序幕 [01]或ル男ノ死
白に染まった山奥に埋もれかけた粗末な一軒家。月明かりに青白く光る雪壁はその存在を包囲圧迫し、何者かから隠すようである。
雪が止み、澄んだ空気に女性の啜り泣きが小さく響く。
笹木は石川を連れてささやかな通夜に訪れていた。
仏壇のある狭い和室に三人、そして清白な布が被された一人の亡骸がある。それは生前からは予想も出来ない程に弱々しく頼りなさげに萎み、男の死を思い知らせる。
隠すように覆う白布があるだけ笹木にとって幸いだった。
「北方様……」
そう呼びながら肩を小刻みに揺らす石川。彼女に親族――恐らく北方様の息子だろう――は訝しげな視線を向けた。『北方様』とは笹木らがそう呼んでいるのであって、本名を知る親族からしてみれば奇妙な一組にしか見えないはずだ。
そして石川。彼女の若さでこの横たわる老爺の親密な知り合いと言うのも不自然なものだろう。
「父とはどこでお知り合いに?」
初老の男性は憚りながら訊ねた。石川は特に反応せず、応対は笹木が行う。事前にそう打ち合わせていた。
「そうですね……。まあここでお世話になっていた、とでも言いましょうか」
「ああ。地元の方でしたか」
「ええ」
笹木が小さく微笑むと男性は合点した。
「今お茶でも淹れてきましょう。少しでも長く父の側についていてやって下さい」
どうぞごゆっくり、と言い残して彼は別室に向かって行った。
気配が離れてから石川は口を開いた。
「まさか、本当に亡くなられてしまうなんて」
一つしかない電灯が小刻みに揺れる石川の白い項を照らした。
「人は何時か必ず死ぬ。それは我々も変わりはせぬ。北方様はそう仰っていたじゃないか」
「ですが……」
鼻声は僅かの反発を見せたが直ぐに萎れる。仏壇より流れる紫煙が憔悴を色濃く浮き立たせた。
石川、笹木らは北方様の死により精神的支柱を失った。北方様は彼らの指針であり、誇りであり、父であった。
信頼出来る強固な力と叡智を備えた北方様を慕う部下は後を絶たない。彼らもまた同じだった。その死は余りに大きい。
そしてこの件は彼らが所属する組織にも多大な影響を与えていた。
「問題はこれからだろうな」
笹木の言葉に石川が反応する。
「どういう事ですか」
「五大祖は『角端』の名を継ぐ水の首席を組織外から撰定した」
「そんな!」
笹木が人差し指を口に当てて見せると石川は声を落とした。
「北方様が後継者を指名しなかった今、次の首席は荒田二位ではありませんか」
「分かっている。だが五大祖は中方様を除いて一致した。五大祖の一人、それも最も力の強い北方様が欠けた事に対して、組織はバランスを求めている。荒田二位では内部の拮抗が望めないと判断したのだ」
石川は信じられないと涙を浮かべた目を見開いた。そしてハンカチを固く握ると俯きながら思いつく人物を挙げた。
「……では、青眼を迎えようと言い出すのですか。五大祖は」
「ああ。そうらしい」
「無理に決まっています。我々は青眼を幾度と訪い勧誘し、時には攻撃してきました。そしてその試みは全て破られた。それはあなたも知っているでしょう」
石川の言う通り、彼らは『哀弔の青眼』と呼ばれる同胞を組織に引き入れようと幾度と手を尽くした。だがそれら全て失敗に終わっていた。
力に差が在り過ぎるのだ。親切にも青眼が手加減してくれるお蔭で組織の被害は小さかった。それが裏目に出て組織が幾度と動いた事に当の本人は気づいていない。
組織のトップである五大祖からも一人二人襲撃した事もあった。それでも青眼を捻じ伏せる事は出来なかった。
それだけの力を保持している相手に対し五大祖は夷滅か勧進の二つしかない。何故か五大祖に放っておくという選択肢はないのだ。
「そこで子供だ。五大祖は子供を引き入れる、或いは拉致して交渉のカードにするらしい」
「子供……確か青眼の息子は力を保持していませんよね」
「諜報によれば親の七光り程度ならあるそうだ。どうやら青眼が必死に封印していたらしい。五大祖は封印の解除から編入までシナリオを書いた。のだが……」
笹木が口を閉ざすと石川は残っているだけの涙を拭いた。
「のだが、何ですか?」
「我々はそれに組み込まれていない」
「何故ですか」
「五大祖は確実に青眼を捕縛したいのだ。子供の懐柔は専ら『銀の鶏頭』が実行する。その他臨時の遊軍も我々は配置されなかった」
鶏頭の名を聞いた途端に石川は顔を顰めた。
「新入りの、しかも子供に良い所取りさせる訳ですか」
「俺に言っても困る。それにあの子の実力は確かなものと聞く。お手並み拝見といこうじゃないか」
笹木は石川に、そして自分に言い聞かせるように言った。
「……私達は何も出来ずに見ているしか出来ないのですか?」
しかし笹木は答えなかった。その時障子の向こうから近づく足音が聞こえてきたからだ。
「どうぞお茶です。遅くなってすみませんね」
初老の男性は目尻の皺を深めながら盆を差し出した。受け取ると湯呑みの温かさは手に心地良い。笹木が湯呑みに口をつけようとすると薄緑の液体中に茶柱が立っていた。
故俗に茶柱が立つのは吉事の兆というものがある。
石川の言う通り笹木は何も出来ない。
常に下の者達を教え導き、組織を嘗ての姿に戻そうと尽力した北方様を失った事で、理念から外れ始めた組織を留められる者も皆無。
今の笹木には茶柱が神の皮肉にしか見えず無性に腹が立った。