずれる。
初めての喧嘩――と言うより、一方的な暴力――は血の味がした。そのまま僕は一瞬硬直した躰を宙に任せ、後ろに整然と並べてあったハードルに突っ込む。優に二メートル飛んだ。幸いにも意識が飛ぶ事はなかった。
備えていない人間が殴られるとこんなに飛ぶのかと感心する。
これが合図となった。島地は五人程相手にしている。残りはスポーツ刈りを含め、見物に回った。気絶した振りをしてやり過ごそうと考えていたのだが、その必要性はない。
まるで戦力外。これだけド派手に食らったのだから当然と言えば当然だ。
彼らは一人相手に十一人全員が当たる必要もないと判断したのだろう。
直後にそれは誤りだったと彼らは気づかされる。状況を楽観した大口を叩くだけの強さを島地は持っていたのだ。
一方的なものになると軽視したのだろうか。先遣の五人は島地を羽交い締めにしようと目論んだ。二人が背後に回る。島地の体格を考えれば妥当である。背後を取った事で慢心したのだろう。否、この際に心の持ちようなんて関係ない。
例え万全の状態で島地に取り付いたところで勝機はなかったのだろう。
背後の一人が島地の学ランに触れた途端、島地は振り返る事なく逆手で相手の腕を掴んだ。そしてそのまま僅かに下げた腰に乗せたかと思えば、次の瞬間には綺麗な半円を描き叩きつける。
尋常じゃないのがこれを片手でなした事、そして前方で構えていた別の生徒をも巻き込み叩き伏せた事だ。
背後のもう一人が凍りつく。島地は造作なくこれを掴むと残りの二人に『投げつけ』た。一体どれ程の膂力だと言うのか。人を投げつけられた二人も堪らず腰を打つ。
「こいつ――」
スポーツ刈り他六人が色めき立つ。最初に叩きつけられた一人は動かない。四人がほんの四、五秒で尻を床につけた。
さすがの愉快な仲間達も島地がどんな奴なのか悟った。目つきが目に見えて引き締まる。
僕はただただ、目の当たりにした怪奇現象紛いの怪力に絶句するしかない。何せ二回瞬きする間に全てが行われたのだ。
島地はそのどことなく二枚目に一歩遅れを取る顔を悠々たる余裕の笑みで飾り、その眼を嬉々と輝かせた。まるで力を誇示する事に生き甲斐を感じているような、僕の知っている限りで一番生き生きとした島地謙致がそこにいた。
知り合って間もない僕が一番生き生きして見える、なんて言えた事ではない。それでもそう感じた。否、そうに違いない。
拳の衝撃が残る頭を必死に起こしていると、スポーツ刈りが動ける仲間全員で島地を袋叩きにせんと襲い掛かった。この際プライドは捨てたようだ。皆、思い思いの得物――鉄パイプにバット、ダガーにナックルダスターと凶器オンパレード――を手にしている。さすがの島地もこれでは敵うまい。
それともやはり余裕の笑みを湛えたままそつなくこなすのか。
とにかく、僕はまるで蚊帳の外だった。
しかし何だろう、この感情は。この開けた事もない箱から零れ出したようなこの感情は。
喧嘩なんてした事ない。したくもない。殴られて痛い。口の中は血の味が広がっている。また殴られるのが怖い。それなのにこれらを覆ってしまう感情が沸き起こる。
島地に対する畏怖か、否。初めて拳を見舞ってくれたスキンヘッドに対する怒気か、否。では、眼前で繰り広げられる暴力に対する憤激か、否。ならば、窮地とも呼べる状態の島地に対する惻隠の情か、これも否。全部、否、違う。分からない。自分が分からない。
僕は痛い目に遭い、その上大した事がないと判断された。放置されている現状に安堵し、戦力外として認識される惰弱な自分に絶望し、そしてそれら全てに反発し、殴られた不条理に憤った。現状を認める事が自分の価値を認めてしまうようで、僕には出来なかったのだ。
僕には度胸も経験もない。島地の様な力がなくてもいい。女々しい貧弱な躰でも構わない。只、これ以上現状に甘んじる事が我慢ならない。僕は今、無性に暴れたくなった。
そう思うと僕の中で何かが弾けた気がした。否、弾けた。全身に『何か』が浸透いていく。
柵が取れた躰が軽くなる。感覚はむしろ鈍くなり、諸所の痛みが消える。気づけば僕は乱闘の渦中に飛び込んでいた。