[04]神ニ通ジル力・肆
神聖、と言う言葉は知っている。
しかし、そんな言葉を使った事なんて現実どころか心の中ですら一度もない。遂に川の神を前にして使う時が来たかと思っていたのだが、川獺に案内されて辿り着いた場所は予想よりも『ふつう』だ。
水溜まりとしか表現出来ない水源は澄んだ清水を湛えており、涼やかな音を起てながら小川に注ぐ。早朝の空気はまだ気温が上がりきっていない。清涼感たっぷりの水音はむしろ寒々しい。
何時の間にか木立が深くなり、早朝という事もあり、辺りは暗い。そして風が通らない。枝葉は模造品のように微動だにせず、止めどなく湧き出す水以外に動く物はない。
神の在す空間は考えていた以上に不気味で厭な感じがした。
「よいか、我々は飽くまでも神に『お願い』をするのだ。これは君の生死、とまではいかぬが君に対するこれからの拘束の度合いが決定するものだ。基本的な受け答えは私がする。君は聞かれた事に答えるだけだ。それ以外は口を開いてはならん」
「えっと、それは――」
「異論は認めん。応答以外はただただ黙せよ」
「……」
水溜まりの傍らに小さな祠がある。僕らは腰程の高さしかないそれの前に進むと膝を突いた。一般に知られる神社の拝礼とはまるで違う。
当然、僕は次に何をすれば良いのか判断がつかない。そんな僕の頭を玄は合図もなしに掴むと砂利に擦りつけた。額に痛みが走る。
平伏するなら事前に言ってくれれば良いのに……。
顔を伏せたまま額を摩る。僅かだが出血している。この天狗は本当に力加減を知らない。そのうち肩を掴まれた拍子に脱臼とかありそうで怖い。
「こんな早朝に何用だ」
老人の声。顔を上げようとしたが玄の豪腕に阻まれる。声は間違いなく祠から聞こえた。しかし、当然ながら祠は人や何者かが入れるサイズではない。
「お目通りが適い有難い限りです。私は――」
「言わずとも知っておる。『はぐれ狗』だろう? 馬鹿な事をしたものだ。が、お蔭で一通り騒ぎ疲れた山が静かになったのはこちらにとって有難かった。それで、文字通り飼い犬に成り下がった傾者が何用か、と聞いている」
川の神の声は至って普通の老人のそれと変わりない。姿が見えないだけ想像するしかないが、神もまた玄のように人型を採るのだろうか。
それよりも気になる点が川の神の言う玄である。玄は何か過去にしでかしたようである。
「では本題へ。此度の急な謁見は昨日の陳謝、及び境川流域に於ける居住許可の交渉。そして庇護の要請です。一先ずこれをお納め下さい」
そう言って玄は懐から出した大きな葉に包まれた何かを取り出した。やんもいで買った物の一つだ。川の神は祠に献げられたそれに対し特に反応しない。こういったお供え物は当然の事なのかも知れない。
「陳謝に許可に庇護、欲張りとは思わんのか? まあ良い。就寝前の暇潰し程度には聞いてやろうか。では説明してもらおう、餓鬼よ。何故、我が領内で神通力を解放し、更にその状態を維持しつつ徘徊し、その上に残滓までも引き連れていた? これは明らかな挑発行為だろう」
低音の声が響く。川の神の視線が僕を突き刺す錯覚に襲われる。いきなりに僕へと応答の機会が飛び込んできた。上目遣いで玄を見る。玄は黙って頷いた。
……どうしろと。まるでまともな説明がなされてない僕に答えられるのは正直に話すしかない。それが今の状況を危ういものにするか否か、分かったものではないが。
「僕は、その、昨日まで神通力はなかったんです。……らしいです。だから、力が解放されてたとか、勝手に歩き回っちゃいけないとか分からなかったんです」
沈黙。一度答えただけで自分が相当にビビっているに気づいた。今の僕は平伏しているのではない。地面にへたり込んでいるいるのだ。
「餓鬼よ。確か『哀弔の青眼』の息子だったな」
「はい、……多分」
そのご大層な異名の神人と母が違わない、という人類史上最悪の事故が事実ならばの話だが。
「養子ではないな」
「はい」
「ふむ。餓鬼よ、鬼の子成らずと言う言葉を聞いた事があるか?」
確かやんもいのママも同じ事を言っていた様な……。
「はい。でも意味は知りません」
「文字通り鬼は鬼を生めん。それなのに餓鬼は親が鬼と言う。矛盾が発生せんかな」
「初めて知りました」
聞いてないぞ。怨みを込めて玄を睨みつける。玄は下を向いたまま両手を合わせた。
それで謝ったつもりか!
大体、話を進めるのは玄ではなかったのか。質問には答えろ、とは言われたが質問ばかりじゃ無知な僕が話し続ける事になる。そんなので大丈夫なのか。
「もう一度聞こう。餓鬼は青眼の息子か」
「はい」
「ふーむ。して、昨日まで力はなかったと申すか」
もう無理。自分の言葉一つに命が懸けってるなんて。一言の重みが強過ぎる。とてもじゃないが僕は有利に言葉を紡ぐ事に長けてないし、動じずに話し続ける胆力も内容を気にしないお気楽さも持ち合わせていない。ここはバトンタッチ。
「正直なところ、僕はよく分かりません。何せまともに説明される時間もありませんでしたし、昨日河童に襲われて初めて自分の状況を知ったもので。だから、詳しい事ならその天狗の方が知っていると思います」
途端に老人の声が笑った。
「成る程、分かった。確かにまるで何も知らぬ餓鬼だ。それにしても鬼が妖に頼りっ切りとはな。信頼が厚いの、狗っころ。ちなみに餓鬼よ、この天狗のように人の世に堕落する妖は『傾者』と呼ばれるがな、傾者は飽くまでも利己心に忠実な者だ。それでも構わんなら好きなだけ頼るが良い」
変わらない調子で玄が引き継ぐ。
「この様子でお分かりでしょうが、彼は確かに鬼です。が、その力が解放されたのは昨日。これは真で御座います。更に我々が対処するよりも先に幽霊と接触してしまい、そして情け心を掛けたためにこのような事態へと発展してしまった次第」
「ふん。親子揃って変わり者よ。人でも妖でもない物に情けを掛けるなど理解出来ん。あれは場合に因っては鬼以上の脅威だ。そのうち青眼は自滅するぞ」
「主に限ってそれはないかと」
「すっかり忠実な飼い犬だな。まあせいぜい巻き添えを食らわないようにするのだな。さて、餓鬼の件だがこいつは興味深い。何せ初の鬼の子だからな。しかも『解放された』のなら何者かが封を施していたのだ。一体誰が何の目的でそんな事をしたのだろうな?」
「……どうかお察し下さい」
「ふむ。まあ良い、大凡の経緯は把握した。儂も一端の神だ。融通くらい少しは利く。謝ればこの件は水に流そう」
玄が僕の頭を揺さぶる。
「はっ?え」
「謝れば赦すと仰っておる」
「……えと、ご免なさい」
「よかろう」
「……」
こ、これだけ? 河童を遣って殺し掛けておいて意外にすんなりと終わるもんだな、おい。
「それで次は居住許可か。この用紙に住所ほか必要事項を書け。掟は分かっておろうな? ここらの相場は月に一斤の献上だ」
「承知で御座います」
どうやら僕の出番は終わったみたいだ。後は玄が何とかしてくれるだろう。
それにしても『神様』というのは予想以上に簡単な性格と言うか、単純だ。魔が差した僕は玄が用紙に記入しているうちにそっと顔を上げてみた。
川の神がどんな者か見てみたかったのだ。本当に祠の中に居る訳がない。居たとしたら神様は凄く小さいサイズだ。
見回しても僕の期待する姿はない。せっせと用紙に書き込む玄と、小さな祠と水源以外ない。おかしい。神はここにいない。
だが、そうだとすると今、玄が書き込む用紙はどこからやって来たのだ?
「餓鬼よ、探しても儂は見つからんぞ」
やはり、老人の声は祠の中から聞こえる。玄が僕の頭を掴むと再び平伏の位置に押し戻す。さっきよりも力が籠もっている。赤子の頭だったら粉砕してるぞ。
「構わんよ。無知程哀れな事はない」
独りでに祠の戸が開く。覗き込んだ中には水盆が鎮座し、中には清水が溜められていた。水中には一枚の御札が浸され、境川と文字が浮かび上がっている。
「これが神様の正体なんですか?」
「否、違うな。儂は境川の全てであり、一部であり、別個体でもある」
「はぁ……」
よく分からないがこの御札は本体と繋ぐ交信機の役割なのだろうか。
「それじゃあ、この用紙は誰が持ってきたんですか?」
「おい、余計な事は喋るな」
玄が制服を引っ張る。渋々、元の位置に戻る。
「まあ良いではないか。どうやってだって? そりゃあ神通力を使ってに決まっているじゃないか」
それを聞いて僕は神通力についてその効果をまるで知らない事を思い出した。
神通力って何だ? 超能力か何かなのだろうか。
更に質問したかったが、玄が止めた。
「これ以上は話が逸れ過ぎる。我々には時間がない。まだもう一件、交渉事が残っている。神が就寝する前に全て済まさなくては面倒だ」
言われて手首の端末を確認するともう七時を回りそうだ。今日は入学後最初の実力テストだから補習はないが、遅刻せずにカプセルポートまで向かうにはもう絶望的だ。
昨日はあんな事があったものだから、教科書の見直しなんてしてない。入試の頃に比べれば僕の学力なんて高が知れている。テストも絶望的だ。僕は青くなって黙った。
用紙を書き終えると玄は改めて座り直すと祠に向かっていった。
「最後に、お願いで御座います。この者、見ての通り無知にして叡才なく、あらゆる敵に対し非力。自らに封を施す事すらままなりません。延いては彼に対する庇護をお願いしたい」
老人の返答は中々ない。漸く返ってきたものは拒否だった。
「断る、と。何故ですか?」
「つけ上がるな狗っころ。例え青眼の要請だとしてもそれは呑めん。本来、夷滅対象の鬼に居住許可は稀なのだ。更に普通の人間が庇護を願うなら未だしも鬼がそれを求むとは笑止。事情など関係ない。これを赦せばどうぞ入ってくれと言わんばかりに間者の流入を余儀なくされる」
老人の声が異様に低くなって僕は相対しているのが神だと再認識させられる。とにかく、神人と妖は簡単に相容れる仲ではないのだろう。
「彼は鬼ではない事として処理しては貰えまいか。こちらも封を習得するまでに閉丸丹を使い続けましょう」
それを聞いて悪寒が走る。腑を捏ねくり回されるアレをまたするのか。
「どうしてそこまで餓鬼の保護に拘る? 身を守る術を備えさせれば庇護など必要ではないだろう」
川の神は核心を突いた。全く持ってその通りである。
尤も僕は命を張って戦うなんてご免だが。しかし、神の庇護やらはさておき玄は母のボディガードだと言っていた。ならば無理をすれば僕の面倒まで見る事が出来るのではないか。状況的には既に面倒見ているとも言える。
今の状態で何が不足なのか。一応は玄のお蔭で守られていると自覚している。
「息子の安全を願うのが親の情というものです」
「ふん、過剰な保護は対象の無力化に繋がる。綿で首を絞めるようなものではないか」
「庇護を了承すれば主は献上品を更に増加するに違いない。鬼ではなく只の人間として扱えば良いのです。悪い話ではないと思いますが」
「ふむ……。それでは献上品を今寄越せ。それなら良かろう」
「ちなみに増加分はどれ程でしょうか」
「今回は二斤で良い。それなら餓鬼も死なんだろう? さてどうするかな」
黙って聞いていたが僕が何か献上しないといけないらしい。
斤。一斤が約六百グラムだから、二斤で約一キロと二百グラム。斤と言って思い出すのは食パンだがそんな物を持ち歩いているはずないし、玄が最初に祠に献げた品も食パンには見えなかった。
そして神の言葉「二斤なら『死なん』だろう」。僕が至った答えは躰の一部。正確には肉だ。河童が僕を贄にしようとするはずだ。きっと妖は人肉を食らうのだ。
未だ予想の範疇を超えてはいないが、僕は玄の次なる言動を固唾を飲んで見守った。
「二斤で間違いないですな」
「何度も言わせるな。こちらとて冗談で伸ばす程余裕がなああい」
後半に欠伸が混じる。妖は夜行性らしいが神もまた例外じゃない。
玄が凶悪な顔を更に歪ませてほくそ笑む。口調が尊大なものへと戻る。
「では採算をどうぞ」
「何?」
「よく献上品を確認するべきだったな。中身は挨拶用に一斤、更に余分に三斤ある」
老人は鋭く息を飲んだ。
「貴様、まさか最初から……」
老人の声は目に見えるように焦って聞こえる。
「抜かったな、私が何をしたか知っていながら。二百年ぽっちの知見を甘く見るな。神が格式に弱い事も掟に従わざるを得ない事も承知。ここらの事情も調べ済みだ」
「ふん。成る程、噂は虚仮威しではなかったか」
「相手を知るのは基本だ」
「貴様は先ず己を知るべきだったな」
「それで、どうする? まさか神ともあろう方が自分でした約束を反故にすると?」
「分かっておる。餓鬼よ、何か用があれば何時でも儂を訪うが良い」
「は、はい」
老人の声は張りがなくなって聞こえた。眠気もあるのだろうが、やはりしてはならない契約を結んだためな気がする。
「餓鬼よ、世界を見誤るな。この天狗は何者より曲者だぞ」
「……」
負け犬の遠吠えとはこの事か。
「用は済んだ。失礼する」
玄は僕の首根っこをむんずと掴むと引き摺り始めた。