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柘榴と二本の電波塔  作者: これ
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【第8話】 Nisemono from Fifteen Pages





 開け放った窓から吹く風で、シーツが揺れている。テレビの音が空しく響き、こうしなさいと、私に告げているみたいだ。外では蝉がうるさく鳴いて、向日葵が咲き誇っているのだろう。私がそれをもう一度経験することは、おそらくない。この夏が、私にとっての最後の夏だ。そう思うと自分で自分が、いたたまれなくなる。


 せめて、一瞬でも長く太陽の光を浴びていたい。ゆっくりと起き上がり、点滴を押しながらエレベーターへ向かう。すれ違う病室の窓から、心拍計が波打っているのが見えた。私ももうすぐ胸に心拍計をつけられて寝たきりになるのだろうか。病魔は容赦なく私の体を蝕んでいく。


 多くの人が呼ばれるのを待っているホールを抜け、自動ドアから外に出る。出た瞬間に浴びる太陽の光は、曇っていた昨日とは違って、刺すように感じられた。病衣の隙間に、光が潜り込む。細胞に溶け出して、全身を巡るようだ。


 目の前には、男の子が一人立っている。Tシャツにジーンズという、飾らない格好だ。


「行こう」


 彼はそれだけ告げて、私の手を引っ張った。点滴台の車輪が、カタカタと音を立てている。


 私は変わってしまったが、彼は初めて会ったときと何も変わっていない。常に暖かい笑顔を向けてくれる。それだけが私の生きる糧で、何も縛られずに、どこまでも行くことのできる気分になるのだ。







「関、ちょっと来い」


 キーボードを叩く音が重なるオフィスに、編集長の声が響く。威厳のある低音は喧騒を突き抜けて、私の机まで届いた。コンピューターから目と心を離し、窓の前にある編集長の机に向かう。編集長は、肘を机について両手を組み、手の中に口元を隠すようにして座っていた。


「何なんだ、これは。説明してみろ」


 編集長の机に転がっているのは、十数枚の用紙。表紙には、『このまま二人で』と書かれている。三澤さんと何度も打ち合わせを重ねて完成した、十五ページしかないけれど、三澤諒渾身の作品だ。


「これは、三澤先生が再来月に出す、文庫用の書き下ろしですが」


「そんなことは分かっている。これは誰が書いたんだ、と言っているんだ」


 想定していた質問なのに、編集長の迫力は想定を上回っていた。目だけを伏せて、唇を引っ込める。


「木立君が、こんな酷いものを書くわけがないだろう。これを書いたのは三澤。そうだな?」


「その通りです」


「認めるのか……」


 右手で頭を抱え、何度か首を横に振る編集長。頭を数回掻いて、少し白みがかった髪の毛が落ちる。めったに見せない仕草に、室内もざわめき、私はその興味を一身に受けていた。


「いいか、今〝三澤諒〟についている読者は、木立君の小説についている読者だ。読者は木立君が書いた小説を、待ち望んでいるんだ。わかるな?」


「それは、はい」


「木立君の、高質な小説を期待している読者に、三澤が書いたこの低質な駄文を読ませてみろ。失望されるのは、火を見るより明らかだ。お前がやっているのは、読者に対する裏切り行為なんだぞ」


 編集長の眉間は狭まっていて、獲物を発見した肉食獣のような目で、こちらを睨みつけている。


「お前も少しは分かってくれよ。〝三澤諒〟は『柘榴』の人気作家なんだぞ。〝三澤先生〟の看板に、傷がついたらどうするんだ。見捨てられて、見放されて。雑誌や本が売れなくなって困るのは、俺たちなんだからな。それに売れなかったら、責任を取るのはお前なんだからな。仕事が回ってくる覚悟は、できているんだよな。それを承知の上で、三澤に書かせたんだよな」


 他を寄せ付けない目力に、浮かんだ言葉は、押し戻される。強力な結界を張っているかのようだ。それでも、今言わなければならない。今が、私を急かす。口を開かせる。


「なんでそんなこと言うんですか!別に三澤先生が書いたって、いいじゃないですか!」


「いい加減にしろ!これは、お前と三澤だけの問題じゃないんだよ!何度言えば分かるんだ!」


「三澤先生は木立さんの陰に隠れて、今までずっと書いてこなかったけど、また書きだしたんですよ!人生を懸ける思いで!作家を応援しなくて、何が編集ですか!」


「読者が必要としているのは、三澤よりも木立なんだよ!読者にとっては、木立こそが〝三澤諒〟の本物なんだ!読者を裏切るのは出版社として、最大の不実だ!偽者の三澤が書くことは、お前と三澤以外、誰も望んでないんだよ!」


 偽者。三澤さんが、偽者。


「なんですか、その言い方!確かに木立さんを本物とするなら、三澤さんは偽者かもしれません。だけど、偽者にだって、書く権利はあるはずです!偽者だって書きたいんです!書いて本物になりたいんです!編集長は見たくないんですか!偽者が、本物に負けないくらい輝く瞬間を!」


 オフィスが、水を打ったように静かになった。口論が止まった途端に、周囲はこれだけ沈黙していたのだと気づく。椅子を引く音さえ、バツが悪い。


「本当に、それが望みなんだな?どうしても、三澤に書かせたいんだな?」


 黙って頷く。


「分かった。お前を〝三澤諒〟の担当から外す」


 その態度はとても非情なものだった。覚悟はしていたけれど、現実のものになると、やはり辛い。体の底から悲観が込み上げてくる。駄目だったことを、三澤さんに何と言おう。


「おい、福原」


 編集長はそんな私をよそに、近くの福原を呼びつけた。中美先輩と入れ替わりでやってきた福原は、眼鏡の奥で不審な目をしていた。


「これ、萌芽賞に回しとけ」


 そう言うと、編集長は福原に原稿を手渡した。一ページも余すことなく。福原が、萌芽賞の応募原稿が収納されている棚に向かう。猫背が、大きく見えた。


「編集長……」


「思い上がるなよ。俺の主観だけでは判断に足りないから、より多くの意見を聞こうと考えただけだ。まあ、お前が望むような結果には、ならないと思うけどな」


「ありがとうございます……」


 いつの間にかオフィスには、普段と変わらない喧騒が、取り戻されている。電話は鳴り、人が盛んに行き来する。


 私はしばらくその場を動くことができなかった。頬を伝う感覚がある。悲しいのか嬉しいのか、もうよく分からなかった。だけれど、それでいいと思った。


 福原が肩を叩く。私は振り返り、自らの椅子へと戻るべく、歩き始めた。





「では、有賀泰史『グレープフルーツ』 は、残念ながら今回は、選外ということでよろしいでしょうか」


 『柘榴』の副編集長である吉越が言った。羽織るジャケットは一回り大きく、紺の縁をした眼鏡をかけている。毎月二十日に行われる萌芽賞選考会議には、陽燦社が出版している三部の文芸誌、その編集長と副編集長が招集されていた。全員が黙って頷く。今回の萌芽賞は不作気味で、ここまで八本の最終候補のうち、佳作は一本のみだった。


「では、次が最後の作品になります。三澤諒『このまま二人で』。こちらについて、まずは道岡から説明がございます」


「皆さん、どうして作家の〝三澤諒〟がこのような新人賞に応募したのか、不思議に思うかもしれません。これは〝三澤諒〟の本物、木立巧実が書いたものではなく、一般的に〝三澤諒〟と思われている彼自身が書いたものであります。今回、編集部の関から、どうしてもこれを、再来月刊行される文庫用の書き下ろしとして収録したいと。そう申し出がありました。私個人としては、これが〝三澤諒〟に求められる水準に達しているとは、到底思っておりません。しかし、私一人では判断出来かねると考え、この度の萌芽賞に回させていただきました。選考にあたって皆さんの忌憚なき意見を、どうぞよろしくお願いいたします」


 道岡が、再び席に座ると、押し殺したかのような沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、道岡の隣に座る馬場だった。上がった右手に視線が一気に集まる。


「私としては、あまり評価はできないですね。文体も幼稚ですし、構成も下手です。雑さも随所に見受けられる。萌芽賞の選考基準からすれば、他の作品と同じく、選外にすべきだと考えます」


 『天秤』の編集長である馬場の意見は辛辣だったが、一人が堰を切ったことで、会議室の空気は少し軽くなった。続いて口を開いたのは、多田川だった。髪を七三に分けており、糊の利いたワイシャツの襟が覗く。


「私も、馬場と同意見です。三澤諒はかつて萌芽賞に応募したこともありますが、当時と比べ、何も進歩していない。いや、むしろ長いブランクのせいで、退化した印象さえ受けます。私も選外にして、公表すべきではないと考えます」


「確かに、三澤諒がかつて応募してきたのは、七年前でしたか。〝三澤諒〟がデビューしたのが五年半前なので、もっと長い期間書いていないのは、間違いないでしょう。毎回応募してくる方もいる中で、これは失礼ですよ」


 多田川に続いて、二山も机の上の冊子に厳しい意見を述べた。道岡を含めて四人が反対派に回ったことで、ムードは『このまま二人で』を選外にする方向に、傾きつつあった。


「私は、そうは思いません」


 その言葉は、一番入り口に近い席に座る、麻績から発せられた。短く切り揃えられた前髪が、引き締まった印象を与える。


「三澤諒は、かつて萌芽賞の他にも、様々な出版社の新人賞に応募していたといいます。その意味で、彼は今回の応募者と何ら変わりはなく、同じ視点で評価すべきだと考えます。また、私は彼の作品が、クオリティでも劣っているとは、考えておりません。木立巧実と比べれば、至らない部分は多々ありますが、勢い、感性があります。このような作家を育てていくことこそが、出版社としての義務ではないでしょうか」


 『珊瑚』の副編集長である、麻績の口調ははっきりとしていた。だが、四対一では戦況が覆るはずもなく、


「応募の回数。かつて応募していたが、夢を諦めきれずに、長いブランクを経ての再挑戦。そういった要素は、選考に一切関係ないはずです。作品に対する評価を、最優先すべきでしょう」


 と、馬場からもっともな指摘を浴びせられていた。麻績は口ごもる。


「本当にそうでしょうか」


 吉越だった。不審な目で見られていることを、気にする様子もない。


「小説は人間が書いている以上、作者のパーソナリティが表出するのは、当然です。作者の属性と作品を切り離して考えることは、誰にとっても容易ではありません」


「一時の下らない感情で、評価するのは間違っていると考えます。作品に対する絶対的な評価が出来なければ、私たちがいる意味がないでしょう」


 二山が異議を唱える。だが、味方を得たことで勇気づけられたのか、麻績がさらに反論する。


「三澤諒は、何度も高い壁に跳ね返され続けた。諦めかけたが、今一度ペンを取って、再び挑もうとしている。これを応援したいと考えるのは、当然のことです。それに、きっと三澤諒のような人間は、多くいることでしょう。彼らに希望を与え、再びペンを取らせる。書き手の人口を増やすためには、三澤諒という新たなモデルが必要だと考えます」


「麻績さん、理想を述べるのは結構です。しかし、読者が求めているのは三澤諒ではなく、木立巧実。読者の失望を買って、部数が減ってしまったら、あなたの部署だって困る。あなたはそれを考慮していない。もっと現実を見てください」


「編集長、おっしゃる通りですが、私はそれは違うと思います。読者の前に、まず作家を考えるべきではないでしょうか。作家がいなければ、読者は存在し得ません。会社と作家が対立したら、作家側につけ。私は、あなたにそう教わりました。誰を本当に尊重すべきなのか、今一度原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか」


 室内は再び静まり返る。誰の声もなく、時計の秒針の音だけが鳴っている。


「吉越。一回、挙手で状況を確認させろ。このままじゃ埒が明かん」


 道岡が、吉越に小さく語りかける。吉越は椅子を引いて、立ち上がった。


「それでは、一度確認をいたします。三澤諒『このまま二人で』を、萌芽賞に選出すべきだという方は、挙手をお願いします」



(続く)



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