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第貳話[04]神ニ通ジル力・壹


 どこまでも続く闇。ここには何もない。否。目を細めると小さな小さな白点が一つ。

 白いワンピースの少女が浮かび上がる。華奢な四肢。手櫛で適当に整えたようなボサボサの髪。発光するその少女の表情はよく見えない。それ程の眩い光に包まれていた。


「おにいちゃん、どうしてノンは消えたの」

 そんな事、僕に聞かないでくれ。

「どうしてノンは消えたの」

 母さんが言ってたじゃないか。君の素懐が全うされたからだよ。

「でも、ノンはもうしゃべれない。お空も見れない。お日様もお月様もお星様も見れない。どうして? ノン、こんな事のぞんでない」

 僕は、……知らない。

「うそ。本当はおにいちゃんのせいなんでしょ。おにいちゃんが悪いんでしょ」

 違う! 僕は何も悪くない。素懐を全うして遡界するのは善いことだって母さんが――。

「そう信じたいだけでしょ。そうすれば自分の気持ちが楽だからでしょ」

 違う。……違う。僕はただノンに空を、地上の景色を見せたかっただけだ。

「そうやって偽善者ぶるの? 本当は幽霊なんかと関わりたくないのに? 所詮幽霊は人間以下だって思っていたのに? そうよね。今まで只の靄だったものが急に人間の真似を始めたんだから」

 僕はただ……笑っていて欲しかった。

「違うでしょう。おにいちゃんに笑ってくれるノンが欲しかったんでしょう」

 違う! そんな事、違う。違う、違う違うちがう……ちが……う……。



「――きろ」

 突然、瞼を閉じていても分かる位に闇が晴れる。

 半覚醒。全身が怠い。関節が軋み、筋肉は強張っていた。僕は寝返りを打って、布団を頭まで被った。躰はまだ睡眠時間の足りなを大いに訴えている。

「起きろ」

 耳に響く低い男性の声。

 僕は飛び起きた。この家は母と僕の二人しか居ないはず。男性の声自体がこの部屋で聞こえてはいけないのだ。

 が、視界に飛び込んできた黒い法衣を見て、朦朧とする頭は一つの記憶を探り当てた。

「く、玄さん」

 母が玄と呼んだ坊主。河童を退け、姿を消した男。母のボディガード、だったか。

「登校の準備をしろ」

 僕の聴覚はまだ正常に稼働してないらしい。時計に目をやると短針は三を指している。普通に考えて、今の時刻は寝ている時間帯だろう。この坊主は一体何を言っているのだ。

「まだ夜中の三時ですよ。非常識にも程があります。大体、人の部屋に勝手に入っちゃあ――」

「言う通りにしろ」

 坊主は僕の頭を掴んで乱暴に揺さぶった。凶悪な目つきで凄むもんだから、渋々寝ぼけ眼を擦りながら制服に袖を通す。ボタンが中々留まらない。

 僕は未だ夢見心地のまま玄の言う事に従った。廊下に出て母の部屋の扉を見る。

「母さんは?」

「まだ寝ている」

 そりゃそうだ。しかし何故僕はこの時間に学校に行く支度をせねばならないのか。僕だって寝たい。引っ越しの疲れが残っている。母の出来そうにない力仕事は殆ど僕がやって退けたのだ。日頃、体力に自信のない貧弱な躰にこれは非常に応えた。

「外へ出ろ」

「はあ。一体これからどこへ行くんですか?」

 正鞄を片手に着靴で悪戦苦闘しながら訊ねた。

「川の神に会いに行く」

 その返答を聞き、手が止まる。その奇天烈な名詞には敢えて触れないぞ。

「え……っと。僕もですか?」

「当然」

「なっ何でですか!」

 川の神。日常じゃ聞く事なんてないであろう単語に過剰反応する。それが何者なのかは知らないが、昨日みたいな河童に会うなら僕は御免だ。

 玄は人差し指を立てて唇に当てた。

「静かに」

 声を抑えて再度訊ねる。

「どうして、僕が川の神に会わなきゃいけないのです」

「それは道中話そう。遅くとも夜明けまでに会わなくてはならんのだ」

 勝手な事を言う。しかし、玄は僕の事などお構いなしに玄関を出ると朝露に濡れる路上を行ってしまう。離れないように玄の直ぐ後ろを追った。




 玄は坂道を下り鉄筋コンクリートの集合住宅を抜けると旧市街へ向かった。

 川の神に会うと言いながら街を目指すのは奇妙に思える。川の神と言うくらいなら川へ行くものだとばかり思っていたのだが。

 人気のない夜更け後の街。そこは暗闇が支配する世界。どこからか野良猫の声が聞こえる。他に音と呼べるのは僕の足音だけだ。玄は足音一つを発てない。獣のようである。


 長らく改修土木が計画されない地上都市はその発展を留めていた。アスファルトに亀裂が走り、這い出した雑草が少しでも陽の光を浴びようと競い合う。煤けたビルの隙間は違法に流された排水で汚臭が漂う。

 光源と呼べる街灯は午前零時に一斉消灯が行われるために皆無。ここは月明かりが頼りの世界。柔らかな銀の光だけが寂れゆくビル群を演出した。

 動く者は僕と玄の二人だけ。

 日本の中枢が地下へと移行する現在、一般的な住民は地下都市や離れた衛星都市に集中し、旧市街はスラム街と化していた。

 富裕層と貧困層の二極化がこうも顕著な都市はなにも愛知だけではない。地下都市の発達している各地で起きる現象だ。

 雇用の殆どが地下に移ったが、大部分の国民が地下居住の権利を持てなかった事が原因だ。幾ら過去に比べて減少したと言っても日本は八千万の人口を擁するのだ。地下世界は地上に比べ、余りに狭い。核シェルターとしての意味合いの強い地下都市は定住出来る人間とそうでない人間を隔ててしまった。

 政府は守るべき人間を率先して創り出した。国民の差別化を図ったのである。しかし徹底は出来なかった。地上から地下への出入りは許可されたのだ。結局、人は地上でのみ享受出来る恵みがなければ生きていけないのである。

 それでもやはり多くの人間が地上に置き去りにされた形となっていた。


「さて。真由美は私に君の指導を命じた。しかし確かに私は知識があるが、人に物を教える事を不得手としている」

 眠る旧市街を歩きながら玄は話し出した。荒々しさと繊細さの混在する良く通る声音だ。

「そこで問答という形で指導を行う事にする」

「はぁ」

「……」

「……」

「何か聞きたまえ」

 母。玄。ノン。幽霊。河童。これから行く川の神。『何か』と言われてもどれから聞くべきか。正直、先ずはこの糞坊主に文句を言いたいところだ。

「あなたは何者なんですか」

「天狗だ」

「テング? でも、顔も赤くないし鼻も普通だし」

「それは後世の民間伝承に過ぎん。我々の本来の姿形は字の如く天の狗だ。今は人の形をとっている」

 滑らかに振り向いた眼が金色に輝いて見えた。人じゃない。しかしそんなに驚く事もない。僕は既に昨日、幽霊と河童に遭っている。

「天狗は翼のある狗だ。大きさは牛ぐらいはある。尤もその姿を君に晒すつもりは少しもないが」

「はぁ」

「……」

「……」

「……どうした。聞きたい事を次々に質問せねば私も教えようがない」

 僅かだが玄の声は嬉々としているように聞こえる。どうやら天狗が知識を授ける事を好むのは本当らしい。

「じゃあ、その天狗がどうして母さんなんかのボディガードなんてしてるんです」

「契約だからだ。私は真由美が幼い頃に命を救われた。その際に守護契約をした」

「命を救った? 母さんが?」

 笑わせる。自分の生活もまともに維持出来ない人間が天狗を救った? 俄かに信じられない。

 疑問の眼差しを投げ掛け続けると玄は足を止めた。

「暫し寄り道をする」

 早速、問答とやらを放棄ですかい。と言う文句を呑み込んだ。


 酒臭い路地裏のこぢんまりとしたスナック。周りが電飾を切っているにも関わらず、そのスナックはネオンの看板が光っている。看板には『やんもい』と汚い平仮名で書かれていた。これが店名なのだろう。他の店がとっくに店仕舞いしているのにやんもいは店内から柔らかな灯りが漏れている。

 玄は古い木製の扉を押した。

 踏み入ってみると、やんもいは洋風のかなり洒落た店だった。今や珍しい板張りだ。時代遅れの僕を興奮させる。店内はさほど広くないが小団体の飲み会くらいは対応出来る個室まであるようだ。


 金髪の女性が一人でカウンターを片付けていた。

「ごめんなさい。もう閉店な――なんだ、あんたか。仕事かしら?」

 ママは玄に拍子抜けした。額からスッと伸びる鼻。彫りの深い顔立ちは日本のそれではない。明るい青の瞳が玄から僕に移る。

「それで、なんの用? こんな子連れて来てどういうつもり」

 金髪ママは端正な顔立ちを歪めた。視線が鋭く僕に刺さる。明らかに歓迎されていない。

「買い物だ。川の神に会わなくてはならん。『あれ』はまだ在庫があるか」

「ああ、あれね。あるわよ。とりあえずどうでも良いからこの子なんとかしなさいよ。喧嘩売ってんの? 営業妨害よ」

 金髪ママは気分を害している。会話から察するに原因は僕なのだろう。だが、どうすればこの雰囲気を改善出来るのか想像も出来ない。そもそも周囲の気分を害する要素なんてないと自覚していたのだが。

「あとは閉丸丹が欲しい」

「はあ? どうしてそんな物を――ああ、そういう事」

 金髪ママは一度玄に噛みつきかけたが、僕を見て急に納得した。

「あなた出来損ないか何かなのかしら」

「えっ?」

 出来損ないと言われたのは僕。

 ママはカウンターを拭く手を止め、僕を観察し始める。舐め回すような視線が僕を這う。息が掛かりそうな距離まで彼女の顔が接近する。しかし、決して触れはしない。

「ちょっ! あの……玄さん」

「ああ、言ってなかったな。彼が八角だ」

 彼女の行動に困惑する事なく玄が告げると金髪が動きを止めた。青い瞳が素速く玄を捉える。

「今何て言った?」

「その少年が八角だ。前々から話はしていただろう」

 彼女は笑った。愉快、と言うより馬鹿馬鹿しいらしい。時折、笑いを堪えようとして失敗し、喉の奥で発てる音が容姿に反して滑稽だ。

「聞いていたけど八君は青眼の子供でしょ。冗談は止してよ。あんたそういうキャラじゃないわ」

「お前の認識に誤りはない。私は冗談を言わないし、これは冗談ではない」

「それマジ?」

「マジである」

 金髪は笑いを止めると弱々しく首を振った。カウンター席に腰を下ろすと改めて僕を観察し始める。

「俄かに信じられない話ね。そんな話聞いた事ないわ。『鬼の子成らず』って言葉は嘘っぱちってこと?」

「物事には例外がある」

 暫くの間、玄と金髪ママは意味不明な内容の話を交わしあった。僕は訳も分からず、会話に混ざる事も出来ない。そしてママの視線が偶に突き刺さる、という奇妙なシチュエーションの中、僕はただただ立ち尽くした。

 見たところ二人は顔見知り。否、玄のコスプレ紛いの法衣に眉一つ動かさなかったところを見れば、恐らくは知己。玄が天狗と称しているのを知っているのだろう。さもなければ、入店した際に凝視されているはずだ。

 そして勝手な予想であるが、玄の話す内容を理解しているという事はつまり、彼女も天狗やそれに近しい者なのかも知れない。

 玄が壁の時計に目をやり、慌てて立ち上がった。何時の間にか雑談に花を咲かせていた事に気づいていなかったのか?

「いかん。夜が明けてしまう。早く品を揃えよう」

 少しの間、店の奥に二人は行ってしまう。玄が戻って来た時には葉っぱに包まれた『何か』と白い紙封筒を手にしていた。

「すまんな。では行くとしよう」

 どうぞお構いなく。二人とも一瞬、僕の存在忘れてたっぽいし。

「また来る」

「もう来るなよ。あ、八君は別よ。何時でも来なさい」

「は、はあ」

 微笑む金髪ママは見る者に年齢を予想させない美貌の持ち主だ。先程までの敵意剥き出しの目つきはどこへやら。

 僕らはスナックやんもいを後にした。


「拙いか」

 玄は空を仰ぎ見て呟く。紺に変色した空は東が白んでいる。夜明けまでそう余裕はない。

「聞いて良いですか」

「何だ」

「どうして夜明け前までに会わなくてはいけないんですか」

 玄は紙封筒を取り出した。

「我々の生活リズムは基本、夜行性だからだ。腹を出せ」

「そうなんですか。……ん、えっ?」

 今、腹を出せって言ったか?

 玄は僕をむんずと掴むと腹をはだけさせた。情けない柔肌が露出する。

 いきなり何だ?! 僕にそんな趣味はない!

 突然の事に対応が遅れたが抵抗する。しかし無理だ。彼の膂力は天狗レベル。天狗がどの程度の力持ちかは知らないが、これだけは言える。僕の全力の抵抗はまるで意味を為さない。

「ちょっ! な何すんですか?!」

「静かにせねば人目につくぞ」

「う……」

 それだけは避けたい。僕は渋々、喚く事を諦めた。

 玄は紙封筒から一つの珠を取り出した。黒い、ビー玉大のサイズだ。金属光沢を放っている。そしてそれを僕の臍に押し当てた。

「た頼むから、何してるのかだけでも教えてくれませんか。それは何なんです」

「一時的に封を施す。これは閉丸丹だ」

「フウ? ヘーガンタン? 何ですかそれは」

「おや、まだ説明していなかったか」

 構わず玄は珠を押し込む。

「ひゃっ」

 痛みは感じない。異物感は感じられた。冷たいかと思われたそれは、微妙な生暖かさがある。その上、意思を持っているかの様に僕の腹腔内を動き回る。叫びそうになる口を手で押さえ必死に堪えた。

 そしてその異物は僕の内臓を好き勝手に蹂躙して、下腹部辺りで静止して動かなくなった。

「それで、説明して下さい。こんなの僕の躰に突っ込んでどういうつもりですか」

 答えようによっては……よっては……、どうしてやろうか。どうすれば玄を痛い目に遭わせられる? 僕じゃ体格も力もまるで歯が立たない。母に言いつけるか。……否、駄目だ。なんだか玄の味方をしそうな気がする。

 玄は僕を離した。


「一つ君に質問しよう。客人が訪れたとしよう。彼とは初対面だ。まだ挨拶もしてない。しかしそいつが銃を乱射しながら『よろしく、仲良くしてね』と言って庭に侵入してきたら、君はどう思う?」

 随分とぶっ飛んだ質問ですね。おい。

「そりゃ仲良くなんて御免ですよ」

 玄は頷いた。

「さっきまでの君がそれだ」

「え」

「そして今も銃をホルスターに収めているだけに過ぎん」

 それは例えば、の話だろうか。しかし、例えている話題自体が分からない。僕はポカンと顔を晒した。

「問答の続きは飛びながらしようか」

「飛ぶ?」

 もう、何がなんだかさっぱり。母も説明下手だが、玄も絶望的だ。

 玄は黒い法衣の袖に軽く口を当てた。口付けた法衣が巨大な翼に変化していく様を僕は呆けて見ていた。


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