表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
柘榴と二本の電波塔  作者: これ
7/10

【第7話】 Yakiniku like a Jewel



一週間ぶりに戻ってきた四畳半の部屋は、藺草の匂いがした。電源が抜かれた炬燵を取り囲むようにして、本棚が設置されている。窓の向こうには幹線道路が見え、車の往来が止むことはなかった。ボーっと行き交う車を眺めて、車種を考えている俺は、ガラスケースの中の実験動物みたいだ。その奥には、赤いストローのような電波塔が立っている。大学時代、一人暮らしの部屋からも見えたそれは、かつては身の程知らずな夢の結晶として、俺を垂直に貫いていた。


 炬燵机の上に置かれたコンピューターに向かう。電源を入れ、立ち上がるのを待つ。久しぶりの起動にはしばらくの時間が必要だった。ワープロソフトを開く。画面は白紙に占められ、右上で黒い縦棒が点滅している。一定の間隔で繰り返されるサインが、心を急かす。


 書きたいことはあるはずだ。それなのに、いざ白紙を目の前にすると、書けなくなるのはどういったことだろう。適当にキーを押すと、無意味な文字列が画面に浮かぶ。意味もなくエンターキーを押し続けて、二ページ目、三ページ目へと進んでいく。それらを全部消して、座布団の上に手を広げて横になった。天井の照明が瞬いていて、紐がゆらりと揺れている。


 再び起き上がって画面を見つめてみても、書き出しが一向に浮かばない。狭い部屋の中を何往復も歩いて、頭に酸素を巡らそうとするが、息が上がっていくだけだ。コーヒーは、三杯目に突入している。どんどんと減っていくコーヒーパックが、文字に転換される気配はない。


 頭に浮かんだ文字列を一応は入力してみる。考えているうちは手応えがあっても、実際に文字にしてみるとさっぱりだ。単純に、面白くない。書いては消し、消しては書き。堂々巡りだ。コーヒーをもう一杯入れようと立つ。コンピューターから逃げた自分がいた。木立さんの言う通りだった。俺にしか書けないものなんてない。俺の手は、クオリティの低い廃棄物しか生み出さない。


 縋るような思いでスマートフォンを手に取り、連絡先の中からその人を選んで、発信ボタンを押す。呼び出し音が鳴るたびに、不安が増大していく。


 それでも、その人の声を聴いた瞬間、不安は水面下に潜り込んでいった。




 電話越しに伝えられたのは、耳にしたことのない住所だった。ホームが一つしかない駅を出ると、初めて訪れる街が、私を迎える。こぢんまりとした商店街があり、アパートが立ち並ぶ、個性に乏しい街だ。アーケードの奥に、蝋燭のようなぼんやりとした光が見える。拾ったタクシーの運転手は女性で、少しだけ話が弾んだ。幹線道路を一〇分ほど走り、脇道に入ってすぐにタクシーは止まった。車窓から見えるアパートは、白いタイルの壁がくすんでいて、新築というわけではないらしい。三〇年は経っていると直感した。


 チャイムを押すと、中から三澤さんの「開いてるんで、入ってください」という声がした。ドアを開けると細く短い廊下があり、へりを跨いで一段上がって、畳の部屋が見えた。ガスコンロの上に、やかんが置かれている。他の調理道具は見当たらない。


 入居したばかりのような廊下を通ると、三澤さんが、炬燵机の前で肘をついて、考えこんでいた。頭にはヘッドフォンをしている。声を掛けると三澤さんは、すぐに振り向く。外されたヘッドフォンからは、音楽は聞こえない。ただ周囲の雑音をカットするために、ヘッドフォンをしていたようだ。


 私は、三澤さんの置いた赤茶色の座布団に座る。三澤さんは自分の真横に座布団を置いたので、私たちの距離は、一メートルもなかった。息遣いさえ聞こえるこの距離は、刺激が強すぎる。にもかかわらず、私はそこから動こうとはしなかった。


「関さん、来てくれてありがとうございます」


「どうしたんですか。急に呼び出して」


 うっすらと呼びだした理由は、コンピューターの画面を一目見て、分かっていたけれど、一応聞いてみる。三澤さんは、伏し目がちになった。


「分からないんですよね」


「分からないって、何がですか」


「自分が書けるのかどうか。何を書いたらいいのか。いや、何が分からないかすら、分からないのかもしれません」


 三澤さんの唇は乾いていた。目は細くなり、コンピューターの画面を見つめている。一文字も書かれていない初期状態だ。


「三澤さんって今、何か関心があることってありますか」


「そうですね……。特にないかもしれないです」


「じゃあ、最近読んだ本で、面白かった本とか、観て良かった映画とか」


「最近読んで面白かったのは、須田屋貴彦の『殺人兄弟』なんですけど、ミステリーでかなり暗い話なんですよね。僕には、ミステリーを考えられる頭はないですし、書くのはちょっと難しいかなと」


「三澤さんは以前、新人賞に応募されていたと、おっしゃっていましたよね。そのときはどんな話を書いていたんですか」


「そのとき書いていたのは、ゴリゴリの恋愛小説とか、青春小説とか、いかにも高校生大学生が書きそうな話ですよ。何の個性もない、無味乾燥という言葉がふさわしい、駄作の束です」


「そうですか……。でも、昔の三澤さんと、今の三澤さんは違うんじゃないんでしょうか」


 三澤さんがこちらを向く。大きな瞳が、私の心を見透かしているみたいで痛かった。


「今の三澤さんの方が、より多くの本を読んだり、映画を観たりしていますよね。それに木立さんの小説だって読んでいるはずです。それが三澤さんの中に溜まっているとは考えられませんか。今の三澤さんの中には、貯金がたくさんあるんですよ」


「でも、長い間書いていないから、ブランクが……」


「三澤さんは、素晴らしい本や映画、芸術に触れた時、自分も何か作りたいなと感じることはありませんか?」


「それは、ありますけど……」


「私も触発されて、創作意欲を感じることも多いんですけど、でも何も作ったことがないんですよ。さあやるぞと机に向かった瞬間、意欲が急速に萎んでいって。考えていた話が、急に陳腐に感じてしまって。結局、何もできずじまいなんです」


「それは、今の僕だって同じですよ」


「いいえ、違います。三澤さんは短いとはいえ、小説を何本も書き上げている。その経験があるのとないのとでは、大違いですよ。三澤さんは、私とは違って、川の対岸にいる人なんです。そこに橋はかかっておらず、自分で乗り越えるしかない。三澤さんは乗り越えられたじゃないですか。どうか、今まで読んできたこと、見てきたこと、培ってきたことをぶつけてください。私は、三澤さんが見てきたものが、見たいです。三澤さんが感じてきたことを、感じたいです」


「僕が見てきたもの、感じてきたこと、ですか……」


 車の往来がまた聞こえるようになった。三澤さんは、少しうつむき、コンピューターを見たかと思うと、再び私の顔を見て、「ありがとうございます」と呟いた。その呟きが私にはとても心地よく、思わず破顔してしまう。釣られて三澤さんもかすかに笑う。


 窓の外では、揺れていた洗濯物が穏やかに静止していた。




 

「バーベキューと焼肉って似てますよね。どっちもお肉を焼いて食べる料理。でも、明確な違いがあるみたいで。知ってます?」


 私たちは七輪を挟んで座っていた。通された個室は、全体的に黒でまとめられており、重厚な雰囲気があった。


「屋外でやるか、室内でやるかですか」


「そう思われがちなんですけど、実は違うんですよ。バーベキューは、最初に全て焼いてしまってから食べるのに対し、焼肉は焼きながら食べるのが、大きな違いなんですって。だから、本当の意味でのバーベキューは、素人にはなかなか難しいかもしれないですね」


 三澤さんから電話があったのは、会社を出た直後だった。その電話は、展開に詰まって書けなくなったというものだった。私は、三澤さんが空腹なことを確認し、せっかくだから一緒にご飯を食べようと誘った。打ち合わせよりも和やかな雰囲気の方が、アイデアが生まれるのではないかと、閃いたからだ。口にして、すぐに自分が出過ぎたことを言ってしまったのではないかと、身を屈めたくなったが、意外にも三澤さんは、素直に応じてくれた。臆病になるくらい早い返事だった。


 私は、ビールを口に運ぶ。ジョッキの中はまだ泡立っていて、口に運ぶ度に、私の熱くなった喉は、冷たく癒やされる。三澤さんも少し遅れて、ビールを飲んでいた。普段あまりお酒を飲むことはないらしい三澤さんの顔は、二口目で既に紅潮し始めている。


 サラダを食べながら待っていると、主役が到着した。三澤さんはタン塩を頼み、私はハツを頼んだ。注文が食い違い、少し話し合った結果、どちらも頼もうということになったのだ。店員は二皿を机に置くと、私たちを交互に見て、ごゆっくりどうぞと、お辞儀をしてから去っていった。


「あ、私が焼きますよ。私がお誘いしたんですから。三澤さんはドーンと待っていてください」


 タン塩に箸を伸ばそうとする三澤さんの動きを遮るかのように、言葉の矢を放つ。三澤さんは、箸置きに箸を戻して、再びビールに手を伸ばしていた。香ばしい音と、静かな熱気と、柔らかな匂い。網の上で、お肉はきらびやかなコーティングをまとい、優雅に舞い踊っている。


「お肉を焼くときは、一回しか裏返してはいけない。これは基本なんですけど、タンは十五秒ぐらいすると、外側が反り返ってくるので、そこですかさず裏返す。ハツはあまり焼きすぎずに、中央にピンクを残す。こうすると一番美味しくいただけるんですって」


「詳しいですね。関さんってもしかして焼肉奉行ですか」


「いえ、友達がよく焼肉に連れて行ってくれるので、それで詳しくなった感じです」


 タンは焼けるのが早い。まず、三澤さんの皿によそってから、私の皿にもよそう。レモン果汁にさっとつけて口に入れると、あっさりとした肉の旨味が広がった。


 やがて、ビールは泡がなくなり、やや温くなった。網の上では、ハラミが焼かれている。「三澤さん、焼肉美味しいですか」と話しかけた。


「はい、美味しいです。でも、大丈夫なんですか。このお店、結構高そうじゃないですか」


「いや、とりあえずは大丈夫です。こう見えてもそれなりに貰っているので。それよりも三澤さん、ちょっと痩せました?」


 三澤さんの着ているパーカーに、いつもより皴が寄っている。頬もほんの少しだけれどこけてきていて、目の下には、はっきりと隈が見えた。


「確かに、あまり寝付けなくはなってきていますね。今日も四時ぐらいまで起きていましたし」


「やっぱりそうですよ。三澤さんは、多分疲れているんですよ。疲れているときは、美味しいものを食べて、たっぷりと寝る。これが一番ですよ。急がば回れ、です」


 私は、そう言って半分ほど残っていたビールを、一気に飲み干した。やがて出たゲップに、私たちは笑いあった。三澤さんの目は、笑うと赤ちゃんみたいにくりくりとする。その目が、私だけに向けられていることが、たいへん誇らしかった。しばらくして店員がやってきてカイノミを机に置いていく。赤身に細かく通った白い脂の筋が、鮮明に浮き出していた。




(続く)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ