25.だったら私が話をつけてくるのよ
急に走り出したものだから家の近くまで逃げてきた時にはもう息が上がり、心臓が爆音を奏でていた。とにかく呼吸を整えるのと疲労からその場に座り込み空を見上げる。
「あちぃ……」
茹だるような熱さだった。
家の近くとはいえ家に戻るつもりはないし、今は未茅に会いたい気分でもない。しかし手掛かりであるかよみはどこに行ったか不明であり、動こうにも動けない状態のままこうして夏の太陽に炙られるのみだった。
「どーしょうもねーなぁ……」
またかよみを発見出来たとしても同じように襲われてはたまらない。
何となく打つ手が無くなり気力が失われていく顔に、何かがぬたりとした舌で右頬を思い切り舐めてきた。
心から驚いて目を見開き、そちらに振り返る。
「犬!」
全身白い毛で覆われた大型犬が目の前で尻尾を振っていた。夏場に毛だらけだけあってだらしなく舌をぶらんとさせて息が荒い。
「お前、及川の……ロッキーだっけ」
どうして追い掛けてきたのかわからないが、尻尾を振っているところからいたく気に入られた様子だった。
「いや、あるいはかよみの匂いが残っているのかも……」
しかしご主人様である及川を置き去りにして一緒に走ってくるのもどうかなぁ、なんて思いつつ、結局はこのままロッキーを放置しておけないので一度及川のところへ戻るしかなかった。
「折角逃げてきたのに……いや、ちょっと待てよ。お前、かよみの匂い覚えているか?」
警察犬のように匂いをたぐれるだろうかと思いつき、そう質問してみるが、ロッキーは大きく欠伸をしただけだった。
「かよみだよかよみ! さっき追いかけ回していたあの猫少女だよ。割と気に入ってるんだろ? 俺を追い掛けるんじゃなくてそっちを探してみてくれよ。その自慢の鼻でさ!」
後ろ足で耳の裏を掻くロッキーに期待するだけ無駄かとまたもや諦めモードに入ろうとした時だった。突然ロッキーが大きな声で一鳴きし、あらぬ方向へと駆け出していく。
「ちょ、ま、勝手に動くな! 迷子になったら及川になんて説明すればいいんだよ!」
裏路地に入って進むロッキーを追い掛けていくと、その先から突然少女の悲鳴が聞こえてきた。
「いぬー! また犬なのよー!」
「え、かよみ?」
今まさにかよみに飛び掛からんとしているロッキーの紐を掴んで引っ張る。あまりの力に立ったまま引き摺られ地面に踵で線を描きながら、徐々にかよみへと近付いていった。
「近寄らないでー!」
「お、落ち着け! こうして押さえてるから!」
ロッキーの首に腕を回して全身で取り押さえる。そうすることによってようやく大型犬の動きが止まり、耳元でキューンという鳴き声が聞こえてきた。
「よしよし、落ち着けロッキー。お前はやればできる子だ」
これだけ大きな犬に迫られたら自分でも泣きたくなるだろう。睦は必死になってロッキーを宥め、そうして引き攣りながらもなんとかかよみに笑顔を向けた。
「ちょ、逃げないで。話を聞いてくれ! というかさっきの話が途中だったから!」
「あうっ……そうだけど、でも」
「大丈夫だ。こうして俺が抱えてれば大丈夫。近付くなとは言わないけど、とりあえず声の届く範囲にいてくれよ」
「……うん」
その場に留まったかよみは小さく頷いた。
「さっきはゴメンナサイなのよ……ネコマタの本性が出ちゃったから……」
「本性て、あの精……を奪い取るとかっていう?」
睦はそう言葉に出しながら顔を赤くする。
「猫とは思えぬ長命に、人語を理解し人に化ける。尾は二股に分かれ人へと呪いをかけるのがネコマタだけど、実際は人語を理解するところから普通の猫より理性があって、ほとんど人と変わらないのよ」
「さっきは人間辞めてなかった?」
「……女子中学生は不安定、なのよ」
その物言いに不覚にもときめきかけるものの、慌てて頭を振ってそのついでにロッキーが鼻先を舐めてきて冷静さを取り戻した。その際強烈に頭を冷やしたのがもやりと浮かんできた未茅の怒った顔だった。
「それでね、とりあえずその犬が居れば不安定な部分は抑えられるのよ」
「じゃあ冷静になって話を聞いてくれるのか」
「パパ様のところに向かうって話ね。人間がパパ様のところに行くのは無理よ。それこそ人間を辞めてもらうしかないからね」
一瞬だがそれでも未茅のことならと考えて、また首を振る。その度に舐めてくるロッキーを軽く鬱陶しいと思いつつも、睦は自分が遠くに行ってどうするんだと反省した。
「……いや、さすがに人間でいたいかな」
「だったら私が話をつけてくるのよ」
とん、とかよみは平らな胸を軽く叩く。
「だから私に任せるのよ。……あ、睦にはパパ様を捜して貰った借りがあるから、今度は返す番! どーんとかよみにお任せあれ」
どことなく不安な気分にさせられるが、しかし彼女に任せる以外に方法が無いのだから仕方ない。中学生の少女にまた迫られるのは勘弁願いたいし、それによって化生となるのはもっと勘弁して欲しかった。
結局のところ自分の力では何も出来ないのが悔しくて、睦は右の人差し指を強く地面に押しつける。
「……あ、ああ、わかった。頼むよ。リヒャを連れてくるとして、大体どのぐらい掛かる?」
「夕方頃にはなんとか戻ってくるのよ」
「夕方か」
そのぐらいまでならどこかで時間を潰し、頃合いを計ってリヒャとかよみに落ち合うのがいいだろう。
「俺の家、知ってるよな。公園でもいいけど多分俺の家のほうが分かり易いだろ。夕方になったら俺も戻るからそこで会おう」
「わかったのよ」
そう返事をして、かよみは走っていった。ふとあの後を追っていけば猫の世界に辿り着けるのかとも思ったが、そこを覗いたところで何が出来るわけでもなく、ましてやそれによってリヒャに愛想を尽かされたらそれこそ終わりだ。
睦はかよみの姿が消えたのを確認したところでようやくロッキーから身体を離す。毛の塊に抱き着いていた所為で全身にベットリと汗を掻いていた。さすがのロッキーも暑さが辛いらしく、かよみを追う気力が感じられない。
「さて、及川のところに戻らないとな」
暑さで完全に歩く気を失いつつある犬を引っ張って行こうとした時だった。
「……さない」
ふと耳元で何かが聞こえた気がして、振り返る。
しかしそこには誰もおらず、せいぜい熱気を含んだ風が木の葉を揺らすだけだった。




