第2話 民宿「星野屋」にいらっしゃい
翔太が宿泊する『星野屋』は、想像以上に趣がある古民家であった。
大きな母屋、それに隣接するように離れがあり、翔太と少女がいる玄関先からは広い庭が見える。庭には何種類かの野菜畑があり、鮮やかな紫色のナスが実っていた。
「ここが星野屋……」
翔太は玄関に掲げられている色褪せた『星野屋』の看板を見上げる。
もし看板が無ければ、ここが民宿だと気付く人がどれくらいいるのだろう……
「古臭い家でしょ?」
無言で看板を見上げている翔太の心情を代弁するように少女が声をかけた。
「ううん、とっても自然と調和してて僕は好きだよ、こういうの。ロハスっていうのかな……」
「ロハス……上手い褒め言葉ね」
気を利かしたその表現に、少女はまんざらでもないと微笑んでみせる。
「今すぐお部屋に案内しますね……」
そう言って少女が玄関の扉を開けようとした、その時――
二人の背後から車のエンジン音が聞こえた。
エンジン音の方を振り向くと赤色の小さな車――ホンダのFitが二人の前に停車し、中から一人の女性が降りてくる。
「深沢……翔太君?」
女性は翔太に近づきながら尋ねる。
「はい」
「ごめんなさいね、ちょっと急用が入ったもんで、迎えに行けなくなっちゃって」
女性が申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、電話の……」
「星野美佳です。よろしくね」
聞き覚えのあるその声は予想した通り星野屋の女将――少女の母親であった。
年は四十歳前後だろうか。少し茶色がかった髪を後ろで結んでいて、ジーパンとTシャツというラフな格好をしていた。僅かに日焼けしたその顔は健康的で線が太く、たくましい大人の女性とうい感じで、真っ白で繊細な少女とは対照的であった。
「こちらこそよろしくお願いします」
少女が見ている手前……と、いうわけではなかったが、翔太も粗相が無いように礼儀正しく頭を下げると美佳に挨拶を返した。
「見ての通り何もないところだけど、ゆっくりしていってね」
「はい」
「あ、ちょっと待っててね」
美佳はそう言って翔太に背を向けると車の方に戻っていく。
そして後部ハッチを開けると、小さなクーラーボックスを取りだす。
「活きのいいのが入ったんで、急いで取りに行ってたのよ」
手にしたクーラーボックスを戦利品のように掲げる。
「それは……?」
「天然のアマゴよ。普段でも滅多に手に入らないプレミアもの……久々のお客さんだから奮発しないとね」
「はあ……」
「今夜の夕食、楽しみにしておいて!」
美佳は真っ白な歯を見せると、小さく片目を瞑ってみせた。
「お母さん、あとはお願いできる?」
翔太と美佳のやり取りがひと段落ついたところで少女が声をかける。
「ああ、そうそう……ありがとうね、ゆき」
美佳は思い出したように少女――ゆきに礼を言う。
「うん、じゃあね、深沢さん」
「あ、ありがとう」
翔太に笑顔を残し背中を向けると、ゆきは離れの方に歩いていった。
――ゆきさん、っていうのか……
透明感のある彼女にぴったりの名前だ――そんなことを考えながら、翔太は少女の後姿を見送っていた。
「じゃあ部屋に案内するわね。こっちよ」
美佳の呼びかけに翔太は我に返る。
「よろしくお願いします」
翔太の返事を確認すると美佳は玄関の方に向かう。
「あ、あの……」
翔太がふと思い出したように美佳を呼び止める。
「ん?」
クーラーボックスを肩にかけた美佳が動きを止め振り向く。
「そのアマゴって夕食に出るんですか?」
「そうだけど……ひょっとして魚はダメなの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
翔太は少し逡巡すると、申しわけないというように続けた。
「夕食なんですけど、ちょっと早めにしてもらっても大丈夫ですか?」
「河童でも見に行くのかい?」
間髪を入れずに美佳が問う。
あまりにも的確に言い当てられた翔太は思わず面食ってしまう。
「え、ええ……その通りです」
「あら、冗談のつもりだったんだけど……」
それを口にした当人も驚きの表情を浮かべてみせる。
「まあ……ここに深沢君くらいの年代の子が来るっていったら、それくらいしか理由が無いかなって思って鎌を掛けたんだけど……当たっちゃったみたいね」
疑問の視線で見上げる翔太に種明かしをすると、美佳が戯けてみせる。
「はい……」
翔太が恥ずかしそうに頷く。
「お客さんは深沢君だけだから全然構わないよ」
「ありがとうございます」
「河童なら滝道の方に行くといいわ。最近よく出ているみたいだから。滝道までは……」
そう言いながら美佳が箕里山の方を指差そうとすると――
不意に現れたゆきが二人の間に割って入って来る。
予想外の再登場に翔太が戸惑いの表情を見せると、ゆきはニッコリと笑いながら、手にしている一枚の地図を翔太に差し出した。
「はい、箕里の観光マップ」