Lesson III ーThe wind blows without notice
目の前で手を振られ、瑠凪は本から顔を上げた。
ルドガーが微笑みながら立っている。
思わず身構える瑠凪にルドガーはくつくつと笑った。
「随分と熱心だね」
「だってわたくし、何も知りませんもの。知識として最低限入れておかなければならない歴史や地理がありますでしょう? …あ、各領地の名産なんかも覚えておいて会話の糸口にしなきゃ…」
自室のテーブルに積み上げた本の中から、別の本を取り上げて読み始めた瑠凪だったが、その本をルドガーに取り上げられる。
「邪魔しないで下さい」
「根を詰めすぎだよ、少し休まないと。効率だって良くないと思うよ。昼食にも来なかったろう?」
「厨房の方が親切にサンドイッチを作って持って来て下さったので、リュディガー様に許可を頂いて、此処で食べましたから大丈夫ですよ」
「その話は聞いているけど」
ルドガーは呆れたような眼差し向けながら瑠凪の前に腰を下ろした。
「読むことも学ぶことも好きなのは分かる。が、詰め込むだけ詰め込んだって意味が薄いと思うよ。情報は整理して取り出してこそ価値があるものだ」
その言葉にはっとして瑠凪は顔を上げた。
一応は紙とペンをもらってメモを取りながら読んでいるが、どうしても慣れぬ名前のオンパレードで、こんがらがってくるのは事実なのだ。
少し気分転換も良いのかもしれない。
椅子に座ってぐうっと伸びをしてみる。
肩を回すとぱきぱきと音がして流石に苦笑いする。固まってしまっているようだ。
「これから畑を回るんだが気晴らしに一緒に行くかい?」
「畑…ですか?」
「うん、我がバルシュミーデ侯爵家の領地はワインで有名なんだ。今年は葡萄の出来も良いようでね、良質ものが出来そうだ」
「ワインですか…。あ、なので、いつもお部屋に備え付けて下さるのですね」
「そういうこと。どう? 気に入った?」
「ええ、美味しいです。…実はワインは苦手で、カクテルじゃないとダメだったんですけど、こちらで頂くのは美味しくて、するする飲めてしまうんですよ」
「かくてる…って何?」
「ワインに別のものを混ぜるんです。…たとえば、赤ワインと同量の紅茶にレモンのスライスとミントを浮かべるとか、果物を数種類刻んで漬けるとか」
「へぇ、面白そうだね。…あ、夜に試してみよう。後で厨房に来てどんな果物がいいか見て」
「は、はぁ…」
顔を引きつらせる。カクテルは好きなのだが、所謂“割り材”がどれほどこの世界にあるのかが分からない。
ジンジャーエールとか、コーラとか、カシスやフランボワーズのリキュールとか。
カシスやフランボワーズに至っては存在するのかどうかさえ怪しい。
(カーディナル、飲みたいな…)
脳裏に浮かぶ幻想は、突然頰に押し付けられた冷たい感触に霧散する。
ティーポットを押し付けたルドガーが笑う。
「誘ってるのに心ここに在らず…って酷くない?」
「…わたくし、誘われていたのですか?」
悪戯っぽく微笑んでみせる。
「…気付かないとか…」
真顔で凹んでいるルドガーに瑠凪はくすくす微笑う。
「こっちに来て一歩も外に出ていないでしょう? せっかくだから葡萄畑を案内するよ」
気遣い…であろう事に、素直に応じても大丈夫だろう。そういえば、異世界に来てから自体、外には出ていない気がする。
「お言葉に甘えます」
習いたてのカーテシーを披露すると、ふっとルドガーが微笑った。
彼が出て行って暫くして、ラウラが入って来た。手には淡い菫色のドレスを持っていた。
「ルドガー様より身支度を整えるようにと申し使っております」
「宜しくお願いしますね」
Aラインのドレスでスカート部分はたっぷりのドレープ。髪は丁寧に梳った後、濃い菫色のリボンを編み込んでまとめる。
…待って、この色遣い。マジでめんどくさい。
盾にされる運命は感受すべきなのか。
ー盾なら我慢出来るが、当て馬は勘弁してほしい。内心の溜息が漏れないように注意しながら、ラウラに付いて行く。
「お待たせしまして。…っ」
思わず目を瞠る。そこには、馬を1頭引いたルドガーが立っていたからだ。
「わ、わたくし、乗馬なんて」
「分かっているよ。だからおいで」
ひらりと跨ったルドガーに手を差し出され躊躇する。が、悩む間も無くルドガーに馬上に引き上げられた。馬上の鞍はなだらかで、横向きに座ることが出来るものらしい。
「僕に寄りかかっていれば大丈夫だから」
「そう仰られましても…」
躊躇う瑠凪を、説得が面倒になったルドガーは、力技で黙らせる事にし、愛馬の横腹を軽く蹴った。走りたくてうずうずしていた愛馬は、大はしゃぎで駆け出す。
「きゃぁっ!」
愛らしい悲鳴を上げて、あろうことが馬の首に抱き着こうとした瑠凪を慌てて腕の中に引き込み片手で抱き抱えた。もう一方は手綱を持ち、瑠凪の背を支えている。
「馬の首を絞めるような真似をしたら、振り落とされるぞ」
耳朶に脅しを囁くと、びくりと細い躰を震わせ、諦めたように寄りかかって来た。
抱き抱えていた手を手綱に戻し、挟み込むようにしながら馬を走らせる。
ドレスのドレープが跑足に合わせてふわりと広がり、淡い菫色が目の端を舞う。
「落としたりはしませんよ。せっかくだから周りを見てご覧なさい」
柔らかな声を落とすと、俯いていた頭が上がり、あちこちに目線が動く。素早くカフェに目が止まっているところなど、やはり若い娘だ。
とはいえ、今日は出たのが遅い、畑をざっと回る時間しかないだろう。覚えておいて、また今度連れて来てやろう。マナーの実地訓練だとでもいえば嫌がられないはずだ。
顔馴染みの領民たちがこちらを見てぎょっとしているのに気付いて、並足に落とすと手綱を持ち直して手を振った。
ルナイリス嬢がこちらを見上げてくるのだが、邪気のない上目遣いは心臓に宜しくない。
取りあえず軽く微笑んでみせると、彼女は背筋を伸ばし、微笑みを浮かべて眼前の領民たちに手を振った。
領民がわっと沸き立つのを見て、苦笑いする。
ーその気も無いくせに手ずから外堀を埋めてどうするつもりなのだ。
期待に応えて籠の鳥にしてあげようか。
…これほど似合わない事も無いけれど。
領民たちと別れて更に駈歩で走らせる。
目の前には広大な赤。
見渡す限りの葡萄畑である。
馬を降りて、傍らの木に繋いでおく。
「綺麗…」
月並みな呟きしか出て来ない瑠凪を、ルドガーは微笑んで見つめた。
「見事だろう? あと1週間ほどで収穫だ。収穫して、搾って、暫く寝かせる。美味しいワインが出来るよ」
「若飲みはしないんですか?」
「若飲み?」
「はい、わたくしの国では勿論収穫の一部だけですが、収穫後2ヶ月程でワインに仕上げてしまいますの。出荷されるワインは、通常とは異なる仕方で醸造されるので、葡萄の出来が味に直結するのだそうです。ですのでその年の出来具合の指標になるそうで、お祭り騒ぎでしたのよ」
「2ヶ月で飲めるワインなんてどうやって?」
「…詳しくは分からないのですが、葡萄を潰したりせずにそのままタンクの中に入れるのだそうです。積み重ねられた葡萄が自身の重みで潰れることで醸造が出来るらしいです」
「なるほど。……理には叶っているな。せっかくだから畑一つ分くらい試してみようか。他には何か、面白い手法を知っているかい?」
「そうですね…、赤ワインの材料を使って、白ワインの作り方をする…っていうのもありました」
「…? それ、どうなるの?」
「わたくしたちは“ロゼワイン”と呼んでいましたが、ごく淡い薔薇色のワインが出来るそうです」
「ほぅ…、実に興味深いね。後で父上と話してみよう。事業として立ち上げることも出来そうだ」
「で、ですが、わたくしが知っているのはこの程度のことですよ? これ以上詳しい知識はありませんわ」
「大丈夫だよ、あとはこちらでまとめてしまうだけだから」
道理は知っているからね、とルドガーは笑う。
貰った情報をルドガーが頭の中で整理していた時だ、背後の畑の方から、疾駆する蹄の音が聞こえ、咄嗟に瑠凪の腰を絡げて引くと、覚えのある声で呼ばれた。
「若様!! ーああ、良かった、まさか此処で行き会えますとは!」
この辺り一帯の畑を管理させているクルトが急停止させた馬から飛び降りた。
気付いて腕の中の瑠凪を見つめ、困ったように頭を掻く。
「お邪魔をして申し訳ありませんが、緊急事態ですので馬に蹴らせるのはご勘弁下さい」
誤解だと言いたいが、穏和しく腕の中に収まったまま、何も言わずに上目遣いで見上げてくる瑠凪が悪いので、ルドガーは溜息をつくとクルトに向き直った。
「与太話は後にしろ、報告は簡潔に、だ。ーで、何があった?」
すっと目を細めたルドガーからは冷気が立ち昇る気がして、瑠凪は身体を引こうとしたが、腕の中に捕らえられたような状態ではそれは叶わず、躰を震わせる。
「奥の畑が一つやられました! ご自身の目で確認して頂くのが早いかと。ご案内致します」
一礼して馬に飛び乗る。ルドガーも愛馬を解くと跨り、瑠凪を引き上げた。
瑠凪も慣れて穏和しく寄り掛かる。
こちらの仕度が整ったのを見たクルトが、馬の横腹を蹴った。
「この畑です!」
眼前に広がる哀しい光景に、ルドガーは思わず舌打ちしてしまう。
一面、収穫間近の葡萄が、カビにやられていたからだ…。
職場でのボジョレーの予約コールが煩いです(苦笑)




