結婚目前で捨てられたけどおかげさまで幸せです
短編ですが長くなってしまいました。
よろしくお願いします。
11/18 初レビューをいただきました。
嬉しいレビューをありがとうございます!!
「はい?もう一度言ってくれる?」
アイラはたった今言われた言葉の意味が理解出来ず聞き直したのだったが、2度目に聞いても内容は同じだった。
「だから別れて欲しい。結婚はしない」
学生時代から5年間続いた婚約はこうしてあっけなく終わった。お互い就職し仕事にも慣れて、そろそろ結婚をという話になって、上司に紹介してもらった新居に家具を運んだその日の出来事だった。休憩に立ち寄ったカフェで、断じて口にすべき話題ではない。
まるで飲み物を注文するかのような気軽な口調で別れを切り出した婚約者は、他に好きな女がいるんだと付け足した。ちなみに結婚式は明後日で身内だけの簡素な式にする予定だった。急に決まった事だったので職場の人達を呼ばなかったのが、結果的に良かったと言える。そうであればその後の始末がさらにややこしくなっていた事だろう。
相手の女が誰なのか、知り合いなのか問い詰めて責めたい気持ちを抑えつけた。彼の気持ちがこちらに無い以上、縋り付いても無駄だと思った。アイラは頭は良かったが鈍感なところがある。きっと縋って泣きつくだろうという男の虚栄心など無視して、わかった、別れてあげる、だけど慰謝料として家具一式をいただくからと言い放った。インテリアは高級ではないが、アイラの好きなものを集めたので使わないまま処分するのはいたたまれなかったのだ。
婚約者とは学生時代の同級生で、相手から交際を申し込まれて付き合い始めた。燃えあがる情熱的な恋をしたわけではなかったが、それでも彼の事が好きだった。共に生涯を過ごす家族として良い関係を築いていけると信じていた。
だからこんな結末になった事を親に報告した夜は、少しだけ泣いた。そして泣いたらすっかり吹っ切れた。
結婚目前の2人の破局は、双方の家族も巻き込んで多少は揉めたものの、お互い背負う柵のない平民なので、アイラの主張通り家具一式を慰謝料として受け取った。実家にはその家具の置き場はないが、せっかく選んだ家具を売るのも嫌だ。これを機に実家を出て一人暮らしをしようと決めたアイラは、新居予定だったアパートにそのまま住むことにした。
最後の最後に、元婚約者から「彼女とあそこに住むつもりだったのになあ。独り者のお前には広すぎるだろう?」と捨て台詞を吐かれた時に、アイラはいよいよ我慢しきれなくなって叫んだ。
「あのアパートはわたしの上司が斡旋してくれたのよ。浮気野郎がのこのこ住んで良い物件じゃないんだから!」
結婚して暮らす予定だった部屋に新しい彼女と住もうだなんて、この男は女心を全くわかっちゃいない。わたしだったら前の女の気配が残る部屋になんてとても住めないわよと、アイラは新しい彼女に少しだけ同情して、あんな奴と別れて良かった、と心から思ったのだった。
*
アイラは結婚式を控えて半月の休暇を取っていたが、ひとりで住むには広い家にいてもやる事がないので、双方の話し合いがついた翌日には出勤した。
平民ながらも学業優秀で真面目なアイラは、難関の文官採用試験に合格して、この地域つまり南岸地区行政省の文書管理室に勤務して4年目である。室長からの信頼も篤い。
あれ、新婚でお休みだったのでは?と驚く同僚達に、相手の浮気で結婚が取りやめになったと正直に答えたら、管理室はちょっとした騒ぎになった。
「なんだって!そりゃ早く室長に報告に行きたまえ!」
いつもは貴族であることを鼻にかけて、小言が多く嫌味ったらしい同期のチャールズがそう叫んだ。
「そうね。まずは報告ね」
一通りアイラの話を聞いた室長は、成程と頷くと、普段と変わらぬ様子で、自分に出来ることは何かあるかと尋ねた。アイラは少し考えたのち転勤を願いでたのだが、それは即座に却下された。
「君が出ていく必要はない。出ていくのは寧ろ彼方の方だろう」
はぁと聞き流していたアイラだったが、半月後に元婚約者が、紛争地域の北部辺境へ飛ばされた事を知った。元婚約者は騎士だったので拒否は出来ない。
その頃には既に他人事になっていたので、恋人も連れてったのかしら?と、アイラは書類の仕分けをしながら何気なく呟いた。隣の席のチャールズが何とも言えない表情でちらりと見たが気にしない。別れた男への未練など微塵もないのだ。
実は室長が手を回して、経緯を友人の騎士団副団長に話して、民を守るべき騎士の非道な行いを糾弾した結果だという事をアイラは知らなかった。
*
アイラの一人暮らしの新居となったアパートは古いが快適である。三階建ての最上部にあり、キッチン、広いリビングダイニング、バストイレの他に三部屋もあって、完全に家族向けの物件だ。その部屋を格安で世話をしてくれたのは文書管理室のマクレーン室長だった。
なんでも親戚の持家で店子が出て行き今は空き家、住む者が居ないと傷む一方なので、信頼できる借主がいれば格安で貸しても良いとのことで、店子探しを頼まれていたらしい。アイラはそれに飛びついたのだった。
しかし今となっては一人暮らしには広すぎる。格安といえども、まだ若いアイラがひとりで支払うには家賃は高い。これはやはり引っ越すべきか、或いはルームメイトでも探そうかしら?と考えて仲介者の室長に相談したところ、すぐさま同居人候補が見つかった。
「はい?もう一度仰っていただけますか?」
「だから私が同居人になる。部屋は余っているだろう、家賃も私が半分、いや3分の2を出そう」
「室長!?本気で仰ってます?熱でもおありなのでは?」
「だから同居人を探しているのなら、私が一緒に住むと言っている、もちろん正気だ」
何、この話の通じない感じ、マクレーン室長ってこんな変な人だっただろうかとアイラは困惑した。
マクレーン曰く、隣家がボヤを起こしてそのとばっちりで自分の家まで水浸しになり、急遽部屋探しをしているのだと。
「私はペットを飼っているので、なかなか条件に合う部屋がないんだ。それに君ならうちのドーリーとの相性は大丈夫だろうと思う。
要するに、私個人というよりドーリーの受け入れ先が必要なんだよ」
マクレーン室長は表情を変えず平然とそう言った。
「ですがわたしは女で室長は男ですよ?いくら上司の頼みでもそれは問題があります。それにペットって、あのアパートは動物を飼っても良いのですか?」
ペット飼育は持ち主に直接交渉して許可を得ているとの返事に、アイラは頭を抱えた。用意周到ではないか。仕方ない、腹を括るか。
「そういう事でしたらわたしが引っ越します。もともとマクレーン室長のご親戚の家ですから、室長がペットと一緒にお住みになってください」
「こちらの理由で君を追い出せと?私をそんな薄情者にさせないでくれ。
それに君があそこに住むとして、ひとりであのアパートの家賃を払い続けるのは厳しいだろう。あの家は家族向きだから大きいし、それゆえ家賃も嵩む。つまり紹介した私に責任があるんだ」
それは屁理屈です、室長には全く責任などないのですがと答えようとすると、間髪を容れずマクレーンは言葉を続けた。
「もしかして君は、私と同居する事で君の身に生じる醜聞を気にしているのだろうか。それとも私自身が嫌なのか」
心なしかマクレーン室長はしょげたような顔をしていた。
「いえ逆です。わたしは既に結婚目前に婚約者に捨てられた女ですから、これ以上の醜聞など気にしておりませんが室長は独身です。婚姻前に平民と同居など知られたらきっと大問題になります。決して室長が嫌だというわけではありません」
本音を言えばマクレーン室長は、アイラにとって荷の重い相手である。彼は貴族の嫡男で生まれてからの環境も現在の生活も何もかもが違う。
それに室長を狙っている独身の女性職員から睨まれるのは迷惑だ。仕事が出来てお金持ち、加えて容姿端麗の独身優良物件だから、文書管理室のみならず南岸地区行政省関係各位の女性陣から、熱い眼差しを一身に受けているお方なのである。
アイラは文書管理室の職員で彼の直属の部下というだけで、一部の貴族令嬢方から嫌味攻撃を受けてきた。そんな平民より由緒正しい貴族令嬢の自分達こそが、マクレーン様のおそばに仕えるに相応しいというのだが、彼女達は臨時採用職員で、アイラは正式な文官、つまり職務における立場はアイラの方が上になる。しかし階級社会においては平民は肩身が狭い。
だからこそ難関を突破して文官になったというのに、室長絡みで職を失う事になったらどうしてくれるのだと、じっとりと睨みつけてみたが、マクレーンには通じない。
「なんだ、そんな事を気にしていたのか。私は婚約者もいないし結婚の予定もない。ドーリーを受け入れてくれる相手が見つからない限り独り身だよ」
室長にそこまで言わせる「ドーリー」とは、一体どんな種類のペットなのだろう?女性に受け入れられないとはまさかの爬虫類?あの冷静沈着な室長がそこまで大切にしているペットの存在が、段々と気になってきた。
そこでマクレーンは、思い悩んでいるようなアイラに提案した。
「人でも動物でも相性というものがあるから、一度顔合わせをしてみないか?次の休みに君のアパートへドーリーを連れて行っても良いだろうか」
アイラの返事を待たずにマクレーンは勝手にルームシェアの話を進めてしまったのだった。
*
「きゃー可愛い!」
本日はアイラとマクレーン室長のペットのドーリーとの顔合わせの日である。ドーリーは、その愛らしい名前と相反してなかなかに凶暴な顔をした大型犬で、濃い茶色の毛並みにピンと立った形の良い耳とフサフサの尻尾を持つ狼犬だった。狼と犬の交配で生まれた、凛々しくてかっこよく、その上可愛い犬なのだ。但し可愛いと思っているのは、どうやら飼い主のマクレーンとアイラくらいなものらしく、大抵のご婦人は怯えてしまうらしいが。
「室長!この子がドーリーですか?なんて可愛い子なのでしょう!」
「うん。可愛いだろう。しかもとても賢いんだ。だけどこの見た目だからね、怖がられてなかなか部屋を貸してもらえない。仮住まいのホテルもドーリーにとっては居心地が悪いようで、この子を見て怯えるご婦人方もいる」
「こんなに賢いのに。ねぇドーリー、あなためちゃくちゃカッコ可愛いわよ」
ソファで寛ぐアイラの太ももにその凛々しい顔を乗せて頭を撫でてもらっているドーリーの尻尾は、最大速力でブンブン振られている。
見た目が狼面で鋭い目付きをしているから、怖がられるのも仕方ないのだが、自分の太ももに乗せていた頭をあげてクゥーンと小首を傾げるドーリーのなんと愛らしい事か!この子を受け入れらないなんて、その人達の目は節穴か。
アイラに甘えまくる愛犬の姿に、微妙な顔をしているマクレーンは、なんて羨ましい、くっ、と悶えているのだがアイラは全く気が付かない。その上、あろうことかドーリーの頭を抱えて抱きしめ、鼻先にちゅ、なんてするものだからマクレーンは胸を押さえた。彼の心中は、良いものを見せてもらったという喜びと、愛犬への嫉妬が行ったり来たりで、冷静沈着だと噂の表面の顔が剥がれ落ちていた。
マクレーン室長の計画通り、アイラは完全にドーリーに陥落してしまったようだ。元々動物が好きな彼女は大型犬と暮らすのが夢だったのだが、期せずして夢が叶いそうなのである。しかも滅多にお目にかかれない希少種の狼犬。アイラには断る選択肢は無かった。
こうして南岸地区行政省の独身優良物件ステファン・マクレーン29歳は、結婚式目前で婚約者に捨てられたアイラ・レヴィン22歳の同居人となりおおせたのだった。全てはステファンの策略だった事をアイラは知らない。
*
さて、職場の上司と部下、しかも異性が同居するにあたり取り決めが必要となる。アイラとステファンは早速話し合った。
期限はステファンの家の修繕が済むまで。お互いの私室は端と端、プライベートには踏み込まない。ただし可能な限り食事は共にする。家賃はステファンが3分の2を持つ。ドーリーの世話は基本ステファンが行うが、彼の手が回らない時はアイラが手伝う、これはアイラの希望である。
そして勤務先の人たちには同居は内緒にする。これもアイラの強い希望だ。
「どうしてだ?」
「どうしても、です!嫉妬でえらい目に遭います」
「……それもそうだな。アイラを狙っている奴は多いから、いやいやだからこそ同じ家に住んでいる事を周知させないと……」
「え?何ですか室長?声が小さくて聞こえませんわ」
「あー、その、室長というのはやめてくれないか。名前で呼んでほしい。プライベートな時間まで役職で呼ばれるのはきつい」
アイラは、では何とお呼びすれば?と真面目に尋ねたのに返ってきたのはふざけた返事だ。
「ステファンと、出来れば呼び捨てで」
「無理っ!いいですか?室長とわたしは単なる同居人なんです。しかも勤務先で貴方はわたしの上司なのですよ?何故に呼び捨てなのですか。出来るわけありません。
それと、食事を一緒にって必要なのですか?お互い好きなものを好きな時に勝手に食べればいいと思うんですが」
アイラは実は料理が苦手なので、同居にあたり、平民の自分が貴族様のお世話をする事になるのか、お口に合う料理を作らねばならないのかと考えて、ちょっぴり憂鬱だったのだ。
「ドーリーの為もあって私は自炊するんだ。料理は得意だから、アイラも一緒に食べたら食材が無駄にならない。食費は私が払うから君は食べる専門でいれば良い。たまには外食も良いと思うんだが、ドーリーが拗ねてしまうか。おっとすまない、ドーリー、言葉の綾だよ。お前は賢いから拗ねたりしないのはよくわかってる。
それから一番大事なのは、私の名前はステファンだという事だ」
仲間外れにするつもりか?とドーリーが小さく唸ったので、ステファンは宥めるようにドーリーの首の後ろを撫でてやりつつも決して主張は変えない。
はぁ、面倒くさい。室長はこんな人だったんだとアイラはため息をついた。いつの間にかファーストネームを呼び捨てにされているし。冷静沈着で表情もあまり変わらず、誰に対しても一線を引いていて感情に流される事がなく仕事が出来る男と評判のステファン・マクレーンは、実はかなり押しの強いちょっと残念な男なのだと悟った瞬間だった。
ま、仕方ないか。ご飯作ってくれて、しかもお金いらないってさすが室長、浮いた分を貯金して、わたしがこのアパートから出ていく為の頭金にしたら良いのよねと、アイラは気持ちを切り替えた。アパートは気に入っているが、同居を解消した後の家賃や維持費を考えるとずっと住み続けるわけにはいかないのだ。
「わかりました。ではステファン様とお呼びしますね。食事についてはお任せいたします」
「私としては呼び捨てで良いのだが、それはまあおいおいとして。
それより、共に暮らす事をせめて管理室のメンバーには知らせても良くないか?」
「いや、駄目ですよ。そもそも共に暮らすという言葉に語弊があります。要らぬ誤解が生まれてしまいます。単なる同居人ですからね!ミスクリスティあたりが知れば騒いで面倒な事になりますよ」
ミスクリスティことクリスティ子爵令嬢は半年前から臨時採用で来ている19歳独身、はっきり言ってステファン目当ての令嬢である。ゆえに仕事は出来ず、我欲の強い困ったお嬢さんでもある。さらに困った事にアイラが彼女の指導担当になっており散々手を焼かされているのだ。
何しろクリスティ嬢は、平民風情がステファン様に近付くんじゃないわよと凄んできたり、勤務中の離席が目立ったりと困ったちゃんなのだ。簡単な書類の整理を頼んでもまともな仕事が出来ず失敗だらけで、周囲からミスクリスティと呼ばれているのに本人はわかってはいない。
ステファンに何度も勝手にお茶を運び室長室に入り込んでは注意され、離席している時は他所の部署を廻って臨時採用仲間とおしゃべりしている、つまり立派な給料泥棒なのである。ちなみにアイラの破談を面白おかしく吹聴して回っているのも彼女だ。
「ああ、クリスティ嬢は余りにも仕事を舐めてかかっているので、契約を打ち切ったって言ってなかったかな?」
「ステファン様って、(周囲の人間を)よく見てらっしゃるのですね」
アイラが意外そうな口ぶりで言うと、
「(君を見つめているのが)わかってしまったか。隠していたつもりだったんだけどね」
「いえ、感心していたんです。あまり(他人に)興味がないと思っていたものですから」
「それは酷いな。もっと(アイラを)知りたいと常々思っている」
「良かったです。ミスクリスティはチャールズにも絡んでいましたよ。いつも威張っているチャールズが怒っていてちょっとちょっと面白かったけど」
チャールズというのは例の嫌味の多い同期で、男爵家の次男、チャールズ・パーカーの事である。
ステファンの目が一瞬暗くなった。
「君は……、パーカー君と親しいようには見えなかったが呼び捨てにする仲だったのか」
アイラは同居祝いだとステファンが持参したワインを、くいっと一気に煽り頬を赤くしてヘラヘラしながら続けた。
「あー、あんな感じでも彼は学生時代からの同級生で、文官試験を同時に合格した同期ですからね。あの人の態度が偉そうで嫌味っぽいのは昔からなんです。転属でうちの部署に来たら、わたしが先にいた事が気に入らないんでしょう。いちいちライバル視するのをやめて欲しいですよ」
ご機嫌なアイラは無防備で可愛い。ステファンは彼女の赤い唇が動くのを注視していた。
「それでね、チャールズは、ステファン様の事をじーっと、よく見てるんですよ。そのあとでわたしを見て嫌な顔するんです。だから彼は……」
いかん、目がトロンと潤んでいるぞとステファンがアイラを支えるより先に、ドーリーが動いた。アイラの身体を下から支えるように頭を突っ込んで持ち上げた。
「あん、ドーリーあなたって本当に良い子ね。大好きよ。ふふ、顔が赤いのは酔ってるからよ、舐めても元には戻らないからね。
そうそう、彼はステファン様の事が好きなんだと思うんですよ!そりゃ確かにステファン様ってそこらの女性より群を抜いて綺麗なお顔してますもんね。ステファン様とわたしの顔を見比べるなですよ、全く失礼しちゃう」
ご機嫌なアイラは、ドーリーを抱きしめその手触りの良い毛並みを指でとかしている。ドーリーは時々アイラの顔を大きな舌でペロリと舐めてはチラリとステファンを見る。そんなアイラとドーリーの相思相愛の姿を見せつけられてステファンは内心身悶えした。
そうか、これが嫉妬なんだな。しかし飼い犬に嫉妬するとはなんたる間抜け……
せっかくうまく丸め込んで同居に持ち込んだのに、ステファンの前途は多難だ。何しろライバルは、まさかの愛犬と伏兵のチャールズ・パーカーだとは。
*
そんなこんなで2人の同居生活が始まって2ヶ月が経過、ルールを決めてしまえばステファンは大変優良な同居人だった。何しろ手料理は美味しいし、家事全般において器用なのだ。アイラは自分の洗濯以外の家事をほとんどする事がなく、ドーリーの遊び相手を自主的に行うようになった。
懸念していた風呂も、ドーリーがしっかり見張っていてくれるし、そもそもステファンは紳士だから(アイラはそう思っている)心配はしていなかったが、ステファンはと言うと、妄想で悶々していた。
始めの頃は食後は自室に戻っていた2人だったが、ドーリーがいる事で彼の話題から話が広がり、徐々にリビングで語らうようになった。ステファンは博識で話していて楽しく何よりアイラをレディとして扱ってくれる。こういうところがやっぱり貴族なのだなあとアイラは感心している。そして、こんなによく喋る人だとは思ってもみなくて、アイラだけが彼の素顔を知っていることに少しドキドキしてしまうのだった。
省内外のステファン狙いの女性達に知られたら、ただでは済まなさそうだから、職場への往復は慎重に時間をずらしているし、職場でもうっかり親しく振る舞わないように気をつけようと気持ちを引き締めるアイラだった。
それにしても、結婚しても仕事と家庭を両立するつもりだったが、元婚約者とではこんなに楽で、尚且つ楽しい生活は出来なかっただろう。ステファンの家の修繕が終われば彼らは自宅へ戻ってしまうのだが、それが寂しいと感じるほどに、アイラは今のこの生活を気に入ってしまった。
今までは上司としか見ていなかったステファンは話すと意外とおしゃべりで楽しい人で、甘い菓子が好きで手作りしたり恋愛小説が好きなど、職場では見せない素顔にアイラは自然と惹かれていくのだった。
*
今日も今日とて、ステファン・マクレーンは眉間に皺を寄せながら、他部署の女性が仕事にかこつけて接触しようとするのを捌いていた。
「はぁ…室長と結婚する人ってめちゃくちゃ幸せだよね」
小さな独り言に隣席の同期チャールズ・パーカーは即座に反応した。
「アイラが室長と?ありえない妄想をするなよ。君のような庶民を室長が相手にするわけがない」
「それくらいわかってるわよ。幸せだろうなあって思っただけよ」
そう、これは一時的な避難であって、彼らとの別れの時はいつかやってくるのだ。そんな事よくわかっている。
「室長の顔が良くて仕事が出来て、その上伯爵家の子息だからいいのか?君は外見や条件に囚われる人間だったか?」
「チャールズ、貴方なんだか今日はやけに絡むわね。まさかミスクリスティが消えて寂しいのかしら?」
そうなのだ。給料泥棒のミスクリスティこと、クリスティ子爵令嬢は、その他数名の臨時採用職員とともに契約を打ち切られ姿を消していた。理由は省内での不適切な言動とやらで、結婚相手を探すために腰掛け気分でやってきたご令嬢方の思い違いのやらかしを、上層部も見逃すことが出来なかったらしい。
「クリスティ嬢?関係ないね。彼女はたかが男爵家って僕のことを馬鹿にしたんだぜ?それなのに、兄貴がまだ独身だと知ると紹介しろって言ってきて。まあそれはともかく、彼女はアイラの事を敵視していたから身辺には気をつけろよ。君が上に言いつけたんじゃないかって疑っているようだから。
良かったら安全確認の為にも、僕が家までの送り迎えしようか?」
逆恨みもいいところである。確かに同居人のステファン様には愚痴ったが、マクレーン室長に話したわけじゃない。あの人は公私混同をする人ではない。
「心配してくれてありがとう。でもわたしには強い味方がいるから大丈夫よ」
「……そうか、なあ、今度夕食でも一緒に行かないか?美味しい店を知っているんだ」
「貴方がわたしを誘うなんて、一体どうしちゃったの?嵐の前触れ?」
「同期として君の失恋のショックを慰めようとしてだな」
「もうとっくに吹っ切れてるから大丈夫よ。でも心配してくれてありがとう」
食事の誘いの返事をうやむやにされてしまったチャールズは、テキパキと書類の処理を始めたアイラに目を眇めた。
この同期の才媛はなかなか手強いのだ。自分の気持ちを知ってか知らずか、いやこれは全く眼中にないんだよなと、小さく肩を落とした。
*
「私も用事があるので、昼休みは外で落ち合って食事をしないかい?」
ステファンから室長室に呼び出されたアイラは、書類を届けるよう言いつけられていた。
普段はドーリーがいるので外で食べることはないし、昼は省内の食堂で済ませているが、珍しく昼間の外出だ。しかも仕事絡みなので堂々と一緒に食事が出来る。
そんなステファンの思惑に気が付かないアイラは、行き先が南岸地区騎士団だということで、元婚約者を思い出して少しだけ嫌だなと思っていた。
そしてそんな嫌な予感というのは、思った途端に現実になってしまうものである。
騎士団は南岸地区行政省から少し離れた場所にある。届け物の書類を提出し、ステファンと約束した昼食のために街中へ戻ろうとしたら、知り合いの騎士に声をかけられた。元婚約者の友人だ。
別に知りたくもなかったがおせっかいなその騎士が、元婚約者の近況を教えてくれた。
「あいつ、騎士団を馘になった。北部辺境に馴染めず出奔してしまったので、退職ではなく懲戒解雇だ」
それを聞いても自分にはもう関係のない事なのだが、友人の騎士は声を潜めてアイラに忠告してくれた。
「君と別れたのがそもそもの間違いだったと言っていたらしい。辺境地で暴れてそのまま脱走したと。身辺に気をつけた方が良い。思い詰めた人間は何をするかわからないから」
そう言えばステファンが言っていた。最近不審者がうろついていると聞くから心配だと。チャールズからはミスクリスティが逆恨みしていると聞かされたばかりだ。しかし考えても仕方のない事でもある。
騎士にお礼を言ってアイラはステファンとの待ち合わせ場所へと急いだ。
約束の店が近付いてくると何やら揉めている声が聞こえてきた。よく見ればステファンが女性に縋りつかれて、離せ、離さないで言い争いになっているようだった。しかもその女性というのが、あのミスクリスティではないか。
助けにいかなきゃと気合いを入れたアイラだったが、意に反して足が前に進む事はなかった。強い力でその腕を引っ張られてしまったのである。
「アイラ!良かった、ようやく会えた!」
振り返ればそこには元婚約者の男が立っており、そのたくましい右手がアイラの腕を掴んでいた。
「離して。さもないと大声を出すわよ」
「そんなつれない事を言うなよ。俺たちは結婚を約束した仲じゃないか」
「それをぶち壊したのはあなたでしょう?恋人を放置していていいの?」
「あいつは俺が北部辺境に飛ばされると聞いて逃げ出した。一緒に行こうって誘ったら、辺境へなんかひとりで行けってさ」
「そう。もういいかしら?その手を離してちょうだい」
「話を聞いてくれ!俺たちもう一度やり直さないか?お前まだあそこに住んでいるんだろう?俺、今住むところがないんだ。実家から絶縁されちまった。俺にはお前が必要なんだよ、なあ、やり直してくれよ」
アイラは我慢の限界を超えた。
「はあ?馬鹿じゃないの?あんたは結婚目前に浮気して破談にしたろくでなしなのよ。わかってるの?騎士団を解雇されたのも自業自得なの!」
騎士団の話をした途端に男の雰囲気が変わった。
「自業自得?俺をこんな目に遭わせたのは、お前んところのあのクソ野郎だろうが!あいつが手を回して左遷しやがったせいで……。
お前の方こそ実はアイツと出来ていて、俺を罠にかけて排除したかったんじゃないのか!そんなにお貴族様がいいっていうのかよ!」
男はアイラの腕を捻り上げ、このままじゃ折れるぞとニヤリと笑った。アイラは痛みで涙が出てきた。足元はガクガクと震えている。だがここで屈してはいけない。勇気を振り絞って叫んだ。
「た、助けてー!」
次の瞬間だった。痴話喧嘩を面白がるように遠巻きに見ていた人垣を飛び越えて、茶色の狼、もとい狼犬がスタッとアイラの目の前に着地したのだ。
「ドーリー!!」
ドーリーの出現に気が緩んだ男の腕を狙ってドーリーはひらりと後ろ足で飛び上がり、軽く前足で払った。男は驚いて後ろに転倒して頭を打ってそのままの姿勢で固まってしまった。
「ドーリー!助けてくれてありがとう。でもまだステファン様が危険なの、助けにいかなきゃ」
アイラとドーリーが、もうひとつの揉め事の場所へ急ぐと、そこはまさに修羅場の様相だった。
「ステファンさまぁ」
ステファンの足に縋りついているのは、あのミスクリスティである。
「わたくし、貴方様の動向をずっと見張らせておりましたのよ。そうしたら、あの女と一緒に暮らしているというではありませんか!結婚目前に捨てられた平民女なんかのどこが良いのですかぁ!」
足に纏わりついて喚いているミスクリスティの様子からすると、アイラ達がやってくる前にも何やらあったのかもしれない。彼女のドレスは乱れ、胸元はだらしなくはだけている。
「子爵から話があるからと呼び出されて来てみれば、令嬢が待ち構えていて、あろう事か薬を盛ろうとするとはな。私は随分軽く見られたものだ」
「わたくしのドレスをこんなに破いて!ステファン様に襲われたと訴えますわよ、それでも宜しいのぉ?」
アイラはミスクリスティを引き離そうと思ってにじりよったが、ステファンの元へは辿り着けない。何故なら頭を押さえながら元婚約者が走ってきて、アイラの手を再び掴んだのである。
「さっきはよくもやってくれたな。アイラ、目を覚ますんだ。お前はあいつに騙されてるんだ。
同居してるって何か弱みでも握られたのか?あいつ、あの女にも手を出してるんだぞ!お貴族様が俺たち平民を相手にするわけないんだ。頭を冷やせ、アイラ!」
「ステファンさまぁ、そんな平民女を相手にしないでくださぁい。ほら、あの女は下賎な男と縁が切れていないのですよぅ。下々の者同士でお似合いじゃあありませんか」
ステファン様はピクピクと脈打っていて、相当怒っているようだ。アイラは必死で元婚約者から逃げようとするががっちりと掴まれて動けない。ドーリーはグルグル唸って噛みつくチャンスを狙っていたが、アイラに駄目だと止められていた。
「貴方が一般人を怪我させたら、ステファン様に迷惑がかかるから我慢して」
「何をごちゃごちゃと。まずはこのデカい犬を切り殺してやるか!」
男に掴まれた腕が痛い。相手は元騎士だ。腕を折られてしまう。ステファンは捨て身のミスクリスティを無碍に扱えず身動きが取れずにいる。ミスクリスティは興奮剤のせいなのか目が座っていた。
あちらもこちらも万事休すかと思いきや、そこへ意外なところから救世主が現れた。
「室長!大丈夫ですか。指図通り警備隊を連れてきました」
キラキラ眩しい後光と共に背後に警備隊を引き連れたのはチャールズだった。
*
ミスクリスティの父子爵から、娘の契約解除に納得がいかないので説明してほしいという申し出があったのは先日のこと。
奇しくも、アイラの元婚約者が北部辺境騎士団から姿をくらましたと連絡を受けたばかりだ。
最近、自宅アパート周辺を怪しい人影が徘徊しているのは元婚約者なのか。
普段なら面談など断るところだが、相手が子爵家当主だと断りにくい。しかも場所はホテルの一室ときたものだから、わかりやすいやり口にステファンは相手の間抜けさを利用する事にした。
同時刻にアイラを騎士団に向かわせたのは、元婚約者が現れる可能性を考えての事だ。勿論そいつが現れなければそれで良し。
予めドーリーを連れたチャールズ・パーカーをアイラに気が付かれないように護衛につけた。チャールズは優男で戦力外だが、ドーリーのお供と警備隊への連絡係としての起用である。
ステファンは、元婚約者は必ずアイラに接触してくるだろうと考えていた。破談の原因となった女と別れているのは把握済み、そうなるとアイラと縒りを戻そうとするだろう。
奴が現れて絡んできたらドーリーを放てと、チャールズに指示を出した。あとは彼がうまくやるはずだ。ドーリーは専門の訓練を受けた戦闘犬でもある。
アイラを囮にするような事は本当は嫌だが、自分の知らないところでアイラに危害が加えられるのはもっと嫌だ。クリスティ親子をさっさと片付けてすぐさま騎士団に向かうつもりが想定外の事が起こった。
仕掛けてくるのは自分への薬だと思っていたら、娘もまた興奮剤を飲んでいた。父の子爵を蹴り上げドアを壊して出てきたが、娘は興奮剤のせいか追いかけてきたのである。
一応令嬢という事で手出しを躊躇っていたところ、足に飛びつかれて身動きが取れなくなった。パーカー、早く来いと、彼が頼みの綱だった。
*
アイラの元婚約者の男は予想以上にクズだ。アイラは気がついていなかったが、それをいい事に婚約時代の5年間にも浮気をしていた。相手の女性達もみな平民で学生時代の遊びと割り切っていたようだが、最後の女だけは違った。まだ下っ端とはいえ騎士団勤務は平民にとってはエリートコース、なんとしてもこの男を手に入れようと考え熱心に誘惑したのだ。その結果が結婚式直前の破談となった。
ステファンは初めてアイラに会った日のことをよく覚えている。学力優秀な学生を集めて文官試験の説明に訪れた時に、案内してくれたのが彼女だ。
自分に対して丁寧でありながら媚びない態度や、その清楚な外見に好感を持った。しかも文官希望をするだけあって、受け答えからも聡明さが感じられた。
そのアイラがふいに見せた笑顔にステファンは胸に動悸を覚えた。ようするに一目惚れである。
マクレーン家の嫡子として伯爵家を継ぐ身、その上容姿が優れているとあって言い寄る女性が後を絶たず、そういった女性に辟易していたステファンは自然と感情を表に出さず、常に冷静沈着な人間だと思われるようになったが、実はごく普通の男なのだ。
アイラに婚約者がいる事で諦め封印した思いを、結婚が破談になったと聞かされたあの日、解き放ったのである。
そこからの自分の頑張りを褒めてやりたいと思う。ドーリーを利用して同居に持ち込んだのも、アイラが犬好きと知っていたからこそ。隣家のぼや騒ぎ云々は事実だが、その時期は実は数ヶ月前のことで、ステファンは理由づけにそれを利用したのだ。
そんな事を知らないアイラは、まんまとステファンの策に乗ってしまったのだった。
*
チャールズが連れてきた警備隊はミスクリスティとアイラの元婚約者を捕縛した。ホテルで倒れていたクリスティ子爵は既に逮捕済みである。クリスティ嬢については、アイラを暴漢に襲わせる計画もあったと後に判明し罪がさらに重たくなった。
「アイラ、怪我はないかい?君をこんな目に遭わせてしまい本当に申し訳なかった。あの男を排除するつもりで辺境に飛ばしたのに、まさか逃げだすとは思わなかった」
「え!彼が辺境へ行ったのは、ステファン様が動いたのですか?」
「そうだ。愛する女性を傷つけた浮気男は許せないからな」
「愛する女性って?え?」
「君の事だ、アイラ。私は学生時代の君を初めて見た時からずっと思い続けていたんだ。だから文官試験に合格したアイラを自分の部署に引き抜いた。共に仕事をする中で、真面目で有能な君にますます惹かれていったんだ。
それなのに既に婚約していると知った時は絶望したよ。ところがあの馬鹿が君の手を離してくれたから、思わぬ幸運が舞い込んできた。もうボヤボヤして君を掻っ攫われたくなかったから、あれこれ理由をつけて同居を申し込んだ。アイラはきっとドーリーを気にいると思ったんだ。結果、私が嫉妬するくらいにふたりは仲良しになってしまったけどね」
アイラは思わず吹き出した。なんだかんだと言って強引に丸め込まれてしまったけれど、ステファンとドーリーとの生活は楽しいのは事実なのだから。
「ステファン様の家の修理が済んだら同居は解消だと思っていたんです。それは寂しいなって思っていました」
「え!本当に?一緒に暮らしていたいと?」
「はい」
気がつけばアイラはステファンの腕の中にいた。
「君に結婚を申し込むよ、アイラ・レヴィン嬢。これから先の人生を私と共に生きてくれるかい?」
アイラはステファンの背中に腕を回して思い切り抱きしめた。
「わたしだけを愛してくださる?他所見しない?」
「もちろん」
ウォン!足元でドーリーが吠えた。僕を忘れないでと、ステファンの背中に回したアイラの手をペロペロと舐めた。
「きゃっ、くすぐったい。ごめんごめん、ドーリーも勿論「ずっと一緒」」
アイラとステファンの声が重なる。2人は見つめ合いステファンの美しい顔がゆっくりと近付いてきた。
アイラはそっと目を閉じ彼の唇が触れるのを感じた。周囲から冷やかしの声が飛ぶ。
ドーリーはそんなふたりの周りを嬉しそうにくるくる回ったり、くいっと背伸びして後ろ足で立って、ステファンをどやしつけたので、ギャラリーからは笑い声が起きた。
結婚目前で浮気男から捨てられてしまったけれど、それ以上の幸せを手に入れたアイラだった。
お読みいただきありがとうございます。
ステファンはヘタレのストーカー気質のヒーローになってしまいました。そして実はアパートの所有者はステファン自身だったりします。
ドーリーは狼犬となっていますが、超大型犬で雰囲気が狼っぽい感じの、作者の想像の犬種です。
元婚約者の名前はついに出てこなかったです。