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左手猫の手聖女の手♪


国王にあるまじき狼狽ぶりで、ルナイリスの手を引っ掴み、引きずっていこうとするトリスタンの頭上へ、リーンハルトは容赦なく冷水をぶちまけた。ご丁寧に氷入りだ。


「ーっ!!」


慌ててルナイリスの手を離すと、トリスタンは大型犬宜しく身体をぶるぶると震わせた。

トリスタンがふわりと手を振っただけで濡れた衣服が乾いたのを見た瑠凪は瞠目する。


ちなみに、ルナイリスの身体はリーンハルトによって確保されており、とばっちりは受けていない。


ルナイリスの様子を窺うと、呆然とした眼差しで手の跡が紅く残る手首をさすっている。


「愚かな狼藉者にしか見えんが、アレでも一応国王でな」

そう囁くと、濃い紅茶色の瞳が大きく見開かれた。

「お前の兄弟子でもあるから、そんなに畏まらずとも良い。師である俺が許す」

「そんな事を仰られましても…」

困ったような眼差しが稚くすら見える。



「非礼も無礼も承知の上だ、すまん、ルナイリス嬢、イゾルデを助けてくれ…!」

勢いよく頭を下げられ、話の流れが見えない瑠凪は助けを乞うようにリーンハルトを見た。


「正妃殿下がどうされたのだ、落ち着いて説明…そういえば朝からえらく静かだと気になっていたが、もしや、産気づかれたのか?!」

「そ、そうなのだ。日が沈んだ頃に兆候が現れ、侍医団が準備を始めたのだが、未だに産まれぬ。やきもきしていたら侍医が来て、『足から出て来ているので恐らく子は助からぬ、早めの決断を』と言われて…!聖女の手を持つそなたならば母子共に助けられる筈だ、頼む、2人を助けてくれ!」


逆子…って!

日本むこうなら帝王切開案件だよ!

かと言って、王国ここでそれだけの知識があるとは思えないし、私だってドラマやネットの簡単な知識しかないし…取りあえず行くだけは行ってみるけど…。


「かしこまりました。確実にお助け出来るかは分かりませんが、精一杯努めます。つきましては、酒精の高い酒を1つと、洗い立ての清潔なワンピース、同じく清潔な髪を覆えるような布の被り物かスカーフを1枚頂けませんか。この格好なりでは妃殿下も御子も危険に晒してしまうやもしれませんので」

「分かった、すぐ用意させる。産室の前で待っている」

慌てて出て行くトリスタン。


「…そういえばリーンハルト様、産室の場所などご存知ですか?」

「知る訳がなかろう。…仕方ない、トリスタンの傍らへ転移するか」

「少し待って下さい。髪をまとめて手を洗いますので」

勝手知ったる部屋である。洗面所に行くと手早く髪を夜会巻きにし、石鹸で手を洗った。

「お待たせ致しました。参りましょう」


リーンハルトの傍らに立つ。

腕が腰に回され、肩に手を置く。


転移にも随分慣れたな…などと思う間に、見慣れない部屋に入ってしまう。


幾つかの机の上に、乱雑に書類が積み上げられ、隅にはソファが2つと毛布が…。

手前の空きスペースでは2人の男性が口論中。

1人は先ほどの国王さま。もう1人はリーンハルトよりは年上に見えるが…うーん、国王の威厳って…どこ??


「だから、出産に男など役に立たんのだ、かまけていないで仕事しろ!!」

「イゾルデが死にそうなのに、仕事など出来るか!」

「出産は命懸けだ、死にそうになるのは当たり前だ!」



ぷっつん。


…どこかで私の堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた気がした。




「な…」


その場の3人は絶句してルナイリスを見つめた。

ほぼ無意識で、瑠凪は先ほどのリーンハルトを真似ていたのだ。


「あまりの発言に怒りを抑えられませんでしたわ。『当たり前』ですって…?! ご存知ですか? 出産の痛みは男性には耐えられないのだそうですよ。痛みのあまり気を失うそうです。そんな軟弱な事なく、文字通り命を賭けて新たな命を産み出す数多の女性たちへの耐え難い侮辱ですわ! 謝って下さい!! 貴方だってお母様がその痛みに耐えて命を賭けて下さったからこそこうして此処に在れるのですよ! 大体、最愛の女性ひとが死にかけているのに悠長に仕事なんかしてられないというのは、人として有るべき姿です!」



ぜぃはぁ。


…久々に人怒鳴った。

弟たちが小さいうちは、特に2人まとめてなんて怒鳴らないとやってられなかった事もあったけど、高校生ともなれば怒鳴らなきゃいけないようなことはなくなったしね。


水を滴らせている眼前の男を瑠凪は睨み付けた。


…まずい、こんな阿呆に関わり合ってる暇無いはずだ。

聖女の手で逆子を胎内に戻して頭を下に回転させて…って出来ないかな。


リーンハルトさまにこの阿呆はお任せしよう。


瑠凪はトリスタンに向き直った。


「お願いしたものは?」

「あ、ああ、侍女に頼んで産室の前まで持って行かせている」

「産室までご案内お願い出来ますか?」


阿呆に何やら気兼ねしているらしい国王に、瑠凪は溜息をついた。


「先ほど、そちらの方は『出産に男など役に立たん』と仰いました。それは確かに一面の真理ですが、ただそれだけです。新たな命という至高の前に、机上の理論など無意味。…それにしても貴族は良いですねえ。出産に苦しむ妻を放置して仕事…なんて、庶民なら確実に離婚案件ですわ」


莞爾にっこりと男に微笑みかけると、頭を抱えているリーンハルトを尻目に瑠凪は部屋を出た。書類が濡れないようには気を遣ったのだ。感謝して欲しい。



追いかけて来た国王トリスタンに道を譲ると、気が急くのか、足早に歩いて行ってしまった。慌てて後を追う。

幾度か道を曲がり、突き当たるところへ出た。

突き当たりには部屋があるようで明かりが漏れている。扉の脇に誰かが佇んでいた。


「陛下、御命令のものをお持ち致しました」

「彼女に渡してくれ」

瑠凪は扉の前にいた女性の元へ歩み寄ると、手から荷物を受け取った。

くるりと見回すと、いくつか扉が見える。


「あの、どこか着替える部屋をお借り出来ないでしょうか?」

「着替える?」

「はい。本当ならば念の為に湯浴みくらいはしたいところですが、時間がありませんのでせめて、清潔な衣服に着替えて髪を覆えば衛生面での不安は減るかと」


…そういえば、出産に伴う衛生面での危険が周知されるようになったのって19世紀を過ぎてからだった筈。此処ラトレセイスでそこまでの知識があるかは疑問だけれど、背に腹は変えられない。


ルナイリスの言葉の意味は分からなかったが、ドレスが汚れてしまうのが嫌なのだろうと深くは考えず、トリスタンは傍らの部屋を指した。


「あの部屋を使え」

「有難うございます」


カーテシーをすると部屋に飛び込んで手早く着替える。脱いだものをまとめて隅に置くと、布で髪を覆った。酒の瓶は蓋を開けてそのまま持って出る。


きょとんとしている国王トリスタンの前で、酒を手にかけた。むわんとアルコールの臭いが辺りに立ち込める。


「…な、何をして…」

「消毒ですけど? あと、こちらは取りあえず今は不要ですが、もしかしたら状況によってはまた要るかもしれませんので、蓋を閉めて頂けますでしょうか」

余計なものには触れない方が良いと考えて、服を持って来てくれた女性に頼む。

彼女は不思議そうに小脇に抱えている瓶の蓋をしてくれた。


「では」


深呼吸して扉の前に立つと、陛下が気を利かせて扉を開けてくれた。ー濃厚な血の匂い。












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