6.知ってるか、ネコマタ
突然耳元で「睦!」と叫ばれて睦は目を覚まし、身体を起こしたらとたんに頭を何かで強烈にはたかれた。
「な、なんだよ!」
振り返って見上げるとそこには祖母が仁王立ちしていて、手にはスリッパを持っていた。どうやら相当お怒りらしく、いったい何に怒っているのか心当たりのない睦は内心萎縮しながら記憶を探るもやっぱり原因が見つからない。とりあえず座り直してみれば自然と正座となって、もう一度祖母を見上げる。
「お前っつーガキはもうちょっと周囲に気を遣わないんか! ああん?」
「いや、その、何の話? 俺何かした?」
「何もしとらん!」
「じゃあなんで怒ってるのッ?」
何もしてないのにどうして殴られなければならないんだと目で訴えると、さらに頭部をスリッパではたかれる。小気味よい音が居間と廊下に響いていった。
「何もしとらんのが悪い! 見てみなさい、ほら!」
ビシッと指さした方向には箒とちりとりを持った未茅と目が合い、こちらに気づいた彼女が箒を握ったまま手を振ってきた。
「みっちゃんに掃除を手伝わせてお前はぐーすか寝とるんか。そんな情けない子に育てた覚えはないわ!」
みっちゃんに掃除を任せるぐらいなら最初に俺に押しつけてくれよ、頼むから。そう口に出そうものなら三撃目が飛んでくるので押し黙る。相当な年齢のはずの祖母だが口の勝負はもちろんいざ喧嘩をしても勝てる気はしないし、そもそも祖母と殴り合いの喧嘩をするのも気が引けた。
仕方なしに起き上がり寝癖のついた髪の毛を手で適当に直すが、しかし気になって洗面所に向かう。その途中で自宅の電話機に目がとまり、ふと彼女は自分の家に電話したのだろうかという疑問が沸いてきた。
祖母のトミ子はなんだかんだでハイテク物が好きで、電話も結構新しい。携帯電話じゃないのに発信履歴が残る家電話なので睦はふとその発信履歴ボタンを押す。
(い、いや、今のみっちゃんの家の番号が知りたいとか、そんな不埒な考えじゃないからな!)
何に言い訳しているのか自分でもわからず、睦は頭を左右に振った。
ボタンを押すが、最新の発信番号は昨日だ。それもトミ子の知り合いのところで未茅とは関係がない。
(……まぁ、自分の携帯で連絡するか)
携帯を持っていればもちろんそうするだろうと、睦は少しだけ残念な気分になる。思い返せば未茅の携帯電話番号も知らないしメールアドレスも知らない。
(聞き出すチャンスはあるかな)
素直に言えば教えてくれそうではあるが、なんとなく気恥ずかしかった。
洗面所でやはり直っていなかった寝癖を整え庭へと向かうと普段から掃除を怠ることのない祖母の行いで大した量は無いが、それでもちょこんと山になっているゴミを拾おうと未茅がちりとりを拾っているところだった。
庭用のサンダルを履いて無言で未茅の前まで行き、ずいっと右手を差し出した。
「にゃん」
未茅の右手が睦の右手のひらに乗せられる。
「いや、お手じゃなくて……しかも猫だし……」
「じゃあおかわり!」
未茅の左手が睦の右手のひらに乗せられる。――睦の左手の人差し指と親指がきつくなった眉をほぐす。
「ついさっきまであんなファンタジックな体験をしたのに、みっちゃんは元気だな。じゃなくてほら、箒貸して」
半ば強引に奪うように、未茅から箒とちりとりを引き剥がす。手持ちぶさたになった少女は両手をぷらぷらさせる。
「私の方がお邪魔してるんだから、掃除ぐらいするのは当たり前だよ。それにさっきのオーストラリアでちょっと興奮してじっとしてられないんだよね」
「わ、わ! 危ないから腕を振り回すなって!」
頭を庇いながら未茅から離れ、その際に集めていたゴミを踏んでしまい、それらがあっさりと散らばってしまう。
「あーぁ、集めたのに。酷いことするね」
「いやいやその、えー?」
しかし何を言っても通じやしないだろうとあきらめの境地で睦はもう一度ゴミを集め直す。
「ところでみっちゃん、ホントに家に戻らないでいいのか?」
「大丈夫だよ、もう了承済みだから」
「了承?」
「夏休み入って学校もないし、しばらくこっちにいていいってこと。あっちゃんの家なら安心だしね!」
「俺が安心じゃないから!」
「え、なんで? どういう意味?」
そりゃ色々とやっぱり若い男女が同じ屋根の下って問題があるんじゃないでしょうかという言葉を飲み込み、素直に訊ねてくる意外と純真な未茅から目を背ける睦だった。
「ねぇねぇ、なんで? もしかして私がまたあっちゃんに何かするとでも思った? またまた~、子供の頃とは違うんだからさー。何もしないよー?」
「いやさっき襟首つかんで殺しかけたし異性同士が……って、ああもう違うってば!」
詳しく説明するのはさすがに恥ずかしすぎるし、今の純粋な未茅のままでいてほしい為に、睦は半ばやけくそ気味に怒鳴りながら、
「ちょっと買い物行ってくる!」
夏の気温からではない妙な汗の気持ち悪さに耐えきれなくなって、睦はそう叫びながら庭を飛び出し外へと出た。家から一歩踏み出すだけで急に蝉の音が睦の世界を取り囲み、そこでようやくほっと溜息を吐く。
「よう、ガキンチョ」
ひょいと塀から飛び降りてきたふとっちょの猫が人間の言葉を発してくると、さすがに少々引いてしまう。
「な、なんだ、リヒャか」
「早く慣れろよ。こっちもいちいちリアクションに付き合ってらんねぇっつーんだよ」
「いや、猫が喋るとか普通ないからね」
「そりゃそうだろうが、別に今更だろうが」
そう言われてしまえばそうだ。
はぁ、と先程とは違う溜息を吐いて睦は歩き出す。一応ポケットの中には財布を入れっぱなしなので実際コンビニで何かを買うには問題はない。雑誌を立ち読みしてお菓子でも買って帰るかと考えていると、「ところで」なんてメタボ気味の猫が話しかけてくる。
「俺達ってぇのは猫の中でも特殊な生き物なんだが、知ってるか?」
「さっき嫌でも思い知らされたっつーの」
喋るのみならず『何かを一緒にくぐるととんでもない場所に連れて行かれる』なんていう能力を見させられたばかりだ。なぜか隣を一緒に歩くこの太り気味の生き物が、家の庭で呑気に日向ぼっこしてる猫と明らかに違うなんてのはあれだけの体験をすれば信じざるを得なくなる。
「ま、世に言うネコマタっつーやつなんだよ。知ってるか、ネコマタ」
「……き、聞いたことはある」
「ま、無知なガキンチョじゃそんなもんだろうよ。一説には十年以上生きた飼い猫がそうなるらしいが、別に俺の尻尾は『見た目だけなら』二股に分かれちゃねぇし女性的でもねぇし野郎の精を奪う気持ち悪ぃ趣味もねぇ。至って健全な猫だ」
「メタボじゃん」
「あん? なんだって?」
「……なんでもねーよ」
自転車に乗った通りすがりの主婦が独り言を呟いているように見える睦を不思議そうな目で見ていた。愛想笑いでお辞儀をするが、誤魔化せただろうか。
「まぁ俺も今年で四十五だ。ちったぁ落ち着かなきゃならんとは思ってるんだがな」
「よんじゅうごッ?」
思わず大声で問い返すと、つい今し方通り過ぎていった主婦がさらにもう一度振り返って不審そうな目を向けてきた。やや引き攣った笑いを浮かべて睦は頭をちょこんと下げる。
「なんだよ、アラフォーだと問題あるんか、ああん?」
「いや、確かにリアルっていえばリアルかも……いやそんなことないよな猫が四十五歳とか。でもどうりでおっさん臭いっつーか……」
「オッサン臭いとはまた酷い言い方する野郎だ。ああそれと」
こほん、とリヒャが一端咳をする。
「俺の娘に気をつけろ」
「……。は? 娘? あんた娘いたの? いてもただの猫だろ?」
「てめぇ、人の娘を何だと思ってやがる? これ以上娘の悪口抜かしやがったら奥歯ガタガタいわせんぞ糞ガキ」
「いい加減糞ガキとかガキンチョとかやめてくれよ。俺には東條睦っていう名前があるんだ」
「んじゃアツ坊でいいじゃねーか。なぁガキンチョ」
「……あくまで名前で呼びたくないんか、お前は」
猫に何を言っても仕方ないのかもしれない。思い返せば自分で自由気ままな生き物だって断言していたわけで――
(ん?)
そういえばまだ『問い』が残っていたではないか、と睦は思い出す。何か質問をしようとして、なんとなく流れてはいなかっただろうか。
「なぁリヒャ、そういえばさ――」
「おっと」
リヒャの足が止まる。
かと思ったら急に他所の家の塀に上った。
「娘が現れたから俺は隠れるが、おい、人の娘に手をだしやがったら今後一生安心して枕に頭を預けられるような人生になると思うんじゃねぇぜ?」
「いや、手を出すって、猫だろ? 意味がわからねーよ」
猫相手に欲情するような変態だとでも思っているのだろうか。猫だとしても娘を心配する気持ちというのは人間と変わらないのか。
塀の向こうに消えたリヒャを見送った後、家を出てから参度目の溜息をついて、コンビニへ向かう道の先へと視線を戻す。
道の中央に女の子がいた。