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メメント・モリ

作者: 深山 希

 これまでの人生で、私は二度死体を見た。


 一度目は曾祖父。当時は幼かったこともあり、この記憶はひどく曖昧だ。小学校に上がる前のことだっただろうか? 当時はまだ人の死というものが正しく理解できておらず、棺に入れられた花をいたずらで遺体の口に入れて、祖父母から叱られたことをかろうじて覚えている。眠っていることと区別がつかなかったのか、或いはこの曾祖父から教わった死生観が原因だったかもしれない。

 死生観、などと言うと大げさに聞こえるかもしれないが、なんのことはない、よくある天国や地獄のお話しを語って聞かせてもらった、というだけのことだ。嘘つきは地獄の閻魔様に舌を抜かれる、などと言ったアレである。レゴブロックを死者に見立てて、曾祖父と閻魔様ごっこをした記憶が今も残っている。


 当時の私は無邪気に魂の不滅を信じていたように思う。まぁ、多少の疑いは持っていた気もするが。

 そんなわけで、私は曾祖父の死を永遠の別れとして認識できなかったのだ。

 これが私が遭遇した初めての『死』である。


 さて、では本題に移るとしよう。

 今回の主題は私が再会する『死』――祖母の死である。


 祖母とはいっても、祖父母は私の育て親であり、私にとっては世間一般のご家庭よりも随分と年かさの母、といった認識だった。

 祖母は――祖父もだが――癌で胃を摘出しており、その後も通院を続けていた。

 そんな祖母の状態が悪化し、入院したと知らされたのは、2015年4月14日、父からのメールでだ。

 この時はそれほど深刻な話ではなく、私は次の休みにでも見舞いに行くと返した。心配、というよりもあくまで義理を果たすためにそれをしたのだから、我ながら薄情な話である。これは死後閻魔様に舌を抜かれることになりそうだ。

 そして私は義務感からの見舞いを済ませ、また日常へと復帰する・・・はずだった。

 最初のメールから約二週間後、4月17日に父からの電話。祖母の容体が急変し、いつ息を引き取ってもおかしくない状態とのこと。

 その日から、私の日常には毎日祖母を見舞うことが追加された。

 勤務先から電車で10分ほど。駅前でワッフルを買い、小腹を満たしつつ病院へ。起きていたり、眠っていたりする祖母の隣で時間まで本を読み、また明日と言って別れる。衰弱しているため、会話はほとんどない。日を追うごとに、眠っていることの方が多くなる。


 また明日。


 また明日。


 また明日。


 食べたワッフルはメープル、チョコ、プレーンと毎日違う種類で、その内全種類制覇してしまいそうだった。


 そんな日々の中、祖母が私に謝ったことがある。何もしてやれないですまない、と。何も遺してやれないですまない、と。泣きながら私に詫びた。

 それは、入院するようになる以前から、祖母が時折口にしていたことで。

 高齢でありながら働き、家事をこなし、お世辞にも裕福とは言えないながらも、私の誕生祝もお年玉もクリスマスケーキも決して欠かすことのなかった祖母が、だ。

 まったく冗談ではない。

 どう考えても逆ではないか。

 謝る方と謝られる方が逆ではないか。

 謝るべきは、詫びるべきなのは、ここまで育ててもらって、何も返せていない私の方ではないか。

 結局、まともに親孝行などできてはいないというのに。もう、できもしないというのに。


 また明日。


 また明日。


 5月の5日だったか、6日だったか、記録が残っていないのであやふやだが、私は初めて見舞いの品を持ち込む。ややフライング気味の母の日のカーネーションだ。

 その日、祖母は珍しく起きていて、会話こそなかったが、私が持ち込んだ一輪挿しを目で追っていた。

 その時の祖母の表情は、覚えていない。


 また明日。


 また明日。


 そして5月8日、日付が9日に変わる少し前、父からもうダメだとのメールが届く。

 私はまだ残っていた電車で病院へと向かう。駅前のワッフル屋はそんな時間には当然営業しておらず、私の片手には夜食のつもりで買った、サラダが入ったレジ袋が揺れる。こんな時間でも人通りはそれなりにあって、遠くで酔っ払いが騒いでいた。


 結論から言うと、私は……いや、私だけでなく、家族の誰も間に合わなかった。


 見舞いに来て、眠っていた時とまるで変らぬ死に顔だった。


 思えば、もって数日だと言われてから、随分と多くの『また明日。』を告げたように思う。


 最期の日、私がいつのも言葉で別れた時、祖母は眠っていた。

 これはただの感傷に過ぎないが、『また明日。』その約束を違えることなく祖母は逝ったのだ。約束を守るために命を繋いでいた、などと言ってはさすがにセンチメンタルが過ぎるだろうが。


 私はその時には涙を流すことはなかったが、翌年から5月にカーネーションを目にするたび、涙をこらえなければならないようになった。



 これは小説などとはとても呼べたものではない独り語り。ただただ自分自身のための覚書。

 それでも、敢えて私はこの拙い語りを公開しようと思う。これを目に留めた誰かが、気まぐれにちょっとした親孝行を考える、その程度のことなら起こり得るかもしれない、などといった妄想をしつつ。


 息子一人と娘一人、そして孫一人を(立派に、と自信を持って言い切ることはできないが)犯罪に手を染めない程度にはまっとうに育て上げた、一人の女性の死をここに記す。

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