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羅情門

作者: 朝馬手紙。


 本当のことを言うと寂しくて堪らない。でも、それはしないと決めた。

「受け取れない」

 僕の手には辞表が握られている。それを君は拒んだ。

「いいえ、僕は辞めます。サヨウナラです」

「だから、受け取れない」

 処女の雇い主は聞き入れてくれない。でも彼女は受け取る。受け取らざるを得ないことを僕は知っている。なにせ、ここは地獄。平安の都と言っていた昔が懐かしく感じてしまう。今や、生き物の姿をして歩いているのは野良猫、野良犬、蛆虫くらいだ。

 そんな中で一人の人間を雇うだけでも大変な苦労をしてしまう。目の前の雇い主さんは悲しい目で僕を見る。グイグイと前に出る。


「ありがとう」

 そう言って僕は虫けらになった。






 行く宛があるから、と彼女に初めて嘘をついてしまった。鼻を折るような異臭の中をフラフラと歩いていたら、この都の“玄関”にたどり着いた。


 頭に雨粒が落ちてきた。もちろん傘は持っていません。出来過ぎた物語のようだなと笑ってしまう。でも雨に打たれるほど感傷的ではない。なので迷うことなく陳腐な門へ、お邪魔させてもらうことにした。

 ふと子供の頃、母親の膝の上で雨音を聞きながら寝ていた過去を思い返してしまった。流行り病で倒れるまで元気だったらしい。目を瞑るだけで母親の鼻歌が聴こえてくるようだ。

 しかし、カタカタと頭上で音がする。よく聴いてみると、本当に誰かの歌がする。ここには僕一人しかいない。もしかしたらお迎えに来てくれたのか。抜き足、差し足、忍び足。妙な趣で続く階段を一つ一つ登る。




 ぼんやりと灯があった。僕は火の玉を見たのかもしれない。

「良い子や…良い子や…」

 冷たい空気の闇の真ん中、年老いた女性が、恐らく死んでいる人の髪を触っている。そういえば何処かで人の髪を集めている者がいるという噂があったことを思い出した。…引き抜くのだろうか。僕はなるべく息をしないで固まった。

「良い子や…良い子や…」

 目が闇に慣れてくる。老婆が三十歳程の女性の頭をただただ優しく撫でている。


「おい、お前さん」

「ぬえ?」

 いきなり呼ばれたものだから変な声が出た。

「おい、お前さん。生きているのかい?」

「へ、変なことを言うな」

「違うよ、お前さん。聞こえなかったかい?“生きてたいかい?”と言ったんだよ」

 不思議な空気のせいで聞き間違えたらしい。

「それでも、やっぱり変なことじゃないか」

 僕が黙ると老婆は再び歌を歌いながら髪を優しく梳かし始めた。

「お婆さん、その人はどちらさんだ?」

「仏様」

「笑わせるな」

 僕は怒ったフリの人の真似事をして、胸の奥は静かに聞き耳を立てた。老婆は手を止めて答えてくれた。

「わたしゃ、この人のことは何も知らないよ。たぶん、去年死んだ娘と同じくらいの年齢だろうよ。それだけだよ」

 なる程。それだけだと言うならそうなのだろう。僕は少し安心感のため息を吐いた。


「おい、小僧」

「ぬえっ?」

 また変な声が出てしまった。壁にもたれて僕を見る男がいた。

「なにか御用でしょうか」

 用もなく話しかけてくるのは困りものだが、この男はどうだろう。次の言葉を構えていると男はシクシクと乙女のように泣き始めた。

「頼む。俺を焼いてくれ」

「な、なんでですか?」

「理由か。そんなに理由が大事なのか」

「まぁ、無いよりは」

 グスン、と男は“鼻”を鳴らした。もしかしたら「フン」と嗤ったのかもしれない。

「昔々の話さ。俺は有名な当主の元で働いていた。妻も子供も俺自身も幸福な日々だった。でもある日、猿みたいな絵描きがやってにた。当主様の為に何でも書いて見せると猿は言ったのさ」

 猿みたいな人を猿と呼ぶなんて失礼なことだ。僕は暇つぶしに話しの続きを聴きたくなった。

「それで?その猿がどうしたんです?」

「最初は怪しいやつだと思ったが絵は大したものだった。当主も猿のことを気に入った。だがこれが最悪だった。当主というのがまだ10歳の餓鬼だったからだ」

 痛くなかった胸が痛みを感じ始めた。一人の少女との思い出が蘇ってきたからだ。

「その餓鬼は言ったのさ」




「地獄が見てみたい、ってな」



 


 男は嗚咽を漏らしている。何も出来ず立ち尽くすのみ。何も聞かなかったことにしたい。いっそ逃げ出したいと思った。でも目の前の男は今日という日まで戦ったのだろう。とても勇敢だ。その勇敢な男は僕にこう言ったのさ。

「もう…腕を上げることもできない」

「それじゃあ………喉は乾いてませんか?」

 飲める水は此処にはない。探して見つかるか、分からない。男は首を横に振った。

「死ぬのは仕方ないが、死に方が餓死なのは嫌なんだ。燃やしてくれ。俺を燃やしてくれ。なぁ、頼むから。俺はもう火を起こす力も残っていないんだ」




 老婆の持っている灯りが目に入った。きっと、快く貸してくれるだろう。僕は断られた場合を考えていない。その、いつ消えてもおかしくない光を、僕はただ、じっと見つめていた。




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