[04]神ニ通ジル力・貳
眼下を見下ろせば目眩が襲い掛かる。豆粒みたいな車。ペンケースみたいなビル。模型みたいな街並み。
しかし僅かに動き回る光点のお蔭でこの景色が本物と分かる。霞んで西に見えるビル群は名古屋だろうか。東の空は朝陽の明るさが濃紺を侵食している。
ひんやりと澄んだ暁の空気が頬を撫でる。大空をかなりの速さで移動しているはずなのに、不思議と呼吸困難に陥るような烈風は襲い掛かってこない。その上、視界もこれ以上ないい程に良好である。
昨日今日と光化学スモッグが発生しなくて良かった。さもなくば今頃僕の視界は断絶し、呼吸困難に陥り容易く死ねた事だろう。
さて、昨日の朝まで普通――但し幽霊可視及び変態性質の母有り――の少年だった僕がどうしてこんな空中にいるのだろうか。
今、僕という物体を高高度に維持しているのは一対の翼だ。漆黒のそれが僕についていたのなら、この空の小旅行がどんなに心躍る飛行となっただろう。
残念な事に力強く風を掴む翼は僕のベルトを後ろから握る自称天狗の一部である。
話によれば、玄が普段から身に纏う黒の法衣がこの翼らしい。曰わく名称を『羽衣』と。そのまんま、字の如く。
勿論、羽衣は玄の肩から生えている。取り外しなんて出来るはずがない。羽根と法衣の二択が玄には用意されている事になるが、人前でましなのは法衣。つまり彼は人型を採る限り、ダッサダサの法衣をコーディネートせざるを得ないのだ。同情に値する。
心配だったのは幾ら高度があるとは言え、翼を生やした人が空を飛んで人目につかないのか、という事だ。
日本の空は狭い。まだ殆どの住人が眠る時間帯とは言え、市街の上空を飛べば尚の事だ。
そこで天狗の秘密道具『隠袈裟』である。なんと! この袈裟は身に着けるだけで全身を視認不可に出来るのだ。躰の一部に触れていれば消える事が出来、その上軽くて収納性も抜群。ステルスもビックリの高性能だ。
と、そこまで褒めた物ではなく、やはりレーダーには映ってしまうそうだ。しかしそうなると防空レーダーに映ってしまわないか心配である。玄はそれを考慮しての高度だと言っていたが、スクランブルを発令されたらひとたまりもない。
僕は半ば首を締めかけている隠袈裟にしがみつきながら訊ねた。
「それで、何なのですか。フウとかヘーガンタンとか」
「封とは丹田の状態を言い、施す動作を言う。封をすれば神通力が抑制され、他者にも感づかれ難い。閉丸丹は丹田に対し、封が発生するよう直接働きかける効果がある。所謂、特効薬であって効力は精々二、三日といった所だ」
「……」
この天狗はわざとこんな説明の仕方をしているのだろうか。首を捻り、非難を込めて見上げた。
「そんな説明じゃあ、尚更分かりません。もっと根本的な事から説明して下さい」
「……いいだろう。しかし長いぞ」
玄は女の子なら卒倒しそうな目を愉快そうに細めた。これから話す内容は全て真実である、と前置きして玄は話し出した。
「君はガイア理論をしっているか」
「えっと、地球を一つの生命体と仮定した話だったような」
「まあ、そんな感じだ。この場合はもっと漠然と捉えてもよい。地球は一つの力、エネルギーの結晶であり、源である。誰が言い出したのか定かではないがこの力を『神通力』と言う。語源は神に通じる力、神に共通する力、神に通用する力とも言われるな。神通力は絶えず大地から放出され、そのエネルギーは個体として誕生する。エネルギー体は緑を息吹き、風を起こし、波を起こし、大地を揺らし、火を噴き、雨を降らした。地球の環境を司ったのだ。個体差はあるものの長い年月を地上で過ごし、やがて彼らは母なる大地へと吸収され、神通力は循環する。そして、それが我々である」
「つまり、あなた達は地球が直接の母体であるエネルギーの塊であって、僕らみたいな生物ではないと言うのですね」
「最初はそうだった。我々は進化を重ねて盛衰する他の生物とは間接的にしか関わる事がなかった。君ら人間が現れるまで」
「と言いますと?」
「むう。この次を説明するには神人について話さねばならん」
玄は僕のベルトを持ち替えると負荷から解放された腕を振った。
「地球から放出された神通力が稀に生物に入り込む事がある。この場合は力は独立したエネルギー体ではなく、『丹田』と言う一器官として体内に宿る。人間でのその事例が『神人』または『鬼』だ。君も、君の母上もそれだ」
「神人、……鬼」
では、やはり僕は普通じゃない。それどころか人間ですらないじゃないか。
「神通力は躰に様々な影響を与える。その中の一つが網膜、視神経の変質。即ち、エネルギー体としての神通力を可視出来るようになる。それが発生した当時、人類は既にささやかな文明を創始していた。自然を漠然と畏れ崇めるアニミズムだ。超然たる力に平伏し、時の権力者はそれを利用し、手に入れようと目論んだ。そのために第一段階として我々を『神』として崇め奉った」
澱みなく言葉を発し続ける玄は話に熱を込めてしまうようだ。知識を分かつ。この行為に喜びを感じる者は人間だけではないのだろう。
「時同じくして、倭国に神人の始祖たる男が誕生した。彼は生まれた時から己が何者であるかを悟っていた。我々を目視し、我々が何であるかを悟っていた。その神通力は強大で大半の我々を上回っていた。直ぐに我々は彼を殺そうとした。彼は勿論抵抗し、神通力を用いて反撃した。しかし我々は実体がない。力の源は地球であったし、攻撃されて損耗する躰もない。長きに亘って攻撃を受け続けた彼は一計を案じた。我々に姿形を与えたのだ」
「確かに肉体を持てば攻撃が当たって、傷を負います。でもどうやって」
「人々に共通の認識を持たせたのだ。神、精霊、妖怪。何々を司るのは何某だ、それは何某の仕業だ、と彼は人々に逐一語り伝えた。そして一人歩きした神話や民間伝承は我々に多様性をもたらした。一定数の人間が我々の姿形を共有した時、その時から我々は肉体という枷に束縛され続けているのだ」
「それだけ? たったそれだけですか」
「そう、至極単純だ。しかしその業は莫大な労力と神通力を必要とし、高度な鬼道が用いられ、その上我々はその発想に至れなかった。以来、肉体を背負った我々は神人のみならず全ての生物の目に曝された。殆どは人目を避け山野に紛れ、ある者は神として鎮座を続け、ある者は動植物として息を潜めた。中には私のように人の世に堕ちる者もいる」
堕ちる、と口にした時だけ玄が自嘲するように見えた。
「それじゃあ、きっと神人は妖に嫌われてるんですね」
「少なくとも好意的には考えてない」
「あなたもそうなのですか?」
玄が僕を見下ろす。金色の眼からはどんな感情も推し量れなかった。
「どうかな……。我々の話はこの位でいいだろう。それよりも君を含めた神人について少し話そう。先に述べたように君の母もまた、君も神人だ。神人とは丹田を所持した人間を指す。我々が鬼と呼称する神人は丹田があるかないか、それ以外に普通の人間とは大差ない。否、むしろ神人は弱点が増える。この丹田という物は下腹部に存在する神通力の源となる器官なのだが、これが同時に致命的な弱点なのだ。即ち、神人を殺したければ丹田を刃物で一突き、或いは銃弾一発をくれてやれば良い。それだけで神人は即死する。神人は人にあらざる力・神通力を操り、その能力は時として我々までも上回る。しかし非力な者とて絶対に敵わぬ存在でもないのだ。丹田を的確に攻撃すれば良いのだからな。世の中なかなか上手く出来ている」
つまり、神人は一撃必殺を敵に許してしまうハイリスクを抱える代わりに、神通力を使う事が出来る。諸刃の剣だ。
「じゃあ、さっき言っていたフウはそのまんまの意味で、神通力を封じ込める事ですね」
「そうだ。そして無論、君は封の仕方など知らぬ。それ対する応急処置が閉丸丹だ」
不思議な感覚が僕の中身を満たしていく。普通に考えればこんな話を信じられる訳がない。だが、母が普通ではない事くらい、前々から当然の事として認識していたし、そんな母を見てきたから自分も普通じゃないと何となく考えていた。だから玄の言う内容が俄に信じ難い事でも、不思議と違和感なく頭に入ってきた。しかし、僕が玄の説明する神人だという事実は中々飲み込めない。何となくだった『普通じゃない』が改めてレッテルを貼られたみたいだ。やはり、否、意外に僕はその事実に衝撃を受けていた。
そこで、ふと昨晩からの疑問が湧く。幽霊とは何なのか。昨晩の母がした「そういうものなの」で納得出来ない。或いはその通りかも知れない。確認の意味も込めて僕は訊ねた。
「玄さん、幽霊は昨日母が説明した通りなのですか?」
「そうだと言えばそうだ。しかしそうではないと言えばそうではない」
「そういう答え方は止めませんか」
透かさず返した言葉に玄は片眉を上げ、笑った。想像していたものより随分高い声で笑った。
「成る程、血筋というのは侮れんな。君は天狗の扱い方が上手い。覚えておけ。天狗は知識が豊富だ。それを周りに伝授したくて悶々としているものだ。しかし、天狗は己の持つ知識を全て伝えてしまうと人間になると言われておる。教授はしたい、だが人間にはなりたくない。天狗は激しい葛藤と共に存在しておる。だから決して自ずから全てを教授する事はない。私が言うのも可笑しな話だが、天狗と話す時はそれを念頭に置いておけ。それで……、何だったかな?」
何もなかった顔に僅かな微笑みが添えられた。
「幽霊とは何なのですか」
「ああ、それか。幽霊とは生前に野望、不安、妬み、怨み、その他切実な願いや思い、つまり素懐が叶わなかった者の死後、発生する現象だ。これは稀少で、しかも神人にしか発生し得ない。何故なら幽霊とは丹田から解放された神通力の残り滓だからだ。そのために常人には視認出来ない。神人は視覚の変性により可視する。幽霊は人間的な精神活動を行うが、その人格は生前の写し、コピーでしかない。そして素懐に影響され易い。素懐を遂げるために手段を選ばない者までいる。まあ、人間と何ら変わらぬ。善人もいれば悪人もいる。神人が神通力を使えるように幽霊もまた神通力を使える。が、所詮は残り滓。丹田を持たぬそれらは使える神通力に限界がある上に、存在自体がやがて時と共に消滅する運命にある。だから素懐を全うする事も叶わず消える例など、それが殆どだ」
「……玄さんはノンの話を聞いてどう思いますか。あの子は素懐を全うしたから遡界したと母さんは言いました。でも、ノンはまだ地上の景色を知り尽くした訳じゃない。あの子はずっと地下都市の限られた区間しか知らなかった。本当はまだ遡界なんてしたくなかったに違いないんだ」
ノンはあの景色だけで満足したのか。
そんなはずない。全てが初めてで、本来体感するはずの肉体も失われていた。それらは全てどうしようもない事だ。問題は僕が出来る限りにノンの願いに近づけてあげられたのか、それである。
そんな事、僕は胸を張って言えない。
「残念だが私は幽霊ではないから、幽霊の思考など考えられぬ。しかし遡界が発生する時、それは素懐が全うされた時だ。それだけは間違いない。きっとその幽霊は満足したのだろう」
胸の痼りが除かれた気がした。母、玄。二人の話を聞いて漸くノンの遡界に納得出来た。正確には玄の話だけだが。
僕の中で母の発言が如何に信用されてないか改めて良く分かった。それにノンが遡界したという事実は既に過去の事だ。ノンはいない。もう済んだ事なのだ。
「さて、問答はこのくらいにしよう。川の神まで残りは歩きだ」
そう。僕は前に進まなくてはならない。川の神に会わなくてはならない。肝心の理由を聞きそびれたが、そんな事は後で良い。理由は後づけで構わない。僕は今、僕がやるべき事に従うだけだ。
若干、説明が増えて分かり易くなった玄の発言が僕の視線を下方へ促す。白んだ東の空が旧市街に色づけていく。夜明けは近い。