【第3話】 Miharashi of Sandy Beach
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間もなく港に到着することを知らせるように、汽笛が二回鳴る。船内から甲板に出ると、水面に日光が反射して、波がパステルカラーにはためいている。ウミネコが波の間際を滑るように飛ぶ。
出発してから飛行機で二時間、空港からバスで四十分、港から島へは三時間かかったので、合計で六時間ほど費やした計算になる。空港から直行便も出ていたけれど、「ドラマがない」という木立さんの発言で、却下となった。フェリーの半分の時間で行くことができる高速船に乗らなかったのも、同じ理由だ。
タラップを一段一段ゆっくり降りて、フェリーターミナルに入っていく。チケットを切ってもらって、建物の外に出ると、海岸線に沿って家々が並んでいるのが見えた。もっと潮風で、塗装の落ちかかった木造の家を想像していたけれど、目の前に並んでいるのはモルタルやサイディングの家がほとんどだ。正面の土産屋が、辛うじて歴史を残しているくらいで、これでは都市部と大差ない。
それでも、木立さんは愛用している一眼レフで、次々と写真を撮っていた。私も一応、スマートフォンを取り出す。三澤さんは特に何も取りださず、辺りをキョロキョロと見回していた。
私達は、ターミナル近くでレンタカーを借り、しばらく道路を走らせることにした。高層ビルに押しつぶされそうになる都市部とは違って、ここには、目の眩むような高い建物はない。空との距離も、心なしか近く感じる。左手を山々が通り過ぎていく。見慣れた人工の緑色ではなく、総天然色の深緑だ。葉の一枚一枚が日光を浴びる喜びに、打ち震えて輝いているように見えた。
右手には海が広がっている。コバルトブルーの海面に、水平線が溶け出していて、空との切れ目を曖昧にしている。寄せる波も穏やかで、オルゴールを聞いているかのように心地よい。窓を開けて手を伸ばすと、潮騒が柔らかく撫で、私を迎え入れてくれる。私に拒否権はなく、手を握ると湿った夏の匂いを、瓶に入れて留めることができそうだった。
三〇分ほど車を走らせると、砂浜に水着の人々が、点在しているのが見えた。並び立つビビッドなパラソル。真っ白な日差しを浴びて、海に向かって飛び出す子供の姿が眩しかった。
木立さんはすぐさま運転している三澤さんに車を停めるように指示する。駐車場はほとんど埋まっていたが、幸運なことに砂浜へと向かう階段から二列目に空きを見つけることができた。
車のドアを開けると、それまで顔や手にばかり当たっていた海辺の空気が、私の全身を優しく包み込んだ。濃厚な潮の香りは鼻を突き抜けて、神経をあっという間に伝い、私の脳を力強く揺さぶった。待ちきれないのは私も同じだ。寄せては返す波の音が、その一定のリズムが、早まっていた心臓の鼓動をフッと緩めてくれる。
波打ち際はコバルトブルーよりも、もう少し淡い浅葱色。空まで所有してしまいそうな海岸線へと、青色がグラデーションのように移り変わっている。その変化は力強い断定で、どうしようもなく自信が出てくる。
砂浜は太陽の光を吸い込んで、熱気を帯びる。海というステージに連なるサンドカーペット。間近で見てみると、一粒一粒が本当にきめ細かく、星屑のようだ。気分が盛り上がってしまい、無意識のうちにスニーカーと靴下を脱いでいた。恐れることを知らずに踏み出した右足を、即効性のある熱さがひっぱたく。想像以上の熱さにびっくりしたけれど、三澤さんも木立さんも私を見て、堪えきれずに笑いを漏らしていた。私も釣られて笑ってしまう。白い砂の粒が、くすぐったい。
三人で少し砂浜を歩いて、腰を下ろす。スキニー越しだと砂浜の熱は床暖房みたいで、とても暖かいけれど、三〇度を超えたこの日では、ただただ暑さが増すだけだ。
辺りを見回してみる。波打ち際ではしゃぐ親子。板状の浮き輪に寝転がって、日差しを浴びている十歳ぐらいの男の子。海を背景にスマートフォンで、自分たちを撮影するをするカップル。薄いうろこ雲。岬に栄える緑。空と海の境界線。昨日を遠い昔にするような景色。明日を感じている横顔。
「こういうところを、舞台にしたいよな」
しみじみと言う木立さんを、私は初めて見た。
「主人公とその友達、ヒロインが海ではしゃいだり、しっとりしたりしてんの。ティーンエイジャーだよな」
「木立さん、構想、浮かんできました?」
三澤さんの〝木立さん〟という呼び方は、相変わらずよそよそしいけれど、人懐っこさも感じるから不思議だ。
「ああ。おぼろげだった輪郭が、少しは濃くなってきた感じがするよ」
「来て正解でしたね」
「まだ分からないけどな。これからの取材次第だ」
それから一〇分ぐらいは誰も何も言わなかった。眼前に広がる優美な情景に、ただ身を委ねていたのだ。時間が濃縮されて、過ぎていく。
「そろそろ何か食べたくないですか」
私だった。思えば朝おにぎりを二個口にしたぐらいで、ここまで何にも食べていない。空腹になるには、もう十分すぎるほどの時間が経っている。
「そうだな。腹も空いてきたことだし、近くで飯にするか」
木立さんが立ち上がって、車に向かって歩いていくと、三澤さんが次に立ち上がり、最後に私がその後をついていく。ふと、振り返ると、景色は私たちが来た時と何も変わっておらず、白波が砂浜をさめざめと濡らしていた。カメラに頼らなくても、一瞬をこの目に焼き付ける。私が記憶することで、何かを〝三澤諒〟に、還元できるかもしれない。
じっと見入っていると、やがて背後からエンジンのかかる音が聞こえ、私は階段を駆け上がった。
車を走らせていると海老色の暖簾が目に留まった。そこは定食屋で、入店したときには、もう一四時を過ぎていた。真正面で、手ぬぐいを頭に巻いた初老の男が一人、鍋を振っている。入り口のすぐ横のサインはローカルタレントだろうか。木製のテーブルの上にメニューはなく、黄色い紙に黒い字のメニューが、壁にいくつも貼りついていた。
私達の他には常連客らしき白髪の男が一人いて、店員と思しきエプロンを着た女性と、仲良く話し込んでいた。どうやら夫婦で経営している定食屋らしい。
木立さんは席に着いてすぐ、とんかつ定食にすると言った。プラス一〇〇円で、ご飯の大盛りもつけるらしい。私はしばらく迷って、焼き魚定食を選んだ。島に来たからには、海のものを食べねばならないという使命感が働いた。三澤さんは私以上に迷ったあげく、結局どこでも食べられそうな、きつねうどんにしていた。
木立さんが手を上げても、女性はこちらに背を向けて、常連客と他愛のない話を続けている。漏れ聞こえてくる内容は、三丁目の大野さんがどうのとか、余所者にとってはどうでもいい話ばかりだ。木立さんが「すいません」と声を上げると、ようやく気付いたようで、給仕口に伝票を取りに戻ってから、私達の席に注文を取りに来る。置いていかれた伝票は達筆すぎて、あまり読むことができなかった。
注文を終えたはずなのに、女性はまたすぐに給仕口を離れて、私たちのところにやってきた。常連客の「ちょっと、タエコちゃん」という声を、気にも留めていない。よほど暇を持て余しているのか、それともかなりの話好きなのか。
「わっだ、どっから来っと?」
「東京から来ました」
こういうときに、私たちを代表して答えるのはいつも木立さんだ。
「東京さ!そいは遠か。どっして来っと?」
「飛行機で本土の空港まで行って、そこからバスとフェリーですね。六時間くらいかかりました」
「そげんかけて。まっと早く来られっとに、わっだも好いとうね」
「いやいや、フェリーから見る海も、綺麗でしたよ。ウミネコも飛んでましたしね。それにフェリーのエンジン音を聞いていると、なぜかワクワクするんですよ」
「そっはよかと。とこんで、そっちのジャケットを着たアガ。どっかで見たことあんような……。気のせっかいな」
タエコさんが、三澤さんを見て、首を傾げる。首筋に皴が寄っていた。三澤さんは、恥ずかし気に笑ってみせる。
「あ、思い出った。アガ、作家の〝三澤諒〟ね。こん前、雑誌で見たとよ。誌面で見んよりイケメンやね。かっこよか」
「お気づきになりましたか、お母さん。こちら作家の三澤先生です」
「あっぱよ!あん三澤先生が来てくれんて!あんがたいね。え、じゃあこけへは、取材かなんかか」
「まぁ、そんなところです」
三澤先生の言葉に、熱はこもっていなかったけれ
ど、タエコさんは十分上気している。言葉が矢継ぎ早に飛んでくる。
「やー嬉しか。ウチのよかっとこ、ざーま書いてくれんねー。で、アガは?」
「私ですか。私は三澤先生の担当編集の、木立と申します。そして、隣に座っているのが同じ担当の関です」
「こ、こんにちは」
「あっぱよー、こん子もみじょかー。お人形さんのがっちゃー」
聞き取れたのはお人形さんという言葉。今まで生きてきて、言われたことがない言葉。決して悪くはない容姿だと自分でも思うが、正面から褒めてもらえると、存外に嬉しくなる。きっとタエコさんは、普段から人を褒め慣れているのだろう。言葉に裏表がない。
「ありがとうございます」
「よかー、よかとよ。こがん若か子たっに会うん、久っぶりだけん、嬉しかよー。ゆっくりしとっとね」
「あの、ちょっと聞いていいですか」
「なん?」
「この島でお勧めのスポットって、どこかありますかね。僕ら、あまり下調べをしないで、来てしまったものですから、どこに行ったらいいのか、よく分からなくて」
「そっね、やっぱいここん来たら、教会ば行っておった方がよかよ。建物は厳かだし、中に入っと、ステンドグラスば神秘的ばい。そいに、こん土地は場所柄、もともとキッシタンば多して。江戸時代って禁教令でキッシタンの人たちんば、弾圧ば受けとったじゃなか。そん歴史ば知っとためにも、教会へは、来るべきよ」
想像通りというか、そこは私たちが、これから行こうとしている場所だった。先程の道を、車で十五分ほど戻れば、教会に着くはずだ。
「教えてくれてありがうございます。教会ですか。そうですね、食べ終わったら行ってみます」
「こっちこそ。で、三澤先生。オイ、あん読んだとよ。『夢うつつ』。あん最高だったと。なんがよかったっとね……」
「もーしー、料理ばできとるぞー。運んでくれんー」
給仕口から、針金みたいな細い声がした。振り向くと、木立さんのとんかつ定食が、用意されている。タエコさんは「んじゃ、ぎばってね」と言って戻っていき、とんかつ定食が届けられた。衣が粒だって、輝いて見える。
間もなく焼き魚定食ときつねうどんも提供されて、私達は七時間ぶりの食事にありつくことができた。鯖の表面に茶色い焦げ目がついていて、箸を入れると、簡単に身がほぐれた。一口食べると鯖の油が私の舌を軽やかに刺激する。顔を上げると三澤さんが、出汁の染み込んだお揚げを頬張っている。気がつくと、目を奪われている自分がいた。私もきつねうどんにすればよかったと、少し真剣に考えながら。
(続く)