【第4話】 Tsuisou with Water Church
勾配の急な石段を登りきると、白亜の教会が、目に飛び込んできた。一目見ただけで圧倒され、見上げると自然、背筋が伸びる。目が覚めるくらい白く、格子状の模様が刻まれている。尖塔の頂点に掲げられた十字架が、太陽の陰になっていて、鈍い灰色に見えた。奥行きがあり、威風堂々を地で行く有様だったが、悲愴も色濃く残っている。三つある入り口のどれからも、威厳のある内装が認められた。教会を前にした私はちっぽけで、ままごと遊びに使われる着せ替え人形みたいだ。
周囲をぐるりと回ってみる。どの角度から見ても教会はこの上なく象徴的で、禁教令が解かれた後の殉教者の万感が、強く感じられる。高台には、椿の木が双立していた。常緑樹ということで青々とはしている。しかし、実を落としてしまっていて、こちらを見る様子もない。
聖堂に一歩足を踏み入れると、新雪のごとき真白のイメージが、私の体に浸透した。一段と茶色が濃い祭壇の頭上には、十字架に磔にされたキリスト像。両脇の長円形の窓からは、柔らかな光が降り注ぐ。祭壇へと続く身廊は、年季の入った赤いカーペットに彩られ、背もたれに空洞がある長椅子たちが、膝をつくように並んでいた。
天井は、コウモリが羽を広げたような曲線がいくつにも連なっていて、左右にクローバーの模様が見える。幾何学模様のステンドグラスからは、日光が彩度を保持したまま差していて、無機質な光が感情を手に入れたみたいだった。柱の中腹には、薔薇や白百合、椿や柘榴など様々な意匠が施されている。
まさに息を呑むほど美しく、普段感じえない神秘に包まれた。天井が高いため、屋内であるのに閉じこめられるような感覚は一切ない。長椅子の間で、オレンジ色の扇風機が回っているのでさえ、神からの啓示のように思えてしまう。
堂内には私達しかいないのに人の気配がするのは、きっと今朝にミサがあったからだろう。ミサの厳粛な空気はまだ聖堂を巡っていて、大きく息を吸い込むと、映画で観た祈りのシーンが思い浮かんでくる。中央右のパイプオルガンから、穏やかな熱がかすかに放出されていた。
観光協会のホームページによると、堂内での写真撮影は禁じられている。ということは、教会の光景はこの目に刻むしかないのだ。瞳の奥のフィルムに、反映した景色を現像することができないことが悲しかった。
気づくと、私たち三人は別々に動いている。三澤さんはステンドグラスをじっと見つめており、木立さんは、天井を見上げてばかりいる。私はというと、壁の聖画を凝視していた。聖画は全部で一四枚あり、キリストの捕縛から磔刑、埋葬までを描いている。復活の一五枚目は、祭壇に祈るためにないそうだ。
聖画は左手前から奥に七枚。右手前に戻り、奥へともう七枚があった。最後の聖画を見終えた私は、祭壇の前まで歩いて、長椅子に腰かける。身廊に近い端に座り、斜め前の祭壇に思いを馳せていると、三澤さんが、身廊を挟んで反対側にある長椅子に座った。二人を隔てる身廊は、深い峡谷のように感じられる。
「関さん。この教会いいですよね。しゃんとするというか」
「そうですね。とても厳かで、綺麗で素晴らしいと思います。非日常という感じですけど、教徒の方々は、ここへ来ることが日常なんですよね。少し羨ましくも思います」
「そうですか。僕は弾圧されてきたキリシタンの歴史を感じて、身が引き締まる思いがですけどね」
「あ、それは私も感じました。しっかりしなければいけない空気がありますよね」
私が背筋をすくっと伸ばすと、三澤さんも追って背筋を伸ばした。その様子が滑稽で、自然に笑みがこぼれた。
「ところで、木立さんはどうしたんですか」
「木立さんなら、外に煙草を吸いに行きましたよ。聖堂は禁煙ですからね。苦そうな顔してました」
木立さんが煙草を吸う姿を想像する。長く太い指に挟まれた煙草はとても窮屈そうだ。吐き出す煙は、島に吹く潮風に溶けていくのだろう。表情は?満足そう?それとも、寂しげ?
「三澤さんって、木立さんと知り合ってから、どれくらいになるんですか」
突拍子のない質問にも、三澤さんは笑顔で答えてくれる。けれど、その表情にはやりきれなさのスパイスが、振りかけられていた。
「もう六年か七年くらいになりますね。大学の文芸サークルで知り合ったのが、最初です。その頃から、木立さんの書く小説は面白くて。サークル内でも、ダントツでしたね。下の下をさ迷う僕とは違って」
「三澤さんは、ご自身で小説をお書きになったことは」
奇妙な間。しじまが教会の持つ厳格さによって増幅される。三澤さんは視線を落とした。
「壁、なんですよね」
「え?」
「高く分厚い壁なんですよ。叩いても叩いても、手応えがない。あるはずの向こうが、想像できないんです」
あんなに高かった天井が、今は下がってくるような気がした。静かだと、何にも阻害されないが、消えてほしい言葉も、消えてはくれない。
「もちろんありますよ。文芸サークルは、何かが胸に突っかかっていて、それを書くことで、消化する人間の集まりですからね。僕も何作か書いていました。でも、僕の書く小説って、人気ないんですよ。学祭で展示しても、読まれるのは主に木立さんで、他の部員にも少しはいるんですけど、僕のところにはゼロ。負のオーラみたいなものが、滲み出ているんでしょうね」
「いや、そんなことは……」
「僕もですね、あちこちの新人賞に応募していた時期があったんですよ。何を勘違いしてか。関さんのところの萌芽賞にも、応募したことあります。でも、結果は全て落選。担当さんさえつくことはなかった。ある人は『今まで壁を九九回叩いて壊せなかったとしても、次の百回目で壊れるかもしれない。だから叩き続けろ』って言っていましたけど、そんなの絵空事ですよ。ヒビすら入っていないんですから」
暗澹とした長椅子。磔のキリスト。励ましの言葉が見つからない。
「三澤さんは、今も小説をお書きになっているんですか」
「僕みたいな人間がいくら書いても同じですよ。駄作に駄作を重ねるだけです。自分でも読んでいられないものが、人様に読んでもらえるわけがない。最後に書いたのはいつだったか、もう忘れてしまいました」
探し出して、ようやく見つけた質問も、あっさりと斬り捨てられてしまう。無力感に苛まれて立ち去りたかったが、それで三澤さんには何が残るというのだろう。
私にできることなんて、ただ傍にいることぐらいだ。何も言わずに、全てを吸収するつもりで。
「リョウー、アヤカちゃんー。もう行こうや。そろそろ旅館のチェックインの時間だぞー」
木立さんのあけすけな声が、このときばかりは頼もしく聞こえた。三澤さんは立ち上がり、木立さんの方へと向かおうとする。私も立ってそれを追う。三澤さんは出口の前で立ち止まり、バッグから財布を取り出して、千円札を献金箱にそっと落とした。その後ろ姿が猫のように小さくて、胸の奥が締め付けられる。私も同じように、千円札を献金箱に入れた。
外に出ると、西に傾いた太陽が、感情のない光が、私を猛然と照らしていた。
空は少しずつ藍色を深めていく。日も落ちたというのに、ジリジリと鳴る蝉の声が喧しかった。ターミナル前とは違って、ここ一帯の家は、木造であることがありありと分かるぐらい、外壁が潮風によって艶を失っていた。
灰色が目立つ家の上部に提灯が飾られていて、白熱灯が恥ずかしげに瞬く。今ここでしかお目にかかれない光景に、思わず頬が緩んでしまう。年に一度でも、毎年繰り返していれば、日常になる。私達とは異なる日常に触れられることは、とても幸甚なことだ。
辺りの民家の軒先に、即席の屋台が出ている。焼きそばやりんご飴を販売していて、住民が集まっていた。木立さんはその間に割って入り、三五〇ミリリットルの缶ビールを、三本買ってくる。三澤さんは運転係だから飲めない。ということは、木立さんは、一人で二本は開ける算段のようだ。
提灯の間を抜けると、港に出た。提灯が並ぶ街道の終着点ということもあり、人がより集まっていて、浴衣たちが夜光虫のように飛び回っている。スマートフォンであちこち写真を撮っている外国人がいた。私たちと同じ旅行者だろうか。対抗意識を感じて、私もスマートフォンを取り出す。その前を子供が走って横切っていく。茶目っ気に溢れた一瞬に目を丸くしたが、両隣の二人はにこやかに笑っていた。熱帯夜を吹き飛ばすような、爽快さだった。
穏やかに波を立てる海をバックに、簡易テントやステージが設置されている。ステージの後ろには紅白の幕が張られており、その上では演歌歌手が、こぶしを利かせた歌唱を披露していた。地名がふんだんに盛り込まれた、いわばご当地ソングである。きっと毎年来ているのだろう。最前列では白髪の老人が一緒に朗らかに歌っていた。木立さんも既にビールの缶を開けていて、一緒に手拍子をしている。一応、取材旅行なのだが。
一通りテントを見て、地元の方に話を聞いていると、あっという間に、空から青はなくなって、完全な夜になった。メモを取る手が、甲高い鉦の音に止まる。その音はステージの方からしていて、見るとパイプ椅子が並ぶ後ろで、なにやら人だかりができていた。
近づくと、黒のインナーの上に白襦袢を着た人たちが、円形に並んで歩いていた。肩から桶胴太鼓をぶら下げていて、頭に紫の布を被っていた。布の上に紙でできた花や、吹きおろしが誇らしげに顔をのぞかせ、笹と思しき植物が頂点で栄えている。また、腰から下には細長い草が、ロングスカートのように垂れ下がっていて、祭壇にも似た奇妙さが感じられた。
三拍子で鳴る鉦に合わせて、バチで桶胴太鼓を叩きながら歩く。動きは平坦だったが、祈りを捧げるような、奇特な空気を放っていた。その動きが珍しく、一人で写真や動画を撮っていると、頬に冷たいものを感じた。横を見ると木立さんが立っていて、私に缶ビールを突きつけてきている。ラベルを見ると、先程の物とは銘柄が違っていた。
「よっ、アヤカちゃん。一人で何ボーっと見てるの」
「別に、ボーっとなんかしていません。小説の参考になればと思って、記録に残してたんです」
「そ、ありがと」
そんなことより、と木立さんに勧められるまま、缶ビールの蓋を開ける。そのまま口に運ぶと、乾いていた喉や胃をビールが潤してくれるので、気持ちがよかった。
「三澤さんはどこにいるんですか」
「ああ、リョウなら、あっちで見てるよ」
木立さんが指差したのは、反対から少し左に逸れた方。そこには三澤さんが一人でポツンと立っていた。熱帯夜に押されて、背が少し屈んでいる。踊り手の合間に、途切れ途切れに見える三澤さんの顔は、遠かったけれど目元が心許なく、視線が合うことはない。
「木立さんって、三澤さんとは大学時代からの、付き合いなんですよね」
「俺がリョウの二個上。出会った時からアイツ、いつも俺を頼ってきて大変だったよ」
踊り手が自らも回転し始めた。鉦のテンポが上がるにつれて、桶胴太鼓を叩く音にも力強さが宿り、回転の反動で腰元の草が、重力に逆らって浮かんでいく。円の中央にある胴型の提灯が、彼らを照らしていて、仄かながら、見る者を離さない力強さがある。
「自分の名前で書かないんですか」
木立さんはビールを飲む手を止めた。時間を規定する難しい名前の原子が、私たちを凝視している。視線は真っすぐ前に向いていた。
「木立さんほどの力量があれば、自分の名前で書いたとしても、売れると思うんですけど」
「本でさ」
木立さんの声がスイッチになり、世界は再び動き出す。
「本で帯ってあるじゃん。あれってコメントよりも、そのコメントを出した人の名前の方が、大きく書かれてるんだよな。読む人もまず名前を確認してから、コメントを見るようになってる」
「確かに……」
「映画のホームページにあるようなコメントも、時間がないときは、名前だけを追っていって。『あの人がコメントを出しているから、この映画面白そう』って。それで満足してさ。みんな何が書かれているかより、誰が書いたかの方が、大事なんじゃねぇか」
「そうですかね……」
「そうなんだよ。俺が自分の名前で書いても、多分デビューはできてると思う。でも、今ほどは売れていない。間違いなくな。今、〝三澤諒〟が人気作家でいられるのは、三澤のルックスのおかげなんだよ。アイツが顔出しすることで、ファンができてるんだ。〝三澤諒〟というアイコンへのファン」
断言する口調に返す言葉もない。私が〝三澤諒〟を知ったのも、三澤さんがファッション雑誌に載っていたことがきっかけだ。雑誌の中の三澤さんは、サマーカーディガンをすらりと着こなしていた。
私が最初に興味を持ったのは〝三澤諒〟ではなく、三澤さんだ。
「〝三澤諒〟としていた方が、結局売れるんだよな。やっぱり売れなきゃ、やっていけねぇし。俺は文才を、アイツは恵まれた容姿を、それぞれ最大限に生かしてる。それだけだよ。今以上に売れる方法があったら教えてほしいね」
目の前の踊り手は、祈りにも似た念仏を、闇夜に捧げている。踊りは激しくなっていき、迸る気力が、彼らをドームのように包んでいた。肌に触れる熱風は、収まることを知らない。じっとりと汗ばんでいき、乾いた裾で額を拭った。
見上げると、花火が文字通り、夜空に満開の花を咲かせている。音が大きいねと二人で笑いあう。そんな寸劇みたいなことはなかった。そこにあるのは、黒く塗りつぶされた空。雲に覆われていて、星々を眺めることはできない。現実が、私の首を絞めつける。開けたビールももう飲む気にはならず、ぶらんと垂れ下げた腕に汗がまた一筋、滴り落ちていく。
三澤さんが、どこかに立ち去っていくのが見える。人混みに阻まれて、追いかけることは叶わない。
(続く)