いざ、出陣!?
ノックすると、マリーナの声がして、扉を開けてくれた。
テオドールが飛び付いて来る。
「お外いこう! あねうえ!」
まるでボールよろしく跳ね回るテオドールを、少し不憫に思いながらも抱き上げた。
マリーナに、午前中は自分がテオドールと一緒にいるので、他に仕事があるなら外してくれて構わないと伝える。
「ごめんね、テオ」
そう言って頭を撫でると、ぐすぐすと泣き始めるーが、案の定というべきか涙は無い。声のみの空泣きである。
「今日はテオにお話があって来たのよ」
部屋に入り、しゃがみ込んでテオドールと目を合わせる。不安気に揺れるペリドットの瞳に罪悪感を覚えながら、暫くバルシュミーデ侯爵家に滞在する事、礼儀作法を教えてもらう為、いつ帰ると明言出来ない事などを丁寧に説明した。
「ルナ、いなくなっちゃうの…?」
ペリドットの瞳から涙がこぼれ出す。
「大丈夫よ。ちゃんと帰って来るわ。いなくなったりはしないわよ」
「だって、こうしゃくけの子になっちゃうんでしょう? はくしゃくけのほうが下だもん。かえってこないでしょ…?」
…それは無い。
でも、誰が教えた? 公侯伯子男の順序。
当たり前のように知ってたりするのかしら。
「そんな事ないわ。ちゃんと帰って来るわよ。少し時間がかかるかもしれないけど。約束する。いろいろとお勉強してくるだけよ。だからテオは良い子で待っていてね」
「どのくらいまてばいいの…?」
「少しでも早く帰れるように、わたくしも頑張るわ」
いつ…と明確に言えない事が如何にもこうにも切ない。1ヶ月などと適当に切っておき、修めきれないようなら日が延びた…という事も出来るのだが、それでは稚い期待を裏切る事になる。
小さな身体を抱きしめ、兄フォルクハルトのぱっきりとした金の色とは異なる、優しい、春の陽だまりのような金の髪を撫ぜる。
幼子らしくふんわりと柔らかい髪を優しく優しく撫でてやり、円やかな頬にチークキスをする。
その手はぎゅっと瑠凪にしがみ付いている。
離すものかと言わんばかりの態度に、抱いたまま室内を歩く。
兄たちに見つかるとまた煩そうなので、部屋から出ない事にして。
寝室から自室に戻り、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
安心させるように抱きしめたまま、何も言わずに身体を揺らす。そのまま暫くそうしていると、胸に埋められていた顔がゆっくりと上がった。
「ほんとうに…かえってくる?」
「くるわ。だってここはわたくしのお家だもの」
そのペリドットの瞳を見つめてそう断言する。
その柔らかな瞳は真意を求めて彷徨い、漸く納得の色を刷く。
そのまま甘えたように顔を胸に埋めて。
聡い子だから我が儘だと理解しているのだろうが、分かっていても言いたくなる事があるのである。それでも、「いかないで」とは言わないし言えないのだろう。それが分かるからこそ尚更に愛おしく。
この女性なら甘えて良いのだとの無条件の信頼が嬉しく、それを裏切りたくないからこそ此度の説明は難しい。
だからこそ、何も言うまい。
腕の中の小さな体躯は仄かな熱を持って。
そのまま、昼食の声がかかるまでじっとしていた。
呼ばれたので下ろそうとしたが嫌がったので、取りあえず食堂まで抱いていく事にする。
また2人に叱られる…とおっかなびっくりだったが、幸いにも2人は未だだった為、慌ててテオドールの椅子を隣に持って来ると座らせた。
ずっと抱いていたので怠い腕をマッサージしたり、肩を回して背中を解す。
程なくして2人が食卓に着く。フォルクハルトはテオドールに一瞥をくれると無言のまま食事を始めた。
静かな食堂内。時折かちゃかちゃとカトラリーの音が響く。ー犯人は勿論瑠凪である。
ふと、フォルクハルトが顔を上げた。
「ルナイリス。食後着替えて先方へ行く。ライナルトを部屋まで行かせるから部屋で待つように。レナータ、アメリア、ルナイリスの仕度の手伝いを頼む」
「承知しました」
「「かしこまりました」」
諾の意を返しつつ、隣のテオドールをそっと見る。明らかにしょぼくれてはいるものの、涙ぐんだりふて腐れたり…といったような負の態度を見せない事に安心する。
フォルクハルトの方も、不安定な弟が泣き喚いたりしないか些か不安があったようだが、騒がない事にほっとしたよう。
取りあえず、食事が済んだら褒めるつもりで、食事を再開させる。
眼差しが若干虚ろで、食事を押し込んでいる感が見えるのが気掛かりで。
「ご馳走様でした」
そう呟くと、隣のテオドールが不思議そうな顔をした。
「それ、なぁに?」
「わたくしの母様が教えてくれたのよ。お肉もお魚も元は生きていたものでしょう? それを人の都合で殺して食べるのだから、ちゃんと命に感謝しなさいって。それに、こうしてテオやわたくしのお腹に入るまでの間にも、いろんな人の手がかかっているでしょう。だからこうして頂けるのだから、その労力にも感謝なさいって」
「ちゃんとおいしく食べましたってごあいさつなの?」
「そうね、そう言う事」
「そっかー。じゃ、ぼくもまねっこする。“ごちそうさまでした”でいいの?」
「ええ、賢い子ね、テオは」
「ごはんのまえは? あねうえ、そういえば何か言ってた」
「ご飯の前は、食べられる事に感謝して、“いただきます”って言うのよ」
「いただきます…」
もごもご真似するテオドールが愛らしい。
「お昼はお終いで良いのね?」
「うん、お腹いっぱい」
「じゃ、お部屋へ戻りましょうか」
テオドールを抱き上げると部屋へ戻る。
優しくハグからのチークキス。
そのふわりと柔らかなペリドットの瞳を見つめて。
「行って来るわね、テオ」
そう声をかけると、その円やかな頬からほろほろと涙が滴る。
後から付いてきたマリーナが、そっと手を差し伸べてテオドールを受け取ると、その耳に囁いた。
「テオドール様、こういう時は姉君に『いってらっしゃいませ』とご挨拶するのですよ。『お帰りをお待ちしています』と」
だが、テオドールはぐすぐすと啜り泣きながら、マリーナにしがみ付いてしまった。
小さな身体越しに目線を絡ませ、思わず苦笑いしてしまう。
ーそう簡単に納得は出来ないか。
「何だか、荷を増やしてしまったみたい。ごめんなさいね」
「いえ、ルナイリス様。どうかご心配無きよう。実は私、心配していたんです。あまりにもテオドール様が穏和し過ぎて。私にも弟がいますが、こんな頃はもっと我を通そうと泣き喚いてましたもの。でも、テオドール様は泣きもしないし駄々もこねない。これで良いのか堪らなく不安で。だから、ルナイリス様が来て下さってテオドール様が幼子に戻ることが出来て、本当に良かったです。お早いお戻りをお待ちしています」
マリーナはテオドールを抱いたまま深々と頭を下げた。
「有難う、マリーナ。テオを宜しくね」
瑠凪も頭を下げると自室へ入った。
レナータが、準備万端整えている。
ダークグリーンのパフスリーブのドレスで、首回りと袖口には白い花の精緻な刺繍が施されている。ドレスより少し明るめのグリーンの幅広のリボンをウエストに結ばれ、ドレスと同じ色の細めのリボンが髪に編み込まれる。
レナータとアメリアに万事任せていたら、いつの間にかエメラルドのネックレスとイヤリングまで付けさせられていた事に少し焦った。
「あ、あのね、2人とも、夜会とかではないのよ。こんな高価そうなアクセ、要らないと」
「ダメですよ、フォルクハルト様の色なのですから」
「そうです、きちんと当主の庇護の元にある事の証です」
慌てて反論してもばっさりと切り捨てられ。
この世界の常識が解らない分、何も言えずに受け入れるしかなく。
あわあわしていると、ノックの音がした。
「ライナルトでございます。お仕度はお済みでしょうか」
扉の向こうの声にアメリアが扉を開ける。
「これで如何でしょう?」
誇らしげに微笑む2人に、瑠凪は不安な思いを眼差しに込めてライナルトを見る。
ライナルトは、すっと瑠凪の全身を一瞥すると満足そうに微笑んだ。
「見事な仕度ですよ、レナータ、アメリア」
「「有難うございます」」
「では参りましょうか、ルナイリス様。お2人は玄関でお待ちです」
瑠凪が顔を引きつらせながら頷いて歩き出そうとした時、テオドールの部屋のドアが開いた。
目を見開いているマリーナの手を振り払うと、泣いた後の瞳もそのままに、瑠凪のところまで走って来る。
「い、いってらっしゃいませ、おはやいおかえりをまってます」
その言葉に思わずしゃがみ込むと、額を合わせた。
「いってきます。お勉強、頑張って来るわね」
頭を撫でてから、立ち上がる。
階段を降りて少し歩くと、フォルクハルトとヴィンフリートが待っていた。
2人にも凝視され、身の置き所のない思いを味わう。
「お、お待たせ…致しました…」
ぺこりと頭を下げる。
「大丈夫ですよ、姉上。どうせテオドールがぐずったのでしょう? よく振り切って来られましたね」
「ちゃんと解ってくれましたよ。納得するのにも時間はかかりますが、きちんと理解はしているのですから」
「…さようでございますね。まさか、『いってらっしゃいませ』というご挨拶が出来るとは思っておりませんでした」
「幼いから解らないと決め付けて切り捨てるのは、愚の骨頂というものですよ」
にっこり微笑って嫌味をぶつけてみる。
それが嫌味だということを理解出来た風情の3人に軽く微笑みかける。
「それで、わたくしは如何すれば良いのでしょうか?」
「先触れは出してあります。では、兄上の隣に立ってくれますか?」
「こ、こうですか…?」
隣に立ってみると、意外に背が高いことに気づく。190くらいありそうだ。
あまり異性とくっ付く機会が無かった為どぎまぎしていると、いきなり腰を拐われた。
思わずきゃっと悲鳴を上げてしまい、フォルクハルトに呆れたように嗤われた。
「取って喰う気は無いぞ」
冗談めかした物言いに爪先を踏んでやろうとしたが逃げられてしまう。
「穏和しくしておいて下さいね、姉上。あまりそこでバタバタすると、違う場所へ飛ばされるかもしれませんよ」
ヴィンフリートの言葉に、恐怖に駆られて傍らのフォルクハルトにしがみ付く。
「それでは、送りますね」
ヴィンフリートの手が肩に触れたと思った瞬間、まるで、エレベーターが落下していくかのような衝撃を感じた。




