感電親父
もしも、親父がしびれたら・・・
(1)
2040年。さいたま市近郊のARSTA高校のグラウンドで、午後の始業チャイムが鳴った。
と同時に、淡いブルーのワンピース姿の女性教諭が校舎から飛び出した。
「川上せんせ〰っ、川上せんせー!」
生徒達がその声に気付き顔を向けた。
その距離はまだ遠く、女性教諭は再度呼びかける。
「川上せんせ〰っ」
男子生徒の一人が見上げた。
「ボロ車先生、瑠璃ちゃん先生が呼んでるよ」
点呼を始めようとしていた一也は、体育の出席簿から目を離し生徒を睨む。
「うるさいっ、俺がどんな車に乗ろうが勝手だろうっ。ダブらせるぞ」
「そんなことより、ほらっ」
生徒が指をさす方へ目を凝らし、まだ遠くで手を振る沖原瑠璃を見つめた。
瑠璃は手を耳元に当て、ジェスチャーをしながら走ってくる。
「先生っ、電話です〰っ」
異変を感じた生徒達が立ち上がる。
「ボロ先生、レディがあんな格好で走ってんだよ、行った方が良くね?」
「略すなっ、ちょっと待ってろ」
一也は瑠璃に向かって駆け出す。
息も絶え絶えの瑠璃は、合流すると背が高い一也を反る様に見上げた。
一也は、目の前の沖原瑠璃に視線を注ぐ。
付き合い始めたばかりの瑠璃が血相を変えている。
今この時知った事だが、走り方がかなり内股で、左手が扉の様に開閉し、上体がやけに左右に揺れていた。
顔とスタイルが整っているだけに、身を引く様なギャップだった。
瑠璃は運動が苦手な事を悟られたと、一也のぼーっとした視線に背を向けた。
「お父様が病院に搬送されたってっ!」
「えっ」
一也はすっと息を呑み、未だぜいぜいと体を上下に揺らす瑠璃の足元の便所サンダルを注視し、
顔を強張らせた。
「どこの病院ですか」
「分かりませんが、お父様の秘書の森田さんという方から・・・」
瑠璃は胸を押さえ、呼吸を整えるが咳込んだ。
「早く職員室にっ」
「はい・・・」
一也は前かがみの瑠璃と生徒を案じた。
「生徒は引き受けますからっ」
瑠璃は呼吸を止め、きっと横目で睨み上げ、再度、校舎に向けて指を差す。
「躊躇っている暇はないっ、ゆけっ!」
「はっ、はいっ。ではお願いします」
(2)
一也は職員室の電話に出ると、父親の秘書・森田が低い声色で告げた。
「先生が世田谷病院に搬送されました・・・」
「原因はなんですか?」
「感電です」
一也は場所もわきまえず大声を発した。
「また感電っ!?人生で何回感電してんだよっ、充電のつもりかっ!」
「いえ、単に配線を間違えただけです」
森田は、冷静に淀みなく訂正する。
「例の車のバッテリーが上がってしまい、もう一台からケーブルを繋いで起動しようとして感電しました」
「怪しい・・・おふくろと別居した当てつけじゃないですか?それはそうと、いつ感電したんです?」
「本日、10時頃です」
「おふくろには言いました?」
「いえ、まだです。いかが致しましょうか」
一也は森田の問い掛けを一旦保留し、現状を再確認する。
「外傷は、指先の火傷で済みましたが、予断は許さず集中治療室にて意識の回復を待っております」
「意識不明ですか・・・すぐ参ります」
一也は静かに電話を切り、首筋を撫でながら顔を顰めた。
顔を上げると、教職員達の視線を浴び、神妙な表情を取り繕う。
きょとんとした教頭に、事の経緯を説明する。
「突然ですが、私の父が、あの、その感電して意識不明なので早退して宜しいでしょうか?」
教頭は、緊急事態だと「うんうん」と小刻みにうなづく。
「一刻も早く行って上げて下さい。こんな時に何ですが、お父さんは電気関係のお仕事ですか?」
「いえ、世田谷の区議です」
教頭を筆頭に、「くぎ?」と職員達は声を揃えて首を傾げた。
「パチンコの釘師ですか?よくわかりませんが、早くお父さんの元へ。御回復を願っております」
一也は急ぎ駐車場に向かい、塗装が剥げ落ち無残な軽自動車のドアを開けた。
座席に座ろうと、頭に注意を向けすぎて膝をぶつける。
「あうっ、このボロ車っ」
(3)
信号待ちの間、一也はスズメの涙の薄給の体育教師であるからして、高速道路に乗るか否か迷う。
母親の話では、和也の父である川上聡は、自分が赤ん坊の頃、その前も担ぎ込まれたと聞く。
いずれも、あの車による感電・・・。
しかも、今回は母親と別居して4ヵ月。まるで、狙い済ましたタイミング。
確信はないが、母親が病院に駆け付けたら目を覚ます気がした。
なんだか、高速料金を払うのも勿体無い。
後続車にクラクションを鳴らされ発進させた。
もう66じゃないか、おふくろの為にも引退すればいいのに。
一也は正月以来、実家に帰っていない。忙しさもあるが、区議会議員の地盤を継げと言われるのが嫌だった。
父親は、人付き合いが趣味なのだろう。お節介な上、目立ちたがり屋で、親分的な性格。
そのくせ、誰かが近くにいないと寂しがる。全く知らない人でも、すぐに家に呼ぶ。
過去に、近所の奥様の息子の託児所がないと相談され、俺の出番とばかりに、狭い自宅を託児所代わりにと呼び寄せた。ひどい時には、十数人の子供達が家や庭を駆け回った。
母親の趣味のガーデニングも、猪の群れが蹂躙するが如く子供等が荒らした。
本人が面倒を見るならまだしも、議会だの会合だのと、すぐに出かけてしまう。
母が保育士代わりに面倒をみていた。
おやつを無償で提供すると、公職選挙法違反となりうるため、母は逆に可哀想だから呼ばなければ良いのにと愚痴をこぼした。
母・陽子は、黙々と庭を修復した。
我慢強く、控えめな性格で、真に仲の良い友人との交流を好んだ。
一也も母の性格を受け継ぎ、人並みに人見知りもする。同じ先生と呼ばれても高揚もしないし、祭と聞いても血が騒がない。
父親の聡は、祭を察知すると飛んで行き、大きな団扇で煽って先導した。
「一也のお父さん、いっつも扇ぐよな〰っ」と友達のイヤミに傷つき、帰ろうとすると「一也っ、お前もこっち来いっ」と顔を火照らせ名前を連呼した。
騒々しい記憶はまだ続く。
父親の趣味、例のアメ車はうるさい。しかも、でかくて燃費が悪くて故障する。
ギターも泣かず飛ばずでウザかった。
区議や有権者がそんなに大切か。別居して、今じゃ親父一人じゃないか。
その有権者が、孤独な親父の為に何をしてくれるんだ・・・。
途中にある練馬の母の実家に寄るかと考えたが、少し様子を見て連絡しようと通過した。
なに考えてんだよ、親父・・・。
(4)
一時間程で、世田谷病院に到着した。
運転の疲れも重なり、エンジンを止めてシートに寄りかかる。
幼少の記憶に蓋をしてドアを開けた。
膝を注意を払うと頭をぶつけ「痛ってえな〰ボロ車っ」と貧乏な境遇が重なり文句を呟き院内に入る。
川上聡の親族であることを受付の女性に告げた。
「一也さん・・・ですね」
奥から年配の女性が深刻な表情で現れた。
誰だ、この人・・・見覚えがない。
「一也さんはまだ小さい時、息子の保育園の件でお世話になりました」
女性は丁重に頭を下げた。
一也が返答に苦慮していると「こちらです」と案内する。
女性は導きながら、父親が待機児童問題等に熱心に取り組み、区役所と一悶着起こして解決した逸話など、講談師さながらの口調で語った。
病室の前に来ると、女性は「困った事がございましたら遠慮なく仰って下さい」と深々と会釈し去って行った。
ドアをノックすると、秘書の森田が現れた。
表情一つ変えず、眼鏡の奥の目が冷ややか過ぎて身を引いた。
「お待ちしておりました。先生の意識は未だ回復しておりませんが、脈拍などは安定しております、どうぞ」
どうせ意識は戻るだろうと、一也の動揺は少なかった。それより、森田の態度、スーツや髪型の乱れもない、まるでロボットだ。冷徹すぎる森田幸一という男の方が気にかかり、病室に入ることが躊躇われる。
「どうぞ、中へ」
一也はそっと病室に入った。
父親の両腕に、点滴、胸には心電図等の配線が繋がっている。
一也はベッド脇の椅子に座り、老けた父親の寝姿を見つめる。
静まり返る病室。
居た堪れず一也は、森田に呼びかけた。
「親父の着替えとかありますか?」
「いえ。救急車に同乗し、入院の手続きや警察の事情聴取などに追われて御用意しておりません。これから御自宅へ参ります」
「森田さんもお疲れでしょうから、私が行きます。実家に私の着替えもありますから」
森田は表情も変えずに「申し訳ありません」と姿勢を崩さぬまま頭を下げた。
病室から一也が出ると、森田が追って来た。
「恐縮ですが、先生の茶色い手帳を忘れておりました。机の引出しの中にあるかと存じますのでお願い致してもよろしいでしょうか?」
一也は了承し、病院から10分程の実家に戻った。
二階の父の部屋に入ると、掃除もしておらず男臭い様な匂いが広がり、床には衣服が散乱していた。
気を取り直し、大きなバッグに下着やタオルを詰め込んだ。
デスクだけは整頓され、日めくりカレンダーが置かれている状態に溜息を漏らす。
一也も同じだった、親父のクセが映ったのだろう。
引出しを開けると、森田が言っていた大判の茶色の手帳を見つけ、手に取った。
ふと、その下に「自分史」と銘打ったノート。
一也は嫌悪感に手を止め、首を捻った。
「親父の歴史なんて誰が読むんだ、電気だけに伝記とは悲しいね・・・」
冷やかし半分で、ノートの表紙をめくった。
(5)
幾千の岐路を選択し、歩んできた結果、現在がある。
残念ながら後悔の連続で、自ら決意したとは言いがたい。
唯一、確固たる意志で選択した事は、妻・陽子にプロポーズしたことだ。
1996年、22歳。大学4年生、就職氷河期だった。
この時の選択肢は、ざっと5つあった。
(第1)就職せず、大学院に進み経済学を研究。
(第2)生命保険会社に就職。
(第3)車好きから、自動車メーカーに就職。
(第4)ミュージシャンの夢を追い続ける。
(第5)文具メーカーに、父のコネで入社。
現在、私が存在する世界は、2番目の人生を模倣した延長線上にある。
人生が激変したのは、1999年9月19日。
生命保険会社に就職して3年目の25歳の日曜日。
ローンで買ったばかりの1974年型マスタングⅡ・マッハ1のバッテリーが上がっていた。
父の車にブースター・ケーブルを繋ごうとした時、火花の閃光で目が眩んだ。
瞬く間に、背中を持ち上げられ上空へさらわれる様な、信じがたい事態が起きた。
陽子も一也も、絶対信じない出来事だ。
当の私でさえ、未だに理解し得ない部分が多い。
よって、経緯を整理するために記したものである。
感電した瞬間、俗にいう臨死体験、いや、別の空間へ超越したのだろう。
絶叫した後、優しい光に包まれ吸い込まれた。
そして、驚く事に5つの人生に遭遇した。
魂が肉体を離れるだけでなく、存在する現世界からも離脱し、過去の岐路で選んだと思われる人生。
つまり、同時的に進行する複数のパラレル・ワールドを目にした。
最初に遭遇した世界は、経済を研究する25歳の川上聡。
時間の流れは1ヵ月遅れの8月頃だった。
2番目の人生は、保険会社で働く私。これは、現在進行する現世界と同一だったが、気絶していない私。
いつものように働き、多分1日進んでいた。更に分岐した私かもしれない。
3番目は、自動車メーカーで働く私がおり、2番目と時間差はなかったようだ。
4番目では、ミュージシャンを目指す私。1年程先に進んだ2000年7月頃。
5番目は、親のコネで入った文具メーカーに勤務していたが、1年遅れた過去の1998年6月下旬頃。
金融監督庁が発足と新聞記事が出ていたのを目にした。
この5つの同時進行する世界を、次々と幽霊の様に近づく事ができた。
しかし、各々の世界の川上聡の様子を知ることは出来るが、ガラス越しに見聞きするだけで、接触も会話も出来なかった。
途端に息が詰まると、私は現世界のベッドの上で電気ショックを受け、目を覚ましたというのか戻っていた。
後から聴いたことだが、意識を失っている間、5回の電気ショックが行われたという。
電気ショックを受ける度に、違う世界へ飛ぶ様だ。
夢や幻覚だと言われようが、私は、思考、人生が変わった。
あの5つの人生は、岐路に立った私が選択しえた姿だ。
「もしも、あの時、あの選択をしていたら」というIFの世界。
もし、あの時、信長が本能寺に行かなければ、どうなっていたか?
歴史の仮定小説で「信長シリーズ」の様な事があったのだ、誰が何と言おうとも。
幾通りもある選択肢から、私が分岐し同時進行する。しかし、決して交わる事はない。
強烈な電気エネルギーが、肉体と魂を分離させ、魂だけ別の世界に吹き飛ばされたのかもしれない。
退院後もこの体験は頭から離れず、もしも、大学院で研究を続けていたら、どんな人生を歩むのか?
また、ミュージシャンだったら。車のメーカーで働いていたら等々。
それぞれの私が、現在も別の世界で同時に生きている。証明出来ないが・・・。
その日から、私は身近に日めくりカレンダーを置く様にした。
(6)
2002年。28歳の時、夕暮れの道玄坂で、初めて陽子に声をかけた。
すらりとして、聡明で優しそうな印象。
見知らぬ女性に声をかけた経験はないが、ここで逃してはならない衝動に突き動かされた。恥ずかしさも感じず、自然に声をかけられたと思う。
その陽子は驚いたが、すぐに微笑んだ様な気がした。
後に、陽子から聞いた事だが、あの時、びっくりして顔が強張っただけだったらしい。
それから、食事にこぎつけ、翌週にデートをする約束も取り付けた。
陽子といると幸せだったが、同時に背中を押されるような焦りもあった。陽子がどこかへ行ってしまうような不安がつきまとい、半年後にはプロポーズした。
そして、約2年後の2005年1月。一也が誕生。
一也は陽子に似た子だった。私と陽子にとって唯一無二の存在、何をおいても一番に考えようと、この名をつけた。
ただ、当時勤務していた保険会社は業績が悪化。
陽子と一也を守ってゆけるのかと、悶々と考える日々が続いた。
転職先を探しながらの勤務では、なかなか見つからず会社に居続け、給料は下がる一方。
家族を養わねばと思う横目で、同僚が退職してゆく。焦りと重圧に悩まされた。
夜は夜で、崖から落ちる夢や三途の川の夢で何度も飛び起きた。
陽子は、朝早く起きて一也をあやし、私の身の回りの準備をしてくれた。
そんな妻に心配かけまいと、食事を無理矢理詰め込んで出勤していたが、陽子は私が悩んでいた事に気付いていたという。
状況は好転せず、会社帰りに川辺に行くのが日課となった。
先細りの会社。統合が続く保険業界。不安が不安を増幅させ、最悪の事態が川面に映る。
疲れ果て気力は失せ、会社の選択に失敗した事を後悔し、あの大学の時に戻りたいと願った。
情けない事だが、逃避にも近い形で、あの出来事を試すことにした。
失敗したら死ぬリスクは分かっていたが、それより現状をなんとか脱したい。
妻と幼い子供を養わねばというプレッシャーに、当時の私は追い込まれていた。
(7)
2006年4月9日の12時頃。
自宅のガレージで、愛車のマスタングのバッテリーが上がったふりをした。
父親の車から+のブースターケーブルを繋ぎ、-のケーブルを繋ぐ際、わざと濡れた手で触った。
次の瞬間、猛烈な火花に包まれ、同時に白い光の中を浮遊していた。
真に浮遊していたかは定かではないが、そんな感覚。
まず、私が見た世界は、スタジオにいた私。
ミュージシャンを志す人生だった。
楽譜台の上に、日めくりカレンダーがあった。
日付は、かつて1年進んでいた世界が、
今度は2005年6月2日。約1年遅れていた事に驚いた。
ミュージシャンを目指す私は、練習中にメンバーと諍いを起し、胸ぐらを掴み合っていた。
そこへ、ベース担当が割って入り、私はスタジオから飛び出した。
事が上手く運ばず、イライラしている。
原因を探ろうと近づいた瞬間、光に吸い込まれた。
抵抗する間もなく場面が変わる。
懐かしい大学の校舎の中。
最初に見えた人物は、私に進学を勧めたF教授。
そのF教授が、背中を向けた汚らしい青年に声をかけた。
嫌な予感がした。その青年の机には、日めくりカレンダー。
私だっ。振り向いた私は、何が面白いのかニヤニヤとメガネを直す。
F教授は「今度、陽子さんと一也君を家に連れておいで」と声をかけている。
もう一人の私は、頭をボリボリと掻く。この世界の私は、私であるが私ではない。分かっていながらも嫌だ。目が悪いらしくメガネをかけている。
カレンダーは2006年10月11日とあり、半年先に進んでいた。
F教授は、この時、確かに陽子と一也の名前を呼んだ。
耳を澄ますと、ふっと吸い込まれる。
次の空間はオフィスの中。ぐるりと周囲を見回すと、窓際に自動車が展示されていた。
テーブルがあり、椅子に座って私は誰かと話していた。
お客さんだろうか、私はパンフレットを見せて説明している。
その脇にある、日めくりカレンダーは、2006年11月3日。
大学院に進学した時よりも、更に時間は先行していた。
3番目の私が、お客さんと話している姿は、我ながら笑顔が良い。
この時(現世界)の私より、余程充実している様子。
転職するなら自動車メーカーにしようか。この世界で働く私が羨ましい。
ここはどこ営業所だろう。半年進んでいるなら、現世界の未来かもしれないと期待を抱いた時、吸い込まれた。
あっと声を上げると、世田谷線の山下駅前。
「川上聡でございますっ!」
拡声器の声に驚き、周囲を見渡す。
ビールケースの上に乗り、タスキと鉢巻をした私が手を振っている。
訳が分からず目を凝らす。
無所属新人 川上聡33歳 保育園待機児童0宣言!
幟は、朝のそよ風になびいていた。
「2007年4月春の陣」と私は鉢巻を付け、勝手に意気込んでいる。
つまり、1年後の私。
「生命保険会社を辞し、一児の父として区民として立ち上がりましたっ」と演説で叫ぶ。
別の私だが、立候補の理由が貧弱すぎて恥ずかしい。
もっと大義のある理由があるだろうと耳を澄ました途端、胸を蹴られた様な衝撃。
今度は、ベッドの上で電気ショック受けてむせ返り、上体を起こして咳き込んだ。
父母、陽子に抱かれた一也、医師と看護師が私を囲んでいる。
皆、一斉に私に抱きついてきた。
一也はまだ赤ん坊で、皆の声に驚いてビービーと泣き叫ぶ。
その声と抱かれた感覚。咄嗟に、私は自分の手、顔、肩を触った。
私と体は一体だ、そうか今は現世界なんだと実感する。
(8)
戻ってきたが、誰にも言える訳もなく、夜中寝付けず振り返った。
楽しい時間、障壁がない時間を過ごしていると、時間は早く過ぎる様だ。
幾つかの人生の時間の流れは、一定ではなかった。
初めてパラレル・ワールドに紛れ込んだ時、時間の流れが一番速かったのは、ミュージシャンを目指す私だった。障害に突き当たり、悩み苦しむと、時間の流れを停滞させるのかもしれない。
平行して進む複数の人生は、どれが順調か分からない事を暗示しているのか。
自動車メーカーに再就職も検討したが、保険会社を退職し、区議に立候補した私が、一番現世界に近かった。
とはいえ、待機児童0宣言だけでは脆弱だ。
別世界の私の事だが、あのままでは駄目だと悩んでしまった。単純すぎるが、一也を含め未来の子供達が、健やかに過ごせる地区は、大人も過ごしやすい事も確かだ。子供達の為の区議会議員なら悪くはない。
それには、財政の安定が必要だ。保険の様に出来ないが、企業、住民双方にメリットがある積立金制度の様なものあれば良いのにとイメージが膨らんだ。
予知夢の様な1年後の私。保険会社での経験を元に考え進めると、次第にその気になっていった。
パラレル・ワールドに2度も遭遇し、各々の世界が互いに影響を与えていると考えた。
依拠する思想に、崩壊寸前の自由主義、今は昔の共産主義、社会主義思想等があるように、多元宇宙論が私を後押しした。
当初、立候補に家族は大反対だったが、幼い一也だけが無邪気に笑っていた事は記憶に新しい。
それが、なによりも大義であり、未来への布石だと確信した。
2006年9月、保険会社を退職した。
2007年4月7日。労働と子育て環境の両立を目指し、私は山下駅前に立った。
陽子は賛成しないまでも、今日まで支えてくれた。
愛想を付かされてしまったが、陽子を妻とした事を誇りに思い、筆舌尽くしがたい程、感謝している・・・
(9)
2040年。今、巨大な壁が立ちはだかっている。
今期限りで引退し、陽子に迷惑をかけた分、二人で静かな余生を送るつもりだった。
しかし、世界企業のARSTA社が、都政に介入し、都民、世田谷区民全員にICチップを埋め込もうと目論んでいる。
電話、PC、自動車も連動し、貧乏人には無縁なシステムを、今度は体内に組込むつもりだ。
チップは、災害時の為だと説明するが、本意は行動の監視と購買の誘導だ。
あろうことか、一也はその傘下企業の高校で体育教師をしている。
体育教師とは聞えはいいが、現代では、AI、ロボット教師の補助、修理点検要員にすぎない。
また、父兄からの苦情処理担当で対応するのが主な仕事。
よって、非常勤職員であり、未だに携帯電話を使っている。
不幸中の幸いか、教師は安月給で新しい物も買えず、生活もやっと。
一也は学生、いやロボットの点検に奉仕するより、市民、いや人間のために戦って欲しい。
とはいえ、20年前の2020年12月。
私が、ARSTA社を世田谷に誘致する切欠を作ってしまった。
当時、オリンピック後で、世田谷から企業は港湾部に移転し、労働人口も流出していた。
歯止めをかけるべく、税金や家賃、保育所の増設など優遇するよう区議会の説得に奔走した経緯がある。
誘致後、この企業は更に全国に投資を拡大し、雇用を拡大した。
しかし、気付けば、この巨大企業の潤沢な資産と多くの従業員の力で、東京の半分以上の区に議員を送り込み、自社に有利な法案を通している。
責任の一旦は私にあるが、このままだと乗っ取られてしまう。
一旦は、雇用を創出したかに見えたが、AI、ロボットが主流となり、働いていた人間は補助、メンテナンスを行うだけの存在になりつつある。
私はこの流れを止めるべく、陽子に都議会議員に立候補すると相談したが、もう付いていけないと実家に戻ってしまった。
成功を掴んだと思った未来は、気づけば窮地に陥る結果となり、陽子も一也も離れた。
遠い過去には戻れない、時は進むだけだ。
もし、これを読む人物があれば笑止に伏せるだろう。
時間の速度も一定とは限らなければ、命に長短もない。
現世界の平均、基準で考えるから、感情が乱される。
好調な未来も、絶望的な未来でも、もしもの世界を想像し行動すれば、また別の世界が広がるはずだ。
すまない、陽子、一也。
そして、秘書の森田幸一君ありがとう。
本当の私は、優柔不断で自信のない男だ。
信仰の様に、何かに寄り添いたかった。
しかし、感傷的なままではARSTAを止められない。
私は最後の実験に出る。
更なる分岐は、行動すれば誰もが生み出せ、影響を与えると信じて・・・。
(終章)
「自分史」を読み終えた一也は、意識不明の父親を思い浮かべ、頭を抱えた。
「なにが多元宇宙論だっ。そもそも、この流れはずっと前から始まっているし、親父の見た世界は幻覚に決まっているっ。死んだらどうするっ」
この間、どれ程の時間が過ぎたのかは分からない。
一也の携帯電話が鳴り、沖原瑠璃と光って初めて時計を見る。
窓の外はまだ明るいが、夕方の5時に近い。
電話口の瑠璃は、心配そうに言葉を選びながら一也に呼びかける。
「お父様の御容態はいかがですか?」
「頭が混乱して・・・」
瑠璃はその声に驚く。
「急変なさったんですかっ」
「いえ、まだ意識不明です。それより・・・」
一也は固く目を瞑り、手を額に当てた。
「僕が見ていた父は、一体なんだったんだ。でも、ICを止めようとしてる・・・」
瑠璃は、一也の唐突な嘆きに状況が見えない。
「何かできることはありませんか?」
「どうしていいんだか・・・すいません」
「気になさらないで下さい。かけがえのないお父様ですから」
一也は、瑠璃の最後の言葉が沁みた。
どんな父であれ、この世で一人きりの父・・・。
切欠はともあれ、全ては自分達子供の未来の為の行動と選択。
胸が熱くなり、気付かせてくれた瑠璃の支えを無性に欲する。
付き合って間もない男女の障壁が、奇しくも父親の感電によって取り払われた。
「一緒に居てくれませんか、学校に迎えに行きますから」
「お父様の近くに居た方が良いのでは・・・」
瑠璃は少し躊躇ったが了承した。
電話を切った一也の頭の中の混乱は収束しない。
目を閉じて頭を振る。
「考えていても始まらないっ!」
一也は立ち上がって、ガレージへ向う。
自分のボロ車を通り過ぎ、74年型マスタングに乗り込みエンジンをかける。
一発で、芯をくすぐる様な重低音が周囲に響き渡る。
「こいつを病院に乗り付けて、ふかしてやれば起きるかな・・・」
慣れないマニュアル車を運転し、練馬に住む母親を迎えに行き、父親の「自分史」を渡した。
有無を言わせず母を後部座席に座らせた。
そして、秘書の森田に電話を入れ、遅れることを告げた。
電話を切った森田は、未だ目覚めぬ川上聡の胸に隠し持ってきたAEDを当て、蘇生を図る。
「先生っ。お考え通り、一也さんが乗りましたっ。あれ程嫌がってマスタングにっ!後は先生が戻るだけですっ、早くっ!」
電気自動車が行き交う中、66年前のガソリンエンジン音が響き渡り、一也の心底を突き上げる。
アクセルを踏み込み、更にトップギアにシフト。
「死ぬなよ、親父っ。ここで死んだら、ただの感電親父だっ。未来は分からないけど、会わせたい人もいるんだ、戻ってこいっ。そして、子供たちにチップを埋め込ませるなっ!」
一也は怒りにも似た呟きを繰り返し、首都高速道路へハンドルを切った。
(終)
貴重なお時間を割いて頂き、ありがとうございました。
ブログにて、天保の大飢饉の災害により発生した、甲州騒動にまつわる「理不尽」と「不条理」の中で生きる小説を全文掲載致しましたので、宜しければお読み下さい。
尚、満足頂けましたら、木戸銭としてキンドルにて販売でしている同作品をお買い上げ頂けましたら幸いに存じます。
「紺野総二 死に場所」で検索してみて下さい。#理不尽 #不条理 #パラレルワールド