8.こんな可愛いわけないでしょ!
「どうしたのそんなところで。あれ、その子何?」
ゆっくりと振り返ってみれば、そこにいたのは当然幼馴染みの未茅その人だった。一緒になってゆっくり振り返っているネコミミ少女についてはどうして同じ行動をとるのか、この際無視をする。
「……付き合ってる人、いたの?」
疑わしげに目を細める幼馴染みに、背筋が凍る。
「いない! いないいないいない! この子あれ、リヒャのお子様!」
「その子、人間じゃない。リヒャって喋るけど猫だよ?」
「猫でも人間! 人間でも猫! あれ、俺は一体何を言ってるんだ。……いや待った、確かに説明は難しいが、決してやってやれないことはないんだ。だから落ち着いて」
「落ち着くのはあっちゃんじゃない?」
「そりゃそうだ」
どうしてそこまで混乱する必要があるのか、と自問自答して心を落ち着かせる。
「ん~、なんだろうね。なんかこうね」
未茅は両手を胸の前に持ってきて、なぜか握り拳を作る。
「イラッと来ちゃった」
ぞわりと背筋を走り抜ける何かがあった。
過去の思い出が脳の皺という皺を華麗に走り抜け、そうして自分が今何をすべきか的確な判断を身体にもたらす。決して言葉の通じない人間ではないはずの未茅が、どういうときにコミュニケーションの手段として存在する言葉を放棄し、その隠された野生の本能を剥き出しにして獲物に襲いかかってくるのか、睦は彼女のそういうパターンをほぼ知り尽くしていた。
だからこそその行動に一切の躊躇いは存在しない。
反転してから逃げるのも、そのロスが惜しい。後ろに倒れ込むように上半身を斜めにし、その重力の加速も合わせて身体を捻りながら反転しつつ全力で駆け出した。近年まれに見る素晴らしいスタートダッシュだと自負しつつ、しかしそれ以上の身体能力を見せた未茅が簡単に睦の襟首を掴んで引き摺りあっさり地面へ転がされてしまう。仰向けに倒れた睦の視界には、不敵に笑みを浮かべながら腕を組む幼馴染みが映っていた。
「なんで逃げようとしたのかな、あっちゃん?」
「それはその、人にはそれぞれ事情がありまして」
ダン、と耳元を彼女の足が踏み抜く。耳が持って行かれた! とすら叫びそうになったが、どうやらそんなことはなく、ちょうど真横を踏んだようだった。
ただその際、アスファルトらしい黒い塵が頬に当たる。
(いやいやいや、ねーだろ! いくらみっちゃんでも!)
しかしその脚力たるや鼓膜の痛みやヒリヒリする皮膚で存分に思い知った。逆らってはならない。逆らえば死ぬ。
「で、あの子はなーに?」
「……何度言ったら通じるかわかりませんが、リヒャの娘ということです」
「あの猫の娘だったとしたら!」
突如ネコミミ少女の背後に回り――ついでにその少女は自分の視界から一瞬で消えて背後に回った未茅に心底驚いたような顔をして――その子に抱き着いた。
「こんな可愛いわけないでしょ!」
「それには全面同意したいけど真実なんだからしょーがないじゃん! ほらそこの君、そっちからも何か援護してよ!」
「にゃー」
少女はそう呟きながらわざわざ猫の仕草をする辺り、妙に細かかった。
「猫語が通じるかー!」
「うん、わかったよ!」
「通じたッ?」
と、思ったのも束の間、未茅の表情を見て睦は自らの失態を後悔することとなる。――思わず見惚れそうになるほど可愛い笑顔の上に青筋が一つ浮かんでいたからだ。
「つまりわたしってばばかにされてるんだよね」
「ぼうよみきたー」
慌てて起き上がってまたもや脱兎の如く場を立ち去る選択を選ぶ。今度はネコミミ少女の近くということで距離があったため、なんとか走る体勢にまで持ち込めた。
背後から冷たい空気が流れてくるのを感じ取って、ここで足を止めたら今後の人生に未来はないと嫌でも悟る。
「あ、ちょっと、なんで私の裾掴むかな!」
「なんかあの人困ってるみたいだし」
その背後で二人のやりとりが聞こえてきた。
いまだ名も知らぬあの子がどうなるか、それについてはもう目を瞑ることにして、睦はその場を逃げ出す。とりあえず二時間ぐらい姿を隠した後に美味しいお菓子でも持っていけば許してくれるだろう、なんて期待を抱きつつ。