碧海の雲
航海記~往路編~第80話と第81話の間の時間のお話になります。航海記本編も併せて読んでいただければ更に楽しんでいただけると思います。
太陽は中天高く昇り、船体をじりじりと焼いている。風が無いので余計に暑く感じられる。遠くで水飛沫と歓声があがっていた。こんな日は水浴びにはもってこいだ・・・
酔いの回ったぼんやりした頭でシークラウドは周囲を見回した。イーグルが近くでひっくり返って、どうやら眠っているようだ。後はゲオルグがグラスを空けているほかには誰もいない。ふっと初めて船に乗った時の事が頭に浮んだ。
「なぁ。どうしてあの時、俺を助けたんだ?」
一つしかない瞳が薄く笑った。
「知りたいか?」
目が合ってシークラウドは慌ててゲオルグに背を向けると、そのままゲオルグに凭れかかった。
「いや・・・・・・」
そのままシークラウドは色の違う瞳を閉じた。
ごみごみした一廓の汚い扉を叩くと、案の定もっと汚い顔が顔を出した。げっ、と心の中で呟いてから、ぶっきらぼうに手にした袋を突き出した。ガリガリに痩せて着たきりすずめの少年を相手は不信気に上から下まで眺めた後、袋に手を出した。しかし、寸前の所で袋を引っ込め、汚い少年-シークラウドは反対の手を出した。
「金」
相手は少し考えた後、ニヤリと笑うと扉を大きく開けた。
「中にある。ついて来い」
シークラウドが中を覗くと男の他に誰もいないようだった。男はさっさと奥へ向かっている。シークラウドは用心しながらついて行った。
男は部屋に置かれた机の引き出しの中をかき回すとやがて、大きく膨らんだ皮袋を取り出した。ジャラジャラとくぐもった金属音がする。それを見ると袋を手にした男にシークラウドは自分の袋を手渡した。男は中身を確認すると、皮袋を投げて寄越した。とっさの事で受けそこなった袋はじゃらりと床に落ちた。その拍子に口が少し揺るんで、ぴかぴか光る金貨が顔を覗かせた。慌ててしゃがみ込んだシークラウドの手を男の革靴が踏み付けた。
「小僧が生意気なこった」
見上げたシークラウドに男の目があざ笑っていた。
***
通りに飛び出したシークラウドはそのまま止まらずに走り続けた。服はあちこち破れ、片袖は無くなっている。顔は殴られて、腫れ上がり、唇からは切れて血が流れていた。
(ちくしょう!騙しやがって!運び屋だなんておかしいと思ったぜ!)
そもそも元締めが町のゴロツキをまともな仕事に使う訳が無かった。それは十分承知している。それでも、そんな事でもしなければ親の無い子供は一人で生きてはいけない。ただでさえ風変わりな風貌の自分にはまともな道は用意されていない。仲間にすると言って売り飛ばされそうになった事など物心ついてからでさえ数え切れないほどだった。
「痛ぇ」
目の周りが腫れているだろうと思ったが、かえって瞳が目立たなくて丁度良ぐらいだ。いっその事潰れちまえば良かったのに・・・・・・ズキズキする左眼を押さえながら、ふと可笑しさが込み上げてきた。あの野郎、足折れてるだろうな。しかし、笑っていられるのも今の内だけだ。じきにばれて追いかけられるだろう。元締めとその客がどんな約束をしていたかなどシークラウドには知る由も無かったが、シークラウドはしっかり代金を持って来ていた。それだけでも追われる理由には十分だった。
やがて足が止まりがちになってきた。今のところ追ってくる者は誰もいない。どこかに身を隠さなければ。けれどもシークラウドにはどこにも隠れるところも庇ってくれるところも無かった。母親は幼い頃に亡くなった。よく覚えていないが働きすぎだったのだと思う。優しい母親だった。父親にいたっては顔さえ覚えていない。母親とは色が違うから自分の眼は父親から貰ったものなんだろうな。全く余計な事をしてくれる。とにかく町を出よう。これだけの金があれば何とかなるだろう。シークラウドが向きを変えた時、見知った顔が目に止まった。仕事を持って来た男だった。その目はいやな光を宿している。
「よお」
シークラウドは男達に囲まれる格好になった。
「とんでも無い事をしてくれたな」
***
そのまま、暗い路地へ引きずり込まれる。シークラウドは5人の男達に押さえつけられ、散々に殴られていた。いつの間にか皮袋も取り上げられている。ここでは、道端の子供の死など誰も気にしない。塵が消えた程にも思われない事だろう。何度目かに地面に倒れこんだ時、シークラウドを引き釣りあげた男が悲鳴をあげた。そのまま殴りあう音がする。霞む目を開くと、見知らぬ若い男が更に二人の男を殴り倒しているところだった。慌てて残りの男達が向かって行ったが、あっという間にのされてしまった。その若い男はシークラウドに手を差し伸べた。
「来いよ」
シークラウドの左右異なる瞳が男の姿を捉える。よろよろと手を伸ばしたシークラウドの顔を見て、その男は不思議そうに呟いた。
「・・・・・・ザイン?」
シークラウドの記憶の底で、その音が響いた。自分はそう呼ぶ相手を知っているはずだが、今は知らなかった。しかし、のした男達が身動きし始めたのに気づいて若い男は急いでシークラウドを引き上げた。
「ずらかるぜ?」
シークラウドが頷くより早く、シークラウドに肩を貸して男は走り始めていた。
***
「何処へ行く気だ?」
走りながら、シークラウドは男に訊いた。ようやっと口が利ける様になってきた。口の中が血の味だらけで気持ちが悪い。何度目かの血が混じった唾を吐いたところだった。男はゲオルグと名乗った。しかしこうなったら町を出る事も難しい。ここまでは裏路地を駆使して追っ手を撒いて来たつもりだが、今頃は幾つも無い町の出口はみんな押さえられている事だろう。ゲオルグは茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。その容姿はこの辺りの大陸人とは異なり、異国人に見える。ふと町で浮いている自分の容姿も彼の故郷ならそんなに目立つ事は無いのかも知れない・・・・・・と思ったところで、その思いは打ち消される。どこの国に行っても左右の瞳の色が違う者などいないのだから。
そのまま、辿り着いた先は港だった。ゲオルグはこの町で育ったシークラウドより抜け道に詳しかった。港には幾つかの船が停泊している。
「船は無理だぜ」
前に、潜り込んだ船の水夫に密航が見つかり海に叩き込まれた事を思い出しながら、シークラウドは呟いた。しかし、ゲオルグは全く取り合わずにあれこれ物色している。
「おい!訊いてんのか?」
「他に手は無いだろ?それとも、あいつらに見つかりたいのか?」
面白そうにゲオルグは言ってから、一つの船に近づいた。文字は読めなかったが獅子の模様がついていた。異国の艤装であることくらいはシークラウドにも判る。
「何、勝手な事やってるんだ!無理だって!」
最後の言葉はするすると船に乗り込んだゲオルグに対してだった。けれどもゲオルグはあっという間に船べりから姿を消している。
「待てよ!」
おっかなびっくり後に続いたシークラウドだったが、意外にも甲板には誰も居なかった。シークラウドに黙るように合図すると、ゲオルグはそのまま船内に降りて行った。躊躇したシークラウドだったが、その時、外で声がした。そっと覗くとさっきの奴らだった。明らかに自分達を探している。慌ててシークラウドはゲオルグの後を追った。
そして、そのまま船倉に隠れて居るうちにいつしか二人とも眠ってしまったらしかった。
***
「何だ?おい!」
野太い男の声にシークラウドは飛び上がった。ゲオルグは暢気に欠伸をしている。船はいつの間にか海上を疾走していた。体が慣れない揺れを感じている。
「どこの悪がきだ?一体」
薄暗い船倉を太った男が透かし見ていた。シークラウドの目は逃げ場を探してさ迷ったが、男の後ろにしか出口は無い。絶望的な色がシークラウドの瞳に宿る。港で海に落とされたときと事異なり、海上でのそれは或いは死を意味する。しかし、男は怪訝な顔をした。
「お前・・・・・・ゲオルグか?」
男の声に渋々ゲオルグが立ち上がった。明るい方へ顔を向ける。その顔は悪戯を見つかった子供のようだった。
「お前は、出入り禁止になったはずだな。なんで、こんな所に?」
「まぁ、色々と・・・・・・な」
な、と言われて振り返られても、シークラウドには事情がつかめない。かといって魚の餌は避けたかった。
「とにかく、セドフに報告だ。そっちの子供は・・・・・・腕が折れているのか?見せてみろ」
その時初めてシークラウドは腕の異常に気がついた。もっとも今まで気にする余裕も無かったのだが。腕を取られた拍子に痛みに思わず悲鳴が漏れる。
太った男はその様子を面白そうに眺めていたが、ふとシークラウドの顔に注視する。
「お前、イングリアの子か?しかし、その瞳は・・・・・・」
その時、唐突に水色とオレンジ色の瞳に涙が溢れて来た。
***
「お前、俺より年下なのか!?」
厨房で芋の皮を剥きながらシークラウドは立ち上がった。実際、ゲオルグの方がシークラウドより一回りは体が大きい。
「・・・・・・というより、お前が発育不良なだけだろ」
「なんだとぉ!」
ゲオルグは芋の良いところを口に放り込みながら声を上げて笑っている。釣られてシークラウドも笑った。今までの人生で間違いなく今が一番幸せだと思った。
ひとしきり笑った後、ゲオルグは少しだけ真面目な顔になる。
「今度国に着いたら、俺は士官学校へ入る事になっている」
士官学校・・・・・・彼らが乗った船はイングリアの軍船だった。船員はみな士官で、若い士官達はよく士官学校時代の話をしていた。シークラウドは学校に行った事は無かったが、なんとなく面白いところなんだろうなという理解ではいた。
「お前も行くか?」
ふと、空想にふけりかけたシークラウドはそのゲオルグの言葉に引き戻された。俺が士官学校に入る・・・・・・?それは面白いかもしれないなと思わなくも無いが、シークラウドの返事は一つだった。セドフの元で学びたい事がたくさんあった。それに瞳の事もある。大勢に見られるのは好きじゃない。あの時ゲオルグが呼んだ名前の意味を知ってから余計にそう思うようになった。
「俺は船にいるほうが、いい」
「それも悪くないな」
それ切り二人は黙々と皮をむき始めた。この話は終わりだった。早くしないとまた料理番にどやされる。
船は碧い海を疾走して行く。空はどこまでも抜けるように青い。その空にひとひらの雲が浮んでいた。
相変わらず甲板の上にはこそとも空気が動かない。瞳を閉じると、あの時のゲオルグの差し出した手を思い出した。あの時が無かったら、自分は今頃どこにいたのだろうか?
シークラウドの口元が微かに笑った。
シークラウドの物語いかがでしたでしょうか?
楽しんでいただけたら幸いです。