3.ドアを開けたら臍がある
「えほっ、えほっ、何年間閉じっぱなしだったの?」
空き部屋に案内した途端咳き込み始めた未茅に向かって睦はわざとらしく毛布をばたつかせる。より一層咳き込み始めてしまったので仕方なく窓を開けると、今度は「あち~」と不満げな声が上がってきた。
「閉めっぱなしだったのは使ってなかったから。で、埃とエアコン、どっちがいいんだ」
「埃の無い部屋でエアコンガンガン効かせてるのがいい」
「そりゃあまた、わがままなことを……」
「わがまま?」
未茅の抱いている猫が急に大きく啼き始めた。
「あっちゃん、言うようになったねぇ~? 昔はあんなに素直だったのになぁ~?」
――背筋が寒くなった。
まさか、という思いと共に未茅へと振り返る。彼女の顔こそ笑顔だったが抱えられている猫が必死な形相でその腕から抜け出そうとしているところを見ると、強い圧力で締め付けられているかまたは立ち昇る強い気配を敏感に感じ取り身の危険を察したか。
「冗談だよ。今はもうむやみに暴走したりしないし、落ち着いてるよ。じょーだんじょーだん」
「お、おお、そうか。それは良かった。余計な被害は抑えたいところだからな、はは」
心の底から安堵する。
「そんなことより」
ずい、と目の前に出された猫が眠そうに欠伸をしている。ついそこにあった緊張感は一瞬で吹き飛んでしまう猫の気楽さに睦は羨ましくなった。そのたっぷりとした腹は触るととても気持ちよさそうだ。
「さっきのトミ子さんの発言、おかしくない?」
「ええ、あー、確かにおかしかったなぁ」
あんな堂々と猫を抱きかかえていたのにトミ子は一言も猫について触れなかっただけではなく、未茅一人なら問題ないと発言したのだ。これだけ太った猫だ、まさか目に入らなかったなんてことはないだろう。
「言葉尻だけなら猫嫌いだよね」
「ばーちゃんは猫大好きだぞ。毎朝野良猫に餌やってるし」
野良といってもほとんど飼い猫だ。野良だから人間から苛められては可哀想だと首輪すら着けているのだから。毎日早朝になるといずこからか猫が数匹姿を見せて、トミ子がキャットフードを与えているのみならず場合によってはブラッシングまでしているという猫好き具合だった。
「ならもう一匹増えたところで気にもしないってこと? それとも多すぎて猫が一匹紛れても見分けがつかないとか」
「それもない。全部に名前付けてる。一緒に暮らして毎日見てる俺ですら全部の見分けがつかないのに、ばーちゃんは完璧だ。突然のボケ発症といっても、朝学校行ってから帰ってくるまでの間ってなりゃ、相当突発性に優れてるぞ」
「じゃあ違う子が入ってきたらすぐに気付くっていうこと?」
「間違いなく。だから変なんだよな。おいお前、特定の相手だと気配が消せるとか、そんなスキルでも持ってるのか?」
何を言っているんだこいつは、とばかりに猫は右前足で顔を洗い始める。
「……微妙に腹立たしいなぁ、こいつ」
「あっちゃんはあんまり猫に好かれない性格なんだね。この私と違うんだね」
「へー、じゃあ」そこで一旦咳払いして「み、みっちゃんが見せてみてよ。猫好かれるってんなら、手本お願い」
「任せなさいな」
自分のほうに猫を向かせてにっこり笑顔で「大好きだよね」と言えば、自分に向けられたわけじゃないのに傍から見ていた睦の顔が赤くなる。
猫はしばし呆然と未茅を眺めてから、不意に大きなクシャミをした。涎と鼻水が未茅の前髪にかかり、笑顔のまま顔が固まる。空気すらも凍りつきそうな中、睦はその鋼のように頑強な雰囲気を壊そうと口を開く。
「……み、みっちゃ……ん……?」
恐る恐る手をさし伸ばしてみるが彼女の肩へ触れる前にその身体が離れ、彼女は何の躊躇いも無しに窓を開き、
「っンのォなぁにぃすんのよぉ!」
全力で猫を放り投げていた。
「ちょぉっ! 何してんだぁ!」
放物線を描く猫が地面に叩きつけられる前に、睦は部屋を飛び出し階段を駆け下り縁側でサンダルを履いて庭に飛び出す。
「おい、大丈夫か!」
叫びながら猫が落ちただろう場所に、そぉ~っと視線を向ける。もし着地失敗してモザイク画像よろしく大変なことになっていたらという恐怖からだったが、すぐさま半目にしていた目を開いた。
なぁ、と何気なく鳴いた猫は後ろ足で首元を掻いており、まるで自分が二階から投げられたことなど意に介してもいない様子だ。皮が引っ張れるぐらいのメタボ体質なのにそこはやはり猫なだけあって身軽ということだろうか。
「ごめーん、思わず投げちゃったよ」
「ごめんじゃない! すげー焦ったんだからな!」
しかし今の件で分かった。完全に悟った。
――杉野未茅は三年前から何も変わっていない。
「私も投げた直後にすっごく焦ったけど、ほらほら平気そうだよ。とりあえず暑いから戻ってきなよ。窓閉めるからね」
猫を投げたくせにパタンと閉じられた窓から姿を消す未茅の無駄な明るさに呆れつつも、とりあえず猫を抱え上げて二階へと戻る。
「あのなぁ、いくら何でも窓から投げるのは……あれ?」
部屋の中には誰もいなかった。と思いきや、背中をぽんと叩かれる。
「ごめんって言ってるよ」
「わっ……なんだ、顔を洗ったのか」
「だってベタベタだったから」
水で濡れてる前髪が彼女の額に張り付いている。
「ほら、ちゃんと乾かさないと痛むぞ」
そっと前髪を掻き分けてやると、くすぐったそうに未茅は目を閉じた。
「もう、そういうところも変わらないね」
「……うっ、まぁ……そうかも、しれんけど」
昔からワイルド溢れる少女だった未茅の、ボサボサになった髪の毛を整えたりするのはなぜか睦の役だった。こういうときの未茅は不思議なことにとても大人しく、されるがまま。
「でさ」と、睦から猫を取り上げるようにして未茅は猫を抱きかかえながら「この子、どうしよっか」
そう問われると言葉に詰まる。どうせ一匹二匹の野良が増えたところで今更近所から文句が来るとも思えないが、自分の勝手な判断で増やしていいものではない。やはりここは祖母の意見を尊重すべきだろうと提案したところで、おもむろに猫が未茅の腕をすり抜けて自由になった。
「あ」
小さな声を上げて未茅が追いかけようとし、つられて睦も腰を浮かして、しまいには立ち上がっていた。僅かに開いていたドアの隙間からスルリと身体を滑らせて廊下へと出て行く猫を二人は追いかける。
――果たして、どちらが先にドアをにゅっと潜り抜けたのだろうか。
「え?」
「なっ……!」
ドアを抜けただけだった。
二人ともその認識は共通のものだったろう。
ドアを抜ければ見慣れた廊下が出てくる。そんなものは意識をするまでもなく当然のことだと、たった一秒前まで睦は信じて疑ったことも無かった。それが現実であり、普遍。家が壊されたり大規模な改築を行わない限りは決して揺らぎようもない事実だった。
目の前に広がるのは広大な大地。陽射しも風も土も空を舞う鳥も遠くを歩く動物も、何もかもが広大で壮大で異常で異様だった。地平線の彼方まで何も無いような大地のたった一点、それでもその地においてそれ以上ない存在感と威圧感を以て二人を出迎えたのは――
「エアーズ……ロック……?」
地球の臍が、そこにあった。