【第5話】 Kanshou about His Novel
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「ほら、もっと愛想よく。口角上げて」
その日、木立さんは朝から張り切っていた。寝癖もしっかりと直し、眼鏡の奥の目は鋭い。俺が立っているだけで、ああしろこうしろとやかましくて、ストレスが溜まる。しかし、〝三澤諒〟に成りきるためには必要な役作りなので、しょうがない。俺は口答え一つせずに、木立さんに従う。
「お辞儀は三〇度、その時にときに腰は真っすぐ、一本の棒が通っているみたいに。目線は決して下げない。礼儀正しい所作で、相手に好感を与えるんだよ。そんなんじゃ、イメージダウンだぞ。〝三澤諒〟でいたいなら、書いてない代わりにこれくらい頑張れよ」
少しお辞儀をするだけで、これだから気が滅入る。テレビに出るようなマナー講師だって、その裏では、こんなにとやかく言ってこないだろう。
言われるがままに、背筋を伸ばす。顎も上がり、目線も前を向かざるを得ない。心の蓋がストンと落ち、ポジティブを押し売られているかのようだ。見たくないものまで、見えてしまう。
「まぁ、まだまだだけど時間がないからな。次行くぞ」
八時から始めて、三時間は経っているというのに、それでもまだまだとは。肩を落としたくなる。だが、背筋が曲がると、木立さんに注意されるので、歯を食いしばることで、不満を押しとどめた。
「次は受け答えの練習な。はい、ファンが目の前にやってきました。緊張しているファンに話しかける言葉は」
『僕も会えて嬉しいです』
「ファンが本を出してきました」
『お名前は、何とお書きしましょうか』
「サインを貰って、感動するファン。興奮して感想を伝えてきました。そのときの反応、三つ」
『読んでもらえて嬉しいです』
『それはなによりです』
『これからも頑張ります』
「ちゃんと覚えてるな。まあ困ったら、『ありがとうございます』って言っとけば、大丈夫だから。憧れの先生に感謝されて、不快に思う人間はいないからな。そのときも目線は外さない。いいな」
木立さんが近づいてきて、肩を叩いた。温い感触はあったが、確認することはできない。落ち着いた調子で続ける。
「今回も頼むぞ。くれぐれも、〝三澤諒〟のイメージを落とさないようにな。お前だって今の人気を手放したくはないだろ。本が売れるかどうかは、お前の振る舞いに懸かってるんだからな」
木立さんはそのまま玄関をくぐり、部屋から出た。俺は部屋の中央から少し外れた場所で、呆然と立ち尽くす。エアコンの音が耳を澄まさなくても聞こえて、うるさいけれど何もしない。窓から臨む眺望は晴れた空とともに完璧すぎて、思わず目線を落としてしまう。規則正しいフローリングの木目が、自分の見たかったものなのだろうか。いや、そもそも何が見たかった。
失ってしまった記憶を探していると、ドアの開く音がした。木立さんの、いかにも機嫌のいい声が聞こえる。控え室から退出するかのように、俺もその部屋を後にした。
ドミノのように整然と並べられだ本棚に、カラフルな装丁の本たちが、一列にしまわれている。天井は高く、LED電球がフロアを満遍なく照らす。乾いた匂いは、購買を決めかねている人間をその気にさせるようだ。ターミナル駅から徒歩三分という立地の良さもあり、普段から多くの人で賑わっている書店だが、この日は特に人が多い。
正面入り口から入って右奥に空いているスペースに、長机が置かれ、机の上には真っ白なシーツがかけられた。左端には〝三澤諒〟の新刊『アンゼラスの鐘』が、ブックスタンドに斜めに立てかけられている。
長机の向こうには、三澤さんが座っている。椅子も、安上がりのパイプ椅子ではなく、しっかりとしたオフィスチェアーだ。三〇人ほどが並ぶ列は、奥の本棚で直角に折られている。並んでいるのは女性が中心で、女子高生らしき子から、妙齢の婦人まで、年齢層も幅広い。この中の何人が〝三澤先生〟ではなく、三澤さんのファンなのだろうとふと考える。
〝三澤先生〟のサイン会は、その場で買った本のカバー裏に、サインをする方式だったので、本を買わなければサインを貰うことはできない。本が売れるに越したことはないけれど、買ったからにはちゃんと自分で、最後まで読んでほしい気もする。
列をちらちらと見て、その先にいる木立さんの顔色も確認しながら、私は自分の仕事を続ける。列の整理は、書店員さんがしてくれるので、私の仕事といえば、三澤さんの横に立って、長く話し込んでしまう人に、それとなく遠慮してもらうように伝える、いわば「剥がし」と呼ばれるものくらいだ。入社してから、このようなサイン会は初めてだったけれど、ここまでは皆、良識のある人たちだったので、つつがなく運営できていた。
「ありがとうございます!大事に読みたいと思います!」
「こちらこそありがとうございます。よければご家族やご友人にも、勧めてみてくださいね」
定型句を嫌な一つ顔せず出力する三澤さん。決して笑顔を絶やさないその姿に、プロ意識を感じたが、リモコンで動かされる、旧型のロボットのようにも見えて、少し切なくなってしまう。
「次の方どうぞ」
前に進み出たのは、まだ若い女の子だった。スカイブルーのワンピースを着ていて、服の上からでも、細いウェストがまざまざと分かる。ローヒールのパンプスとともに、あえかな印象があった。
「はい。あの三澤先生、今日はお会いできて嬉しいです」
「僕も会えて嬉しいです」
三澤さんは優しく微笑む。僅かに下がった目尻が魅力的で、誰しもを虜にしてしまうから、三澤さんはずるい。
「三澤先生、こちらにサインをお願いします!」
「お名前は何とお書きしましょうか」
「カヤマリコでお願いします。漢字は、名字が人偏に土が二つ。山は普通の山で、名前が瑠璃色の璃に、子供の子です」
「佳山璃子さんですね」
三澤さんの走らせるボールペンの滑る音が、喧騒の中でもちゃんと聞こえた。
「はい、璃子さん、できましたよ」
いきなり名前で呼ぶとは。三澤さんは、自分のことをよく分かっている。あのときの木立さんみたいな無礼さがない。言葉は発する人間によって変わる。それは残酷なことでもあるけれど。
「ありがとうございます!私、三澤先生の本、いつも大学の空き時間に読んでます」
「ありがとうございます」
「三澤先生の本、とても面白くて。講義に遅れそうになることもよくあるんですよね」
「読んでもらえて嬉しいです」
「私、特にデビュー作の『カメレオン・フラジャイル』が好きで。もう五〇回くらい読みました。だけど、何回読んでも、泣いてしまうんですよね」
「それはなによりです」
「私、昔から友達がいなくて。皆が周囲に馴染んでワイワイしているときに、私はいつも教室の隅で、机に突っ伏していて。ああ、なんで生きているんだろう。もう生きていてもしょうがないなと思ったときに、偶然この本を読んだんです。主人公のリコの、必死に周りに馴染もうとする姿が、自分と重なって。一人だったリコが周囲の人たちに助けられて、生きていく様子に、『私にも、優しくしてくれる人がいるかもしれない』ってそのとき、初めて思えたんです。もしかしたら、私も生きていていいのかなって。気づいたら、泣いていました。今でもよく読み返しては、元気を貰っています」
佳山さんが顔を覆ってしまった。手の隙間から、こぼれるものが見受けられた。後ろで待っている人たちがざわめき始める。
三澤さんの頭はうつむいていて、覗き込むと、目が左右に泳いでいるのが分かった。唇が前後に動いて、言葉を出そうとしているが、机を挟んで聞こえるのは、佳山さんのすすり泣く声だけだった。
「これからも頑張ります」
いたたまれなくなって、二人から視線を逸らすと、奥の本棚の前で、木立さんが顔をしかめているのが見えた。何泣かせているんだと言いたげな顔で。こちらの会話は、聞こえていないらしい。
「今の私があるのは、三澤先生のおかげなんです。どうかこれからも、三澤先生にしか書けない物語を、書き続けてください。私のような者が言っていいのかどうか分からないですけど、これからも頑張ってください。応援しています」
そう言うと、佳山さんはサイン本を手に取って、階段へと歩いていった。足早に過ぎ去っていったので、姿はすぐ見えなくなり、神妙な空気だけを私たちに残していた。次の人も三澤さんの前に、いっていいのかどうか迷っている様子で、本を手に首を何度も振っている。
三澤さんはしばらくうつむいたままでいたが、口を一瞬固く結んだかと思うと、ゆっくりと顔を上げ、また笑顔を作った。その笑顔からは爽やかさが、何物かに変換されている印象を受ける。こちらにアイコンタクトをしてきたので、私は「次の方どうぞ」と告げた。
渦巻く感傷を残して、広い本屋の片隅でサイン会は続いていく。
(続く)