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異世界転生と転移での偶発的な美しすぎる出会い

作者: 野田莉帆

 ——なんと、勝手に足が走る!


 仄暗い小路を、あたしは全速力で走っていた。アルバイト先からの帰り道。見知った大通りの裏路地に入ってから、普段は猫しか通らないような道をすでにかなりの距離、来ている。


 生ゴミの匂いが充満していた。油の混じった水が、ぱしゃぱしゃと足元で跳ねる。癖のついた髪が風になびく。心拍数が上がる。息が苦しい。それでも駆けて、駆けて、駆け抜ける。


 足が痛い。ちぎれるように痛い。痛い。痛い。それでも足が止まらない。遠くの方に光が見える。そして……、あたしの意識は途切れた。


「……人間か」


 頭の後ろから、ため息まじりの声がする。あたしは這いつくばるようにして倒れていた。体を起こそうと思えないほど、疲労困憊している。そろった足は棒のようで、地面に着いている感覚さえなかった。


「あんた、大丈夫か?」


 あたしの横に誰かがしゃがむ。顔に感じていた光が遮断された。形容しがたい端整な顔をした彼(……否、彼女?)が、あたしを覗きこんでいる。年齢も性別も不詳の人の、銀色の髪がやわらかな風になびいていた。


 その人は、あたしの身体を転がして仰向けにする。世界が反転した。茜空が視界に広がる。あたしの身体は抱きかかえられることによって、微かに空へと近づいた。


 沈む夕陽へ向かって、その人が歩き始める。ひつじ雲が夕陽の上を右から左へと流れていった。


「えっ」


 あたしは仰天して、瞬間的に空へと身を乗りだす。


「ちょっまっ」


 慌てた声が聞こえて、視界が狂った。あたしの身体が投げだされる。地面に腰の右側が強く打ちつけられた。


「あんた、アホか!」


 罵声が飛んできた。でも、あたしは気にならなかった。バッと両肘の力だけを使って、上半身を起こす。茜色に染まった雲を見る。


「おかしい」


 ——おかしい。おかしい。雲が北から南に流れている。ここは、日本じゃない。


 いつのまにか、上半身は痙攣を起こしていた。あたしの頭が真っ白になる。いつも見ている景色でさえ、あたしの知っている景色ではない。


 肩を掴まれて、あたしの身体が大きく揺さぶられた。荒げた声が浴びせられる。


「動揺するな! 世界の目に映るすべてのものがあんたじゃねえように、あんたの目に映るすべてのものが世界じゃねえ!」


「………」


 身体の力が抜けていく。肩を掴まれていた手が、あたしを支えた。夕陽が気持ちと共に沈みこむ——。



 昭和風の街並みが続いていく中に、小さな店がある。紺色の暖簾には『修理屋』の文字が白く浮かんでいた。


 厳密に言えば、修理屋ではない。こう表記しておくと客がよく訪れるのだ、と彼は言った。抱きかかえられたまま、暖簾をくぐる。室内は暗い。


「先約がある。ここで待っていろ」


 怒鳴ったのと同じ口から出ると思えないほど、落ち着いた声だった。


 その人は、あたしをビリヤード台くらいの高さと広さのある場所に座らせる。あたしの足が宙に浮く。後ろに手を着くと、指先に木目の流れを感じた。


 蛍光灯から垂れ下がる紐を彼が引く。カチカチと音が鳴った。夕闇に包まれていた部屋が、だんだんと色を帯びていく。


 1つの古びた蛍光灯が照らす部屋は、薄暗くてぼんやりとしていた。ひやりとした空気が肌寒さを感じさせる。真夏のはずなのに冬の風の匂いがした。


 テーブルランプをつけて机に向かう背中で、『復活屋』の文字が黒い布地に白い文字をくり抜いている。ジーンズにTシャツというラフな格好は、その人によく似合っていた。


「………」


 じっと、あたしは自分の両足を見つめる。短パンから覗く足は青黒く腫れていた。触ってみる。硬い石のような肌ざわりで、表面がざらざらしている。


 足に感覚はない。ひび割れた部分からはカビのような白っぽいものが噴きだしている。あまり触らない方が良さそうだった。不思議と恐怖や不安はなかった。


 何とはなしに、辺りを見回す。12畳くらいの部屋で、右奥に扉がある。その扉と暖簾がかかっている引き戸の前を除いて、部屋の隅をぐるりと囲むように机が1つと木材でできた台が3つ。


 そして、台と台の隙間を埋めるようにしてガラスケースが1つ置かれている。壮絶な部屋。あたしが座っているところ以外の台の上は、台の表面が見えない。


 絡まったコード、しゃもじ、眼鏡ケース、布団叩き、ドライヤー、ばらばらのトランプ、自転車の空気入れ、アイロン。あらゆるものが台の上で折り重なっている。


 台の下は台の下で、洗濯機、テレビ、電子レンジ、ギター、冷蔵庫、ミシン、おもちゃ箱、スーツケース、箪笥、ポリバケツなどが所狭しと置かれていた。


 すっきりとしているのは、あたしが座っている台の上と机まわりと1つのガラスケースだけだ。腕時計、櫛、ネックレス、万年筆、手袋、ハンカチ、扇子、鍵。ガラスケースの中は驚くほど丁寧に、様々なものが並べられていた。


 雑然とした部屋の中。あたしを運んできた人は簡素な椅子に座って、机に向かったまま。10分、20分経っても、微動だにしない。——空間に溶けこんでいるかのようだった。


 カチカチ、と楽しそうに壁時計の針が時を刻む。もので溢れているのに、あたしだけが空間に疎外されている感じがあった。場違い。でも、仕方のないことだ。


 閉ざそうとした瞳に、ひしめき合っているものが映る。それらは確かにまとまりがないように見えた。でも、あたしも空間の1部になっていると思い立つ。フランスの詩人であるロートレアモンの言葉が脳裏をかすめた。


 ——解剖台の上での、ミシンとコウモリ傘の偶発的な出会いのように美しい。


 無影灯の下、きらきらと輝くミシン。傍らに広げられたコウモリ傘。純白と漆黒。光と闇。日常と非日常。コントラスト。


 それらは普段、出会うことのないものが出会ってしまう奇跡だ。この部屋を美しいと思った時、耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうな小さな声だったけれど、あたしの耳には物たちの声が届いていた。



「さて、次はあんたの番だな」


 突然『復活屋』の琥珀は、あたしの眼前に立つ。彼は白い歯を見せながら微笑んでいた。


「人間の依頼を受けるのは嫌だったんだが。あんたは物の声が聞こえるタイプの人間らしいから、説明の手間が省けて助かる」


「あたしの足って、本当に死んでるんですか?」


 にわかには信じがたいことだった。でも、足の状態が普通ではないことは確かだ。彼もまた思案を巡らすように、あたしの足を見つめる。藍色の瞳がガラス玉のように透き通っていた。


「ああ。普通、いきなり足だけが死ぬなんてことはないんだが。あんたの足はどういうわけか、もうすでに死んでいる」


 死。他人の口から聞くと、言葉のもつ負の匂いに胸が締めつけられる。圧迫されることで、あたしは生という存在を意識した。


「あたしの足、治してもらえるんですか?」


 両足が壊死した場合。通常は(あたしの世界では)、切断しか治療方法がないはずだった。でも、『復活屋』は不敵に笑う。


「可能だな。まだ、あんたの足は存在している。そのうえ、あんたの足はまだ、あんたの足で居たがっている」


 こんなことも珍しいんだが、と彼は言葉を続けた。


「組織の一部として人生をまっとうした時は抗うことなく死んで、来世はもっと良い物に生まれ変わりたいと思うのが普通だ。でも、あんたの足は違うらしい」


 『復活屋』が何かを復活させることのできる条件。それは、死んだものの部位すべてがこの世界に存在していて、復活を望んでいることだった。後は——。


「お代が必要なんですよね」


 あたしはなるべく平静を装い、淡々と言った。彼もまた、あっさりと言葉を返す。


「お代がなきゃ、商売あがったりだからな。あんたの場合のお代は、この先の自由な時間ってところだな」


「……それで、足は戻るんですね?」


「生憎、1度失ったものは背負わなければならない。元に戻るというより、生まれ変わるという感覚に近い。しばらくは、あんたの思い通りにはならないかもしれねえな。もともと、思い通りになってなかったみたいだが」


 言葉を選びながら『復活屋』が答える。彼は、今回の仕事があってもなくても構わないようだ。ただ、藍色の瞳で宙の1点を見つめながら、あたしが決断するのを待っていた。


 あたしは——、感情を持つと知ってしまったものに対して、自分の思い通りにならないから困ると思うことはできなかった。


 他の物の感情を殺し続けていても、自分の感情の方が大事だなんて思えない。きっと、人間が常日頃から物の声を聞くことができないのは、それが人間にとって都合が悪いことだからだ。


「じゃあ、お願いします」


「喜んで」


 彼は満面の笑みを浮かべる。そして、「良かったな」と一言。あたしの足へと言葉を向けた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「他の物の感情を殺し続けていても、自分の感情の方が大事だなんて思えない。きっと、人間が常日頃から物の声を聞くことができないのは、それが人間にとって都合が悪いことだからだ。」という文章によっ…
[良い点]  今回はいつも以上に純文学でしたね。特に冒頭の”なんと、勝手に足が走る!”は良い一文だったと思います。中上なら間違いなく足が”走る”ではなく”動く”と表現していたはずです。しかしながら………
[一言] 野田莉南さんの作品読んでいる状態で短編を読むとファンタジーなのか、表現なのか分からなくなるという不思議(笑)
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