第22話 前哨戦
1942年5月30日、米軍はミッドウェイ島からPBY“カタリナ”飛行艇を偵察に飛び立たせた。
32機あったPBYのうち何機を何回飛ばしたかという詳細はいまひとつはっきりしない。だがおそらく持てる全力を投入したのだろう。
海軍はPBYでミッドウェイの南南西から北北東にわたる180度の海域――半円形の範囲――を、進出距離400海里(425マイル)まで索敵しているが、中には600海里(700マイル)まで進出したものもあったようだ。陸軍はB-17を西に飛ばし、こちらの進出距離は600海里(700マイル)だった。
ミッドウェイ島から日本側の拠点になっているウェーキまでは直線距離で970海里(約1800km)ある。この距離が両軍にとって鍵だったのである。双方この970海里を往復することには相当の負担があったのだ。この約1000海里という距離が壁なのである。
これは後に惹起したガダルカナル島争奪戦がはっきり証明している。日本軍の場合、ラバウルからガダルカナルまで約1000海里。この長大な距離を行き来して戦闘することによる航空機の消耗を顧みれば、当然空母の投入――もしくは中間地点への飛行場建設――が必至となるのである。米軍の場合、ニューヘブリディーズ諸島のバヌアツからガダルカナルまでが約1000海里である。この島を蹂躙するように要塞化し、滑走路を整備したことからもこの壁ははっきりと見えてくるのである。
つまるところ地政学上の関係が日米双方をして、ミッドウェイ争奪に躍起にならせたと見ることもできる。ハワイからミッドウェイまでは1300海里。往復はできないとしても、ハワイからミッドウェイに航空勢力を送ることはできる。ここに米軍が必死になった理由もあったといえよう。
こうした理由もあって米軍の偵察は厳重を極めたのである。
哨戒は明けて6月1日も2日もつづけられた。この両日は「エンタープライズ」「ホーネット」からも索敵機が放たれた。彼らは天候不良で引き返すのだが、それは幸運といえた。わが方の哨戒機にでも遭遇していようものなら、艦上偵察機の発見は米空母の存在に繋がってゆく可能性もあったのだから。
しかし日本側も黙って無為の日を過ごしていたわけではない。
ウェーク島とウオッジ島からは飛行艇が飛び立ち哨戒索敵につとめ、ばったり出くわしたPBY飛行艇と機銃を撃ちあったり、潜水艦を発見したりしていた。つまりわが方は敵が異常に警戒している兆候があると判断はできたのである。
そのころ「北方部隊」は何事もなく東進をつづけていたが、第一機動部隊と山本が直接指揮する「主力部隊」は濃霧の中を進んでいた。これが幸いしわが第一機動部隊と「主力部隊」は発見されることを逃れた。しかし両隊は真白な世界で冷たい霧雨に打たれながらの燃料補給と隊列維持に難渋していた。なんとか会同しようと油槽船「鳴門丸」が無線封止を破って微弱電波を発信したが、幸い敵には傍受されなかったのである。
だがサイパンから進軍してきた「占領部隊」はそうはいかなかった。
「まったくお前の物好きには呆れるぜ」
PBYの操縦席に座る男は疲れた顔をしている。
「機長はもう合言葉を忘れましたか?」
「リメンバー・パールハーバーか。いまやハワイは鋭意復興中だ。お前が心配することもあるまい」
どこの国にでもいるものである。任務を超えた意志を持つ者は。このPBYの場合、副操縦士がそうだった。
「へいキャプテン、あれはウェーキじゃないのか?」
操縦席の後方から通信員の声がした。航空帽をかぶった頭が通信員の指さす方へ向けられた。
「俺に操縦させてください。キャプテンは艦種を特定してください」
副操縦士は慎重に機体を操り、雲から雲へと隠れながら海上に描かれている幾筋もの白いウェーキを目指していった。機長は慌てて艦型識別表を探したが、なかなか見つけられないでいた。
「ジャップの巡洋艦だ! リアン、すぐに電信してくれ。いや待て、詳細を確認する」
機長の声は弾んでいた。だが興奮は誤った情報を呑ませもする。
6月3日午前9時になろうというころ、PBYはわが方の「占領部隊」をミッドウェイの東方約600海里(700マイル)に視認したのである。
彼らはPBYの航続力を活かし2時間にわたって触接をつづけた。
「輸送船が1、2、3、4、5……あれは駆逐艦だろうか……ワイアット、お前も手伝ってくれ」
わが方はここで「占領部隊」と「護衛部隊」の概略を察知されてしまったのである。
PBYの機長は自信をもって報告できると確信すると、ハワイまで届く電波で暗号電を送信しろと通信員に指示したのだった。
もちろんわが方の第一機動部隊も「主力部隊」もこの敵信を傍受していた。だが決戦への錯誤はこの時からはじまるのであった。




